読書と日々の記録2004.5下

[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'04] [索引] [選書] // [ホーム] [mail]
このページについて
■読書記録: 31日短評4冊 30日『オウムと私』 25日『自白の心理学』 20日『ハーヴァード・ロー・スクール』
■日々記録: 26日ヘルニア再発

■5月の読書生活

2004/05/31(月)

 今月も、特に前半は忙しく、なかなか読書に当てられる時間が取れなかった。病院の待ち合いで冊数を稼いでなんとかこれくらいである。英語の多読は1ヶ月以上していないし、日々の記録も1回しか書けなかったし。

 今月よかったのは、『超MBA式ロジカル問題解決』(なるほどビジネスのコンサルタントってこう行われるのか)、『ハーヴァード・ロー・スクール』(なるほど法科大学院でのソクラテス方式はこう行われるのか)、『オウムと私』(なるほどこうやって踏みはずしていくのか)、あたりか。今月は他の本も悪くなく、冊数が少なかった割には読書記録には困らなくてよかったのだけれど。

『あめりか記者修業 改版』(鳥越俊太郎 1984/2003 中公文庫 ISBN: 4122041937 781円)

 鳥越氏が、42歳にしてアメリカの地方新聞社に1年間修行にいったときのことを記録したもの。アメリカでの体験が、エッセイとしてごっそり書かれている。それはそれで悪くないのだが、しかし筆者が「発行部数8000のローカル紙フリープレスにアメリカジャーナリズムの原点を見た」(p.195)と書いている、「原点」とはどの辺を指すのかは、今ひとつよくわからなかった。とはいえ本書は、年取ってから海外で修行しようという人には悪くないかもしれない。

『人生を物語る─生成のライフストーリー─』(やまだようこ編著 2000 ミネルヴァ書房 ISBN: 4623032477 \3,000)

 再読。今月は忙しく、あまりじっくり再読はできなかった。昨年疑問に思った点については、少し考えたが。それは、やまだ氏によるライフストーリーの3分類(類型化に向かう素データとしてのライフストーリー、それ自体を典型事例として生かすライフストーリー、質は「質」として生かし,モデル構成によって一般化をめざす方法論)についてである。この第3のものの具体イメージが沸かなかったのだが、これって、この3つの並列するのは適切ではないのではないかと思う。第一のものにしても、類型化のあとに一般化はありうるわけだし、第二のものも、典型事例から一般化への道はありうる。すくなくとも本書でやまだ氏が書いているものは、「典型事例」から「一般化」へという、第2→第3の道であるように見えるし、前回も今回も読んで面白かった能智氏のものは、第1→第3の道を目指しているようにみえる。逆に言うなら、第1や第2の道で止まっている研究もあるのだろう。そういうものをみることができるなら、もう少し3つのライフストーリーの位置づけが判るような気がする。まああまり深く読み込んでいないので自信はないのだけれど。

『螺旋階段のアリス 』(加納朋子 2000/2003 文春文庫 ISBN: 4167673010 \499)

 ルイス・キャロルのアリスをモチーフにした、連作短編ミステリー。面白さは、○(面白い)〜▲(まあまあ)というところか。7編中、「子供部屋のアリス」だけはちょっと面白かったけど。

■『オウムと私』(林郁夫 1998/2001 文春文庫 ISBN: 4167656175 \789)

2004/05/30(日)
〜大文字から小文字へ〜

 元オウム信者にして地下鉄サリン事件実行犯の一人である筆者による手記。当時、「慶応大学医学部でのエリート医師がなぜ?」的な言われ方をしていたのではなかったかと思う。そのことに関しては、筆者の心情を考えながら本書を読むことで、ある程度理解できるのではないかと思う。もちろんそれは、「私はなぜ犯罪に手を染めたか」について、筆者自身が自分で考えたストーリーなのだけれど。

 まず筆者は、高校生の頃までに、「人生のテーマ」なるものを考えている。そのテーマとは、「自分の力では解決できず、またとらえどころのない問題も含めて、世の中のすべてを包括的に総合的に説明できて解決に導くような法則」(p.21)を求め、理解し、身につけ、人びとに説いてまわる、というものであり、それは大きくまとめるならば、「自分のためにだけではなく生きたい」(p.21)という思いである。のような考えから、医師になる決心も行っているのである。

 それ以降のことは、私なりに大まかにまとめるが、まず、そのような法則は「釈迦の教えのなかにこそあるのではないか」(p.33)と考え、阿含宗と出会い、修行を行う。しかしなかなか成果が上がらず、不満を感じているところに、「最終解脱者、出家集団、成就解脱というような、具体的修行と救済への意欲に力点が置かれたキーワード」(p.83)を持つオウムと出会い、家族で出家するのである。出家前も出家後も、オウムが本物であるとか、麻原が解脱者だと「確信させられていくエピソード」(p.159)がいくつかあり、筆者が、「おかしいぞ、という思いはあったとしても、それが麻原への懐疑につながることはありませんでした」(p.129)と述べているように、すべては、麻原の宗教性に対する信頼を確固なものにし、「解脱者、困難な時代の救済者というイメージはふくらんで」(p.167)いく方向に解釈されていくのである。

 またこれは、「どちらかというと、すぐに感心したり、感動したりしてしまう」(p.258)と筆者自身が述べている性格も関係あるかもしれない。さらに言うならば、解釈の難しい言動を、麻原の宗教性を前提に解釈できる筆者の知的能力の高さも関係しているかもしれない(関係しないかもしれないけど)。たとえば筆者は、あるとき麻原に「「池田大作を、サリンでポアしようとしたが失敗した」」(p.199)と言われているが、結局筆者はそれを、「麻原の行為はすべて宗教的な意味合いがある」(p.205)ことを前提に肯定的に解釈するのである。まあ本書には、そのような事例がたくさん挙げられているわけだが、そのような記述とは要するに、なぜ当時の自分がそれらを肯定できたのかを、マインド・コントロールから脱した者として「解釈」しているわけで、そういう意味では本書は、入信中も改心後も筆者が一貫して示し続けている解釈能力の高さを示した本、と言えなくもないように読みながら思った。

 ということで、筆者の人となりと半生をまとめてみたが、最初の疑問「なぜ彼が」についてはどうなるであろうか。彼の半生をさらにまとめるならば、

  1. 人生のテーマを実現するには解脱
  2. 解脱のためには麻原への絶対的帰依

という図式になるかと思う。ここから問題を見つけようと思えば、いくらでも見つけることは可能であろう。たとえば解脱などできるわけない、などと。しかし、そのような、ある常識から判断を下したり批判することは、あまり生産的ではないように思われる。というのは、彼(ら)は彼(ら)なりの考えなり常識に基づいて判断を行っているからで、そういう言い方をしてしまうと、信念や好みの問題になってしまうからである。

 あるいは「思考停止」がよくない、という言い方も可能であろうが、それも私には生産的な指摘であるようには思えない。それは、われわれも多くのことに思考停止している、というだけではない。確かに筆者の行動は、一言でまとめるならば思考停止であろうが、筆者は「当時の私は自分自身では正常人で、なにごとも自ら選択し、決定し、行動しているのだと思っていました」(p.372)と述べている。つまり投じの筆者は当時の筆者なりに考えている部分もあるわけで、逆に私たちは私たちなりに思考停止していることも多い。いずれにせよ、自分で考えていると思っている(あるいは自分の周りの人にもそう思われている)という点では、筆者とわれわれを分けるものはないのではないかと思う。

 長くなってきたので手短に述べると、最終目標(人生のテーマ)の是非は措くとしても、それを具体目標なり中間目標にしていく時点で、最終目標との関連が薄れたり離れていっている点はあるように思われる。はたから見ている人間だからいえることだろうとは思うが、現在の時点や中間目標と最終目標の関係は、常に問われるべきだったかもしれない。実際われわれでも、何かを実現するために具体目標や中間目標を置くことは多い。その際に、今やっていることが最終目標とどう関わり、どう近づいて言っているかを問うことは、何事においても重要なのだろうと思う。

 なお筆者は、入信中に他者をどう捉えていたかについて、次のように述べている。

思い返してみると、オウムにいたころの私は、社会生活の生々しさから隔離された状況下で、救済の対象となる大切な個々人を麻原が一括りに「現代人は」といい切ってしまって、あたかも「新聞の大見出し」のように細かい解説・説明なしの抽象的な存在としてみることに、いつの間にか慣らされてしまっていたのでした。これは麻原の心象風景そのものであり、まさに「共感」が希薄で、現実認知の能力の育ちにくかったゆえの結果ともいえます。(p.466-7)

 ここには私の最近のテーマである「大文字−小文字」的理解の問題が出てくる(あるいは神の視点−当事者の視点)。このように、他者を一括りに、抽象的に新聞の大見出し的に捉える、というのは、私たちもやることだし、心理学をはじめとする社会科学でも行われていることである。その危険性がここにはよく現れている。

 そして見事にこれに対応するように、筆者は小文字的に、当事者の視点が理解できて初めて、麻原の宗教性を相対化することができたようである。そのときのことを筆者は次のように書いている。

(自分がまいたサリンでなくなった)「高橋さんと菱沼さんの家族のことが浮かび、その家族にとっては、かけがえのない夫や父親が突然いなくなり、なぜ死ぬことになったのかもわからず、どんなに驚き、悲しんでいるだろう、私は、その人たちすべての人生を狂わせてしまったと思いました。〔中略〕一人一人を中心に、縁によって悲しみが広がっていく。悲しみが色となって、その果てしない人の縁の広がりを染めていく。そのようなイメージが見えたように思いました。/その瞬間、この現実の前には、ポアなど成立しないし、何の意味ももたない、麻原は間違っている、とわかったのです。」(p.565)

 これはおの一つ前の引用と対比すると、具体的に一人一人を捉えた、小文字的な理解になっている。一般的にどちらがよい、ということはないのだろうが、少なくとも筆者の「人生のテーマ」のような目的にとっては、当事者の視点で理解し考えることが重要であったはずである。もちろんこれは「人生のテーマ」だけではないし、このケース同様、小文字的理解が本来必要であるにも関わらずそうされていない局面は、たくさんあるように思われる。

■ヘルニア再発

2004/05/26(水)

 1年前から原因不明の腰痛が続いているが、これまで、大きな痛みはなかった。むしろ最近は、小康状態で、動作に工夫を凝らせば、日常生活にさほど支障がないぐらいに回復していた。それで、もうこのまま良くも悪くもならずにずっと行くのかも、と思っていた。ところが甘かった。

 月曜日、午後の講義終了後から腰が痛み始めた。歩けないことはなかったので、職場から自宅までは15分ほど歩いて帰ったのだが、それからも痛みが強くなり、家の中では、歩くよりも這う方が楽なほどだった。昨日も朝から痛く、歩くのは無理かと思った。何せトイレに行こうと思ってから実際にたどり着くまで、10分ぐらいかかるのだ。動けないわけではないけれど、下手に動くと無理な力がかかって、激痛に襲われたり、変な風にひねって本当に動けなくなるのではないかと思い、恐る恐るしか動けなかったのだ。

 それでも頑張って身支度を済ませ、病院に行った。昨日はどうしてもはずせない用事があったので、職場に行ったが、今日は年休を取って休みにした。歩けることは歩けるのだが、30分も座りっぱなしていると、痛みが倍増するのである。それで今日は、極力横になってすごすことにした。もっとも、下の娘(3歳8ヶ月)が熱があり、いっしょに休んだので、ゆっくり落ち着いて寝てばかりいるわけにはいかなかったのだが。

 こういう痛みは、憶えているかぎりでは、3年ぶり4回目である。忘れないよう、理学療法士さんに聞いたことなどをメモをしておこう。

 昨日は、出掛けに急遽思い立って、傘を持っていったら、これは正解だった。杖代わりだ。ヘルニアは、ここ10年ほど、数年おきにやっているので、本物の杖が一つあってもいいかもしれない、と思った。杖なんてどこに売っているのかわからないのだけれど。今朝は仕事に向かう妻に、「杖買ってきて」とお願いしておいた。明日は仕事に行くつもりなので、是非欲しいと思ったのだ。どこでどのような杖を手に入れてくるか、楽しみにしている。

 #おっと、パソコンの前に座るのも30分以内にしなくちゃ。

■『自白の心理学』(浜田寿美男 2001 岩波新書 ISBN: 400430721X \735)

2004/05/25(火)
〜関係の磁場から生まれるうそ〜

 実際に起きた冤罪(疑い)事件4つを題材に、虚偽の自白について論じた本。扱われている題材は、宇和島事件、甲山事件、仁保事件、袴田事件で、それらを通して、ウソとは何か、自白への転落過程、自白内容の展開糧、自白の虚偽判別法について論じられている。全体的な感想を言うならば、同じ著者による『〈うそ〉を見抜く心理学』の方が私には興味深かった。これはあくまでも比較の話で、本書にももちろん興味深い点はあったのだが。

 筆者は、関係論(反個体能力主義)の立場に立つ発達心理学者である。そのような、関係−個体という対比が、本書で扱われている「うそ」にも論じられている点は、興味深かった。「うその個体モデル」とは、「うそは自分勝手な思いで、自分自身の利益のために、自分の側から積極的に他者をだます」(p.51)という、うその原因が個体内に存在すると考えるモデルである。それに対して、「うその関係モデル」とは、「うそが関係の磁場のなかで生まれる」(p.54)というモデルである。そして、冤罪事件の多くは「関係の磁場」、すなわち、取調官と被疑者という力関係の中で虚偽の自白を取り調べの場で強いられることから生じているのである。そのことを筆者は、次のように述べている。

うその自白をとるのに直接的な拷問はいらない。その磁場のもとにひたすら長くとどめるだけで、まずたいていの人は自白に落ちる。それこそが、むしろ心理学的に自然な人間の姿だといったほうがよい。誰もがそうした弱さをかかえているのである。(p.105)

 また、「自分の側の利益だけを全面に出してつく詐欺的なうそは、自分の側が主導権を握って、関係の場を能動的に支配しようとする一つの極端例」(p.54)として、すなわち「うその関係モデル」の一バリエーションとして理解できるという。これはなるほどであった。

 ただし本書では(私にとっては、この筆者の本にしては珍しく)疑問に思える記述もあった。ある冤罪事件で、被疑者に面会に来た父親が帰った後で、取調官が「お父さんが帰りの車の中で溜息をついた。それはあなたを疑っている溜息だ」という趣旨のことを被疑者に述べたという。それに対して筆者は「溜息を聞いただけで、その背後の思いまで知ることができるはずがない」(p.82)とコメントしている。それはもっともなことである。しかし別の箇所で、取調官の問いかけに被疑者が即答しなかったことを指して、「そのためらいの意味が、取調官にはわかっていない」(p.134)と筆者は述べているのである。ここはちょっとおや?と思った。

 もちろん筆者なりに、「溜息の意味が分かるはずない理由」も「ためらいの意味が分かるはずの理由」も述べられているし、それは一理あるようにも思われる。しかし、後者のような例は、これだけではなく、本書で筆者は、当事者の視点というよりは、(事件を冤罪と知っている)神の視点をとって述べているかのようにみえる箇所がいくつかあるのである。その点が少し気になった。もっとも、自白問題は「泥沼の世界でもあった」(p.204)と述べる筆者に第三者が気楽にこのようなことを言うのもはばかられるのだが。

■『ハーヴァード・ロー・スクール─わが試練の1年─』(スコット・タロー 1977/1985 ハヤカワ文庫 ISBN: 4150501149 621円)

2004/05/20(木)
〜新兵訓練としてのソクラテス方式〜

 ロースクールで一般的に行われているという「ソクラテス・メソッド」について知りたくて読んだ。筆者は、ロースクールに入る前は、大学で文芸創作を教えていた人で、本書は、彼がハーヴァード・ロー・スクールに入学し、最初の1年の日記を元に、ハーヴァード・ロー・スクールがどのようなとこであるかを書いたエッセイである。筆者は現在は弁護士だが、『推定無罪』などの小説も書いている。

 まず結論から言うと、ソクラテス方式は、私がイメージしていたような方法とはまったく違っていた。本書(の、おそらく訳注)でも、ソクラテス方式は、「問答をくりかえすことにより、問題解決の道を見出す方式」(p.12)と書かれている。しかし、ロースクールの授業で行われるソクラテス方式は、本書を見るかぎり、「問題解決」を目指したものではなさそうである。

 「教授によって授業の方式はかなり異なる」(p.51)そうなのだが、「たいがいの教授は、一学生の最初の応答を出発点としてある問題について短時間の講義を行い、そのあとで再び質問を続ける」(p.52)という形をとるようである。最初の応答とは、「「訴訟事実について述べよ」(p.51)というような問いに対する応答であり、その後に続く「教授の問い」とは、たとえば次のようなものである(p.93とp.118から抜粋)。

「どうしてそうなのかね?」「そのような法規範があるとないとでは、どうちがうのかね?」「ではその意図というのは何かね?」(p.93)、「人間は本当にみなそうかね?」「それ、調べたうえでの返事かね?」「きみはどうやってそれを正当化するつもりだね」(p.118)、

 学生の返答に対して、教授は、さらに質問を重ねるか、あるいは学生の返答に対する評価を下す。「ノー」「全然だめ」「馬鹿馬鹿しい」「きみ、それ答えになってると思うのか?」「そのとおり!」(p.93)というように。つまりこれは、「問答をくりかえすことにより、問題解決の道を見出す」というよりは、法律の権威者である教授が、学生の理解を「試す」方式でしかない。本書にそう表現されていたわけではない。筆者によると教授たちは、「法律家的な思考の顕著な部分をなしている事実を積み重ねてそれを追究しながら分析するやり方に馴れさせるためにも、最適な方式」(p.52)と考えているようである。もっとも、別の箇所には、ある教授が「ラングデル学部長の法学教育上の偉大な功績の一つは〔中略〕それを安上がりにしたことだ」(p.173)と、ソクラテス方式が教育の大量生産方式であることを述べているようだが。

 これが書かれた1970年代にすでに、このような方式は批判の対象になっており、もっとカリキュラムが柔軟で、少人数教育を行っている大学もあったようだ(ハーヴァードは1クラス140人)。それだけではない。ソクラテス方式が多用されるのは1年次だけで、2年以降は、「学課によっては、ソクラテス方式は打ち切られる」(p.347)。それだけでなく、「ソクラテス方式が採用されているクラスでは、しばしばそれが冷笑されることがある」(p.347)という。本書を読むかぎり、ロースクールにおけるソクラテス方式は、問題解決というよりも、新兵訓練のようである。

 本書には、この方式を含めた、ハーヴァードの問題点(らしきこと)がたくさん書かれている。たとえば教授は絶大な権力を持ち、「教室内の学生全員の精神の安定を撹乱するという奇妙な特権を教師に与えることになり、使いかたが悪ければ、相手を恐怖に導く手段になる」(p.381)。教授は、ときとして一種の拷問のように、学生を指名する。学生は、はじめは非常におどおどとしているし、慣れてくると、指名された同級生を、「あたかも運動競技ででもあるかのように毎日綿密に評定」(p.159)するようになる。試験の多くは「まる暗記」(p.243)で、学生に1日16時間もの勉強を強いる。

 うーむ何ともすごい。ソクラテス方式というと、林竹二氏(『教えるということ』)を思い出すし、佐藤学氏は、専門家教育におけるケース・メソッドを教師教育のモデルとしているようである(『教師というアポリア』)。佐藤氏も「ケースメソッドには多様な方法論がある」というようなことは書いているが、しかし、これほどイメージが違うとは思わなかった。まあ本書については、そういう多様性のひとつに触れることができて、よかったと述べておこう。


[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'04] [索引] [選書] // [ホーム] [mail]