読書と日々の記録2004.2下

[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'04] [索引] [選書] // [ホーム] [mail]
このページについて
■読書記録: 29日短評7冊 28日『絶望から出発しよう』 25日『桶川女子大生ストーカー殺人事件』 20日『どうして英語が使えない?』
■日々記録: 28日幼稚園の音楽発表会 24日後期授業の振り返り 18日英語の多読

■今月の読書生活

2004/02/29(日)

 今月は、いろいろと忙しくしているうちに、何もしないうちに何となく終わってしまった感じ。まあ本は読めたし、英語の多読もできているのだが、その他のすべきことができていない。

 ということで、来月は気合を入れてやらないといけないことがある。忘れぬようここに書いておくと、(1)投稿論文の修正、(2)現在のテーマ関連の文献講読、(3)ちょっとしたデータ収集のための面接調査、(4)減量(重り付きウォーキング+筋トレもどきを中心に)、である。他にもあるかもしれないがとりあえず、これらぐらいは全部できた、と月末に言いたいものである。

 今月よかった本は、『文化人類学入門 増補改訂版』(おもしろそうじゃん文化人類学)、『どうして英語が使えない?』(うんうんそうだよなあ)、『桶川女子大生ストーカー殺人事件』(警察もマスコミもコワいね)あたりか。

『クリティカル・シンキング 実践編』(ポール&エルダー 2002/2003 東洋経済新報社 ISBN: 4492554963 1,800円)

 『クリティカル・シンキング』の続編的な本。うーん、感想は前著と似たようなものだ。ひとつ、(やや)なるほどと思ったのは、(前著にもあったかもしれないが)クリティカルシンキングとは、通常の考え(反射的な即座の間が)に、第2段階(その思考を意識化)加える(p.21)、という指摘。そういう基礎編の復習的な部分以外は、実際の問題を分析してみせる実践編的な内容なのだが、なんだか今ひとつピンとこない。

『思考を育てる看護記録教育─グループ・インタビューの分析をもとに─』(井下千以子・井下理・柴原宜幸・中村真澄・山下香枝子 2004 日本看護協会出版会 ISBN: 4818010073 \2,300)

 著者様にいただいた本。まずグループ・インタビューを使って、1〜3年目の新人看護師、4年以降の中堅看護師、看護学生の各6人グループに、「看護記録について感じていること、困っていること」を半構造的に聞くことで、臨床での生の声を取り入れて現状を把握している。その上で、「記録の教育を通していかに考える力を育てるか」について論じている。グループ・インタビューについては、『心理学マニュアル 面接法』でその存在を知り、興味を持っていた(割には何も調べていなかった)ので、本書でその実際を知ることができてよかった。しかし、グループ・インタビューには、発言者同士の相乗効果が生まれるとか、経済的であるというなどの利点はあるものの、個別対応的ではなく、特定のトピックを深めたりすることは難しい、という難点があることがわかった。後半の作文教育の話に関しては、発話プロトコル法を用いた文章産出過程のモデルが紹介されており、今の私としては興味深かった。なお文章産出に関しては、「「相手を説得するつもりで書いてください」という内容に踏み込む教示を与えたグループのほうが、論理的で一貫性のある文章を書く」(p.180)という研究が紹介されていたが、これからするならば、適切な看護記録を書くためには、誰に向けて何のために書くかを明確にすることが第一なのではないかと思った。素人考えだが。

『正しい精神科のかかり方』(月崎時央 1998 小学館 ISBN: 4093791414 \1,300)

 筆者はフリージャーナリスト。あるとき身内が精神疾患にかかったのだが、本を見ても人に聞いても医者に聞いても、欲しい情報が得られなかったそうだ。それで、自分で調べるしかないと思い、「精神病院を訪ね、精神科医と話、患者さんの家族の人々と話、精神医学の学会に時にはこっそりと潜り込み、論文を手に入れ、お医者さんたちの内輪話に聞き耳をたて」(p.8)て得た情報を本に、当時の自分が知りたかった情報をユーザーの立場で書いたハウツー本である。それだけの情報を得るのに4年かかったという。中身は、現在実際にそういう情報の必要性がない私にとっては、まあまあだったが、そういう立場におかれたら役に立つであろう情報ではあると思う。本書でひとつ知ったことに、1960年代の高度成長期に、政府は積極的に精神病院のベッド増床政策をとったこと、そのとき、閉鎖された収容所の中で、医療の名の本に、たくさんの不正や暴力や患者さんに対する搾取が行われたといわれていること、そして、「この暗い時代のやり方を、そのまま続けている精神病院が、残念ながら今も相当数存在する」(p.186-7)、ということがある。そういう現状があるのであれば、本書の意義はとても高いといえよう。

『追補 精神科診断面接のコツ』(神田橋條治 1994 岩崎学術出版社 ISBN: 4753394085 \3,000)

 再読。やはり面白かったが、しかし、私自身が診断面接でもしているのでなければ、これ以上実感を持って面白がることはできないかもしれない。今回興味を引いた記述は、問診の対話形式には、「取り調べ的対話」「真の対話」「聞き役に徹する面接」の3種類がある、という話。これらは、どれかひとつがすぐれているわけではなく、「一回の問診の中で、この三種を、時に応じて使いわけてゆくのが正しいし、意識してつかいわけることが問診上達のコツ」(p.153)とある。そういうことを、調査面接で自分でもやっているような気がしないでもないが、意識して使いわけているわけではなさそうである。特に「真の対話」(「互いの連想から生みだされたものが、金の輪の次に銀の輪その次にまた金の輪とつながって、一本の鎖を形作ってゆく、いわば理想的対話」(p.152)が意識的に使えればすばらしいと思う。

『あぶく銭師たちよ!─昭和虚人伝』(佐野眞一 1989/1999 ちくま文庫 ISBN: 4480034455 720円)

 バブル時代の「狂った一ページのなかで華々しいフットライトを浴びながら、踊り狂った代表的な紳士と淑女たち」(p.313)のノンフィクションである。リクルートや代ゼミがどういう会社かがわかり、占い師の細木氏がどういう人かがわかった点は、まあ悪くなかったが、全体的には読みにくかった。これは、筆者の文章の特徴(というか私との相性)だろうと思う。『私の体験的ノンフィクション術』は面白かったんだけどなあ。なんかこの人のノンフィクションって、私にとっては「大文字」っぽく見えるんだよなあ。

『イエス・キリストの生涯』(三浦綾子 1981/1987 講談社文庫 ISBN: 4061841130 733円)

 キリストに関わる聖画44枚に、クリスチャンである筆者が600字の文を添えた本。絵は受胎告知から最後の審判までがあり、これを通してイエスの一生がたどれるし、一クリスチャンのキリスト教への想いが分かる。ひとつ思ったこと。「聖マタイの召命」に関する絵のところで、「殺人犯と同類に見られる取税人をさえ弟子にしたイエスの愛の偉大さ」(p.43)と筆者は述べている。しかし「〜のような人をさえ弟子にした○×の愛の偉大さ」というフレーズは、いかがわしいように見えるものも含め、かなり多くの新興宗教教祖にも当てはまることではないかと思う。そういう人たちとイエスの違いはどこにあるのかと考えると面白いかもしれない。私がひとつ思ったのは、それを「徹底的に貫き通すこと」だろうか。素人考えだが。

『ブレイクスルー思考─人生変革のための現状突破法』(飯田史彦 1999/2002 PHP文庫 ISBN: 4569578640 686円)

 どういう内容か知らずに買った本。「思考法」の本かと思ったら、そうではなく、むしろ、人生の意味についての本といったほうが良さそうであった。タイトルにある「ブレイクスルー」とは、「こう考えたら現状が突破できる」という思考技術的な話ではなく、「私はこんな風に考えたら人生の意味をブレイクスルー的に理解できた」という話のようである。その理解の仕方とは簡単にいうと、「人生は計画されたものであり、すべては自分に原因がある因果的なものである」という仮説(を出発点にした人生理解)である。このような人生の意味づけにはさまざまなものがあるだろうし、各人の好みで選べばいいのだろうと思うが、筆者のものは、『キリスト教を問いなおす』で説明されていたキリスト教的なものとはかなり異なるものであった。逆に言うならば、キリスト教以外の宗教で、このような理解を示しているものは、おそらく多数あるだろうと思われる。だから何というわけではないが。

■幼稚園の音楽発表会

2004/02/28(土)

 今日は、上の娘(5歳8ヶ月)の幼稚園の音楽発表会だった。

 どの学年も、同学年の3クラス合同で、合唱とリード合奏を披露した。うちの娘の属する年中組は、合唱は英語で、合奏はラバーズ・コンチェルトとミッキーマウスマーチを演奏した。3クラスなので100名ぐらいいるわけだが、なかなかの演奏だった。

 合奏で使われた楽器は、ハーモニカ、アコーディオン、鉄琴、木琴、キーボード、打楽器だった(リード合奏といいつつ、リード楽器が最初の2つだけなのはご愛嬌か)。うちの娘はキーボードが当たったのだが、自宅練習はけっこうたいへんだった。

 何せうちは、一応電子ピアノはあるものの、娘には習わせているわけではないし、ときどき思い出したように妻がちょっと教えて(というか遊ばせて)あげる程度だった。それなのに、曲は短くないし(前者が106小節、後者が162小節もある)、前者は拍子が途中で変わるし(3拍子→4拍子→3拍子)、それどころか転調もするし(ト長調→ハ長調→ト長調)、ということは、黒鍵も弾かないといけないし、使われる音域も2オクターブあるし。後者は、テンポは速いし、三連符はあるし、どうなることかと思ったのだが、妻の指導の甲斐あってか、娘は、かなりスラスラ弾けるようになって本番に臨むことができた。

 そして今日の本番。年少組は、年少らしいほほえましい演奏だった。年中組は、上記のように、なかなかまとまった演奏だった。1年の差は大きいものだ、と思った。そしてそのことは、年長組の演奏でさらに確認されることとなった。というのは、年長は、なんと、ホルストの「木星」(組曲「惑星」より)を演奏したのだ。もちろん全部ではないのだが、私は事前にプログラムを見たときには、せいぜいサビ(?)のメロディだけだと思っていたのだが、それが違っていた。ちゃんと、三連符のような16分音符から始まり、主要な部分は押さえつつ、最後の部分も含め、5分程度(多分)のダイジェスト的なものではあるものの、一応ちゃんとした「木星」だったのだ。100名編成で。こんなにシンコペーションばりばりの曲なのに。木琴はトレモロをきかせてるし、ティンパニなんかも使ったりして。ちょっとこれにはビックリした(後からビデオを見ると、年中組でもこれらはやっていたのだけれど、年長組は「ちゃんと」やっていたのだ)。

 こういうのって、本来的には、わざわざ幼稚園児にさせることではないとは思う。うちの娘も、最初は難しいと思ったし、途中までは、泣きながら練習することもあったようだ。しかし、あるとき、開眼したのか、スラスラと軽快に間違えることなく弾くようになった。こういうのを見ると、ちょっと無理かなと思うような挑戦をさせることにも、意味がないわけではないのかなと思ってしまう。まあできたからよかったのではあるのだけれど。

■『絶望から出発しよう』(宮台真司 2003 ウェイツ ISBN: 4901391305 750円)

2004/02/28(土)
〜市民エリート輩出を〜

 インタビューで構成されたような本。この筆者の本を読むのはおそらく2冊目だと思う。昔図書館で借りて読んだQ&A集みたいなヤツは今ひとつだったが、本書はまあ面白かった。インタビューであるせいか、筆者のこれまでの考えをまとめて紹介しているような内容になっており、ひとつひとつはあまり詳しく深く紹介されていない点が不満だがまあしょうがない。

 たとえば筆者は最近の若者について、「世代による違いは、環境の違いによる適応戦略の違い」(p.36)で、「単に適応行動をしているだけで、彼女たちのメンタリティが変化したわけじゃない」(p.37)と述べる。あるいは、「人はそれぞれ、与えられた環境と、選びうる選択肢が異なるから、違ったリアリティを生きるしかありません」(p.38)とも述べている。まったくその通りだと思う。それを、「自分ならばしない」「自分の時代ならありえない」と断じるのは、「単に想像力を欠いている」(p.37)と筆者は言う。これも御意である。

 筆者の方法論はフィールドワークで、筆者は「宗教や性の領域で旺盛なフィールドワークをしていた」(p.14)そうだが、そういうところでこういう、当事者的な感覚が養われたのかもしれない。しかも筆者は、最近の若い社会学徒や社会学者の卵たちのフィールドワークを、「既に先人によって道をつけられた、定番で人畜無害なフィールドワークばかりが腐るほどある」(p.59)と断じている。まあ筆者自身は、未踏の場所に入っていっているという自負があるのであろう。筆者の主なフィールドワークの対象は、「ストリート、仮想現実、匿名メディア」(p.44)だそうだ。

 ただし筆者は、フィールドワークで得た情報を、スパッとカテゴリー化してかなり大きく2項対立化して理解しているようで、ちょっとまとめすぎ、言い切りすぎではないかと思えるようなところも結構ある。そのせいだろうか、たとえば地方のレイプについて、「ここは昔からそうなんだよ」という発言を紹介した直後に、「こういう情報」は「多くの地域住民も知らない」(p.64)と、矛盾するようなことを書いていたりする。そういう点に気をつければ、筆者の考えは、見方や考え方の指針のひとつとしては悪くないかもしれないと思った。

 なお、中盤や後半では、政治、歴史、思想を論じており、私には十分には分からないところも多少あった(筆者流の二項対立図式で、すっぱり分かりやすいところも多少があったが)。まあそこは省略するが、そのような政治状況や歴史的、思想的状況を総括した上で、これからの社会に必要なこととして、「健全な社会はチェック・アンド・バランスのシステムを要求します。そのためには、官僚エリートと遜色ない数の市民エリートを輩出することが必要です」(p.160)と述べている。別の箇所では、「ジャーナリズムを批判し、自力で情報を受発信できる市民エリートが大勢いなければ、どうにもならないんです」(p.87)とも述べている。あるいは、「長いタイムスパンで、さまざまな材料を勘案して、思考判断できる人間もいない」(p.84)などと述べられている。これは要するに、批判的思考者を養成する必要があるということであろう。そのための方策は、「教育改革」(p.165)というぐらいで、具体的には示されていないようだが。

■『桶川女子大生ストーカー殺人事件』(鳥越俊太郎&取材班 2000 メディアファクトリー ISBN: 4840101590 1,500円)

2004/02/25(水)
〜同じ方向に流される人びと〜

 元交際相手に激しいストーカー行為を繰り返された挙句に殺された女子大生の事件に関する本。彼女とその家族は、警察に助けを求めたにもかかわらず、警察は耳を傾けなかった。それだけでなく、事件後、多くのマスコミはでっちあげの被害者像を報道した。この2つの問題、すなわち「なぜ警察は動かなかったか」「なぜ彼女の実像は歪められ報道されたのか」が本書では書かれている。というか、報道番組『ザ・スクープ』のキャスター鳥越氏が、この事件に疑問を持ち、マスコミを毛嫌いする被害者遺族に接触し、警察の姿勢を報道し、事の真相を明らかにしていく過程がドキュメンタリーとして描かれている。以前読んだ『ニュースの職人』にもあったような鳥越氏の現場感覚がよくわかり、とても興味深い本であった。

 警察の件に関しては、具体的にどのように動かなかったかというと、被害者からの訴えを不適切かつ不当に取り扱い、動かざるを得ない状況にならないよう、内容虚偽の供述調書や捜査報告書を作成していたようである。その理由としては、裁判の判決要旨によると、刑事第二課長は、「捜査に従事した経験がなく、捜査の実務がよくわかっていないことから、自らが事件の捜査を担当することを回避し、すべて部下にこれを担当させ」(p.309)ていたようである。そしてその部下は、「仕事に対する意欲を何年か前から喪失しており、被告人片桐〔道田注:刑事第二課長〕が古参である自分に頭が上がらないことをいいことに、古い事件をいつまでも抱え込み、新しい事件の捜査を積極的に引き受けようとせず、〔中略〕その果たすべき職責をほとんどはたしていなかった」(p.309-310)という状況であったようであろう。何とも恐ろしいという気もするが、どの組織であれ、上にも下にもそういう人間は一定割合いると考える方が現実的なのであろう。もちろんそれで生命の危険が及ぶのではたまったものではないが。

 報道に関しては、メディアの報道が同一方向に暴れ馬のように走り出すいわゆるスタンピード現象という理解であったようであるが、警察の件に比べて本書中での扱いは、あまり大きなものではなかった。

 それに対して、「他人と同じ方向には絶対に流されない」(p.61)というポリシーをもつ鳥越氏率いる取材班は、その逆の姿勢を示していたわけであるが、しかしそれは、鳥越氏のポリシーだけによるものでもなさそうであった。

 たとえば、鳥越氏は自らの直感や感性から、早い段階での被害者の両親のインタビューは無理と考えていた。それに対してプロデューサーは、「報道番組で個人の感覚だけに頼るのは非常に危険な面もある。表と裏をキチンと見せなければ、報道番組にはならない、」(p.149)と考えていたようであった。これは、そのときのプロデューサーの個人的な判断でもあるわけではあるが、しかし、「その慎重さはテレビ局側のプロデューサーとして、むしろ当たり前の感覚だろう」(p.149)と述べられている。そのほかにも、「人間には誰にでも、思い違いや勘違いというものが、必ずある」ので「本当に間違っていないか、可能な限り取材者に確認したい」(p.150)という記述もある。

 このような感覚が「当たり前の感覚」であるとするならば、なぜ上述のようなスタンピード現象が起きたり、森達也氏のノンフィクションに描かれるような無批判的なマスコミ人や番組が生まれるのか、あるいは松本サリン事件のような冤罪事件&報道が明らかになっても、そういうことが繰り返されるのであろうか。ある意味これは、とても不思議である。

 まあそれはおそらく、警察もマスコミもそれ以外の集団も同じなのだろうが、その内部にはさまざまな人がいてさまざまな思惑の元にさまざまな行動をとる、ということなのだろう。警察に関しては本書にも、「〔道田注:キャリア警察官だけでなく〕昔から、ノンキャリア警察官の不祥事や堕落は掃いて捨てるほどあった。しかし、大半の組織使命感に支えられて、仕事の上では機能していた」(p.136)という記述がある。要はそういうことなのだろう。必ず両方のタイプの人はいるのだが、バランスが崩れることがあるという。こういう点について筆者は、次のように述べている。

メディアが多様性を持つことは大事なことだと私たちは思っている。被害者像についても様々な見方があってもいいと思う。しかし、間違っていれば誰かがそれを修正する作業をする必要がある。この修復機能を持たない社会は不健全だ、と私たちは思っている。(p.296)

 ここでいう修復機能と、それが発動されるプロセスというのは、批判的思考そのものであろう。それがなかなか働きにくいのは、メディアや警察だけでなく、警察のように権力や統率力、凝集力のある組織であるとか、メディアのように、同じ方向に向かう競争にさらされている組織では、どこでも起こりうるものだと思われる。

■後期授業の振り返り

2004/02/24(火)

 先週ようやく,大人数クラス(共通教育)の期末試験の採点が済んだ。学生による授業評価と私のコメントはこちら。見なくていいけど。

 今年の採点は,なんだか大変だった気がする。出題傾向は例年並だったはずなのだが,資料持ち込み可の試験にしたせいだろう。やたら記述が長く,まとまりがなくダラダラとしていたのだ。1週間前に試験の予告をしたときには,ある程度準備をする必要があることを言っておいたのだが,どうも十分に準備をしているようには見えない解答が少なくなかった。半分以上の学生は時間ぎりぎりまで書いていたし。

 もし次回,持ち込み可の試験をするなら,総量制限をして,コンパクトにまとめることを要求しないといけないな。でないと,資料にあることを元に,関係ありそうなことは何でも書いてしまう答案になって,読むほうが大変だ。

 しかしこれは,持ち込み可なためにおきた問題なのではなく,もともと彼らは,まとめ,筋道立てて説明する力が弱いのかもしれない。今回の授業では,心理学の研究例を紹介することを通して,心理学的な考え方を説明した。それはまあ悪くなかったと思うのだが,しかし,試験の答案では,その研究例を紹介して終わり,という答案が少なくなかった。研究例はあくまでも素材に過ぎず,その研究を持ち出すことで,出された問いにどのように答えることができるのかが問われているのに,それがなく,研究例と結論を(つながりをつけずに)くっつけて終わり,となっていた。

 おそらくこの点は,かなり意識的に授業中に扱わないと難しいのだろう。次年度にそうするかどうかは別にして。

■『どうして英語が使えない?』(酒井邦秀 1993/1996 ちくま学芸文庫 ISBN: 4480082468 1,000円)

2004/02/20(金)
〜一対一対応させるから〜

 『快読100万語!ペーパーバックへの道』の著者の前著。主張が明快だし、多読の意義ともスムーズにつながっており、分かりやすい。

 我々が長年英語を習ってもそれが使えないのはどうしてか。それは一言で言うと、英語を日本語と「一対一対応」させようとしているからである。たとえば英和辞典。そこに書かれているのは、water=水、というような対応する日本語である。waterが水だけを表すのではないことはよく聞く話だが、しかしだからといって、訳語を増やせばいいわけではない。「訳語をどんなにふやしても、さまざまなずれが重なっていよいよわけが分からなくなるだけ」(p.40)だと筆者は言う。大事なのは、訳語候補をたくさん並べることではなく、その根本イメージが繋がるような意味を明確にすることである。考えてみれば、国語辞典に書かれている情報はそうだし、英英辞典でもそうである。そうするのではなく「訳語」を並べるのでは、それはどんなに分厚くても「辞典」ではなく「単語帳」に過ぎない、と筆者は言う。あるいは、「英和辞典が並べている訳語は、実は見出しの単語と同じ意味の単語ではなく、似た意味を持った「類義語」にすぎない」(p.42)とも書いている。言われてみればその通りだ。

 このような一対一対応の弊害は、辞典=単語レベルだけではない。英語のあらゆる要素に渡っているのである。そのことを筆者は次のように言う。

日本の学校英語に巣食う一対一対応の症状をまとめてみましょう。/まず音がすっかり日本語化しています。一つ一つの音にも、音と音のつながり方についても、日本語の音の癖が入りこんでいます。/単語や句については、代表的な訳語というものが決まっています。/文のレベルでは構文なるものが存在していて、それを訳す方法が公式化されています。/文法もまたみごとに公式化され、意味を無視して分が分析され、日本語の構造に組み直されています。(p.188)

 このように対応づけられた結果、本来は文脈によって意味が変わるはずの単語や句や文が孤立して扱われている。それは「コンピュータでいうプログラム言語にきわめてよく似て」(p.188)いる。これもいいえて妙である。あるいは「学校英語は古いどころか、過去に使われたこともなければ、これから使われることもない「架空の英語」だということです」(p.137)とも言っている。

 このような状況に対応する手段として、筆者は多読/多聴を推奨する。

対抗する手段はただ一つ。目と耳から大量の英語を注ぎこむことだとわたしは思います。せっかく注ぎこんだのだからと、体の中にためこんではいけません。どんどん注ぎこんで、どんどん忘れます。そうやって大量の英語が頭の中を通り過ぎていくうちに、こびりついた汚れが少しずつ洗い流されていくはずです。(p.236)

 つまり筆者は、多読しても、入ってきた単語などを無理に覚える必要はないという。私は、多読をしながら、なんだか何も残っていないような気がしてちょっと不安になっていたのだが、どうやらそれでよかったようである。ちょっと安心。「理解」についても筆者は、60%の理解度でいいから100%理解するときの1/10の時間で読め、という。多読をする際に私は、スピードを重視するあまり、内容理解がちょっとおろそかになっている部分があり、不安になっていたのだが、その点についても、本書の記述で気持ちが少し楽になった。ちなみに、TIMEクラスの英語を60%の理解で読もうと思うなら、各パラグラフの冒頭の文だけ読めばよく、最後の文も読むと、80%の理解になるという(p.315)。もちろん、足りない部分は常識や知識で補わないといけないのだが。こういう明快な指針を示す点も、この筆者の魅力だと思う。

 ということで本書は、多読前でも最中でも読んで役に立つ本であった。

■英語の多読を始めて2ヶ月

2004/02/18(水)

 『快読100万語!ペーパーバックへの道』という本の存在を知り,英語の多読を始めてから,約2ヶ月が過ぎた。その間に思ったことなどを。

 この方式の多読とは,「辞書は引かない」「分からないところは飛ばして前へ進む」「つまらなくなったら止める」の3原則の下に,辞書を引かなくてもわかるやさしい本から順に読んで行くことで,自然に英語がスラスラと楽しく読めるようになる,というものである。

 現在私は,2ヶ月で41冊読み,総語数は26万語ほどになっている(再読本を含めると30万語ぐらいか)。本は,基本語彙200語レベルの本から始め,現在は基本語彙1000〜1200語レベルの本を読んでいる。そして結論から言うならば,なかなか悪くない方法だと思っている。

 悪くない理由の一つは,体を通して理解できる点。難しい英文を,頭を通して(辞書を使い難文を文法的に解析しながら)読むよりも,はるかに身になっている気がする。そもそも私は,ここ4年半ほど,読書記録をつけながら日本語の多読をしているわけだが,それなりに読書スピードは上がっている。実はあるとき,「日本語の本を読むつもりで読めば,英語(主に論文)もスラスラ読めるんじゃないか」と思って試したことがある。しかし全然ダメだった。やはり英語が速く読めるようになるためには英語で多読しないといけない。当たり前のことだが,それが良くわかった。そして英語の論文なども、読むスピードが上がった気がする。分からない単語があまりない場合と難しい構文がない場合に限るのだけれど。

 もう一つ,この方法がいいなと思う点は,「自分の身の程を知ることができる」点。実は私は以前,ペーパーバックを買って読もうとして挫折した経験がある。しかし,このやり方をやってみると,それがいかにとんでもないことかがよくわかった。なんせ,基本語彙600語とか1000語レベルの本でさえ,はじめはすらすら読めないことを身をもって経験させられるので。ペーパーバックを読もうとしたことがいかに無謀かを気づかせてくれた功績は,冗談抜きで大きい。


[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'04] [索引] [選書] // [ホーム] [mail]