読書と日々の記録2003.11上

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■読書記録: 15日『アメリカ合州国』 10日『組織と経営について知るための実践フィールドワーク入門』 5日『「哲学実技」のすすめ』
■日々記録: 13日読む5歳児ほか 7日突っ込みを入れる3歳児 4日雑記

■『アメリカ合州国』(本多勝一 1981 朝日文庫 ISBN: 402260803X ¥600)

2003/11/15(土)
〜少数者側から見たアメリカ〜

 アポロ11号打ち上げ当時のアメリカのルポルタージュ。出発点の問題意識は「ベトナム戦争での米軍を見てきて、あのような非人道的な戦争を日常的感覚で実行できるアメリカ人というものの本国自体はどうなっているのか」(p.13-14)というもののようである。タイトルには現れていないが、黒人と先住民族という少数者の視点からのアメリカが紹介されている。それを通して、「私たちが教えられてきたアメリカ合州国は、すべて「白人側から見たアメリカ」」(p.105)であることがとても実感でき、興味深かった。

 もう30年も前のことではあるが、白人はすぐ近くにある黒人街の通りの名前を知らないとか、逆に黒人は、アポロ11号の打ち上げにまったく興味を示していないとか。それらをまとめて本多氏は、アメリカ合州国=白いアメリカの中に、「全く別の、対立するアメリカ」(p.138)=「黒人国」という国境なき別の国がある、と考えるほうがよいと述べている。それは、ベトナム戦争時のベトナム内に「解放区」という異世界が存在した(『戦場の村』参照)のと相同という。なるほどである。

 話は変わるが、最近『P.I.P.』という、カンボジアで言われなき罪で捕まった体験を持つ作者による小説を読んだ。そこには、警察も裁判官も法ではなく金によって動く社会が描写されていた。この本を読んで、こんな世界もあるんだーととてもびっくりしたわけなのだが、実は本書に描写されているアメリカ合州国は、黒人に関してはそれに近い無法ぶりであった。州警察はすべて「白人側」に立っているので、黒人解放などの「運動家殺害事件に警察が加担していることは珍しくなく、犯人が有罪になることはめったにない」(p.95)とか、「深南部では、ハイウエー=パトロールそのものが殺人犯人になることもそれほど珍しくない」(p.100)とか、スピード違反で捕まえたときも「制限速度を何マイル超えたら罰金いくらという明確な基準がない」(p.136)ので「好きなように罰金をとれる」(p.136)とか、「白人が黒人に対して殺人のような重罪を犯しても、法廷では結局白人は無罪になってしまう。〔中略〕アメリカってのはデモクラシーじゃなくて、金さえあればどんな悪事でもできる資本主義の化け物」(p.204。教育関係の仕事をしているある黒人の発言)という具合である。カンボジアの場合は自己保身と金儲け、アメリカの場合は人種差別が根底にある点は違うが、私たちが常識的に思っているような理屈の通る社会ではない社会(別の理屈の存在する社会)である点は、両者はとても共通しているように感じた。

 本多氏の当初の問題意識に関しては、「西部開拓時代におけるアメリカの虐殺と強盗の論理」(p.237)は、黒人の奴隷化と差別にも原爆にもベトナム戦争にも共通している点で、基本的には現在も少しも変わっていないというのが、黒人と半年行動を共にした本多氏の結論のようである。『デモクラシーの帝国』ならぬ「侵略の帝国」とでも呼べそうな社会である。それだけがすべてではないであろうが、ベトナム戦争にしても本書で取り上げられている黒人差別にしても、そういう説明で納得がいく部分もあることは確かである。この点は今後の検討課題かも。

 あと本書でへえと思ったのは、この当時、前衛的黒人たちは「ジャズ」という言葉を、「ニッガーと同様な意味で差別的感覚が含まれている」(p.161)として排斥していたという(ついでに言うと「ボーイ」もそうだったそうである)。今は多分そういうことはないだろうが、そういう時代もあったのかとちょっとびっくりした。言葉に付与される意味づけは常に変わるので、そういうことがあってもおかしくはないのだけれど。

■読む5歳児ほか

2003/11/13(木)

 1年前に妊婦ゴッコをしていた上の娘(5歳5ヶ月)、1年たった今でも、ときどきだが妊婦ゴッコをやっている。ただ、「おなかにお人形さんをいれて,ベッドにゴロンしていたりする」ことはあんまりなく、おなかに人形をいれ、しばらくたったら出すぐらいに簡略化されているのだが。それでも相変わらず赤ちゃんには興味がひきつけられるらしく、妻が仕事用に録画している赤ちゃん番組をときどき見せろと要求される。何が面白いんだろうねえ。

 割と早くから文字に興味を持っていたせいか、上の娘は、ちょっと前から絵本が自分で読めるようになり、最近は、文字を音読せず黙読で絵本を読んでいることがある。

 あるいは、下の娘(3歳2ヶ月)に絵本を読んであげていることも多い。そういうとき、5歳児とは思えないくらい滑らかに読んでいるのでちょっと感動している。初めての本だとちょっと引っかかるけど、そうじゃなければ、実にスムーズなのである。私なんか、小学生の頃でももう少したどたどしく読んでいたような記憶があるのだが。

 おかげで、絵本読みをせがまれることがへって、ちょっとうれしい。その代わり、トランプの相手を何回もせがまれたりするのだけれど(今日も10回ぐらい2人で7並べをした)。

■『組織と経営について知るための実践フィールドワーク入門』(佐藤郁哉 2002 有斐閣 ISBN: 4641161682 2,300円)

2003/11/10(月)
〜ブックガイド兼〜

 この筆者のフィールドワーク入門書を読むのも3冊目。『フィールドワークの技法』はフィールドワークのHOWについて書かれたものだったが、本書は、そういう部分のエッセンスを含みつつも、ブックガイドに重きが置かれている。具体的には、「中級ないし上級レベルの技法解説書16冊」と、「フィールドワークやその他の定性的調査技法による調査にもとづいて書かれた報告書の事例20点」(p.3)という、「実際に読んでみて面白いフィールドワークの報告書を、その魅力と「読みどころ」を中心にして紹介」(p.i)されている。

 『フィールドワークの技法』は、筆者自身が行ったフィールドワークを中心として技法が解説されているため、紹介される技法や重点の置かれ方が限られているように思われるが、本書はさまざまなフィールドワーク本を取り上げているので、取り上げられている技法も、密着取材、観察研究、聞き取り調査と幅広いし、それらの組み合わせ方は本によってさまざまである。こういうのがほしかったんだよなあ、と思った。

 地の文の部分に書かれていることは、佐藤氏が他の本で書かれていることと重なることは多いように思ったが、定性的研究の眼目のひとつが、「対象者にとってリアリティのある質問内容」を「対象者が理解できる言い回し」で聞く、というところにあることが改めて確認できた。また、報告書の紹介では、日本語で読めるエスノグラフィも多数紹介されており、またその本が、何を対象として、どのような固定観念をどのように打ち破ったものであるかが紹介されており、なかなかいい感じであった。

 本書で紹介されるフィールドワーク報告書の中で、ひとつ気になるものがあった。それは、『同意製造工場』という本である。この本の著者は、自分が参与観察した工場と同じ工場で30年前に行われたフィールドワーク(シカゴ大学に提出された博士論文)にもとづいて書かれた論文と、自分が行った参与観察を比較して検討している。その結果、「ロイの論文を自分自身の体験と照らし合わせながら丹念に読み解いていく過程で、ロイの民族誌的記述の中には、ロイ自身が下した解釈とはある意味で正反対の解釈ができる部分がふんだんに含まれていることに気がつくことになった」(p.29)という記述がある。

 よく、きちんとなされたフィールドワークは解釈の妥当性がきちんと確保されるようなことが言われるが、このケースは、そういう擁護の仕方をひっくり返すケースになるのではないだろうか。この問題をきちんと論じるためには、上記の本を読む必要があるのだろうけど。

 #なお、最近私が行った「1回限りの聞き取り」調査は、「非関与型フィールドワーク」という位置づけであることが分かった。

■突っ込みを入れる3歳児

2003/11/07(金)

 3歳2ヶ月になった下の娘,1年前の日記を見ると,「パパ,キア?」(パパ、これは(なに)?)なんて片言でしゃべっていたようで,ちょっとびっくりする。いまや,そういう時代があったことも想像できないぐらいにおしゃべりなので。

 ただおしゃべりなだけじゃない。よく「突っ込み」を入れる。先日も,テレビを見てるとき,テレビに向かって「しかもグチャグチャだしー」と言っていた。別に家族で突っ込み大会をしていたわけではない。いきなり3歳児がつぶやいたのである。もっとも,「しかも〜だしー」は,おそらく上の娘(5歳4ヶ月)のマネだろう。それにしても,3歳児のくせにさらっと突っ込みを入れるので,思わず笑ってしまう。

 あと,身体的な成長に関して言うならば,ちょっと前から,階段を下りるとき,一歩ずつ降りることができるようになっている。前は1段降りるのに2歩かかっていたはずなのに。つまり,一方の足で降りたら,もう一方の足をその段に揃える,という「降りる⇒揃える」のステップだったのだ。それが,一段ずつ降りられるようになると,速さが格段に違う。

 そのほか、最近気づいた変化としては、どうやらジャンケンの勝ち負けが分かるようになっているようである。といっても、普通にジャンケンしたときは、勝ち負けの判定を間違えることもあるようなのだが、ときどきジャンケン前に「パパ、グー出してよ」などという。どうするかと思ってグーを出すと、ちゃんとそれに勝つ手を出すのである。・・・とまあ,3歳児は日々成長しているようである。

 #と思ったら,じゃんけんに関してはどうやら,グーとパーの関係だけ理解しているようであった。

■『「哲学実技」のすすめ─そして誰もいなくなった…』(中島義道 2000 角川oneテーマ(新書) ISBN: 4047040010 571円)

2003/11/05(水)
〜共感もできるがわけもわからない〜

 哲学の教授が、「哲学研究者」ではなく「哲学者」を養成することができるかどうかを、私塾で実験した、というストーリーの本。1人の教授と10人の受講生の対話でできている。ただし受講生は次第に減り始め、サブタイトルどおりの結末になるのだが。筆者が現実に行っている塾がベースになっているらしい。そちらもで、来なくなる人や失望する人がいるのだそうだ。

 タイトルには「実技」とあるが、それは哲学が「スポーツのように芸術のように、みずからの「からだ」を動かして新たなものを創造することなのだから、どうしてもいわば「哲学実技」が必要となる」(p.20)とのことで、これは納得した。が、本書全体で言うと、共感や納得できる部分は半分以下というところか。ただし、そういう箇所はとても共感・納得できるのだが。

 たとえば、「「わかったつもり」になることを拒否しつづければ、それだけで思考の体力はメキメキつくことになる」(p.66)とか、「「自分は正しくない」と無理にでも思ってみること。これは、きみの精神を鍛えるうえでたいそう重要なことだ」(p.180)とか。あるいは「世間語」とか「科学語」という概念とか。世間語とは、「一定の社会の基本的な価値観や美醜感、規範意識や風潮にそった安全無害な言葉」(p.54)のことである。「きれいごと」もその一種。科学語とは、科学的に正しい言語なのだが、「いったんその中に踏み込むと、ほかの観点を見えなくさせる言語、ごくらの精神を徹底的に麻痺させる言語」(p.122)である。それには激しく同意で、私も同じようなことをこちらで考えたことがある。

 ただし、納得できない部分も多く、それゆえ、受講生が減っていくのにも共感を感じたりするのだが、それを「筆者」が本書で書いているということの意味が今ひとつ理解できないままでいる。というか、これが全体としてはどういう本なのかがわからないのである。

 筆者自身が、意見の合わない他者との対話を真剣に実践している姿を示しているのかもしれないが、しかしだからといって、筆者自身が「「わかったつもり」になることを拒否」したり「「自分は正しくない」と無理にでも思って」みているようには思えない。対話の難しさを戯画化しているのかとも思うが、そうでもなさそうである。しまいには、「哲学者(=「創造」活動する人)を「養成」するというのが矛盾なのだといいたいかのようにも思えてしまう。あるいは、筆者自身がいかに頑固な人間なのかを露悪趣味的に提示しているのかとも思いたくなるような内容でもあるのである。そういう部分はなしに、もっときれいに「思考を鍛える」ことに焦点を当てた無難な話にすることも可能だろうにと思ってしまう。まあこの筆者ならそういう路線は選ばないだろうけど。

■雑記

2003/11/04(火)

 最近,日々の記録を書いていなかったので,覚え書き程度に。

 10/25午前 下の娘(3歳1ヶ月)の保育園の運動会。2歳児2クラスのみなので,ゆったりと見ることができた。下の娘は,何日も前から,「うんどうかーいのチャッチャチャチャ」という歌(踊り付)を披露してくれていたので,当日楽しみにしていたら,当日は歌いも踊りもしなかった。始まってすぐだったので,まだ雰囲気に慣れていなかったのだろう。そのほかには,かけっこ,障害物,親子ダンスなどに参加。障害物の最初は「机の下をくぐる」だったのだが,下の娘は最近,食卓の下で遊んでいることが多いせいか,これは難なくクリアしていた。

 10/31午前 沖縄であった,全日本教育工学研究協議会全国大会に参加。午前中は公開授業ということで,近所の小学校に授業を見に行ってきた。見たのは6年生の総合学習。1グループ5〜6人で,平和学習的なことを発表していた。びっくりしたのは,この学習に取り掛かり始めたのが10月上旬ということ。まあ一応,それなりにまとまった発表になっていた。こういうのって,期間が短くても長くても,アウトプットは表面上さほど変わらないのかもしれない。

 10/31夜 上の娘(5歳4ヶ月)の友達に誘われ,米軍基地内にハロウィンに行く。変装をし,"trick or treat"と言ってお菓子をもらうのである。けっこう日本人がいた。地域のコミュニティ内でこれをやるのであれば,もらう側も成長していつかは挙げる側になるわけだが,日本人が来てお菓子をもらうというのでは,もらいっぱなしで挙げることは(多分)ない。これでいいんだろうかとも思ったが,日本人は米軍に「思いやり予算」で挙げているともいえなくない。個人レベルではないけれど。基地内に住んでいる人は,お菓子がなくなったら電気を消して意思表示するし,お菓子をあげないからといってイタズラするわけじゃないし。まああまり考えないようにしよう。

 11/1午前 教育工学研究協議会の分科会に参加。プロジェクト学習・ポートフォリオのセッションを聞いたのだが,なかなか面白かった。もっとも,企業と連携したり,農業高校の牛小屋と小学校をテレビ電話でつなぎっぱなしにしたりと,大掛かりなプロジェクトが多かったのだけど。まあそれでも,やっているところはやっているんだなあということを知ることができた。

 11/1午後 上の娘(5歳4ヶ月)の幼稚園の製作展を見に行く。製作は,けっこう手間がかかっていた。この製作展,以前も見に来たことがあったのだが,人の作品を見るのと自分の子どもの作品を見るのとではやはり違う。ふーんこんなの作れるんだーとちょっと感慨深かったりして。途中で上の娘がいなくなって,かなりあせる一幕もあった。同級生のお父さんが何人か引き連れてくれていたそうで,何事もなくてよかったけど。

 11/3午前 附属中学校の教育研究発表会を見に。私は数学の授業を見た。なんだかもりだくさんで,せわしなくスケジュールをこなしている感じが私はした。面白い点ももちろんあったけど。

 11/3午後 佐伯胖先生の講演を聴く。タイトルは「学びの回復とこれからの学校」であった。内容は,状況論的学習論の概説というところか。佐伯先生の言う「学び」は「勉強」と違い,外部から目的を与えられることも外部から評価されるもない学習であるという(うろ覚えだけど)。それって,現在の学校制度の中では不可能なことではないかと思った。「これからの学校」の話はなかったので,その点について佐伯先生がどのように考えておられるかはわからなかったのだが。


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