30日短評11冊 25日『グラウンデッド・セオリーアプローチの実践』 20日『心理学研究法入門』 | |
| 27日高機能なフリーの統計解析ソフト 23日議論の能力と文化 22日奇妙な満腹感 21日後期授業の振り返り |
今月は、最近にはないくらい本を読んだ。のだがそれは、なかなかいい本に出会わないという焦燥感からであった。まあ先月あたりで、仕事が一段落したというのはあるかもしれないけど。あと今月は、附属中学の授業1つ(数学)と附属小学の授業を5つ(社会3、理科1、特活1)見た。
今月良かった本は、『アメリカ合州国』(少数者の視点が見えるルポ)か。あと、『グラウンデッド・セオリー・アプローチの実践』は再読すべきかもしれない。
学生がそろそろ卒論のデータを持ってくる時期だ(今年はちょっと遅いのだけれど)。いつもは分析は学生に任せるのだけれど,最近,高機能なフリーの統計解析ソフトがあることに気づいたので,今年はそれを使ってみるために,学生の卒論データを分析してみた(学生は学生で,自分でエクセルで相関などを出している)。
実はこのソフト,手ごろな入門書がない(最近1冊出たのだが,その本は,統計解析の基礎についての本であって,ソフトの使い方は最小限しか書かれていない)。しかし,世界中で使われており,高機能ということで,ネット上にはいくつか情報があった。そういう情報を拾い集めながら,手探りで動かしてみたのだが,なかなかいい感じだった。分析だけではなく,グラフなんかもいろいろと表示してくれるし。地図も描けるみたいだし。
このソフトは,メニュー選択方式ではなく,基本はコマンドラインにコマンドを1行ずつ打ち込み,1行ずつ実行するという,インタープリター形式である(テキストエディタで書いた複数行のコマンドを一挙に実行することも可能)。こういうのをあれこれといじっていると,昔,BASICでいろいろなプログラミングをしていたのと似ており,ちょっと楽しい。あるいは,ときどき使うAWKみたいな楽しさである。いじりながら,その言語の基本的な考え方を理解し,手本にないことを少しずつやってみる。それがうまく動いたときは,ちょっとした充実感がある。とはいっても,多分あまりたいしたことはしていないのだけれど。
もともとは実験屋だったので,分析というと99%分散分析だった。ソフトも,それ専用のソフトしか使ったことがなかった。また,そういうデータはあまりいじりようがないので,いろんな角度からあれこれ分析してみるということも味わったことがなかった。今回,そこまでのことをしているわけではないのだが,このソフトだと,いろいろとできそうな気がしてくる。現在の私の研究の方向性からいうと,質問紙調査をしてあれこれ分析をする,ということはあまりありそうにないのだけれど,こういうソフトを手に入れると,なにかやってみたいような気になってしまう。まあ,そう言っているのは今のうちだけかもしれないけれども。
グラウンデッド・セオリー・アプローチ(GTA)を筆者独自に修正した修正版GTAについて解説した本。それだけでなく、本書の前半では、質的研究とGTA一般について述べられており、この部分がなかなかよかった。
まず、GTA一般に関する記述によって、オリジナル版その他いくつかの版があり、それぞれ違いや難点があることが分かった(なんでも、オリジナルのものを作った二人がその後、考えを異にして対立したようだ)。どうりで、以前読んだ『質的研究の基礎』がよくわからなかったわけだ。その点もとてもよかった。なおGTAについては、「継続的比較分析法による質的データを用いた研究」(p.26)と表現されている。GTA一般についてはまあわかったのだが、本書の後半部分である修正版GTAの説明に関しては、今ひとつのところもあった。
また、質的研究一般に関する記述の部分では、「質的研究とは何か」を論じるにあたって、筆者は、データの形態、特性、収集方法、分析方法を分けて考えている。データ形態は非数量的・言語的なもので、私はここ(のみ)を中心に考えていた。しかしそれ以外に、データの特性として「ディテールの豊富なデータであること、詳細なデータであること」(p.64)が挙げられ、ここに最大の特徴があると筆者は考えている。いわれてみればその通り。収集方法は面接と観察、分析は「研究者の解釈」によって行われる。ただし、コーディングの仕方によっては、「自然科学的認識論に基づく質的研究」と「解釈的質的研究」が可能である。これらの観点は、質的研究とは何か(何でないか)を考える上で役立ちそうな観点である。
また筆者は、質的研究には、「自分の関心に都合のよいデータ部分だけをえり抜いて結果をまとめたのではないか」(p.203)=逸話主義という批判があるという。それは、質的データの分析が「数量的研究法における統計学のように外在的評価基準がないから」(p.68)であり、「質的研究論文は現在のところ、場合によってはこうした綱渡りのような不安定な位置におかれる」(p.68)と述べているのだが、同感である。
筆者の提唱する修正版GTAでは、その批判を避けるための工夫として、データに基づいて見出された概念の「類似例」の確認だけでなく、「対極例」について「比較の観点からデータを見ていくことにより、解釈が恣意的に陥る危険を防ぐ」(p.237)という。この点はよくわかった。
しかし、それ以外の修正版GTAの手続きに関しては、本書中に具体例を通した記述が少なかったので分かりづらかった。どうやら筆者は、サブタイトルとは違い、ある程度GTAについて知っている人を読者対象として想定しているようなのである(その一例として、たとえば「理論的サンプリング」という語の明確な定義は本書中にはなかった)。また、筆者がこの本の前に書いた本についても、何度も「これは前著でも書いたことだが」というような形での言及があり、前著を読んでいる人を読者として想定しているように見えた。その点がちょっと残念。でも理論的な話も見る限り、筆者の提唱する修正版GTAは興味深いもののように思えたので、とりあえず前著を読んでみるかと思っているけど。■議論の能力と文化
附属小学校の研究発表会に行ってきた。授業を2時間みたのだが、面白かったのでここに記しておく。
私が見たのは、2時間とも同じクラスで、討論というか子ども同士の意見交換を中心とした授業だったが、授業者が別だった。その対比が面白かったのだ。
1時間目は、先生の司会の下、クラス全体で意見を交換し、討論する授業だった。子どもはこのような討論についてとてもよくトレーニングされており、活発かつ整然と意見交換がなされていた。授業後の分科会でも、子どもがよく聞きあい学びあっていること、賛成意見だけでなく反論なども出されていることが、他の参加者からもとても高く評価されていた。
2時間目は、あるテーマについて、まず一人で考え、次にグループ討論し、最後に全体で意見交換するという授業だった。最後の意見交換は、グループごとに意見を発表することになっていたのだが、1番目のグループが意見をいったところで、その意見に対する意見が噴出し、全グループで意見交換、という形にはならなかった。一言で言うと、1時間目の整然さとはうって変わった、しいて言うなら雑然とした討論だった。授業後の分科会では、「すぐに反対意見をいうのではなく、もっと人の意見を聞くトレーニングが必要だ」というような意見が出されていた。
同じ子どもたちであるにも関わらず、様子がかなり違っており、参観者から、まったく対極といっていいような評価がなされたわけである。その理由は、授業のテーマ、討論のための発問のあり方、授業展開のされ方の違いなど、さまざまなものがありうるだろうと思う。
その中の(あるいはそれ以外の)何が最も影響していたのかはわからない。しかしここでつくづく思うのは、「状況から離れたところで育成されいつでもどこでも通用するような裸の議論能力」のようなものは存在しない、ということである。いや、存在するかしないかは分からない。しかし、議論の場でそれが現れるときは、どこかで培われた議論能力が裸のままで現れるわけではない。それは常に、状況や教師や他者や問いかけや興味や切実さなどさまざまな要因によって、さまざまな現れ方をする。そのことを、改めて認識させられた。
これはあくまでもひとつの可能性なのだが、2時間目に見られたある種の雑然さは、「文化」の問題でもあるかと思った。普段このクラスでは、先生や子どもが司会してクラス全体で討論することが多い。発言者は司会が指名するのだが、たいてい1時間で半数以上の子が指名され、ひとつの意見については、補足や反論も含め、一通り出尽くすことが多いようである。そのような文化の中で暮らしている子どもたちなので、2時間目、グループごとの意見が一通り出される前に、第一グループに対して意見をいいたくなるのは当然という気もする。つまり、2時間目の授業者が想定している議論の型に乗らず、普段のやり方で意見をいおうとしたため、「他人の意見を聞いていない」ように見えたし、雑然としているように見えたのではないかと思う。
この点は、1番目の「裸の能力否定論」にもつながるのだが、議論とか対話とか聞くということは、能力である前に「文化」なのではないだろうか。もちろんある文化を基準としてみれば、その基準に合っていないものは低く、基準に合っているものは高く評価できる。その高低は「能力」という言葉で表現することは可能であろう。しかしそれは、基準となる文化を別のところに置けば、簡単に逆転しうる評価なのである。このことは、議論や授業を評価する際には頭の片隅においていく必要があるかもしれない。
今週半ば、ふと気づくと空腹感を感じなくなっていた。食事前に。いつもおなかに何かが入っている感じなのである。ちょっと満腹感に近い感じ。
はじめはそれでも、食事を食べていた。食欲がないわけではないので。しかし、満腹感みたいなものを感じているのに食事をするのも変なような気がしてきた。カロリーを取りすぎたのかもしれない。おやつの食べすぎとか。それで、ちょっと食事を控えることにした。
最初は晩飯のご飯を半分にしてみた(ついでに食後のおやつも)。しかし次の朝、やはり満腹感がある。それで、朝食も半分にしてみた。それでも昼も夜も満腹感が続く。そこで次の晩飯は、おかずも半分にしてみた。毎日恒例の食後のおやつはなしである。それでも次の日の朝、満腹感がある。それならと思い、朝食を抜いてみたが、出勤前、ちょっと血糖値不足的な気配がしたので、牛乳をコップ半分だけ飲んで出勤した。ちなみに体重は、私的標準よりも1kgぐらい落ちている。
それでも満腹感は続く。さらには食欲もちょっと落ちているみたいで、毎日食べている昼食の弁当のすすみが遅くなってしまった。しょうがないので晩飯はおかゆにしてもらい、おかずはやはり半量ぐらいにしておいた。
それで今日。ちょっと食欲が戻ってきたような気がしたので、がんばって食べてみたら、案外はいった。晩飯は、控えめについでおいたのだが、結局おかわりした。どうやら元に戻ったようである。
戻ったからいいものの、なんだったんだろうこれは。
といってもまだ半分もやっていないのだが,ちょっと思ったことがあるのでメモ。
この授業(講義),とてもうまくいった回と,そうじゃない回がある。内容的には,日常的な事例を導入に,心理学の研究の面白さを紹介し,自分自身のことを考えてみるというもので,どれもそう違わないはずである。特に,紹介した実験はどれも興味深いものだと思うのだが,しかし,学生の反応というよりは,講義者自身の手ごたえや満足度が大きく違った。
で,なんでだろうとつらつら考えて一つ思い当たったのは,導入の十分さということだ。うまくいった回は,日常や歴史上の事例を割と時間かけてたっぷり紹介し,その上で,心理学の実験へとつないでいた。そうでない回は,導入は簡単に済ませ,心理学実験のほうをメインに紹介していたような気がする。
現時点での反省。導入は単なる導入ではない。その後の本題(心理学の研究紹介など)の必然性や面白みを十分に感じるための,欠かせない道具立てなのだ。そういうことは,5年以上前には当たり前のようにわかっていたことだったように思う。しかしつい忘れたり,自分の興味から研究のほうにばかり目が行ってしまうと,こういう結果になるらしい。気をつけねば。
サブタイトルどおり、心理学における調査、実験、実践研究を概説した本。卒論生から院生までが視野に入れられている。調査には質的調査も含まれているし、実験には単一事例実験も統計も含められているし、さらには研究のやり方(テーマ設定から発表、論文執筆、ゼミなど)も載っており、これだけの内容をよくコンパクトにまとめたなという感じの本である。もちろんいい意味で。
なるほどと思ったのは、「良い研究とは何か」という節。研究の最大の目的は一言で言うと、「対象について何か新しいことが「わかる」ということ」にある。しかし何でも新しければいいというわけではない。そこには何らかの価値のあることである必要がある。研究の価値には、情報的価値(「そんなことはわかっている」と言われない研究)と実用的価値(「そんなこと調べて何になるのか」という問いに答えうる研究)があるという(p.7)。情報的価値にはさらに、「一見意外と思われることを、確実な方法で明らかにしている」(p.5)こと、つまり意外性と確実性の2側面があるという。研究の意義というと何となく「オリジナリティ」(何か新しいことがわかる)の一言で済ませてしまいがちなような気がするが、こういうふうに分けて考えることは重要な気がした。
その他、なるほどと思ったのは以下のくだり。
どれも、簡潔に要点が述べられているように思う。
ただ、一箇所気になった点がある。それは、結果と仮説の関係に関するもので、「仮説からの予測に合った結果によってその仮説の信憑性(仮説の妥当性に対する信念)が高められ、逆に仮説を支持しない結果、すなわち仮説からの予測に反する結果によって、その仮説の信憑性が低められるというように、連続的な尺度で考えていくべきものである」(p.88)という記述。1つの結果で仮説が明確に検証/反証されないのは、たとえば未知の第三変数のために仮説は検証されたように見える場合や、実験の不備があって仮説が反証されたように見える場合があるから、という説明であったが、そのような第三変数や不備に基づく結果であれば、いくら積み重なっても信憑性が高められたり低められたりはしないのではないかと思う。「不備」の方は追試で明らかになる可能性は高いだろうが、未知の第三変数の場合は、その点に気づく研究が出ない限り、いくら研究が蓄積されても、それが意味のある(仮説の信憑性を高める)ものか否かは判定できないと思うのだが(要するに反証主義者的疑問である)。