読書と日々の記録2004.7下

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■読書記録: 31日短評8冊 25日『女の子どうしって、ややこしい!』 20日『憲法と平和を問いなおす』
■日々記録: 22日【授業】心の科学・まとめ

■今月の読書生活

2004/07/31(土)

 今月も忙しかったことは忙しかったのだが、徐々に授業も終わったりして、少し精神的な余裕ができたのか、少し読書冊数が増えた。とはいっても、日々の記録を書く余裕はなかなかできないのだけれど。

 今月よかったのは、なんといっても『収容所から来た遺書』(泣)と『憲法と平和を問いなおす』(なるほど立憲主義と民主主義ね)である。

 今月下旬は、娘たちの幼稚園が夏休みに入ったので、週末は可能な範囲で我が家のプチ夏休み行事をすることに。今日は、おきなわワールド(玉泉洞・王国村)に行った。玉泉洞は、上の娘が幼稚園のお泊り保育で行く予定だったのだが、台風で中止になったので、それならということで連れて行くことにした。ただの洞窟といえばそれまでなのだが、娘たちは、前半はやや怖がっていたものの、後半はまあまあ楽しんでいるようだった。あとは王国村でエイサーを見ようと思っていたのだが、玉泉洞から出て、次のエイサーの時刻まで1時間もあり、どうしようかと思ったのだが、熱帯フルーツ園も、吹きガラス工房も、陶芸実演も、娘たちは興味深そうに見ていたので、あっという間に1時間経った。エイサーも少人数ながら元気よかったし。まあまあの午後だった。その後は糸満の「マルミツ冷やしもの店」で「白熊」(大きなミルク金時)を食べて帰宅。まあ7月の夏休み行事としてはこんなもんでしょう。

『ツチヤ学部長の弁明』(土屋賢二 2003 講談社 ISBN: 406212078X 1,400円)

 エッセイ集。冒頭に収録された、「お茶の水女子大学はどんな人間を生み出してきたか」は思わず声を出して笑ってしまった。それ以外のエッセイはまあまあ。ただ、OECDのテストにツッコミを入れた「社会人がもつべき最低限の知的能力」はやや興味深く、「テスト全体を通じて、常識を疑う能力はっまったく期待されていない。社会に参加するには常識を疑わない態度が必要だ、と考えられているのであろう。」(p.90-91)などと書かれている。

『学力危機─受験と教育をめぐる徹底対論』(市川伸一・和田秀樹 1999 メディア・ファクトリー ISBN: 4309242170 1,600円)

 受験技術、学習動機、大学入試、早期受験、受験産業、教育改革をテーマになされた対談。メール討論を編集したものだそうだが、なかなか対談らしく仕上がっている。市川氏は認知カウンセリングという学習相談をされているが、そこで出てくるようなノウハウというかアプローチ法が紹介されており、なかなか参考になる。あと本書で知ったこととして、「東大の入試問題の特に社会科は、理解力、表現力、思考力などを求めているのがよく現れている良問」(p.131)というのがある。ちょっと見てみたいものである。

『人間科学』(養老孟司 2002 筑摩書房 ISBN: 4480860649 1,810円)

 再読。初めて読んだときはとても面白かったのだが、前回、「ここで論じられているのはあくまでも簡単なアウトライン」と書いたような部分が今回は目につき、面白さは前回ほどではなかった。しかし筆者の言う、「情報の特質は、変化しないもの、固定されたもの、それに対して物質(実体)は、絶えず変化している」というような視点は、この1年、ずっと念頭にあったように思う。思うに、それがまだ私の中で十分に消化されていないので、再読のインパクトがあまり大きくなかったのではないかと思う。ただインパクトがまったくなかったわけではない。たとえば、「あなたの社会的イメージとは、他人に提供されている固定点である」(p.131)という記述は、性格が一貫しているように見えることと関係しているのではないかと思う。あと、『同一性・変化・時間』は、野矢氏が養老シンポジウムに呼ばれて話した内容が中心なのだが、このような「同一性」や「変化」については、養老氏の方が何か答を知っているような印象を本書からは受けた。あくまでも単なる印象なのだけれど。(語り口に迷いがないからかな?)

『やる気はどこから来るのか―意欲の心理学理論』(奈須正裕 2002 北大路書房 心理学ジュニアライブラリ ISBN: 4762822809 ¥1,260)

 「やらなきゃいけないと、わかっちゃいるけどやり出せない」(p.7)のはどうしてかについて論じた本。中学生向けの本のようだが、なんだか読みにくかった。心理学の用語と心理学の理論が中心だったせいだろうと思われる。冒頭の問いに対しては、「あなたがおかれてきた環境と、それをあなたがどう解釈してきたか」(p.9)にカギがあると書かれている。前者は学習性無力感の話、後者は原因帰属の話のようなのだが、どうもすっきりわかったような感じがしない。ただ、小学1年生でも「多くの子どもは2学期の半ばぐらいから、意欲の減退が始まる」(p.26)という話はちょっとびっくりだった。あと、セリグマンの学習性無力感の実験でイヌが行動しなくなるのは、「無駄な行動をとらない分、エネルギー消費が少ない」(p.21)という、「自然で合理的、適応的」(p.35)な理由がある、という指摘にはなるほどだった。

『デカルト『方法序説』を読む』(谷川多佳子 2002 岩波書店 ISBN: 4000266063 \2,730)

 デカルトの方法序説を中心に、デカルトの障害、方法序説の読まれ方、魅力、批判などについてセミナーとして語られたもの。小冊子的な本ではあるが、時代背景や概要はある程度わかったように思う。私がデカルトで興味があるのは、数学的な方法で諸学問を統一するという観点であり、明証性、分析、総合、枚挙という4つの規則である。本書によって、デカルトにおいては「この四つの規則がどのように実際に適用されたのか、あまり明確ではない。ただ、この四つの規則は当時の学問の世界には大きな影響を及ぼしたよう」(p.87)ということがわかった。それにしても、現在から見ると当然のようにみえるこれらの規則が、それまでは当然ではなかったということは興味深い。

『旅人─ある物理学者の回想』(湯川秀樹 1960 角川文庫 ISBN: 4041238013 420円)

 湯川秀樹の、生まれてから中間子理論を発見するまでの自伝。父親が、「秀樹は、何を考えているか分からん」(p.104)といって大学にやるかどうか躊躇した話とか、大学を卒業する前、「これからさき理論物理学をやっても、物にならないのではないか─そんな悲観的な気持ちになった」(p.194)という話があった。あと、「大学を卒業してからの三年間は、私の学究生活全体から見ると非常に貴重な準備時代であった」(p.196)という話はちょっと興味深い。

『学ぶことを学ぶ』(里美実 2001 太郎次郎社 ISBN: 4811806646 2,000円)

 主に大学教育を通して「学び」について考えた本。筆者は教育学者なのだが、「ぼくも、自分を教師であると考えたり、まして教師であろうと意図したりしたことはなかったように思います。「教育」熱心な教師にたいしては、なんとなく違和感がありました。」(p.125)と述べており、ちょっとビックリした。筆者は現在はそう考えてはいないようだが。あと、「学びの当事者は何といっても学生であって、その学生たちが、現に大学でいかに学んでいるかをかれらの経験にそくして見ていかないと、「改革」は無謀な暴力になってしまう」(p.168)と筆者は指摘しており、これは全くその通りであると思った。

『誰も教えてくれなかった因子分析―数式が絶対に出てこない因子分析入門』(松尾太加志・中村知靖 2002 北大路書房 ISBN: 4762822515 ¥2,625)

 サブタイトルどおり、数式なしに、因子分析について書かれた本。扱われているのは、「読者」として因子分析の結果を見るやり方と、因子分析を自分でやるときのやり方である。そこでは、数式ではなく、因子分析の本質的な考え方が説明されている。読みながら、確かにこれならできそうだと思った。ただし、本書でも私にはわかりにくいところはあったが。「因子分析の場合、因子分析をどの程度厳密に行ったかよりも、どのような観測変数や質問項目を準備したかのほうが圧倒的に結果を左右してしまう」(p.155)などという指摘はナルホドであった。まあこれは、統計分析全般に言えることなのだろうけれども、因子分析の場合は特にそういう部分が大きいようである。

■『女の子どうしって、ややこしい!』(レイチェル・シモンズ 2002/2003 草思社 ISBN: 4794212178 1,400円)

2004/07/25(日)
〜閉鎖社会の問題〜

 女の子同士の「裏攻撃」について書かれた本。裏攻撃とは、直接攻撃以外の攻撃の総称である。それには、人間関係を用いた攻撃(無視、仲間はずれ、相手と他の人との関係を壊す、要求に応えないなら付き合いを止めると脅す、など)、間接的攻撃(噂を流すなど、こっそり振る舞って相手を傷つけること)、などがある。このような裏攻撃があることは、本書が出るまでは、一般的にはまったく認知されていなかったという。筆者は「身体を使わず、間接的で表に出にくい女の子の攻撃性は、これまで研究の対象とならなかったし、「攻撃」と呼ばれることすらなかった」(p.11)と書いているし、このような女の子の攻撃性やいじめについて書かれた論文は、ほんの一握りしかないのだそうだ。

 本書は、そのようないじめがピークに達する10歳から14歳の女の子たちに聞き取り調査することで、明らかにしているのである。調査の方法は興味深い。当初は、偏りがないようたくさんの都市にいくつもりだったらしいが、このような調査に当たっては女の子や教師、親の信用を得る必要があるので、筆者は3つの地域を選んで長期滞在し、十校の学校に絞ってリサーチしたのだという。調査では、グループインタビューが多用されているようだが、その際の問いかけとしては、「男子と女子では、意地悪の仕方にどんなちがいがあると思う?」(p.16)、「先生は女子に何を期待していると思いますか」(p.20)、(友だちに何かいやなことをされたときに)「自分の気持ちを誰かにいったら、どうなる?」(p.71)、「自分のことをカンペキだと思っている女の子って、どう?」(p.106)、などというもののようである。

 特に女の子同士でこういうことが起こりやすいのは、「いい女の子は怒らない」という社会通念があるため、表立って怒りを示すことは難しいし、周りの大人も、男の子のケンカや乱暴な行動より軽いものであっても、女の子は強くたしなめる。それによって、女の子の攻撃は「裏」に隠れざるを得なくなるのである。そのような隠れた攻撃性を持って女の子は、親友をもいじめるし、集団でいじめるし、たとえ完璧な子であってもどんな理由もいじめの理由になるし、いじめる子といじめられる子は、大した理由もなく簡単に入れかわる。それは、いじめる側もいじめられる側も「密接な人間関係に、力と安心感を感じている」(p.142-143)からであり、そのなかでいじめは往々にして、「人気」を獲得するための策略として働いているのである。そしてそれは、特に学校側からはいじめとして認識されにくいため、問題が軽視されたり、被害者の問題にすり替えられてしまうのだ。たとえば「心理カウンセラーに送られたとか、助けが必要なのは加害者のほうなのに高額なソーシャルスキル・トレーニングを受けるようにいわれた」(p.207)と述べている親が多いという。確かにこれは問題である。

 本書は、最初は興味深かったが、あとは延々とそういう事例が続くので、実のところ後半は少し飽きてしまった。もっとも、このような裏攻撃の存在は今まであまり表立っては語られていなかったため、本書がその点を指摘したことは、とても大きなことだと思うのだが。筆者は、このようないじめを通過儀礼とか成長の一段階というように片づけてしまったら、「女の子のふるまいが文化によってかたちづくられてきたことが見落とされてしまうし、さらに問題なのは、いじめを食いとめる対策を遅らせることだ」(p.36)と述べている。これまでも社会学は、性差別とか家庭内暴力のように、社会が問題視していなかったことを問題として明らかにしてきた。本書もそういう問題提起の本としては興味深い。

 なお本書では、タイトルにもあるように、「女の子」が、女の子であるが故の期待ゆえ、裏にもぐった攻撃をすることを指摘しているのだが、本書で書かれていることは、日本の中学校などにみられる、いわゆる「いじめ」にとてもよく似ているように感じた。あらゆる事柄がいじめの理由になる点とか、勝者と敗者はさしたる理由もなく簡単に入れかわる点などが。本書の言い方を受けつつさらに一般化するならば、これは、閉鎖的で管理の厳しい社会(女の子の社会とか、管理の厳しい中学校とか)において、表立って攻撃が難しいときには、裏攻撃がさかんになる、ということなのではないだろうか。ホンの思いつきでいうのだけれど。

 本書でワタシ的に興味深かったのは、いじめられる子の認知の歪み。たとえば次のような記述である。

からかいがきわどいところまでいくと、誰かが「冗談よ!」というのだ。〔中略〕「冗談」といわれて受けた痛みと、悪気はないという友だちの言葉を信じたい気持ちのどちらかを選ばなければならず、自分のほうがおかしいのだと思うと、その女の子の悩みは深刻になる。自分の直感を無視して友だちを信じてしまうことについて、ブラウンとギリガンは、これは女の子がいかに「自分の目で見る現実を捨て、これを組みかえる支配力をもつ子にゆだねてしまう」かを示す例であり、自尊心の喪失を示す重要な徴候である、と述べている。(p.82)

 ブラウンとギリガンは「女の子が……」という話にしているようだが、しかしこれも、女の子に限った話ではないと思う。人間関係を通して間接的に、しかし周りの世界すべてから攻撃を受けると、よほど強い人でない限り、誰でもそうなってしまうのではないだろうか。

【授業】心の科学・まとめ

2004/07/22(木)

 ふう,やっと一つ,講義科目が終わった(試験は来週だけど)。8年ぶりにもったこの授業では,全体を貫く縦糸として,次の2点を強調したつもりだった。心理学がデータ(実験,調査,事例など)にもとづく実証科学であること,「心の仕組み」が適応的なものであるものの時としてそれが裏目に出て不適応(錯覚,思い違いなど)を引き起こすことがあること。今日はそのことを軽く概説し,来週の試験の概要を話し,授業評価をしてもらった。

 なお今回は,受講生として入学したての1年生が多いだろうと予想されたので,4月の初回講義で,「心理学のイメージ」を聞いておいた。その紙を本人に返した上で,この3ヶ月で心理学イメージがどのように変わったかを書いてもらった。いくつかを抜粋。

 まあ,こちらの意図どおりに受け取ってくれたというか,「思っているのと全然違ったゾ!」と怒っているようなのはなかったので一安心。

 あと,講義についての感想も書いてもらった。いくつかを抜粋。

 反省点もあるが,感想もさほど悪くなく,よかった。とはいえ,好意的でよく理解されているかのような感想がたくさん出ても,試験答案を見てがっかりすることも少なくないので,上記の意見はあくまでも主観的な理解の話であることには注意しておかなければいけない。それにしても,こういう感想を読んでいると,学生が他に受けている授業はいったいどんな風なんだろうと思ってしまう。

■『憲法と平和を問いなおす』(長谷部恭男 2004 ちくま新書 ISBN: 4480061657 680円)

2004/07/20(火)
〜民主主義を警備する〜

 こういうタイトルから一般的に想像されそうな内容と違い、「立憲主義」とは何かについて論じた本。とても興味深く、ほとんどすべてのページに線を引きながら読んだ。立憲主義という言葉は聞いたことがあるような気がするのだが、説明しろと言われるとよく分からない。それは簡単に言うならば、「「憲法」の背景にある思想」(p.11)なのだそうだが、しかし筆者によると、「憲法研究者の間でも、立憲主義が何を意味するのかについて、広く意見の一致があるとはいいがたい」(p.11)という。それどころか、あまり関心をもたれない話題なのだそうだ。

 ということは、本書で筆者が語っている立憲主義とは、さまざまにある意見のひとつなのだろうけれども、とても納得できるところが多々あった。筆者が言うには、「この世の中には、社会全体としての統一した答えを多数決で出すべき問題と、そうでない問題がある」ので、「その境界を線引きし、民主主義がそれを踏み越えないように境界線を警備するのが、立憲主義の眼目」(p.41)なのだそうである。つまり、民主主義と立憲主義は2つで一セットのようなのである。

 筆者のいう民主主義は、多数決が中心のようであるが、多数決で決めてはならない問題とは、「人権」と「公共財としての権利」にかかわる問題のようである。プライバシーの権利や思想・良心の自由、信教の自由など、人権のかなりの部分は、「比較不能な価値観を奉ずる人々が公平に社会生活を送る枠組みを構築するために、公と私の人為的な区分を線引きし、警備」(p.65-66)するために設定されている。こういう私的な事柄は、多数派が多数決で特定の価値観を民主的に採用されてはたまらない(終わりようのない戦争状態に突入してしまう)ので、そうならないように、民主主義とは別に憲法によってその自由を保障しているのである。もう一方に「公共財」としては、「誰もが自由に表現活動のできる空間」を保障することが挙げられる。というのはこれは、個人にとって意味があるだけではなく、「豊かな情報が行き渡り、それにもとづく討論や批判の応酬も自由に行われることで、民主主義的な政治過程が良好に機能するための土台がかたちづくられる」(p.76-77)という意味で、公共財ということができる。それを保障するのも立憲主義なのである。

 このように、立憲主義によって民主主義を制限する、という考えの底にあるのは、比較不能(通約不可能、共約不可能に同じ)な価値観の対立を民主主義(話し合いや投票)によって解消することはできない、という考え方である。筆者の言葉でいうならば、「単に話し合えば解決するだろうというのは希望的観測にすぎない。両者が本音で語り合えば語り合うほど、解決困難となることも十分ありうる。」(p.105)ということである。これは、思考や議論を考える上で、何か示唆的なものを含んでいるように思った。それが何なのかはわからないのだけれど。


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