読書と日々の記録2004.6上

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■読書記録: 15日『「学び」を問いつづけて』 10日『戦争報道』 5日『質問力を鍛えるクリティカル・シンキング練習帳』
■日々記録: 15日【授業】仮説実験授業 14日【授業】プログラム学習/保育参観 13日【育児】娘の誕生会 8日【授業】情報の伝達と変容 7日【授業】発達段階 6日【育児】3歳児の理由 3日【授業】オペラント条件づけ 1日授業日記(ブレイン・ストーミング)

【授業】仮説実験授業

2004/06/15(火)

 今日の「心の実験室」は,「仮説実験授業」で,「自由電子が見えたなら」という授業書の一部を行った。過去の授業記録はこちら

 仮説実験授業って,人数の集計が大変なので,私は最近は,全員に黒板に「正」の字を書かせて集計させている。これでかなり手間を省くことができる。今年はそれに加えて,座る場所も予想する選択肢にあわせて移動させてみた。この授業,100人はいる教室に半分以下の受講生なので,こういうことができるのである。何人かに当てて予想の理由を聞くのだが,こうしていると,すぐにその学生の選択肢が分かるので便利であった。あと,ぱっと見で全体的人数分布が分かるし。

 授業の時間配分としては,最初の20分が説明の時間とした。まずスキーマについて書かれたプリント(『クリティカル進化論』より)を配布し,学生がそれを読んでいる間にレポート回収。それが終わったら,数人に当てて書かれていた内容を確認しながら,教育心理学的に見た良い授業とはどういうものかについて概説した。

 それから15問(「1円玉は電気を通すか?」から「フェライト磁石は電気を通すか?」まで)の予想→数人の理由表明→実験を行ったのだが,今年は時間ギリギリだった。今回は,多分時間が余るだろうと思い,最初のほうはたくさん当てたりしてゆっくり授業を展開したが,それで時間が押してしまったのだろう。次年度はちょっと考えなければ。

 今年の学生がこの授業をどう受け取ったかは,来週提出されるレポートを見なければわからないが,例年,授業中は学生は,黙々と予想しているように見えるものの,レポートには「わかりやすい」「楽しい」と書かれる。まあ楽しんでいるからいいのだが,それが表面からは見えないところが気になる点ではある。昨年のレポートに,「最初は一人でやっており,つまらなかったが,隣に座っている人と一緒に考えながらやると,合否が気になってきて,とても楽しくなった」と書いている学生がいたので,あらかじめ,そういうふうに気楽にやるように学生にいうといいかもしれない。

 なお,今年の正答率は70%だったが,これは例年並の数字である。この授業って,途中で法則についての説明が入るにもかかわらず,どうしても最後まで間違える学生が出てくる(今年の最終問題の正答率は45%)。例年,学生もレポートに,「素直に聞けていない」「自分って固いなー」「間違った思い込みの多いことに驚いた」と書いている。例年のことではあるのだが,学生の(あるいは大人の)考えの変わらなさを再認識するとともに,もう少しうまい説明をすれば,もう少し後半の問題で間違える学生が減るのではないかと思ったりもする。具体策はないのだけれど。

 あと,例年,最後の問題になっても「なんとなく」という理由で予想している学生がいる点も気になる点である。仮説実験授業では,「なんとなくも立派な理由」というような言い方をするはずだが,しかし,大学生がそれでいいのかと思うのも事実である。この点も今後の検討課題か。

■『「学び」を問いつづけて─授業改革の原点─』(佐伯胖 2003 小学館 ISBN: 4098373599 \2,100)

2004/06/15(火)
〜教育とは問い直しのキッカケ作り〜

 この本は、2003年の出版なのだが、内容は、佐伯氏が1973年から1998年に書いた教育系のエッセイ的なものを集めた本である。エッセイとはいっても、いわゆる随筆ではなく、学びや考えることが、佐伯氏の体験や見聞などが中心に論じられている。

 基本的な考えは、すでに読んだ本にも出ているようなものも少なくなかったのだが、本書で改めて、佐伯氏が、「問い」「問い直し」「一貫性」「多次元的な見方」「対話」「分かり直し」などを重視されていることを再確認した。また、基本的な考えはどこかで見たことがあっても、どういう例を持ってきてどういう風に話を持っていくかは、それぞれ違っており、さすがであると感じた。

 以下、今の私が興味を引いた記述の抜書きや要約とコメント。

本来の発問は、子どもの探究がはじまる、触発的な発問であり、「考えるヒントを与える」類のもの。それには、以下のものがある。観点を変えるための発問(別の立場、機能や目的を問う、視点を定める)、別の仮定を導入してみる発問(「もしもこの条件がなかったらどうなる?」「こういう条件が付け加わったら?」)、例を考えさせる発問(「たとえばどういう例があるか?」「これと似たような経験をしたことのある人?」「この条件を満たす例をつくってみよう」)、例を与えて考えさせる発問(「こういう場合はどうか考えてみよう」「この例では今の条件が当てはまるかを考えよう」)、単純化して考えさせる発問(小さな数字、単純なモデルに置きかえて考えさせる)、矛盾を指摘する発問(彼らが当然だと思っている規則や原理をそのまますべてに当てはめてみるなど)、「ほんとうにそうか?」と問う発問(何気なく当たり前と思っていることについて、あえて意識化させ、問い直させる)、少しずつ条件を変えて極限値まで変化させる発問(どの条件の変化が決定的か不明な場合など)(p.57-60より要約抜粋)

 発問というと何となく、多様な答を引き出す質問、と理解していたのだが、佐伯氏の場合は、自分で考えるためのきっかけとなる問いかけのことを指しているようである。それをなんと呼ぶかはさておき、思考を深めるためには、とても重要なことであろう。また、上記のような問いかけは、意識しなくてもどこかでやっているようなものが多いが、このような問いかけを通して「思考を触発する」ことを目指すことを意識することも、重要であると感じた。

私は知識というものは、カップヌードルのようなものではないかと思っています。〔中略〕知識というものは、非常にドロドロした経験的なものですが、その経験的なものを抽象化し、形式化して固定するのです。/しかし、それを理解するときには、もう一度事例を作り出すことによって理解するわけです。(p.165)

 これはなかなかうまいたとえであると思う。知識を固定するプロセスと、それを理解(お湯をかけて食べる)プロセスを説明するのに。お湯をかけて理解するためにドロドロにするプロセスにおいて役に立つのが、上記のような「触発するための発問」ということであろう。

「学習」とは「問い直しつづけること」ということになる。/われわれが子どもたちに「教える」のは、「問うべき問い」に気づかせ、また、子どもたちみずからが「問いつづけている問い」に応えてあげること、また、そこから新しい「問うべき問い」を投げかけることになる。(p.343)

 教育とは問い直しのキッカケ作りか。意識はしていなかったが、私が大学で教育を行っていることの半分は、そういう方向を目指していたように思う。残りの半分が「問い直し」とどう関係しているのかは、これから私自身問い直していく必要があるかもしれない。そういう意味では本書は、私が授業について問い直すきっかけを作ってくれたように思う。

【授業】プログラム学習/保育参観

2004/06/14(月)

 今日は「教育心理学」で,テキストの「知識・技能を育てる」という箇所を,プログラム学習を中心に話す。

 まず,教員採用試験の過去問題のうち,学習理論関連の問題を3問やり(ヒントを与えつつ),その問題を使いながら,学習理論(認知論と連合論)の概要を話す。認知論的な話は以前に行ったので軽く流し,連合論(頻度の法則と効果の法則)を中心に。オペラント条件づけの話は『図解 心理学のことが面白いほどわかる本』に載っていた図版を使って説明し,あとはビデオに解説をはさみながら補足した。

 ビデオは,先日一般教養の授業でも見せた「イルカの芸」から,シェイピング的な部分を中心に4分ぶんと,NHK教育で朝やっている「からだであそぼ」から,ジャグリング(3つ玉のカスケード)を4回に分けて練習するプログラム(5分)を見せた。とくにジャグリングは,素人が考えると,3つでできるようにするには,まず二つで練習して,それからいきなり3つをやりがちだが,この番組では,1つを投げて取るというところから始まり,2つのときもスピードを変えたり,3つでは床に1つ置いてやるところから始めて感じをつかんだり,先生と二人で3つのボールのジャグリングをすることで,片手の練習をしたりと,ステップが細かく工夫されており参考になる。

 その後,本人ができるところからスモールステップで技能が高めていけるよう工夫されている例として,「わくわく授業」から「“シンクロ”で水泳が好きになった」を15分ほど見せる。この授業は,単にプログラム的に技能学習をしているのではなく,チームで演技を揃えることが必要なので,得意な子には得意な子なりの課題が発生する点など,集団の中で個々の目標設定と達成が見られる点がすばらしいので,実はあまりプログラム学習的ではないのだけれど,見せてみた。なかなか良くできた授業で,学生も感心してみていたようだ。

 実は昨年までは,プログラム学習的な話はとても苦手だったのだけれど,今年は映像を3つ用意できたことで,学生にはよく理解されたように思う(最後に書かせた質問書を見るかぎり)。ただし,ビデオが合計25分ぶんもあるので,時間的にはぎりぎりで,余談をする余裕もなかったのがちょっと残念だった。次年度は見せるビデオを少し整理できればいいのだが。

 今日の午前中は,上の娘(6歳0ヶ月)の保育参観だったので,午前中に年休を取って見に行ってきた。今日の授業は,英語が25分,担任との朝の会的なものが30分,チューターシステムという図形合わせ的な授業が30分ほどあった。

 この幼稚園の保育参観は,昨年度は毎学期あったので,見るのはこれが4回目だが(前回はこちら),年長になったせいか,お勉強的な要素がとても強いように思った(あるいは担任の方針か,たまたまあたった授業がそうだったのかはわからないが)。あとは,担任がとても強力に子どもたちをコントロールしているような印象を受けた。強力といっても,先生のお話を聞くときは背筋を伸ばす,みたいなもので,小学校などでは普通に行われていることなのだろうけれども,まだ幼稚園だしなあ,というぐらいのものなのだけれど。

 英語の時間は,外国人の先生と一緒に歌を歌ったりものの名前を言ったりという授業だった。はじめのうちは簡単なもので,みんな大きな声で言っていたのだが,授業が進むにつれて,単語が難しくなるのか,言う子が少なくなっていく(うちの娘も後半はあまり声を出していなかったように見えた)。それでも,英語を習っている子がいるのか,最後まで何人かは大きな声ではっきりと答えており,そういう子の応答を中心に授業が進められているようであった。まあ授業の目的によっては,それでいいのかもしれないけれども,こういうのって,今日の教育心理学の授業で触れた,一斉授業の問題点そのものだよなあと思ったり。実は時間があれば教育心理学の授業ではそういう雑談をしたかったのだけれど。

 なお,昨日うちの娘は誕生日だったのだが,朝の会の中で,うちの娘ともう一人週末に誕生日だった子が前に出されて,紹介されたり,質問を受けたりしていた。おかしかったのが,先生が「○×ちゃんに何か質問はありませんか?」と聞いたところ,ある子が手を上げて「○×ちゃんはどんな形が好きですか?」と質問していたこと。質問された子は,ちょっと考えて「マルが好きです」と答えていた。質問した子には申し訳ないけれど,思わず笑ってしまった。どうしてそんなことが聞きたかったのか不思議である。

【育児】娘の誕生会

2004/06/13(日)

 今日は上の娘(6歳)の誕生日。諸般の事情で、昨日、うちで誕生会をした。

 今までは誕生会というと、自分たちの家族だけだったのだが、最近、幼稚園などのお友だち一家にいろいろと遊びに誘われたりすることが増えたので、子どもができてからは初めて、うちに2家族お呼びして誕生会をした。

 始めるまでは、どういう展開になるのか予想もつかず、子どもたちが飽きてしまうんじゃないだろうかとか、うちの中を走り回って下の階の人に迷惑をかけてしまうんじゃないだろうかとか、うち中がオモチャ箱をひっくり返したようなちらかし具合になるんじゃないだろうかとかいろいろ考えたが、それほどでもなく、ほっと一安心だった。

 今回は初めてなのでいろいろと手間取った部分もあるが、次はもう少し上手に、気楽に、できるに違いない。

■『戦争報道』(武田徹 2003 ちくま新書 ISBN: 4480059873 \756)

2004/06/10(木)
台風のため昼の授業は休講
〜戦争に加担するジャーナリズム〜

 「戦争」と「報道」の関係について論じた本。全3章あり、それぞれ2〜3節ずつある。内容は、第二次世界大戦中の戦争報道の例として、日本の同盟通信社とBBC(第一章)、ベトナム戦争関連として、ハルバースタムなど3人の報道と、地獄の黙示録(第二章)、湾岸危機以後の戦争報道として、PR会社、インターネット、ビデオ・ジャーナリストの話(第三章)である。

 それぞれ、節が変わるたびに、前後のつながりがあまり見えないままに新しい話しに入るように見えるので、全部で7つの話が並べられているという印象である。しかし、最後の方で、なんとなく全体の方向性が見えてきたように思う。そのまとめらしい記述としては、次のものがある。

ジャーナリズムは今まで作為的に、あるいは無作為的に戦争に加担してきた。プロパガンダを運ぶ役割を担ってきたジャーナリズムはある特定の価値観を増幅する役割を果たし、むしろ異文化間の衝突を激しくすること(思想戦とはそういうものだ)に貢献してしまっていた。それに対して(PR会社のばらまく美辞麗句ではなく本当の意味で)多価値型社会を繋ごうとするジャーナリズムは、文化の違いを認めながら共生の可能性を探る方向で機能するのだろう。/ジャーナリズムは本来そうあるべきだったのではないか。インターネットの時代に、ジャーナリズムが本来の姿に立ち還る可能性の扉が、わずかに開かれようとしているのではないか。(p.231)

 この中に出てくる「思想戦」とは、第二次世界大戦中の同盟通信社の話で、同社のパンフレットには「武力戦に種々の兵器あるごとく、ニュースを砲弾とする思想戦にも武器がある。新聞、ラジオ、映画これが三大武器である。」(p.33)と書かれているのである。つまりこの会社は、客観的で正確公平な報道ではなく、国策支持を得るために情報操作をする機関として機能していた(はじめは違ったらしいのだが)。それが上の引用でいう「作為的に戦争に加担してきた」ケースである。

 こんなことは昔の話、と思うかもしれないが、しかしそうではないことが本書でわかる。上の引用でいう「無作為的に戦争に加担」しているケースが少なくないのである。それは、本書第三章にある「湾岸危機以後の戦争報道」に顕著なのだが、情報操作を専門的に行う企業(PR会社)が、報道メディアが飛びつきやすいように魅力的に情報を構成し(パッケージ)、そうした情報パッケージを洪水のように提供することで、TVメディアは自前で取材や検討をすることなくそれを垂れ流す(p.146-9)。それは「うそ」ではないが、作為的に選択された情報を無思慮的に(不公正に)報道することであり、結果的に無作為的にどちらかの主義主張の宣伝に加担していることになる。

 そうではないあり方として筆者が挙げているのは、インターネットを使い、マスメディアが書かない/書けない情報を拾い上げて分析し本質を見出していくという方向性と、ビデオ・ジャーナリストのような小さなジャーナリズムによって、政府や軍やPR会社が作り上げた情報管制網を突破する方向性である。後者の場合、情報発信はインターネットが有力候補であり、そのあたりが、上記引用にあるように、「インターネットの時代に、ジャーナリズムが本来の姿に立ち還る可能性」と書かれているようである。

 本書は、そういう基本的な筋だけでなく、細かいようにみえる雑多な情報もたくさん載せられているため、本筋が見えにくい点が難点であるように感じたが、本筋が見えれば、なかなか興味深い本であった。

【授業】情報の伝達と変容

2004/06/08(火)

 今日は共通教育科目「心の実験室」。今日のテーマは「情報の伝達と変容」,簡単に言うと伝言ゲームである。伝言ゲームといっても,人と人とのコミュニケーションにかかわる問題だし,記憶の変容の問題でもあるので,実は極めて心理学的なテーマなのですよと導入してゲーム開始。

 実験の手順は次のとおり。1グループ8人として,私が昨日から今日にかけてネットであつめた300字前後のニュースを最初の人に1分間黙読させ,2番目の人と一緒に廊下に出て,30から1までの逆唱をした後,伝言文を伝える。終わったら席に戻り,伝えた文章を書く。書かれたものは私がグループ毎に紙に貼り付け,全部出揃ったら急いでコピーして配布する,というものである。

 使うネタは,ニュースを使ったりコラムを使ったりお話のあらすじを使ったりしてみたが,今はニュースで落ち着いている。ちょうど,「朝新聞を読んで,書いてあったことを会った人に伝える」というイメージでやっているのである。今日は4つを選んでもっていったのだが,医療事故のニュースを使ったグループは,言葉が難しかったようで,最初からとても短くなっていた。やはり素材は学生が親しみやすいものが良いようだ。

 それにしても,8人もいるとどこかでひとつは「変」な伝達が出ることが多い。今回で言うと,「豊作ドリアン、安値でも食べ過ぎ注意! タイで死者2人」というニュースで,「民間ではドリアンの後の飲酒をタブーにしている」という文章が,「タイではドリアンを食べた後に車の運転を禁止している」になっていたり。こう書いている学生に聞いたところ,「飲酒」という言葉から「飲酒運転」を連想してしまい,「運転」になってしまったそうだ。

 学生には自分のグループの伝言文の変化をコピーして渡してあるので,これを分析して1週間後にA41枚のレポートとして出させることになっている。分析する過程で,情報が変容するさまを身をもって実感してくれれば,と思う。ただ,今回はまとめの部分が弱かったので,来年度は,情報の変容に関する文章もプリントして配布しようと思っている。

【授業】発達段階

2004/06/07(月)

 今日は教職科目「教育心理学」(講義科目,60名登録)。この科目,昨年までは教科書の予習を前提に授業していたのだが,今年からそれをやめたので,いつもよりも授業準備に時間がかかっている。

 今日のテーマは,ピアジェの思考の発達段階。ピアジェって,昔から教えにくいところだったのだが,去年から,うちの娘のビデオ(DVD-RAMに落としている)を編集して,「10分でわかる乳幼児期」と題して見せているので,だいぶ教えやすくなった。今年は,去年とりあえず作った映像に,乳児の手伸ばし行動と,ものの永続性が成立していないシーンを加え,冗長なシーンを一部削除して,昨年以上に教えやすくなった(ような気がする)。来年は原始反射のシーンを少し入れようと思っている(こういうとき,DVD-RAMに記録していると,簡単に編集できてとても便利である)。

 ちなみに,ピアジェの鬼門(と私が思っている)保存課題は,去年,上の娘が5歳前のときにやらせて,その映像を見せている。今年も上の娘(5歳11ヶ月)にやらせてみたのだが,液量の保存は昨年同様,今年も失敗した。ただし,同じ大きさの丸い粘土を2つ並べ,一方を細長くする,というヤツをやったところ,「同じ」と答えられてしまった。こういうのは早いのか。最近粘土遊びをよくしているからだろうか。ちなみに下の娘(3歳9ヶ月)にも液量の保存課題をしようとしたところ,出発点である「2つのコップの水の量が同じ」段階でつまずいてしまった。どうやらまだ下の娘は,「同じ」という判断自体がまだきちんとはできないようである(そういえば下の娘は毎朝,2つ出される紅茶のカップを「ママぁ,どっちが多い?」と聞いている)。

 今日の授業でそのほかに使ったのは,最近上の娘(5歳11ヶ月)に描かせた絵。山の斜面に家や人を描くと,が斜めに(斜面に垂直に)描くという「垂直−水平概念が成立していない」ことを示す絵などを使った。ただし,時間があまりなかったので,じっくりは見せられなかったのだが。あと,NHK教育でやっている「わくわく授業」から,「「おもちゃ作り」でのばす読み書きの力 」を見せ,実際に体験することの重要性を示した。

 このような映像資料を使っているせいか,学生の感想にも「すごくわかりやすかった」と書かれる。私自身も,数年前と比べてすごく教えやすくなっているし。しかしちょっと気になるのは,いくらわかりやすくなったとしても,基本は「発達段階」の概説であり,羅列的になりがちだということ。もう少し全体を貫くストーリー的なものを強調したり,発達段階を知ることの意味が言えればいいのだけれど。この点は次年度の課題か。

【育児】3歳児の理由

2004/06/06(日)

 最近、というかだいぶ前からだけど、下の娘(3歳9ヶ月)はよく「理由」を言う。

 たとえば昨日。昼飯時、下の娘がスパゲティを手で食べていた。この行為は、幼稚園でも毎日指摘されるみたいなので、妻が「お手手で食べちゃダメでしょ」と注意した。すると下の娘が「だって、ネコさんだってお手手で食べるよ」という。

 ほほお、うまいこというなあと思っていると、妻がめげずに「じゃあネコさんみたいに、夜はお外で寝る?」と反撃。すると下の娘はすかさず「ネコさん、おうちの中で寝るよ」と返してきた。妻が「ネコさんはお外で寝るのよ」というと、「トムとジェリーのネコさんはおうちで寝るよ」と。どうやら妻の負けのようである。ほんのちょっと前まで下の娘は、理由らしきことをいうものの、理由が全然理由になっていなかったので、こういうことを言われると、プチ感動してしまう。

 さっきも、私がテレビを見ていたら、いつの間にか私の腕の上にのぼって横になっている。「あれ? なんでパパのお手手の上に乗ってるの?」と聞くと、「だって、パパのお手手、気持ちいいから」という。こちらはよくわからない理由だが、思わず全てを許したくなってしまう心憎い攻撃である。どうやら下の娘は、こういうことを言ったりしたりするのがとてもうまいような気がする。

 あと、下の娘は私たちに「理由」を聞くことも多い。「しいちゃんは今日で3歳9ヶ月だよ」というと、「なんでまだ3さいなの?」と聞く。さらには「3さいってながい」なんて言ったり。そういう変わったのじゃなくても、一日に何度も、「なんで?」と聞かれて答に窮することは多い。

 思えば1年ほど前、私は上の娘は「なんで期」に入るのを恐れていた。幸いにしてそれはあまり来なかったのだが、それを飛び越して、下の娘に「なんで期」が来てしまったようである。対処法は考えていないのだが、せいぜい「なんで返し」でもしてみるか。

■『質問力を鍛えるクリティカル・シンキング練習帳』(M・ニール・ブラウン&スチュアート・キーリー 2001/2004 PHP研究所 ISBN: 4569634362 \1,470)

2004/06/05(土)
〜完全さよりも開かれた態度では?〜

 "Asking the Right Questions"という原題の、批判的思考の入門書。批判的思考の本にはいろいろなタイプのものがある。『クリティカル・シンキング(入門篇・実践篇)』(ゼックミスタ&ジョンソン, 1992/1996-1997, 北大路書房)のような、心理学を通して学ぶクリシン本もあれば、"Critical Thinking"(R. H. Ennis, 1996, Prentice Hall:NJ)のような、論理学に力点の置かれたクリシン本もある。

 数年前、そのような本を読んでいた私が、毛色の違う本だと思ったのが、本書である。もっとも私が読んだのは、1998年に出された第5版。本書は第6版の翻訳であるが、内容には、あまり違いがあるようには見えなかった。数年ぶりに本書を読んでみて、この本のよさを再認識するとともに、ちょっと足りなく感じる点も見えたので、メモ書きしておく。

 本書は、「問題および結論は何か?」「理由は何か?」といった11の問い(原題にあるright questions)を通して、批判的思考を学ぶ本である。最初の段落に書いた2つの本をそれぞれ、心理学的クリシン本、論理学的クリシン本と称するならば、本書は、問いを問うことがメインに据えられた、哲学的クリシン本ということが可能かもしれない。ただし「哲学」とはいっても、問いをかなりテクニック的に捉えているようなので、あくまでも、心理学や論理学ではなく、問いを中心にしているという程度の意味での哲学「的」でしかないのだけれど。

 もちろん「問う」ことは、どんなクリシンであっても、中核にあることは間違いない。しかし本書のように、問いを体系的に捉え、活用することが重要であることを、本書で再認識した。たとえば、第一の問いは「問題および結論は何か?」であるが、これに関して筆者らは、「結論を取り違えると、議論をクリティカルに評価しようとしても空回り」(p.31)するとか、「これ以降のクリティカル・クエスチョンは、いずれも正しい結論が見出せてこそ意味がある」(p.31)と述べている。当たり前のことであるようだが、しかし、少なからぬ議論において、論者の結論を正しく捉えないまま、目に付く問題点を手当たり次第に批判するクリシンもどきが行われているように思われるので、これは重要な指摘である。そういう点から一歩ずつきちんと論じられている点が、本書のよさであると思う。

 先の2つの問いに続く3番目の問いは「どの語句が曖昧か?」であり、これが扱われている章で「初めてクリティカル・シンキングの具体的な"道具"(ツール)を紹介しています」(p.60)と書かれている。つまりクリシンの第一歩は(結論や理由の中から重要かつ)曖昧な語句を探し出すことである。しかしこれは、本書ではあまり明確には書かれていないが、次の次の問いである「記述前提は何か?」という問いに含まれる「定義前提」を問う問いになっているようである。そう考えると、本書に扱われている11の問いは、半分ぐらいに整理できるような気がするし、そうした方がクリシン的問いの全体像が見えるような気がする。

 ところで本書の6番目の問いは「推論の誤りはないか?」で、いろいろな誤謬推論が紹介されている。その中の一つに、「完全な解決策を求める議論」という誤謬が紹介されている。「ある解決策を試みても問題の一部が残るからといって、その解決策は取るに値しないと決めつけていること」(p.113)である。まあそれはもっともだと思う。しかし一方で、さまざまな議論に対してクリティカル・クエスチョンを問い、そこで出されている結論や理由に問題を見出すことも、下手をすると「完全な解決策以外は認めない」という議論になりかねないことには注意をすべきであると思う。残念ながら本書にはそのような記述は見当たらないのだが。

 このこととの関連で言うならば、本書では「証拠は十分か?」(7番目の問い)の章で、権威にも個人的推薦にも研究調査にも、さまざまな問題がありうることが述べられている。しかしおそらく、それらの問題点がどのように問題になるかはケースバイケースだろうし、研究の質を評価するにはある程度の専門的知識や素養が必要であろう。しかし本書には、少なくともこの章に関しては、そういう点に注意を促すことなく、それらの証拠に起こりうるあらゆる問題点を挙げ、それらが証拠にならないことを論じている。しかしこれは、先の言い方で言うならば、まさに「完全な証拠」を求める議論になっている。私が思うに、大事なのは「完全」を求めることではなく、一旦受け入れた証拠に対して、後に否定されたり変わる可能性に対して開かれた態度で接し、常に他の証拠と付き合わながら考え続けることではないかと思う。

【授業】オペラント条件づけ

2004/06/03(木)

 今日は共通教育科目「心の科学」(講義科目,120名登録)。この授業を持つのは8年ぶりなので,いつも準備に苦労している。8年前の講義ノートやOHPシート,プリント,学生のレポートはあるのだけれど,やはり8年後の目で見るとアラが見えるし,授業に対する私の考えも変わっているので,そのままはできない。それに,できたら毎時間映像を見せたいと思っているので,組み立てを変えざるをえない。

 今日は開始前にアクシデントがあってあせった。講義室には天井据付の液晶プロジェクタがあるのだが,映らないことが講義2分前に発覚した。事務室に行くと,壊れているとのこと。そういうことならあらじめ言ってくれよという憤りを抑えつつ,ポータブルのプロジェクタを持って再度講義室に。結構重いので腰が心配だがしょうがない。

 今日のテーマはオペラント条件づけ。見せた映像は,「どうぶつ奇想天外」から,犬のしつけを3つ(拾い食いさせない,「待て」,「おいで」)。1つ半見せたところで,ふと思いついて,「1本目の映像から考えると,2本目で「待て」を教えるのに,どうすると思うか」と学生に問うてみる。すぐわかるかと思いきや,当てた学生がぜんぜん答えられないので,別の学生に,「一本目で拾い食いしなくなったのはどうしてか」と問うと,「食べに行こうとしたときに訓練士が紐を引っ張って行かせなかったから」との答え。もう一人当てると,「えさ」の話が出る。引っ張るだけで拾い食いしなくなるのであれば,もう飼い主がやっているはずでしょ,という話をし,スキナー箱とオペラント条件づけの話に入る。学生はああいう映像を見ても,案外えさの効用には目が行かないんだと再認識。思いつきで意見を聞いてみたのだけれど,よかったようだ。

 一通りの説明が終わった後で,今度は「科学大好き土曜塾」であった「イルカはどうやって演技を覚えるの?」を見せながら,弁別刺激,自発行動,強化刺激について確認した上で,さらに,即時強化の重要性と,シェイピングを映像を通して説明していく。ついでに,うちの娘が1歳で見せた芸(「ねー」と言われると首をかしげる)を見せる。

 最後に,日常場面におけるオペラント条件づけとして,迷信行動,意図に反した強化(おもちゃ売り場で駄々をこねる子どもなど),スポーツ・トレーニングの話をする。最後に15分ほど時間が余ったので,今年は割愛した間欠強化の話しでもしようかとちょっと思ったのだが(8年前にはやっていたので,関連するOHPシートは少しあった),話がごちゃごちゃするかと思い,それはやめにして,「どうぶつ奇想天外」の犬のしつけのうち,さきほど見せなかった「おいで」を見せ,今日勉強した基本原理を確認するように言う。それでも10分ほど時間があまったので,来年はもう少し当てたりするのを増やしてもいいかと思っている。

 今日はこのあと,19時半から大学院の授業があるので,もうひと頑張りだ。

■授業日記(ブレイン・ストーミング)

2004/06/01(火)

 先月は何かと忙しくて,ほとんど日々の記録が書けなかった。今月は,少し余裕ができそうな気配があるので,授業日記でも書いてみようかと思っている。これは,近畿大学の山口先生の授業日記のページをみて思いついたことなので,いつまで続くかわからないのだけれど。。

 今日は4限に,共通教育科目「心の実験室」。実験や体験を通して心理学を学ぶ,1単位ものの授業である。今日のテーマは「ブレイン・ストーミング」。最初に,心理学の教科書のコピーを配布して軽く概説し,「交通事故につながる危険行為」を挙げさせる,という練習をやらせ,全員にひとつずつ発表させた上で,5人グループを作り,各グループごとのテーマでブレイン・ストーミングを開始した。

 今年はふと思いついて,黒板に題目を7つ(全グループ数+1)書き,各グループで題目を選ばせた(すぐに出ないグループはこちらで割り当てた)。以前はくじ引き的に題目を割り当てていたのだが,6グループ中4グループから希望が出された。これは悪くないやり方だったかもしれない。

 時間は40分で,100個アイディアを出すことを目標に話し合わせた。その結果,一番多かったグループは「歯ブラシの新しい使い道」というテーマで136個,一番少なかったグループは「琉球大学をもっと有名にする」というテーマで60個だった。「歯ブラシの使い道」のようなオーソドックスなテーマの方が,出しやすいのかもしれないと思った。もっともこのグループは女の子ばかりで,すごく盛り上がりながら話し合っていたので,グループの特性もあるのかもしれないけれど。

 最後に,5分間話し合わせて,グループでひとつか二つベストアイディアを選ばせて発表させるのだが,今年はふと思いついて,「奇抜,笑える,使えるの3つの基準の2つをクリアするものを選べ」と,選定基準を示してみた。例年,他にもいいアイディアがあるのに「奇抜なだけ」のアイディアを発表するグループがあったりして,惜しいなあと思っていたので,複数の基準を満たすよう言ってみたのだ。「歯ブラシ」グループからは,「かんざしにする」「リレーのバトンにする」というアイディアがベストアイディアとして挙げられた。なるほど,なかなかセオリーどおり自由奔放に考えてくれたようである。


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