読書と日々の記録2004.1上

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■読書記録: 15日『キリスト教を問いなおす』 10日『ジンメル・つながりの哲学』 5日『快読100万語!ペーパーバックへの道』
■日々記録: 8日譲ったりもぐったりする3歳4ヶ月児

■『キリスト教を問いなおす』(土井健司 2003 ちくま新書 ISBN: 4480061258 700円)

2004/01/15(木)
〜脱キリスト教の一歩手前〜

 キリスト教学を専攻し、プロテスタントの牧師でもある筆者が、「「ふつうの日本人」の感覚から、一体キリスト教とは何かということを考えてみよう」(p.8)とした本。なかなか興味深かった。本書は4章からなっているが、各章の冒頭に、学生が書いたキリスト教の悪口、批判を紹介し、それに答える形で、キリスト教の考えが概説され、問い直されている。

 問われているのは、「平和を説くキリスト教が、なぜ戦争を引き起こすのか」(第一章)「キリスト教の説く「愛」とは何か」(第二章)、「神は本当にいるのか」「一神教とは何か」「聖像画は偶像礼拝か?」(第三章)、「祈ることは頼ることか?」(第四章)などである。これらは、一般の人が思って当然の疑問であり、私もこういう疑問を持っていた。そういう問いに筆者は、正面から向き合っており、その姿勢はなかなか好感が持てるものであった。

 たとえば第一章の戦争の問いに対する筆者の答えは、「戦争を行ったのは、ある時代のある社会と結びつき、社会をまとめる原理として力をもったキリスト教」(p.205)であり、「それは社会の力であって、特定の宗教の力では」(p.52)ない、というものである。むしろイエスの教えは、そのような社会の枠組みを乗り越えることを説いているのである。答え方も、なかなか丁寧で悪くない感じであった。ということで、私は本書に対して、基本的にはとても好印象をもっている。

 ただし、よく見てみると、問いに対して十分に答えられているとはいえないように見えるものもあるように思う。たとえば先ほどの戦争の件でいうと、筆者は「キリスト教」が戦争を行ったわけではない、というために、「ここで言う「キリスト教」とは、イエスの教えのことです」(p.56)と述べている(あるいはさらに具体的に、「社会をまとめるために引かれた境界線を乗り越えることこそキリスト教的なのです」(p.56)とも述べている)。しかし本書で使われている「キリスト教」の語が、すべてそのような意味で用いられているわけではなく、ある部分ではキリスト教会などの組織的、制度的な部分をさしてキリスト教と呼んでいる。こういう部分は統一しないと、都合に応じて表現を使い分けているかのように受け取られても仕方がないのではないかと思う。ただし私の考えでは、キリスト教を、イエスの教えだけに限定して理解すると、教会や礼拝、教義などの制度的なものは一切いらないということになってしまうのではないかと思う。もっともそれを明言することは、牧師としての筆者にとっては自己否定になってしまってマズいのかもしれない。

 その辺の折り合いのつけ方は、本書の中から読み取ることはできなかった。むしろ筆者は、「わたしたちが目の前の人間を率直に「あなた」と呼びかけることができ、「あなた」と呼びかけられることが可能であるなら、「キリスト教」でなくてもいいのです。実際、「キリスト教」自身が、そのような応答を遮断してきた歴史があります。」(p.154)と、制度(あるいはイエスの思想)がいらないようなことを述べている部分もある。こういう部分を見ると、筆者は、脱「(制度としての)キリスト教」の一歩手前にいるように見える(あるいは『深い河』の大津の一歩手前)。

 あと、ひとつ私的に興味深かったのは、「神」に関する考察。キリスト教における神は、人間にとって都合のいい、すがるための存在ではない。そのことに関して筆者は、「神自身が見えない以上、唯一神への信仰は神を求めて万事を見渡すこと、万事に配慮することにほかなりません。そういう努力が信仰なのです。」とか、「唯一なる神への信仰は、盲信ではなく、さまざまなものに配慮しながら努力するものなのです」(p.135)と述べている。これは、「無知のベール」のような意味かと思うが、「神」という言葉を抜けば、批判的思考そのものではないかと思った。

■『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁 2003 ISBN: 4140019689 970円)

2004/01/10(土)
〜私と他者の齟齬の理解と解消〜

 「ジンメル」という、社会学草創期の思想家の考えを概説している、哲学的性格をもつ社会学の本。私の見たところ本書は、社会の成り立ちという「社会学的な問題」を、実証よりも思索という「哲学的な方法」で検討している。そのせいか、「本当にそうなのかな」と思える部分も少なからずあったが、なるほどと思えるような視点もいくつかあった。

 まずジンメルは、「社会とは何か?」という問いに対して、「人々の間に日々繰り広げられている「相互作用」の網の目」(p.39)と考えているらしい。つまり、「社会」という容れ物や壁、檻の中に人間がいるというイメージではなく、「人間」の相互作用が編みあがった結果が社会になる、という見方である。それは、堅牢な構築物として、俯瞰的に社会を捉えるのではなく、<当事者の視点>で社会を捉えることであり、最近の私の志向に近い、興味深い視点であった。

 本書では、そういう視点で、「社会学」「ほんとうの私」「秘密」「闘争」「貨幣」「現代」が扱われている。それらと本書の視点の関係は、明示されているようでされていないような感じなのだが、私は次のように受け取った。まず本書の視点は、「私」と「他者」(私以外のもの)の齟齬的な関係を、「私」に近い視点から問い直すというものである。

 たとえば「現代」の問題は、「主体の文化」(人間に固有の生活様式を身にまとっている個々人のあり方のこと)と「客体の文化」(人間たちが自分たちの生の営みを重ねて自分たちの身のまわりに作り上げた事物や制度のこと)の齟齬的関係(p.219-221あたり)として捉えられている。具体的には、「「客体の文化」の圧倒的な発展に比して、それに見合ったかたちで主体の文化的形成がなされていないこと」(p.220)や「社会のシステムやテクノロジーの発達が、私たちの情緒的感性や人間としての総合的判断能力を低下させる危険をはらむこと」(p.220)であり、それらはまとめると、「「近代的主体」に対する<制度性の優位>への警鐘」(p.221)と表現されている。そしてこれは、ここではそうは表現されていないが、「私としての主体」と「他者としての制度や事物」の問題、と理解できるように思う。

 「ほんとうの私」については、次のように考察されている。「私たちの出会いは何らかの社会的カテゴリーとしてしか実現できないが、しかしながら人間は、そうした社会的カテゴリーに還元しつくして捉えることもできない存在」(p.104)である。そこで、「「ほんとうの私」とは、<いま・ここ>の社会的相互作用における役割側面とそれ以外の「社会外的側面」とのバランスが自分自身のなかできちんと了解されており、かつ他者との関係においても社会的側面と社会外的側面の二面性についての理解が得られたときに生じる内的な確信として理解されるもの」(p.121)と考えることができる。つまり、「ほんとうの私」なるものが存在するわけでも、「ほんとうの私を丸ごと認めてくれる社会」が存在するわけでもないし、ズレが生じるのは当然なのだが、それらが自分内でも自分外でも、きちんと位置づけられたときに、ある確信が生まれ、それが「ほんとうの私」という言葉で表現されるのだ、ということだろう。これは、先の「現代」についての考察とは表面上は違うが、基本的には、「私と他者の齟齬の理解と解消」という同じ視点から考察されているように思う。

 「社会学」についての考察も同じである。一般的にイメージされており、また、社会学のなかでも主流を占める社会学の捉え方は、「科学としての社会学」である。それに対して、筆者やジンメルの視線は、「相互作用の網の目として、私とその周りから見る社会学」とでも呼べようか。このような視点の変換が必要なのも、「科学としての社会学」が「制度」として強大で、「私」の実感に対して優位になりすぎ、齟齬が生じるのであろう。このような事情は、心理学も同じである。

 ではその齟齬を解消するにはどうしたらいいのか。それに対して本書から直接的に得られる答えは、当事者の視点から、関係の網の目としてみる、ということだろう。しかしそれだけでは、そういうあり方そのものがいずれ制度として強大になる可能性もあるように思う。それよりも大事なのは、上の段落で引用しているように、両側面の「バランス」が研究者の中できちんと了解されていることや、他との関係においても二面性についての「理解」が得られることあたりにあるのだろうと思う。

■譲ったりもぐったりする3歳4ヶ月児

2004/01/08(木)

 下の娘(3歳4ヶ月)の近況を。

 1年前、下の娘は上の娘(5歳6ヶ月)とケンカしたあと、「ママがやった」と主語を変えて状況を収めていた。そういうのって、最近は見ないなあと思っていたら、先日、自分が上の娘の手を噛んでおいて、「ママがかんだねえ」といっていた。1年ぶりなので、ちょっと懐かしかった。変な言い方だけど。

 下の娘と上の娘はよく好みがぶつかる。そういう時、下の娘は強い。絶対に譲らないのである。ところが最近は、ときどきなのだが、下の娘が「譲る」ようになった。といったも、一旦は戦利品を手にするのである。そのあとで、いつまでも泣き続ける上の娘を見て、「ハイ」なんて言って譲るのである。これって、どういう心境なんだろう。

 怒られたときや自分の思うとおりにいかないとき、下の娘はきわめて特徴的な行動にでる。それは、テーブルの下にもぐるのである。もぐってイジイジしている。我が家だけではない。冬休みに里帰りしたときも、そういう状況になったとき、まず、もぐれそうなテーブルを探し、そこまでおもむろに歩いていって、イジイジともぐってしまった。そういう場所って、安心するんだろうか。

 今日、床に座って本を読んでいたら、下の娘が私の肩にのぼってきた。そして「パパあ、『肩車しないで』って言って」というので、「肩車しないで」というと、娘は「やだあ」という返事。なんだそりゃ。最近こういうのがよくある。ほかにも、「『ばーか』って言って」というので「ばーか」というと、「バカって言わないで!」という返事。このときは、最初のセリフは低い声で、最後のセリフは普通(かやや高い)声で言ってくれる。こういうのって、発達心理学的には、心の理論とか他者の視点とかで説明される事柄なのかもしれない。よくわからないのだけれど。

 とまあこういう具合に、最近何だか3歳児がおもしろい。

■『快読100万語!ペーパーバックへの道』(酒井邦秀 2002 ちくま文芸文庫 ISBN: 4480087044 1,000円)

2004/01/05(月)
〜反省的実践としての英語〜

  「英語力=英語量」(p.89)であると考え、やさしい英文から始めて、段階的に難しいものに移行しつつ、たくさん(100万語)読むことで、ペーパーバックが読めるようになると主張する本。なかなかに興味深い本であった。私はこの本を、こちらの書評で知ったが、これを読めば大体のところはわかる(ので私は省略します)。筆者らのWebページはこちらで、このあたりでも様子はわかる。

 「読めるようになる」とはいっても実際には、この方法を用いた筆者の授業(大学)や指導で1年以内にペーパーバックが読めるようになるのは20%程度だそうで、「読めるようになる」というよりは、「100万語くらい読むと、指導はいらなくなる」(p.23)、つまり、自分で自分にあった面白そうな本を選んで読み進めていくことができる、ということのようなのだが。あるいは、100万語読んで初めて、主要1000語が本当に身につき、書いたり話したりするのに使えるようになる(p.236)、ということのようである。私自身も、なかなか快適かつスムーズに英文が読めないと前々から思っていたので、挑戦してみようと思っている(この本が届く前に、手持ちの本や図書館の本、帰省先で買った本を読んで、現在7万語強)。

 本書が興味深いのは、このような方法論の部分だけではない。本書に書かれている、筆者の英語に対する考えも興味深い。筆者は、英語が読めるようになるためには、文法も語彙力も英和辞書も要らない、と主張する。それは、「わたしたちが何気なく使っている言葉は、実はとても複雑なもので、「公式」で単純化できるようなことがらはいっさいない」(p.255)からで、筆者はその例として、beforeやtheやandなどが、英日一対一で翻訳できるような語ではないことを示している。その具体的な説明も興味深いのだが、英語=文法+辞書+語彙という従来的な考えと、それらが不要という筆者の主張の対比は、英語を技術的実践として理解するか、反省的実践として現場で生きているものを捉まえるか、という対比のようで興味深い。あるいはこれは、現場で学ぶには、考える前にまず多量の刺激にさらされなければいけないということで、教育一般を考える上でとても興味深い。

 教育といえば、筆者の多読の授業は、「基本的には90分のあいだそうやって、次々と本を読んでは読み終わった本の題名を書き、新しい本を読む、その繰り返し」(p.133)で、授業者は読み方のアドバイスをするだけ、成績は出席だけでつけるという。読む本も受講生が自分で選ぶので、どのレベルまで読めるようになるべき、という目標もない。これも授業スタイルとしては興味深い。


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