読書と日々の記録2004.6下

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■読書記録: 30日短評5冊 25日『中学校を創る』 20日『定常型社会』
■日々記録: 29日【授業】考え方を考える(1) 28日【授業】思考力の育成 27日【育児】妻のいない60時間 24日【授業】思考(確率推論) 22日【授業】ブラインド・ウォーク 20日【授業】学習意欲 17日【授業】内発的動機づけ/保育参観

■今月の読書生活

2004/06/30(水)

 今月も忙しかった。時間に余裕があれば昨日も1冊更新しようかと思っていたのだが、時間的に余裕がなくできなかった。

 今月は、授業日記を始めてみた。最近、日々の記録が書けないことが多かったのだが、授業記録は書きやすいのでいい(昨日は疲れて書けなかったけど)。授業直後だと、思うこともたくさんあるので、短時間で書くことができる。次年度に参考にすることで、今年思った改善点や反省点を生かすことができるし。でも週に3回も書くのもけっこう大変ではある(これ以外にも、書いていない科目もあるけど)。まあ、前期もあと1ヶ月ちょっと。もう少し頑張ってみますか。

 今月よかったのは、『中学校を創る』(なるほどこれが本質的な問いからはじまる探究か)。他は、強いてよかったと挙げるほどでもない。とはいえ、基準を下げるならどれも挙げてもおかしくないものではあるのだけれど。

『土田杏村の近代―文化主義の見果てぬ夢』(山口和宏 2004 ぺりかん社 ISBN: 4831510742 ¥5,040)

 大正時代の在野の思想家、土田杏村の思想の全体構造を明らかにしようとした本。著者様にいただいた。教育に関しては彼は、自由大学運動を積極的に推進したらしいのだが、その近辺が多少理解できたくらいで、それ以外は、哲学、宗教、政治、経済と話題が幅広く、私にはほとんどついていけなかった。彼の方法論は、「その人になりきってその人を内なる統一より全体として認識する」というフェルシュテーエン(理解=了解)だそうである。ただし、彼がもっぱら読書と思索によって自己教育を続けてきたという限界のため、すべての人の生き方に無限の同感を持つことはできなかったのだそうだ(p.242)。ちょっと興味深いエピソードだ。

『悪徳商法─あなたもすでに騙されている』(大山真人 2003 文春新書 \690)

 BOOK OFFで半額で買った本。たくさんの悪徳商法が事例として列挙されている。その手の豆知識を得るには、まあ悪くないかもしれないが、基本的には列挙物なので、そんなに面白いものではない。あと、記述内容にデータ的なものは少ない。たとえば「悪徳商法というのは、ある無名の小さな業者が仕掛けるというのではなく、大手の有名な業者がトラブルを起こす場合が大半なのである」(p.98)という記述があるが、具体的な数字や根拠が知りたいものである。これだけだと、単なる印象のようにも見える。まあ大手の方が取り引き数が多いので、意図的にやっている割合は低くても、実数としては多くなるという可能性はあるだろうが、ちょっと信じがたい話である。

『踏みはずす美術史─私がモナ・リザになったわけ』(森村泰昌 1998 講談社現代新書 ISBN: 406149404X 680円)

 「美術って難しくて、やっかいなジャンルだ」(p.6)と思っていた筆者が体得した「美術とつきあうコツ、あるいはツボのようなもの」(p.6)を通して、いくつかの美術作品の常識的でない解釈が書かれた本。「美術の極意」と題された、「考えるな」「食べろ」(味わえ)、「着こなせ」というのが面白かった。特に「味わう」ことは、美術だけでなく、その他の異文化も、慣れるにしたがって美味しくなっていくことを引用し、筆者は「この味覚の変化に、自分とは異質の文化を理解するときの貴重な知恵が含まれている」(p.22)と述べている。なるほど確かにそうだろう。本書は、いろいろな美術作品について、筆者なりに味わったり着こなしてみたら味がこんな風にかわったとかわかったという話で、私のように何となく自分の美術鑑賞眼にコンプレックスを感じている人間にとっては、気楽に身構えずにいられるようになる本であった。

『世界は密室でできている。』(舞城王太郎 2002 講談社ノベルス ISBN: 4061822462 760円)

 師匠のお勧め。ミステリ風味の青春小説か。リアル文体(命名:師匠)だが、適度に句読点もあり言葉も選ばれているようで、読みやすい。◎(非常に面白い)〜▲(まあまあ)というところか。ミステリを期待するとイマイチかも。こういう文体って、一歩間違えると中高生の手紙風という気がしないでもないが、それできちんと最後まで押し通しているところはまあ凄いといえるかも。

『デモクラシー─思考のフロンティア─』(千葉真 2000 岩波書店 ISBN: 4000264281 \1,200)

 再読。今月は、時間的精神的に余裕がなかったせいか、前に読んだときほどには理解できなかった。もう少し、デモクラシーに関する基本的な知識が得られる本を読むべきかもしれない。

【授業】考え方を考える(1)

2004/06/29(火)

 今日の共通教育科目「心の実験室」は、ちょっと思うところあって、去年まではやらなかった、思考のトレーニング的な授業を組んでみた。

 基本的な発想は、仮説実験授業とし、最初にインパクトのある問題、あとは練習問題的な問題で8問ほど配列してみた。もっとも、本家仮説実験授業では、最初、中盤、最後とインパクトのある問題が配列されており、そういううまい配列はできなかったのだけれど。

 それでも、最初の問題に対する学生の反応(判断の理由づけ)を見ても、いろんな考え方があるなあというのがよくわかった。今回は指名方式で意見を聞いたのだが、次は、カードに書かせて黒板に全部貼らせる、という小学校的なやり方がいいかもしれない、と思った。

 それにしても今日の内容は、前に教えに行っていた専門学校では、2〜3コマかけてやるところである。それを今日は1コマでやったので、十分とはいえなかったが、しかし、問題の配列を考えたので、基本の部分は理解されたのではないかと思っている。詳細は、来週出るレポートを見ないとわからないのだけれど。

 今日、ふと思いついて授業中にやったことで、割とうまくいったのではないかと思ったのは、妥当に見える推論と妥当ではないように見える推論に共通する部分を考えさせ、指摘させるというもの。見た感じ、この問いはインパクトがあったのではないかと思う。またこの授業は、夏休みに現職教員対象に行う予定なので、そのときはもう少し改善して実施したいと思っている。

【授業】思考力の育成

2004/06/28(月)

 今日の「教育心理学」のテーマは「思考力を育てる」。思考は一応私の専門だが,思考力を育成する教育がどのような教育なのか,私自身答えが出ていないので,教えにくい部分である。それに,思考「力」を「育成」なんてできるのか?と私自身思っているので,そういうことを言い出すともう授業しようがないのだが,そのことは表に出さないことにして,とりあえず学生に,学生には,「考えるとはどういうことか」「考える授業はどのような授業か」を考えてもらうことを目的とする。

 そのために,配布資料としては,「考えること」についてのヒントがあると私が感じる文章や,今日の授業の補助になりそうな文章の抜粋を載せた。使ったのは,『開かれた学びへの出発』(市川伸一,金子書房),『日本史討論授業のすすめ方』(加藤公明,日本書籍),『はじめて考えるときのように』(野矢茂樹,PHP),『思考のレッスン』(丸谷才一,文春文庫),『考えることの教育』(佐伯胖,国土社)である。

 授業は,最初にテキストで「思考」「収束的思考」「拡散的思考」について押さえたあと,中心部分は,「わくわく授業」から「貝塚の犬の謎を追え!」を見せつつ,適宜ビデオを止めて,プリントに載せた文章を参照しながら解説を加える形にした。最後に書かせた意見書によると,このように途中で解説をはさむやり方はわかりやすい,と書いている学生がいた(分かりにくいと書いている学生はいなかった)ので,まあ悪くなかったようである。

 以前は,思考力を刺激するような授業実践を3つほど紹介していたのだが,このように一つをじっくり取り上げると,時間的にも余裕があって,なかなか悪くないことが分かった。ただ,その時間をあまりうまく使うことができたとは言いがたい。もう少し学生に考えさせる時間をとったりすべきだったかと思う。特に「考えるとはどういうことだと思うか」という抽象的な質問には学生も戸惑ったようだ。もう少し,実際に考える体験をさせたり,体験を思いおこす時間をとって考えさせたり,隣近所で話し合わせたりしたらよかったかと思う。この問いは私自身明確に答えを持っていない問いであるにもかかわらず,学生に性急に答えを要求しすぎたような気がする。まあでも授業は,加藤先生の授業ビデオのインパクトが大きく,学生はそれなりに満足してくれていたようだが。

【育児】妻のいない60時間

2004/06/27(日)

 子どもが生まれて初めて、妻が60時間不在であった。学会に出席するために東京に行ってしまったのだ。こういうことは、22時間いなかったこのとき以来だし、不在時間はそのときの倍以上である。しかも未だにうちの娘たちは、入浴や歯磨き時、「ママがいいー」と言うことが少なくない。うちの娘たちは甘えんぼなだけでなく、言い出したら後に引かない我の強さを持っている。今回も、果たしてどうなることやら、という不安も少なくなかったが、まあなんとかなるかと思って妻を送り出した。ということで、この間のことを記録しておく。

2004/06/25(金)

 朝、起床時間の遅い子どもたちは、早出の妻の顔を見ることなく起きるのかと思っていたが、上の娘(6歳0ヵ月)も私も、いつもより1〜2時間も早く起きてしまったため、まだ寝ていた下の娘(3歳9ヶ月)を起こして、一緒に近くの駅まで車で送りに行くことに。別れは案外あっさりしていた。しかしこれからが長丁場である。

 朝:朝食をどこで取るかでひと悶着あったものの、割と簡単に収まり、いつもと同程度に朝食も済ませ、いつもより少し早めに幼稚園へ。ここでのお別れも、意外にすんなりといった。

 夕方:子どもたちがさびしがっているといけないと思い、いつもより早めに保育園にお迎え。ところが心配するまでもなく、二人とも元気に過ごしていた。ただし、二人ともなぜか学童保育中に鼻血を出したそうだ。それから一度家に荷物を置きに帰ってから外食に。上の娘の希望で沖縄そば屋さんに行って、そばと定食を食す。いつもは家族4人で外食に行くと、誰が妻や私の横に座るかでとてももめるのだが、今日は、下の娘がすんなりと私の向かいに座ってくれた。さらにいつもは、食べたがらない娘たちに食べさせるので大変なのだが、今日はそういうことはなく、二人とも勢いよくそばを平らげる。それに加えて、とんかつやいなり寿司、サラダもそこそこ食べてくれたので、食事の苦労はほとんどなかった。

 夜:上の娘が車の中で寝てしまった。家についてからも眠いようで、そのまま眠ってしまった。下の娘は一人で好きなDVDを見たりお絵かきしたりしているので、私も少し読書ができた。しばらくして上の娘を起こして風呂に入ったり歯磨きをしたりしたが、こちらもいつもよりすんなり進んだので、いつもより1時間早く寝ることができた。まあ途中、いろいろあって、上の娘が大泣きしたりしたこともあったのだけれど。

2004/06/26(土)

 夜中:いつも妻が寝ているポジションに寝たところ、けっこう大変であることが判明。下の娘はゴロゴロぶつかってくるし、夜中に「喉が渇いた」と起こしに来るし。おかげで寝不足。

 朝:上の娘はぐっすり寝たようで、いつもより1時間早く起きる。下の娘もそのうち(自分で)起きてきたため、私が一番遅起きに。まあ二人が起きたのは知っていたが、もう少しゴロゴロしていたかったのだ。その後、軽い朝食とゴミ捨て、洗濯は予定通り。

 昼:早めに昼食を取るため、11時ごろから準備を。ちょうど10時から見ていた「伊東家の食卓」で、ゆで卵をむきやすくする裏ワザを紹介していたので、メニューに急遽ゆで卵を追加。メニューと入っても、ほとんどあり合わせで、私が作ったのは、ゆで卵以外は、きゅうりとわかめの酢の物だけなのだけれど。

 2時から上の娘のお友だちと約束していたので、それに間に合うように家を出る。2時前につき、一緒にプールへ。私はこの夏、初プールである。下の娘は、ちょっと前までは、プールでは浮き輪があっても「コワイコワイ」言っていたのに、今日は屋外のプールで開放感があったせいか、そのうち「一人で泳ぐ」といい始めた。はじめはほとんど前に進まなかったのだが、一人で遊ばせているうちに、どんどん前に進めるようになっていた。子どもって、ほんのちょっとの間にすごく進歩するものだなあと感心した。

 そういえば、妻なしで子ども二人に応対していると、普段、妻が口やかましい理由がよくわかった。私自身そうなったので。子どもをずっと見ていると、落としそうだったり転びそうだったり何やかにやで、ついつい口を出したくなってしまう。これは一つ発見だった。

 夜:7時まで遊び、8時に帰宅。ありあわせ+頂き物+弁当で食事を。昼間に遊びながらいろいろお菓子をつまんでいたせいか、娘たちはあまり食が進まないようだったが、なんとか食べさせ、お風呂に入り、部屋を片付け、妻に電話して歯磨きして就寝。今日も、いつもより1時間早く寝せることに成功した。

 そういえばお風呂のとき。3人で入り、先に洗い終わった上の娘の身体を拭いて、「自分で下着とお寝巻きを着なさい」というと、「一人ではコワイ」といって、それらがある部屋に行こうとしない(私と下の娘はまだ風呂場)。確かにその部屋は電気は消えているが、隣の部屋との間の戸は開いているので、別に怖くないのに、と思うが、まあ本人が怖いというのだからしょうがない。どうしたものかと思いつつ下の娘を洗い終わり、「一緒に行ったら?」と言ってみると、下の娘(3歳9ヶ月)が上の娘の手を取ってリードして行ってしまった。二人の個性というか行動傾向の違いがとても現れていて面白かった。もちろんこれはどんな状況でもそうだというわけではなく、台風など、上の娘は平気で下の娘は怖がる、というシチュエーションもあるのだけれど。

 そういえば今日1日も、娘たちが母を恋しがって泣く、みたいな状況はまったくなかった。

2004/06/27(日)

 朝:今日も上の娘が6時40分に起床。「怪傑ゾロリが見たい」というので、7時になったら教えることにして、私はもう少しゴロゴロ。7時に娘を見ると寝ているように見えたが、私が置きだす気配を察知してすばやく起きてきた。下の娘も、ほどなく自分で起きてきた。ゾロリを見たあと、「デカレンジャー」も見たいというので、それを見せながら朝食の準備をし、食べさせる。あまり進んでいなかったので、8時にテレビは消し、残りを食べさせ、お着替えを。8時半から、娘たちが「二人はプリキュア」をみている間、私は皿を洗い、コーヒーを入れてネットを見ながら一休み。9時には外出の準備ができていたのだけれど、まだ出たくないというので、電話で妻としばらく話をさせてから、9時半前に外出した。10時からのミサに行くためである。

 9時半過ぎには教会についたので、幼稚園の園庭で10時前まで遊ばせ、持参した冷茶を飲ませ、トイレに行かせてからミサへ。普段はミサに家族4人で出席するときには、子どもたちを静かにさせるのが大変なのだが、今日は妻がいないせいか、上の娘はとてもおとなしく座ってくれていた。下の娘は、おとなしく座ってはいなかったが、あまり騒ぐことなく、イスの下にもぐったりして過ごしていた。

 昼前:教会終了後、上の娘が図書館に行きたいというので、市立図書館へ。今日は私ひとり分のカードしかなく5冊しか借りられないので、上の娘が2冊、私が3冊(いずれも絵本か児童書)を選んだ。下の娘が眠いというので、外食はやめにして、うちでお好み焼きを焼くことに。お好み焼きは、毎週日曜日に作っている。とはいっても、私は用意された具を焼くだけなのだが。今日は、適当にキャベツをザク切りしたりしながら、私が具を用意し、焼くところまで一人でやった。その間、娘たちは絵の具で絵を描いて過ごしていた(眠いと言ったくせに、下の娘はちっとも寝ない)。

 12時半に焼き終わり、食べ始めた。いつもは、上の娘も下の娘もあまり食が進まないので、私が脅したりすかしたりしながら食べさせるのだが、今日はなんだかお腹がすいていたようで、私が一切手を出すことなく、二人とも自分で食べ、1時過ぎには食べ終わった。

 後片付けが終わったので、二人に一冊ずつ絵本を選ばせ、読んであげてから3人で昼寝した。妻を空港に迎えに行くのは夕方なので、昼間に寝るといいのになあと思っていたら本当に寝てくれた。ここまで、実に予定通りの順調な進行である。

 子どもが2〜3時間寝ている間に、私は読書。子どもを起こして、空港へ向かう。ちょっと早めだったので、空港近くのショッピングセンターに車を止めて、モノレールで空港に向かう。子どもたちはモノレールに乗るのは3度目だそうで、下の娘は、ほんとうに窓の外をじーっと眺めて喜んでいた。妻の飛行機がつくまで、ロビーの水槽の魚を眺めて過ごした。再会はあっけないもので、子どもたちは別に懐かしがるでもなく、すぐにいつもどおりに戻った。それから食事をして、ようやく帰宅をしたという次第

 それにしても私は、久々に目いっぱい「親」気分を味わった。やはり一人で二役は結構大変で、私はしょっちゅう、上の娘と下の娘の名前を呼び間違えた。それだけいっぱいいっぱいだったということか。しかし、たまにはこういうのも悪くないかなあと思った部分もある。

■『中学校を創る―探究するコミュニティヘ』(福井大学教育地域科学部附属中学校研究会 2004 東洋館出版社 ISBN: 4491020051 ¥2,625)

2004/06/25(金)
〜本質的な問いから始まる探究〜

 福井大学附属中学校の授業実践についての本。同校の指導助言者である秋田喜代美先生からいただいた。同校の本は以前にも、『探究・創造・表現する総合的な学習』を読んだことがあるのだが、正直言って、面白い部分はあるものの、全体としては今ひとつピンと来なかった。それはおそらく、総合的な学習に焦点を当てたものだったからだと思うのだが、本書はその点、教科学習の中で、「探究」が扱われる様子がよくわかり、とても興味深い本だった。

 たとえば、中学1年の数学で「負の数」を扱うときには、「身のまわりにあるマイナスを探してきましょう」から始まり、探してきたものをグループごとに1枚の紙にまとめ、それらを仲間分けし、共通点に着目し……、という形で授業が進んでいく。その中で、生徒のちょっとしたひっかかりは適宜取り上げられながら進められていく。

 あるいは理科でいうと、自分たちが作ったエジソン電球のフィラメント部分にシャープペンシルの芯を置くと光る、という現象を取り上げて、それがどうして光るのかをグループごとに実験して検証し、さらにはフィラメントを自分たちで作ったりしている。数学では、鉄道のダイアグラムを自分たちで作ることで一次関数の諸概念を学んだり、体育では、走り高跳びのコーチを生徒同士で交互にやったり、技術では、学校(たとえば教官室)に必要なものを教師に聞きながら自分たちで工夫して作ったりしている。

 確かにこういう活動なら、読んでいても「面白そうだな」「やってみたいな」「どうなるんだろう」と思えるという点で、従来的な(あるいはその改良型的な)授業とは一線を画す実践が行われているようで、読んでいてワクワクした。

 このような授業は、佐藤学氏流に言うと、「目標−達成−評価」型の授業ではなく、「主題−探究−表現型」となる。これまで私は、この2つが実際にはどのように違うのか、実は今ひとつピンと来ないと思っていた。同じような活動でも、レトリック的に言葉の上だけで後者のように表現することもできないわけではないし。そのような点について、同校の共同研究者である福井大学の松木氏は、次のように述べている。

そもそも人間の主体的な活動のほとんどは、発意・構想・構築・遂行・省察のサイクルを繰り返すことで成立っている。漢字を連ねると堅苦しく感じられ、どうしても経なければならない経過のように思われるが、やりたいと思ったことについて思いをはせ、やり方を考えては実行し、やった結果を反省してまたやり直す。ごく自然な思考の流れである。むしろ、指導中心の授業の方が不自然である。学習活動の「発意・構想・構築」の部分は教師が企画して子どもに提案し、子どもは「遂行」の部分のみを求められ、テストが「省察」の肩代わりをするのが、知識・行動の獲得をめざした指導中心の授業形態なのである。(p.188)

 このことについてはそのほかにも本書には、秋田氏による「教える視座から、生徒の学びの経験を可視化しそこから授業をデザインするという視座への転換」(p.182)という表現もなされている。これらの記述や本書全体から、従来型とは違う授業との違いが何となく見えてきたように思う。しかしそれは、上の引用にあるように「学習活動の「発意・構想・構築」の部分は教師が企画」しない、ということではないのではないだろうか。というのは、上に例としてあげたいくつかの実践は、少なくとも出発点や要所における問いかけや活動設定は、本書で見る限りすべて教師が行っているからである。

 しかし、上の例で言うと「シャープペンシルをフィラメントにする」実験で問われているのは、「教科書を読む(=知識伝達)だけでは解けない問い」である。あるいは、走り高跳びのコーチを生徒がやるとか、学校に必要なものを技術の時間に作るというのは、教科内容を学ぶためだけに設定された活動ではない。このような授業は、適切な表現かどうかわからないが、「本質的」な問いや活動を軸にした学び、というふうにいえるのではないかと思う。そのような本質的な問いや活動であれば、教師が仕組むことはあまり問題がないだろうし、そこから始まる「遂行」が「省察」されることにより、自分たちの「発意・構想・構築」(そして遂行−省察)に広がっていくのであろう。

 本書ではこのような授業における「探究」以外にも、上級生から下級生へと学校文化が継承されながら創造・発展していく様子や、教師集団の研究のあり方や個人個人の成長のあり方、大学教員の関わり方など、示唆的な話は多かったのだが、長くなるのでこれぐらいにしておく。それにしてもこのような学校における学びや行事、研究のあり方について、一度この目で見てみたいものである。

【授業】思考(確率推論)

2004/06/24(木)

 今日の「心の科学」は,学期始めには,動機づけとか欲求の2回目を予定していたのだけれど,どう考えても,これ以上この手の話をできないような気がして,「思考心理学」の1回目とした。テーマは「確率推論」。

 8年前にこの授業をやったときには,こういう話はほとんどしなかったのだけれど,別の授業で1回やったことがあったので,そのときの授業計画を元にやろうした。しかし,なんだか全体がうまく統一が取れてないような気がしたので,それをベースに半分ほど改定して授業に臨んだ。というか,全面改訂しようとしたのだが,なかなかうまいストーリーにならなかったので,とりあえず,過去のものから使えるものをピックアップして形にしてみたのだ。結果としては,まあまじめに問題に取り組んだ学生にとっては面白かったかもしれないけれど...という感じであった。あくまでも私の見た感じでしかないが。

 授業は,不思議現象を使った導入の後,誕生日問題をはじめ,問題を7問ほど用意し,一つ一つ,学生に考えさせながら進めた。この教室は,机のまとまり(「シマ」)が4つあり,それぞれのシマに28人前後の人が座っていたので,誕生日問題では,予想させた後に,各シマに「誕生日記入シート」なるものをまわし,実際に誕生日が重なる人がいるかどうかを確認した。28人なら誕生日(月日)が重なる確率は65%あるのだが,今日は4つのシマ中一つしか,同一の誕生日のペアはいなかった(のでちょっと困った)。後から誕生日記入シートを見てみると,2つのシマを合わせて見ると(つまり58人前後),同じ誕生日のペアがどちらにもいたので,そうすればよかったのにと反省した。58人で同じ誕生日のペアがいる確率は99%。次年度はこちらも予想させ,結果を見てみよう。ちなみに一つのシマには,私と同じ誕生日の人もいた。これもすぐに気づいたらネタとして使えたのになあ。

 このほかにも今日の授業は反省点が多い。いつもは何か一つ映像教材を使うのだが,今日は適当なものがなかったので,確率推論の問題をやらせることをメインに据えたのだが,なんだか数学の時間のようになってしまった。もう少し参加しやすい,そして分かりやすい驚きのある形にできるといいのだけれど。また,選択肢がある問題では,ひねくれた学生が少なからずいるようで,特に理由はないけれど意外な選択肢を選ぶ,という学生がいた。次回からは,選択肢を答えさせるときは,理由つきで答えさせたほうがいいかもしれない。あと,最後のまとめも,もう少し「なるほど」と思ってもらえるような例が挙げられるとよかったのにと思った。まあ次年度は,もう少し工夫をしてみよう。

【授業】ブラインド・ウォーク

2004/06/22(火)

 今日の「心の実験室」は「ブラインド・ウォーク」。昨日の天気予報では,降水確率50%で,どうなるかと思っていたが,実際は,くもり時々晴れで,外を歩くには悪く兄天気だった。幸いにも出席者が偶数だったので,私は教室で荷物番をしながらクーラーで涼めたし。

 実はこの題材,12年前に初めてこの授業を持ったときに,頭数合わせ的に入れたものだったのだが,受講生には好評なので,定番となっている。時間配分は,20分説明,50分ブラインド・ウォーク体験,20分シェアリングというところ。

 ただしシェアリングといっても,きちんとした課題を出してやらせているわけではなく,思ったことや感じたことを相手と話し合わせているだけなので,ちょっと足りなかったのではないかと反省している。それに,この体験を行うことの意義づけも弱かったかもしれない。ということでとりあえず,構成的グループエンカウンターの本を一冊注文してみた。まあ,次年度の授業前までには読むとしよう。

【授業】学習意欲

2004/06/21(月)

 今日の「教育心理学」のテーマは「学習意欲」。先日の共通教育科目「心の科学」でも「内発的動機づけ」の話をした。なんだかここのところ,この2科目で内容がかぶっているが,どちらも教科書がそうなっているので仕方がない。

 去年はこの授業では,市川先生の動機づけ2要因モデルを説明したのだが,今年はそれはヤメにして,賞罰がその後の自発的な活動をいかに阻害するか,という話を中心にする。教科書には,デシの実験は1つしか載っていないので,デシの本に基づいて,計8つ紹介し,「自律性」「自己決定」の重要性を分かってもらうようにした。

 デシの本によると,彼の研究は,「常識を揺さぶる」(p.33)結果だったとか,「多くの人たちにもこの考えは受け入れられなかった」「辛らつな批判がさまざまな雑誌や定期刊行物に掲載された」(p.35)などと書かれているが,私にとっては,このような研究を聞きなれているせいか,デシの結果のほうが常識的で,これが受け入れられない事態が想像できない。しかし,授業最後に書かせる意見書を見ると,「以前心理学の本で同じような研究を読んで,動機づけが下がることが不思議だった」とか,「家庭教師先の保護者が『〜点取れたら〜買ってあげる』と言っていたのが気になっていたが,その理由を今日の授業で納得した」「ちょっとショックな内容だった」という意見が出ていたので,丁寧に説明してよかったのかと思った。ただし,説明が淡々と進んでしまったので,もう少し工夫が必要かもしれない。デシの本には,最初の実験以外はあまり詳しい実験状況や結果が書かれていないので,原典に当たる必要があるのかな... あと,今日は講義部分は終了15分前に終わった。おかげで全員が終業前に意見書を書き終わっていたが,どこかにあと5分ぐらいは時間をかけても良かったかもしれない。

 なお今日は,授業冒頭で,「公文式でバイトしていて疑問に思っていること」を一人の学生にレポート発表してもらったのだが,その内容に関する意見が,今日の意見書の中に結構な数出されていた。多分今までにされたレポート発表(毎時間やっている)に対する意見としては最多ではないかと思う。テーマ的に皆興味や意見があるのだろう。とはいっても,授業中に意見を募っても一つも出されなかったのだけれど。どうやったらその場で意見を出させることができるのだろう。

■『定常型社会─新しい「豊かさ」の構想』(広井良典 2001 岩波新書 ISBN: 4004307333 \735)

2004/06/20(日)
また台風。
〜関係論的社会(?)へ〜

 成長型社会に変わるコンセプトとして、ゼロ成長社会を提案している本。本書ではそれを「定常型社会」と呼んでいる。それは、「「(経済)成長」ということを絶対的な目標としなくても十分な豊かさが実現されていく社会」(p.i)である。

 本書では基本的に、経済に関する現状・歴史分析と、それに基づく今後の展望が描かれているのだが、そこで視野に置かれているのは、「A.経済(市場)−B.福祉−C.環境」という3者の関係である。これは「A.個人−B.共同体−C.自然」ということも可能であり、この観点で見るならば、近代社会とは、次のように理解することができる。

第一に伝統的な「共同体(コミュニティ)」関係から「個人」が自立していくことを通じ、第二に産業技術をはじめとするテクノロジーを通じて、「人間」が「自然」を積極的に利用・支配することを通じ、Aの個人=経済/市場の領域が、Bの共同体やCの自然の次元からいわば次々と"離陸"し、拡大していくところに発展したのが近代社会/産業化社会であった。(p.6)

 さらにこの図式でいうならば、環境問題とは、「経済」と「自然」の関係に関わる問題であり、社会保障(福祉)の問題は、「経済」と「コミュニティ」に関する問題として捉えられるのである。こういう位置づけが本書では随所になされている。何度か書いているように、私は政治経済オンチなので、このようにすっきりと大局的に語られると、それだけでとても魅力を感じてしまう。

 では、筆者の提唱する定常型社会とは、具体的にはどういう社会なのか。実はそのところは、多分私は十分には理解できていない。わかった範囲でいうとおそらく、経済=個人を単位とするのではなく、コミュニティや自然を基本とし、成長に価値を置かない社会を提案しているようであった。ただそれがどのような社会なのかは、私には本書からは十分にはイメージできなかった。

 もっとも断片的にはいくつかわかったことはある。たとえば、これからの時代は生産年齢人口割合が減少しても、女性の就業率が上昇するので、「トータルの就業割合は大きく減少することはない」(p.61)という話があったり、「消費の脱物質化」、「経済の量的拡大をそれ自体を目標としない「豊かさ」の可能性をひらく」、「コミュニティや自然へのつながりを見出していく」(p.160)というイメージが描かれていたり。具体的にはおそらく、「地域通貨や各種の切符といった「媒介・流通手段」をつくることで、人々の間の相互扶助的な関係や情報のネットワークづくりを支援あるいは加速すること」(p.104)ということなのだろうが、それが、「地域というレベルで「環境−福祉−経済」という三者が一体となったコミュニティの姿」(p.105)をどう実現するのかはちょっとイメージできなかった。

 まあそれでも、こういう「脱近代社会/産業化社会」的な話に魅力を感じてしまう。それは、産業革命から個体能力主義が生まれた、という話(『発達心理学再考のための序説』)から考えるならば、これが、個体能力主義から関係論への移行、という図式と近いものがあるからだろうと思う。乱暴な結び付け方かもしれないけれど。

【授業】内発的動機づけ/保育参観

2004/06/17(木)

 今日の授業は共通教育科目「心の科学」で「内発的動機づけ」の授業。

 前回オペラント条件づけの話をしたので,人や動物は,賞罰があるから行動する,学ぶように見えるかもしれないが,そうではなく,もともと好奇欲求や感性欲求を持っているといって,サルの窓のぞきの話や感覚遮断実験の話を,まず簡単にした(あまりうまくできたとは思えないが)。それから,そのようなやる気を阻害するものとして,学習性無気力と,報酬除去後の無気力の話(こちらもあまりうまくできたとは思えない)。

 最後に,市川先生の「動機づけの2要因モデル」の質問項目にチェックをさせて,動機づけが内発−外発の2つではなく2次元の6つほどがあることを話し,その例として,NHK「わたしはあきらめない」の長谷川理恵の回を見せ,彼女の行動の原動力が内容軽視のもの(関係,自尊,報酬)から内容重視のもの(充実,訓練,実用)に変化していった様子に着目させた。もっとも,市川先生の2要因モデルは「学習動機」のモデルなので,こういう職業関連のことと結びつけるのは,案外容易ではないように感じた。この点はもう少し私なりに消化して,次年度は紹介できればと思う。それ以外にも,他の研究の紹介もあまりうまくできたとは思えないので,この点も今後の検討課題か。

 今日の午前中は,半休をとって下の娘(3歳9ヶ月)の保育参観へ。先日見た年長組と違い,年少なので,遊び時間は多いし,お勉強的な要素は少ない。うちの娘も,始業前,最初はこちらを気にしていたり,ちゃっかり先生のひざに座って甘えん坊ぶりを発揮したりしていたが,そのうちおもちゃの方へ行ってしまったし,それなりにほかの子とも交流していたので,親としては一安心。教室での自由遊びの時間,多くの子は,だらだらとすごしていたり,ブロックを銃に見立てて「バンバン」などと言って遊んでいたが,中には,おもちゃの湯のみをお盆に載せて,せっせとみんなに給仕したり,おもちゃのアイロンでアイロンかけをしていた男の子がいたりして,ちょっと感心したりして。

 今日の授業は体育で,おもしろい先生が,楽しく子どもたちに体操させたりマット遊びをさせていた。うちの娘たちも,よくその先生の名前をうちで口にするのだが,こういう先生(授業)だったら子どもたちは大好きだろうなというような先生(授業)だった。元気なお父さんという感じで。

 もっとも下の娘は,幼稚園に通い始めてまだ2ヶ月ちょっとだと言うのに,たまに「幼稚園はあんまり好きじゃない」と言ったりするらしい。ほかの,教室でやる授業がどんなもので,うちの娘がどんな様子なのか,次はぜひ見てみたい気がする。下の娘のふだんの様子や今日の体育の授業を見るかぎり,無気力とは無縁な気がするのだけれど(と,今日の大学での授業と無理やり結び付けてみたりして)。


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