読書と日々の記録2004.7上

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■読書記録: 15日『収容所から来た遺書』 10日『それでも人生にイエスと言う』 5日『人はいかに学ぶか』
■日々記録: 13日【授業】考え方を考える(3) 12日【授業】教育相談 8日【授業】創造的思考 7日雨後のマイマイ 6日【授業】考え方を考える(2) 5日【授業】教育評価 1日【授業】問題解決

■『収容所(ラ−ゲリ)から来た遺書』(辺見じゅん 1989/1992 文春文庫 ISBN: 4167342030 476円)

2004/07/15(木)
〜精神の自由の国を保つ男たち〜

 第二次世界大戦後、シベリアに抑留された人たちについてのノンフィクション。シベリア抑留という言葉は聞いたことはあったが、その実態はまったく知らなかった。まず、基本的な事実を押さえておく。(〔〕内は道田による補足)

  1. 武装を解除された日本軍の将兵と満蒙開拓青少年義勇軍や民間人を含む約六十万人が、〔1945年〕八月十七日から翌年三月にかけて続々とソ連軍の俘虜になった。(p.14)
  2. 戦犯とされた人びとを除く大多数の一般俘虜たちの帰国が、この年〔1949年〕のうちにほぼ終了した。(p.34)
  3. 〔戦犯の〕裁判はかなり形式的で、裁判官が居眠りしていたり、女性裁判官が子供に乳を飲ませながら二十五年の刑を言い渡したところもあった。しかも、裁判が行われたのは上等なほうで、本人不在の欠席裁判が大半であった。(p.67-68)
  4. 〔1955年には〕シベリアに連行されて約十年、飢えと寒さと強制労働によって、ラーゲリでは衰弱する者たちが続出した。抑留者たちの平均年齢は四十二歳となっている。(p.257)
  5. 鳩山首相ら日本全権団が、クレムリン宮殿の大理石の間で日ソ共同宣言と通商議定書に調印したのは、一九五六(昭和三十一)年十月十九日である。このとき、ソ連の国内法で戦犯とされた日本人抑留者全員の釈放が急遽、決定した。(p.262)
  6. ラーゲリ〔収容所〕に収容された約六十万人の日本人のうち、極寒の異郷の地で飢えと重労働の日々、望郷の思いを抱いたまま果てた人びとの数は、一割を越える七万人以上といわれている。(p.287)

 本書で扱われているのは、上記5でようやく帰国することのできた人たちである。彼らは、いつ帰国できるかもわからず、仲間が飢えや重労働、病気で死んでいく中、11年以上に渡って収容所で暮らしてきた。本書を通して、その日常をとても実感的に理解できたように思う(あくまでも私がそんな気がするだけだが)。それは、本書の解説にも書かれているように、「捕虜生活のディテールの描写」(p.293)が丁寧にされることによって、収容所での苛酷さや理不尽さだけでなく、日常の時間感覚を感じさせるように書かれているからであろう。要するにすぐれたノンフィクションということである(本書は講談社ノンフィクション賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している)。

 そのような体験を追体験できる本として、本書はある面、『夜と霧』に似ている。『夜と霧』によると、収容所生活によく耐えたのは、「精神の自由の国、豊かな内面へと立ち戻る道が開けていた」人であることが記されている。しかし『夜と霧』は、精神科医フランクル本人の体験が中心であり、そのような「精神の自由の国」を持っていた人がどのような人であったのかは、あまり具体的には見えてこなかった。しかし本書では、まさにそのような人物である山本幡男氏が中心に描かれているため、それがどのような人であるかがよくわかったように思う。

 山本氏はどのような人かというと、「日本へいつ帰られるか、生きて帰られるかどうかもわからんじゃないですか」という仲間に対して、「生きていれば、かならず帰れる日がありますよ」(p.58)とか「ぼくたちはいろんな目にあった。だけど白樺の肥やしにはまだならなかったんだ。だからね、希みを捨てたら駄目だ。みんなで、かならず生きて日本に帰ろう……」(p.74)、「こんな楽しい世の中なのになんで自分から死ななきゃならんのですか。生きておれば、かならず楽しいことがたくさんあるよ」(p.107)というようなことを常に言っていた人だったのだそうである。

 それだけでない。山本氏は仲間を誘って、万葉集を語るような勉強会を主催したり、句会を作ったりしている。俳句って、単にその人の趣味なんじゃないの?と最初は思ったりもしたが、誘われた仲間たちの様子は、次のように記述されている。

句会の集まりは、ラーゲリ内のとげとげしい雰囲気がウソのような別世界であった。/句会のときだけはみな日頃の作業の辛さも忘れる。むしろ作業中にも次の句会に投ずる句などを考えていると、単調で辛い労働も違ったものに感じられてくる。メンバーはしだいに句会の楽しさにのめり込んでいった。(p.88)

 句会といっても気楽に行えるものではない。もっとも収容所内で字を書くことはスパイ行為とみなされ、厳しく罰せられるのだそうで、筆記用具さえ手に入らない。そこで彼らは、こっそり作業用のセメント袋を切って短冊にし、馬の尻尾の毛などから毛筆を作り、煤煙を水で溶かして墨汁代わりにしている。終わったとは、俳句を書いた紙を土に埋めたり便所に細かく千切って捨てたそうで、それだけしてでも句会を行うことは、フランクルの言葉でいうならば、「精神の自由、内面の豊かさ」を保つためには必要だったということであろう。

 なお、本書タイトルにある「収容所から来た遺書」については、エピローグからあとがきにかけて出てくる。帰国した被収容者が、収容所内で亡くなった人の遺書を、日本にいる遺族に届けるという話である。遺書を届けるといっても、上に書いたように、字を書くこと(字を書いた紙を持っていること)は厳しく罰せられる行為である。しかも、「帰国前の検査は厳重で日本に持ち帰るのは至難の業だった」(p.243)という。ではどのようにして遺書を届けたのか。あまり詳しく書くとネタバレ的になってしまうので詳しくは書かないが、遺書を届けるくだりは、私は涙が止まらなかった。こういう結末になることは、最終章を読んで十分予想していたにもかかわらずである。それはちょっと不思議な体験であった。ということで結論を言うと、◎◎◎のおすすめ本である。

【授業】考え方を考える(3)

2004/07/13(火)

 今日は、モラルジレンマ授業をやってみた。私自身はやったことも受けたこともない。本を読んだだけで初挑戦である。使った題材は、ハインツのジレンマである。

 やってみてわかったことがいくつかある。まず、意見は半々には分かれないものだということがわかった。今回の場合は、「盗むべき」が20、「盗むべきではない」が8と、前者が圧倒的に多かった。

 その後の討論も、どう展開し、どう口を挟めばいいのかわからないままに終わってしまったのだが、考えてみれば、これだけ人数がアンバランスになったので、もう少し後者を応援すればよかった。

 とはいっても、何も口を挟まなかったわけではない。「盗むべき」派の人たちには、「じゃあ奥さんを愛していなかったら? よく知らない隣の人だったら? 可愛がっている犬だったら?」と問いかけてみた。ここで面白かったのは、それでも盗むべき、と答えた学生が2名しかいなかったことだ。このあたりのことは、もう少しうまく使えればよかったのに、と思う。

 ということで、事前準備が不十分であることが露呈した授業であった。というか、このような展開になることが事前に予想できなかったことが敗因であった。次はもう少しうまくやれるのではないかとは思うのだが。

【授業】教育相談

2004/07/12(月)

 今日の「教育心理学」は「教育相談」。こういうテーマは,自分の専門でもないし,自分自身相談した経験もされた経験もないので,とても難しいのだが,テキストにもあるし採用試験でも出ることがあるし教員として知っておくべきことだろうと思うので,毎年なんとか授業をしている。

 まず,概要を話すのだが,これも,うまく理解されているかどうかよく分からず難しい。今年は,クライエント中心療法の概要に関するテキストの記述を,指名した学生にテキストを読ませながら,私なりに概念地図(コンセプト・マップ)風に板書して説明した。

 そうやって概要がなんとなく分かったところで,NHK「わたしはあきらめない」の「東ちずる」の回を16分ほど見せる。彼女はアダルト・チルドレンということで,母とそろってカウンセリングを受けており,その体験を話しているのだ。このビデオは,学生にはとても興味深かったようだ。ビデオの途中で,オウム返し的返答などについても解説したが,これはビデオ前が良かったかもしれない。

 最後に,無条件の肯定的配慮や共感的理解のある例とない例を示すため,以前の受講生のレポートを2編紹介する。あらかじめレポートを見る観点を示していたせいか,学生もその内容を,今日の授業との関連で理解しており,また,受容と共感のある教育相談例のほうは,学生も,興味深く聞いていたようだ。意見書にも「今日の講義は感動的だと感じる場面がとても多かった」とか「授業の最後に先生が読んでくれた「わたしの教育相談」にすごく感動した」「今日の授業は学んだと言うよりもとても心に響いた授業だった」とあった。まあこれらは,ビデオと過去のレポートの力だと思うのだが。あ,そういえば授業最初に,前回の補足的なレポートをある学生が書いてくれたので,それを発表してもらったのだが,その内容は,『兎の眼』(灰谷健次郎)を紹介し,「評価というものはとても一面的なものだということを忘れてはいけないと思う」というようなものであった。学生が感動した一因には,このことも含まれているに違いない。そういう意味では,学生の任意レポートのおかげで,前回と今回のつながりも今日はとてもうまくいっている。

 次年度は,講義部分も,それらの事例をもっとうまくサポートできるような講義にできればと思う。なお今回は,最後に5分ほど余ったので,もう少し内容を増やすことができそうである。

■『それでも人生にイエスと言う』(V. E. フランクル 1947/1993 春秋社 ISBN: 4393363604 \1,785)

2004/07/10(土)
〜生きるとは問われること〜

 フランクルが強制収容所から解放された翌年に行った講演集。3つの講演が含まれているが、その内容は簡単に言うと、「人間はあらゆることにもかかわらず人生にイエスと言うことができる」というものである。「あらゆることにもかかわらず」の部分が3つの講演になっている。「困窮と死にもかかわらず(第一講演)、身体的心理的な病気にもかかわらず(第二講演)、また強制収容所の運命の下にあったとしても(第三講演)」(p.162)、である。

 あまり集中して読めなかったせいか、「人生にイエスと言う」という語の意味が今ひとつ明確にはわからなかったのだが。多分、どんな人生にも意味があるので肯定すべき(否定しない)ということだと思うが。

 興味深かったのは、「コペルニクス的」な転換についての話。それは次のようなものである。

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。(p.27-28)

 われわれが人生の意味を問うのではなく、人生がわれわれに問う問いに答えなければいけない、ということである。筆者は、「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うのではなく、「人生は私になにを期待しているか」、「人生のどのような仕事が私を待っているか」と問うのだという。

 人生が私に出す問いは、「瞬間瞬間、その人その人によって、まったくちがって」(p.29)いるという。それは、チェスにたとえて言うならば、「まったく特定の、具体的な勝負の局面、具体的な駒の配置をはなれて、特定のいい手、そればかりか一番いい唯一の手というものが」(p.30)ありえないからだという。なるほど、なかなかうまいたとえだ。全体としてはまだ明確には理解していないと思うが、何となく興味深い考え方が含まれていることはわかったように思う。

【授業】創造的思考

2004/07/08(木)

 今日の共通教育科目「心の科学」は「創造的思考」。ほかのテーマはどれも1〜2回しかやっていないが,思考の話は今日で3回目だ。ちょっと多いかとも思ったが,現在の研究テーマでもあるし,私も関心が強いし,学生もそれなりに楽しんでいるようなので,やることにした。

 8年前にこの授業をやったときは,知能の話と抱き合わせていたし(当時使っていた教科書がそうなっていた),創造性の部分は,ブレインストーミングをやっていたことに,授業数日前になって気がついた。ブレインストーミングは別の授業でやっているのでやりたくないなあと思ってネタ探しをして,結局プロジェクトXを2本見せることにした。

 1本目は「通勤ラッシュを退治せよ〜世界初 自動改札機誕生〜」から23分分を抜粋(途中,DVD-RAMのプレイリストがうまく作れていない部分があってアセッたけど)。この中には,「息抜きにグレン・ミラーを聞いていて,磁気切符を思いついた」という話と,「釣りをしていたときに,竹の葉っぱが岩にぶつかって向きを変えるのを見て,曲がった切符をまっすぐにする仕組みを思いついた」という創造的思考の例が出てくるのだ。どちらも息抜き中のアイディアということで,「問題を忘れている間にアイディアが孵化し誕生する」という教科書に書いてあるとおりのことが起きている。それを学生に見せたかったのだ。

 もう一本は,「日米逆転!コンビニを作った素人たち」から38分分(まあほとんど全部だ)。私が見た中で一番面白かったものである。こちらは,上記のようなアイディアの孵化−誕生という場面はないが,現場で発見された問題を元に,小分け配送&集中出店,POSシステムなどのアイディアが生まれている。そういう「現場にヒントがある」ことを見せたくて選んだ。教科書には,創造的思考には一定の明確な過程があるなどと書かれているが,これは,創造的なアイディアが出されたあとで確認してみると,結果的にそうなっていた,というだけであって,その段階を踏めばいつでも誰でもどんなときでもアイディアがでる,というわけではない。現実の問題では,個々のケースに応じて,現場でそのつど考えていかないといけない。そのことを知ってもらいたくて見せたのだが,学生には通じただろうか。

 あと,既存の要素を新しく組み合わせる技法をいくつか紹介し,レポートを出す人はカタログ法(カタログなどから無作為に2項目選び,それらを結びつけて新しいアイディアにする)をやってみるように言った。

 それにしても,90分の授業でビデオを2本(計60分強),解説をつけながら見せるのは,時間的に結構苦しいことが分かった。かといって,どちらもどのシーンも捨てがたいのだけれど。

雨後のマイマイ

2004/07/07(水)

 昨日,雨だったせいか,通勤途上,いたるところに,でっかいカタツムリがいる。たぶんアフリカマイマイとかいうヤツである。

 雨後のタケノコならぬ雨後のマイマイ。

 あまりたくさんいるので,つい踏んでしまいそうである。

【授業】考え方を考える(2)

2004/07/06(木)

 今日の共通教育科目「心の実験室」は、前回に引き続き,「考え方を考える」という題で授業を行う。今日のテーマは,いろいろ考えた挙句,「論理療法」とした。といっても,私は専門的にトレーニングを受けたことはないので,先週やった論理的な考え方が,研究やメディア・リテラシーだけでなく,自分のことを考えるときにも役立つのだ,ということを伝えるのが主目的である。

 やり方は,向後先生の「実習で学ぶ心理学」をマネして,新聞の人生相談から,「不合理な信念」にとらわれているように見える相談例を紹介し,まず学生自身に回答を考えさせた後で,論理療法的な考えを導入し,練習問題をやってもらう,というやり方である。

 人生相談を使うのは悪くないアイディアだったが,講義部分が不十分だったようで,相談事例中の「不合理な信念」を指摘したり,それをより適応的な信念に書き換える,というのがちょっと難しかったようだ。次にやるときには,この点を工夫せねば。

【授業】教育評価

2004/07/05(月)

 今日の「教育心理学」は「教育評価」。評価って,何を教えればいいんだろうと思っていたが,学生は基本的に,評価=テスト&通知表というイメージのようなので,評価は本来教師が授業改善するためにあるのだよ,ということを伝えることを主目的として授業をしている。

 その点1点を中心に授業しているのだが,それでも昨年の質問書を見ると,「評価というのが主として教師が授業をうまくやるためのチェックだという意味が理解できませんでした」という意見が出ていた。そこで,もう少し丁寧に,評価についての学生の事前イメージを拾うために,今年は次のような工夫をした。

 まず,「学校で行われる評価って何(だと思う)?」という問いを出し,自分の考えをノートに書かせる。ざっと机間巡視をして,だいたい書けたのをチェックしてから,4人を当て,自分の考えを黒板に書いてもらう。黒板はあらかじめ8つに領域を分けておき,最初の人は,上の4箇所のどこかに書いてもらう。書き終わったら,自分の名前も書いてもらう。

 書いている間にあと4人当て,「今黒板に書かれている意見と自分が同意見ならその場所に名前だけを書いてください。自分と同意見がない場合は,空いているところに自分の意見を書いてください」と言う。こういうやり方で,結局20人に前に出てきてもらった。あと,書いてもらっている最中に学生に確認したのだが,この授業の主力メンバーである教員養成課程の2年生は,まだこの時点までに,ほかの授業で評価について習ってはないようだ。

 以上の作業の結果,「教師が生徒に対して,一方的に点数化したりする」という趣旨の意見に対して,半数以上の12名が同意見。その他の意見が1〜2名ずつ出たものの,ごく一般論的なもの以外はすべて「教師が生徒を評価する」というものであったので,そうではない(それだけではない)ことを,教科書で確認し,相対評価・絶対評価・個人内評価の話と,診断的・形成的・総括的評価の話をした。また,評価には教科書に書かれている機能だけではなく,教師が何を望ましいと思っているか,情報提供の役割もあるということで,「わくわく授業」から「間違えても大丈夫」の回を見せ,情報提供(間違えてもいいことを生徒に示す)として評価が機能していることを見せた。

 終了後,質問書をチェックしたところ,昨年のような「意味が理解できなかった」という意見はなかったようなので,まあうまくいったようだ。ただ,「授業改善のための評価」という側面と,学生がこれまでに理解していた評価との位置づけを明確にしていなかったので,この点は来週要補足のようである。

■『人はいかに学ぶか―日常的認知の世界』(稲垣佳世子・波多野誼余夫 1989 中公新書 ISBN: 412100907X ¥756)

2004/07/05(月)
〜教科書的な本〜

 昔読んだはずなのだが、あまり憶えていないので再読した。内容は、次のようなものである。

人はなぜ日常生活ではこのように能動的でかつ有能に学べるのであろうか。その能動性や有能さを支えているものは何なのか。本書では、筆者らが長年かかわってきた知的好奇心に関する研究と、最近取り組んでいる「日常的認知」の研究とをよりどころとしながら、これらの問いに答えようと試みた。(p.ii-iii)

 要するに、伝統的な学習観と違い、人は能動的に、現実的必要からも、知的好奇心からも自ら学ぶ力があるのだ、ということを概説している本である。全体的には説得力が欠ける部分が多い気がしたのだが、まずは、興味深かったくだりから紹介しておこう。

 それは、最後の章に取り上げられている「新しい学習観にもとづく教育」の話で、断片的ながら、興味深い実践がいくつか紹介されていた。たとえば教師教育については、ハウツー的な教授技術を教えるのではなく、最新の認知研究で見出された諸事実を教えることが効果があったという研究が紹介されていた。対象は大学での4週間の夏期講座を受けに来ていた、主に小学1年生の担任で、具体的な内容は以下の通りである。

たとえば、子供は教えられないにもかかわらず種々の方略をあみ出して問題を解こうとするとか、年少の子どもにとっては計算問題より具体的な文脈のある文章題のほうがやさしい、などの研究成果が、講義、討論、ビデオ視聴などを通して提示された。いずれも、教師たちのそれまでもっていた学び手についての見方や学習観を変えるものであった。また教師たちは、ここで学んだことにもとづいて、自分たちのこれからの授業を考えたり、計画してみることも奨励された。(p.179)

 その結果、対照群の教師たちに比べて、これらの教師たちは、「子どもたちにどんなふうに考えたか(問題を解いたか)をいわせ、それに耳を傾けることが多かった」(p.180)といい、そのクラスの子どもたちは、計算力も高かったという。筆者はこのことを、「教師がまず今までの見方を大きく変え、子どもを能動的で有能な学び手として見ること──「もうひとつの」学習観をもつことの意義を強く示唆している」(p.180)と述べている。まあ学習観や子ども観を変えるような働きかけには、ある程度の時間はかかるのだろうが、そういう介入が有効であることは、この記述から確認できた。

 とまあ興味深いところもあったのだが、しかし、疑問に思える記述も少なくなかった。たとえば、本書の最初では、人は知的好奇心があるので、「現実的な必要から学ぶときには、当面の必要を超えて学べることがある」(p.42)と、人の有能性を強調しているが、しかし、第9章では、日常生活の中で学ぶ知識の限界について、次のように書かれている。

〔日常生活で〕こうして得られた技能は、環境条件が一定であり続ける限りにおいて、有効であるにすぎないのである。手続きの背後にある概念的知識がなければ、環境条件が変わるたびに、その都度、試行錯誤で対処の方法を見つけ出すしかない。その意味で、日常生活で獲得された有能さの中には、単に手際のよさにもとづく有能さであって、どんな環境的変化にも柔軟に対処できるとはいえないものが多く含まれている。(p.158)

 ここでは、本書で基本的に扱われている人間観というよりも、伝統的な人間観、学習観にきわめて近いものが語られている。これでは、それまでに本書で語られてきたものは何だったんだろうという気がする。せめて、日常的に有能に学べる部分と、そうでない部分の位置づけが明確にされていればよかったのにと思う。そうなっておらず、個々の事実や考えを並列しているということからすると、本書は、筆者らの考えを主張する本というよりは教科書的な本であるという印象である。

 それ以外にも、実際に論を進めるに当たっては、日常的にこんなこともあるでしょう、と日常感覚に訴える議論が多く、説得力に欠ける気がした(冒頭に挙げた引用には「研究をよりどころにしながら」とあるにもかかわらず、である)。研究例を挙げている場合でも、相関を元に因果関係が語られていたりして、やはり説得力に欠けると思われる部分が少なくない。個々取り上げられている研究自体は悪くないだけに、そういう筆者らの記述の仕方は、とても残念な感じがした。

【授業】問題解決

2004/07/01(木)

 もう7月であることに今朝気がついて,プチ驚いてしまった。

 今日の共通教育科目「心の科学」は「問題解決」。8年前は,テキストに載っている問題を中心に授業を進めていた(というかテキストのこの部分は私が書いたものなので,どれも昔どこかで集めてきた問題だ)。今年は,これでは物足りないような気がしたので,基本的なストーリーはそのままにして,新しい問題をいくつか仕入れて授業に臨んだ。

 基本的なストーリーは,(1)人間の問題解決の特徴がヒューリスティクス的なものであること,(2)しかしそのような「経験的な直感に基づく判断」が裏目に出て,「構え」など,問題解決を阻害することがある。したがって,(3)問題を逆から考えたり,(4)アナロジーを使ったりすることで,視点を幅広く持つことが,よりよい問題解決につながる,というような(ありきたりの)感じのストーリーである。

 それでも,(1)を説明するために用意したアナグラム問題を学生に当てて答えさせ,「どうやって考えたの?」と聞くと「何となく眺めていたらパッと答えを思いつく」なんて言ってくれたし,(2)のために用意したいくつかの問題にはなかなかうまく引っかかってくれたし。(3)を説明するのに,過去に学生がレポートで書いてくれた問題が役に立ったし,(4)も,以前知人に聞いた話が役に立ったし。

 まあ基本的なストーリーが単純なだけに,まあまあの授業にはなったかと思う。できれば次年度はこれに,放射線問題を使った心理学研究の紹介でもいれるといいのかもしれない。


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