読書と日々の記録2004.3上

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■読書記録: 15日『市民の政治学』 10日『ついていったら、こうなった』 5日『美術の解剖学講義』
■日々記録: 14日MP3プレイヤー 7日頭足人を描く3歳児 2日柔軟にコーヒーを淹れる

■『市民の政治学─討議デモクラシーとは何か─』(篠原一 2004 岩波新書 ISBN: 4004308720 700円)

2004/03/15(月)
〜自律した市民を育てる〜

 現代を、「脱成長社会という新しい時代」(p.ii)、あるいは「第二の近代」と考え、そこに「われわれ市民がつくろうとしている社会や政治がどのような形態をとるか、あるいは、とりつつあるか」(p.vi)を分析した本。とても面白かった。

 本書から得た興味深い知識はとても多い。何せ、近代の見取り図を中世から描いていたり、近代の構造を経済軸(資本主義−産業主義)と社会軸(個人主義−近代国家)と科学という柱ですっきり説明していたり、「第三の道」(『市場主義の終焉』に出てくる)のバリエーションが紹介されていたりするのだから。しかしそういうところは長くなるので涙をのんで割愛し、私が本書のポイントだろうと思う箇所を抜書きする。

「第二の近代」ではおそらくこのような自律的市民層とポピュリズム予備軍の対抗という社会構成図が現出するのではないかと思われる。(p.152)

 これが、「どのような形態をとりつつあるか」に対する筆者の答えのひとつだろうと思われる。もう少し手前から説明すると、まず、近代においては、個人が確立され人権が拡大されると同時に、組織が次第に力を失うという、良くも悪くも「個人化」が進んだ時代であった。個人化が進むことは、「個人の原子化・断片化をすすめるという負の側面をもつと同時に、多くの自己実現派市民の創出というプラスの側面をもつ」(p.152)と筆者は考える。

 前者(負の側面)は、「個々バラバラの個人は横の関係でも、縦の関係でもつながりを失いつつある」(p.130)という、まあよく言われる状況のことである。それに対してプラスの側面である後者は、第二の近代では社会運動が個人化した結果、「自分自身の生きがいと自分自身を取り戻す能力を求めるように」(p.62)なり、「それを行うことが自分にとって意味をもつ」(p.62)、つまり自己実現を求めるものになった、ということである。

 政治に関しては、第二の近代における対立軸は、第一の近代のような社会配分(資本主義政治−社会主義政治)だけではなく、第二の軸として、リバータリアン軸(「自由意志を尊重するか、権威主義かの軸」)(p.152)が存在する。後者に対応するのが、原子化・断片化された個人の人気を集めるポピュリスト右派である。それは、「バラバラに原子化された現代のピープルに対しては、断定的な言葉と約束とスタイルをふりまく政治家は、その実現のほどは別にして、むずかしい判断を省略させてくれるという利点」(p.142-3)がある。それに対する前者の「自律した市民」を育てるための方策として筆者が重要視するのが、サブタイトルにある「討議デモクラシー」というわけである。

 討議デモクラシーとは、「市民社会を中心にした民衆(デモス)による参加と討議のデモクラシー」(p.188)であり、現在一般的である「代議デモクラシー」とは異なる、第二のデモクラシーの回路である。それは、住民投票などの直接民主制や市民立法などだけではなく、たとえば「一定のテーマについて、ランダム・サンプリングによって選ばれた参加者が、少数のグループによる討議を繰り返した後で、意見の調査をする」(p.160)といった市民フォーラム的な形をとる。その形態はこのような純粋討議による意見調査的なものだけでなく、政策提言なども行われる。それは直接の政策決定にはならなくても、「第二の回路の討議によって第一の決定に正統性が与えられる」(p.185)というように、代議デモクラシーを補完し、場合によってはコントロールする位置づけとなるのである。

 最近読んだ本で言うと、『絶望から出発しよう』は「官僚エリートと遜色ない数の市民エリートを輩出することが必要」と述べられていた。本書でいう討議デモクラシーを支えるのは、「完全な判断のできる市民」ではなく、「それなりの市民」である。その意味で本書は、宮台氏とは違う立場から、市民を位置づけようとしているのだといえよう。そのような「それなりの市民」による政治活動に関する本としては、『〈政治参加〉する7つの方法』が近いのではないかと思う。もっともこの本と違い、本書で提唱されているのは、代議デモクラシーと討議デモクラシーを制度的につなぐ、ということなのだが。その話と、それに至るまでの歴史的な話のつながりが悪くなく、政治のこれまでとこれからについて考えることのできる、興味深い本であった。

■MP3プレイヤー

2004/03/14(日)

 先月、MP3プレイヤーを買った。これまで使っていた機種を買ったのは2年半前である。2年半、欠かさず使っていたわけではないが、しかし、通勤時ウォーキングのお伴として、結構愛用した。

 今回は、もう少し容量が多いものを、という理由でHDD内蔵型にした。muvo2(1.5GB)という機種である。最近は4GBの製品も出ているのだが、このところ入手しにくいようだし、1.5GBのものが安くしかもすぐに買えたので、買ってしまった。

 前の機種の容量は64MB、スマートメディアを増設して128MBで使っていた。今回はその10倍以上の容量だし、値段は前のものの2/3以下なので、まあ文句はない。両者を比較すると、大きさはほぼ同じ(厚さは新しいものの方が厚いけど)。前のものが、乾電池駆動だったことと、スイッチ類が側面についている点が便利だった。新しいものは新しいもので、これから使い方を模索していかないといけないかなと思っている。

 前のものは128MBだったので、CD2〜3枚分しか入らなかった。だから、聞く曲を厳選して、毎日同じものを聞き、月に何回か入れ替える、という使い方だった。しかし今度の葉、CDが20枚ぐらいは入りそうなので、今は適当に目に付いたものをちょっとずつ入れている。

 せっかくだから、適当に入れるものを10枚程度と、比較的固定する定番ものを10枚ぐらいに分けようかと思っている。CDは、最近はあまり買わないのだが、15年ぐらい前は、クラシックを中心に月に数枚のペースで買っていた時期もあり、全部で250枚ぐらいあるのではないかと思う。最近はそれを眺めながら、どれがMy定番かなあと考えている。ジャンル別に選ぶことにして、取り敢えず交響曲は、ベートーベンの交響曲7・8番(アバド/ウィーンフィル)か、ベートーベンの交響曲6・4番(ワルター/コロンビア交響楽団)かな。もし気が向けば、My定番選びを月に一回ぐらいWeb日記上でするかもしれない(しないかもしれない)。

■『ついていったら、こうなった─キャッチセ−ルス潜入ルポ』(多田文明 2003 彩図社 ISBN: 4883923894 1,200円)

2004/03/10(水)
〜同じパターンで勧誘〜

 サブタイトルおよびタイトルどおりの本。あやしいキャッチセールスやダイレクトメールなど20箇所についていったり申し込んだりしたらどうなったかが書かれている。ついていったのは、絵の即売会、キャッチ系英会話教室、無料エステ、頭の回転がよくなるテープ、先物取引、あなたの原稿が本になる、在宅ワーク、出会い系クラブ、幸運のペンダント、悪質芸能事務所などである。まあ、すべてが「ついていった」ではなく、メールによる怪しげなお誘いに乗ったものとか、広告を見てこちらから連絡をいれたものもあるのだが。

 著者略歴によると、これまでに勧誘先に潜入した数は60以上だそうだが、それだけ潜入した結果、筆者は「勧誘の流れがいつも同じパターンで終始して」(p.5)いる、と述べている。というのは、それぞれ入り口は違うが、マニュアルを用いて契約締結まで一気に持っていこうとするので、そのやり口は似てくるのだという。具体的には、「無料」その他の敷居の低い入り口、不安感やお得感や幸運感をあおりつつ、より高額な商品を持ち出し、「運命の出会い」を強調したり「即決」を迫る「一期一会トーク」(p.31)。断ろうとすると「脅しトーク」(p.60)で、こちらが根負けしたり弱気になったりするのを待つ、という具合だろうか。

 このような商法に対抗するには、筆者は「勧誘のプロである相手のペースに乗らないためにクールダウンの要素として「疑い」を持つことは重要」(p.117)とか「相手のペースに乗らず、こちら側からいろんな質問をしてみるのも手」(p.185)と、疑問や質問の有効性を述べている。それは結局、「適度な距離をとって客観的に眺め」(p.138)る役に立つのであろう。

 そういう意味では、それ以外にも、本書のようにその手口を知ること、そして、その「トーク」に名前をつけることも有効だと思う。名前をつけることの効用は、『「超」文章法』『思考のレッスン』にもあったと思う(読書記録には書いてないけど)。

 なお、勧誘のパターンが同じとはいっても、もちろんモノによる違いはある。たとえば「幸運のペンダント」は、効果がなかったので返品したところ、「気味が悪いほどあっさりと受理され、支払った金額も戻ってきた(ただし送料は自己負担)」(p.158)という。へえ、良心的じゃん、と思いならが読んでいたら、「数日後から私のところには聞いたこともない会社から、金運がよくなる財布だの、幸運のダルマだの、開運グッズのダイレクトメールがひっきりなしに送られてくるようになった」(p.158-9)という。こんなケースがあるとは考えもしなかった。そういう世界を気軽に垣間見るのには、悪くない本であった。

 #こんなWeb日記あり。そういえば、市川伸一先生も大学のときに「ついていった」ことがあることが、『心理学って何だろう』に書かれていたことを、これをみてふと思い出してしまった。

■頭足人を描く3歳児

2004/03/07(日)

 子どもが頭足人を描くのを見たいと思って、上の娘が3歳8ヶ月のときに見てみたら、もう時すでに遅く,胴体つきの絵を描いていた、という日記を2年前に書いた。ただしそのときに描かれた絵は、頭の横から手が生えていたので、それを「頭手胴足人」と名づけた。図示すると、こうなる。

 最近、下の娘(3歳6ヶ月)が盛んに絵を描いてくれる。それを見ると、見事に頭足人になっている。ようやく見ることができた。もっとも、下の娘の場合も、頭の横から手が生えているので、頭手足人というべきか(たぶん学術的には適切な表現ジャナイだろうけど)。

 しかし、今、下の娘が描く絵は、上の娘のマンガ絵の影響を受けてか、頭足人の中に描かれる目の片方がウィンクしていたりする(手には風船も持っている)。ちょっと3歳児っぽくない頭足人である。

 あと、最近、下の娘は、興に乗ると、どんどん絵を描く。今も、「パパの顔を描いてみて」とリクエストしたところ、すぐに描いてくれたので、こうして私は日記を書き始めたわけだが、その間も下の娘はどんどん新しい紙を取りに来ては新しい絵を描き、私のところにもってきてくれた(すでに5枚目)。

 どれも私の顔のようなのだが、中には、顔が四角く描かれているものもある。なんで四角なの?と聞くと「パパがハコ」と答えてくれた。パパが箱になった、ということなのだろうか。なかなか独創的でステキである。

 姉の絵を見て影響を受けるということは、4月から幼稚園に行き始めたら、きっとまた絵の描き方が変わるに違いない。そのときが楽しみである。

■『美術の解剖学講義』(森村泰昌 1996/2001 ちくま学芸文庫 ISBN: 4480085998 1,000円)

2004/03/05(金)
〜美術≒科学〜

 セルフポートレイトを得意とする芸術家による、美術についての講義。講義といっても、漫談的で読みやすい。漫談的とはいっても、奥が深い。芸術家的な発想や、写真の見方や、現代芸術やら、筆者がやっているセルフポートレイトの考え方などについて知ることができる。

 なるほどと思った点がいくつかある。たとえば、「一枚の絵がわかるというのは、〔中略〕人それぞれの好きになり方を発見していくこと」(p.94)というのはナルホドだった。そして筆者自身、マドンナに化けるセルフポートレイトを作る過程で、「左眉が上がっていないとマドンナにならない」ことを発見し、「この発見以来、やや誇張していうと、私の持っている世界地図がかわってしまいました」(p.108)と述べている。つまり、眉に注目して女優を見るようになったというのだ。「世界ががらっとかわって見えてくるのは、やっぱり発見の醍醐味」(p.108)という。

 これって、学ぶことや科学することにおける発見に似ているな、と思っていたら、絵画と科学はおなじ時代精神の産物、という記述があとのほうで出てきた。絵画も科学も、「「見ること」と「見られること」との分業、および「見るもの」による「見られるもの」の所有という約束事にもとづく精神」(p.203)だというのだ。ここでいう「見るもの」とは、画家であり科学者である。「見られるもの」とは、絵画や科学の対象となっているもののことである。そして絵画で言うと、その行為は「ぼんやりながめているだけでは定めがたい対象物を、カンバスという道具をさしはさむことによって、鮮明に見えるように鑑賞者に提示し、多くの発見の喜びを与え、私たちの心を豊かにしていった」(p.191)とまとめることができる、そしてこれは、科学者が自然の中に法則を見出し発見という喜びを与えてきたのと、まったく同じなのである。これはナルホドであった。

 そして、話がここで終わらないのが面白い。筆者はさらに、「見る−見られる」という関係とは違って、所有の意識を放棄する「見つめる」という第三の視線があるのではないか、と述べている。それは「バードウォッチング」の視線であり、美術でいうと「セルフポートレイト」の視線である。筆者が述べているのはここまでなのだが、これって科学で言うと「(参与)観察」する、フィールドワーカーの視線かもしれない。正確に言うと、科学における「対象の予測・制御」という視線を除いた、「理解」の視点だろうと思う。

 最後に筆者は、視覚芸術の歴史的な流れとして、「建築の時代→壁画をへて絵画の時代→絵画の夢としての写真の時代→絵画・写真の所有感覚から映画の共有感覚の時代→テレビをへてコンピュータの時代」(p.217)へと変遷していることを論じている。そしてこの変遷について、「新たな美の生成はいつも、過去への複雑な想いが出発点であった」(p.239)とか、「過去に向けられたベクトルを未来形に宙返りさせる奇跡がやってきて、美は新たに復活する」(p.239)と、過去の再生として未来が生まれることを論じている。これって、上にある絵画と科学の関係からすると、科学の変遷も、芸術の変遷と同じように捉えることが可能かもしれない。あまりきちんと考えて書いているわけではないのだけれど。

■柔軟にコーヒーを淹れる

2004/03/02(火)

 最近の我が家のブームは「コーヒーをじょうずに淹れる」ことである。

 元はといえば、昨年末に、コーヒーメーカー用のサーバーを妻が割ってしまったことに端を発する。普通に売っているサーバーは背が高すぎるので、コーヒーメーカーでは使えない。しょうがないので、コーヒーメーカーを使うのは諦めて、手持ちのサーバーにコーヒーメーカー用のドリッパーをつけて、ヤカンや急須で淹れていた。しかしさすがに、それではうまく入らない。

 妻がそういう話を、いきつけのコーヒー豆屋さんにしたところ、コーヒー用の細口のポットが4000円であるという。それを聞いたとき私は、高いし、手で淹れるのは手間もかかるし、その値段なら新しくコーヒーメーカーを買ってもお釣りが来るのではないか、と思い、内心反対だった。しかし妻は、手で淹れる決心をしたらしく、そのうちにそのポットを買ってきた。まあうちでコーヒーを淹れるのは半分以上が妻なのでしょうがない。

 しかし、最初はなかなかうまく淹れられなかった。それで、ネットで調べたり(私が見た中ではここが一番詳しかった)、コーヒー豆屋さんに手本を見せてもらったりし、毎日、うまく淹れられたり失敗したりしながら、少しずつ失敗が少なくなってきつつある。まだまだゼロにはならないし、何よりも、現在は、取り敢えず「不味くなくはいった」というレベルで、自分の好みの味を自在に演出したりはできないのだけれど。

 面倒かとは思ったけど、少なくともこの1ヶ月に関しては、だんだんうまくなるのが目に見える時期でもあり、けっこう面白かった。時間がかかるかと思ったが、しかしそれもせいぜい3分程度。まあこれなら、楽しみの一つということができる。

 ただ、なかなか理想どおりにいかないことも多い。たとえば、ペーパーフィルターはドリッパーに密着させるのが理想なのだろうが、うちが使っているドリッパーとフィルターは形が違うのか、ピッタリ密着しない。これはちゃんとメーカーを合わせて買うしかないか、そう思っていた。で先日、コーヒー豆屋さんにそのことを話すと、「フィルターの折る幅や角度を変えれば、密着させることはできる」とのこと(今気づいたのだが、上記のページにもそのことは書かれている)。言われて見れば当たり前の話で、フィルターの端の形に沿って折る必要は何もないのに、考えなしにフィルターの形に沿って折るのを当然と考えてしまったようだ。考えが浅かったというか。まあ、慣れない分野では、柔軟に考えるのは難しいということなのだろう。これも当たり前の話なのかもしれないけれど。


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