読書と日々の記録2004.9上

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■読書記録: 15日『マネー・ボール』 10日『オプティミストはなぜ成功するか』 5日『取調室の心理学』
■日々記録: 15日学会での収穫 7日4歳になった娘 2日もう一回読みたい本

■『マネー・ボール─奇跡のチームをつくった男』(マイケル・ルイス 2003/2004 ランダムハウス講談社 ISBN: 4270000120 \1,680)

2004/09/15(水)
〜新しい野球観+相関の錯覚+人間ドラマ〜

 プロ野球って、市場原理がきわめて有効に働く分野だと思っていた。試合の勝ち負けも選手の貢献(ヒットを打ったとかアウトをいくつとったとか)もはっきりしているし、選手の成績はすべて数値化されて評価されるし、そしてその成績も年棒(こちらは多分推定値)も、すべて公開されているし。しかし、高給な選手を集めた球団が勝つとは限らない。それは、戦術の重要性を示しており、また同時に、野球にいかに不確定要素を大きいかを示しているものだと思っていた。しかし本書によると、そうではないという。それは、野球が複雑な金融市場と同じく、次のような特徴を持っているからだという。

どちらも、ずさんなデータのせいで投資効率が悪化しやすい。ビル・ジェイムズが指摘したとおり、野球データは運と能力がないまぜになっているうえ、記録されずに見落とされている部分も多い。(p.171)

 ずさんなデータとしては、たとえば「打率」がある。通常打率は、打者を評価する一番の尺度と思われているが、実際には、「チームの総得点と平均打率は関連が薄い。むしろ、出塁率や長打率のほうが、総得点とはるかに密接なつながりを持っている」(p.84)そうである。他にも、打点、盗塁、エラー、球速、被安打率などがずさんなデータとして槍玉に上がっている。

 ではなぜそのようなずさんなデータが長年使われているのか。それは要するに、プロ野球関係者は、スカウトをはじめとして誰もが、自分の経験を過度に一般化し、思い込みにしたがって相関の錯覚を起こしているのである。本書にはそのような例がたくさん載せられている。それにしても、プロ野球なんて長年、多くの人の目にさらされているし、各球団は勝つために必死なはずなのに、どうしてそういう錯覚に気づかなかったのか。そのことについて、ある人はこう述べている。

困ったことに、メジャーリーグは閉鎖的な組織なんです。新しい知識を呼び込む土壌がない。関係者は全員、選手か元選手です。よそ者の侵入を防ぐため、一般企業とは違う構造になっています。自分たちのやり方を客観的に評価しようとしません。いい要素を取り入れ、悪い要素を捨てるという仕組みが存在しないんです。(p.309)

 なるほど、ここには、「閉鎖的な集団」という問題が存在しているということである。そして本書は、そういう旧来的な見方ではなく、データ重視で戦略を立て、試合を行い、選手をスカウトしているアスレチックスが、いかにお金をかけずに強い球団であり続けているかが描かれている。それは、読者の野球観を変えるだけでなく、また、認知心理学的な思考の錯覚の例となっているだけでなく、球界におけるさまざまな人物ドラマともなっており、とても面白い。

 なお、上述のビル・ジェイムズが過去のドラフトの結果を客観的に分析した結果、高校生よりも大学生をドラフト指名したほうがよい結果が生まれることが多いというデータを示したにもかかわらず、球界に受け入れられなかったことが紹介され、ジェイムズが、「教養ある人物に反感を持つ傾向は、アメリカ社会全般に見られ」(p.129)と述べている。ちょっと気になる一節である。

学会での収穫

2004/09/15(水)

 昨日まで、大阪で行われていた日本心理学会に行ってきた。学会は、普段と違う空間であるせいか、初日からいつも使わない頭が活性化するのを感じた。いろいろな人とも話をすることができたし。

 どの話も私にとっては有益だったのだが、中でも、一番刺激的だったものがあるので記録しておく。以前私は、運動学習の研究に足を突っ込んでいたのだが、そのときに一緒に研究会をしていた(というか主催されていた)方が、ポスター発表を見に来てくれたのだ。多分お会いするのは9年ぶりである。

 もちろん今の私の発表は、運動学習ではない。しかしその人は、ちゃんと予稿集まできちんと読み込んできてくれた上に、今の私の研究と運動学習研究の連続性を理解してくれていた。ありがたいことである。

 そこで、常日頃私が気になっていた、「型を教える」ことの意味を質問してみた。運動学習というと、やはり型の学習が基本だろうから。するとその人は、守・破・離の話をしてくれた。そのあたりは、まあそうだろうなという感じだったが、それに加えて、「型が変わらないものというのは間違い」「むしろ、規則的に変わっていくものが型」というような話をしてくれた。ちょっと判るようで判らない。

 そこで、じゃあ一般教養の例えばテニスの授業ではどこまで教えるのか、基本的な型を身につけるというあたりを目標にするのか、と聞くと、そういう型は教えないという。ではどうするのかというと、「自分の身体の動きに気づくことを目指す」という。具体的にどうするかというと、例えば、一本足立ちでボールを打たせる。すると、はじめは力が入らず、とても打ちにくいのだが、そのうちに、「軸」が出来てきて、打てるようになるという。その中で、気づきが得られることを目指しているのだという(メモがきしていないので、正確な表現ではなかったかもしれませんが)。

 いやなるほどという感じである。できるかどうかはわからないけれど、思考についての教育にも、こういうアプローチがありうるだろうし、それができるといいなと思うエピソードであった。

■『オプティミストはなぜ成功するか』(マーティン・セリグマン 1990/1994 講談社文庫 ISBN: 4061856553 \660)

2004/09/10(金)
〜個人内変動重視の包括的研究〜

 学習性無力感で有名なセリグマンの本。セリグマンのことって,学習性無力感という用語で,断片的にしか知らなかったのだが,かなり包括的な研究をしていることが本書で分かった。やっぱり知識は教科書やレビューだけでなく,原典からも得ないとね,と改めて思った。

 セリグマンは,有名な犬の実験だけでなく,生命保険会社で成功する外交員とそうでない人の違いを,説明スタイルで説明し予測する,という研究もしている。その他にも,うつ病患者,学校での子どもたち,陸軍士官学校,大リーグ,NBA,ガン患者,ハーバード大卒業生の50年後,大統領選挙,などを対象に,かなり綿密な研究を行っているし,帰属理論のウィナー,認知療法のベック,論理療法のエリスの考えとの関連も示されている。『心理学の新しいかたち』には,これからの研究に必要なのは,個人内変動を重視するなど,ていねいな人間観察と記述だというようなことが書かれているのだが,筆者のような一時代を作った研究には,十分にそういうものが含まれていることが,本書で再認識された(これは本書に限ったことではなく,これまでに私が読んできた,原典的なものの多くで感じたことであった)。

 本書でなるほどと思った点はたくさんあるので,いくつかに絞ってあげておく。一つは,セリグマンの学習性無力感研究の位置づけ。これが,当時の心理学界でどういう位置づけにあったのかは,普通の概論書を読むだけでは見えてこない。しかしこれは,当時の心理学界で圧倒的に優勢であった学習理論に対する反旗という意味があったらしい。筆者は1960年代半ばに,「世界でも指折りの学習理論家」(p.41)であったリチャード・ソロモンのところの大学院生であったのだが,あるとき,実験用の犬を見ていて,学習性無力感のアイディアを思いつく。それで,そのことを実証する実験を計画したのだが,ソロモン教授には疑問を表明される。

当世の心理学理論では,動物が─あるいは人間が─学習によって無力になるという考えはとても受け入れられないだろう。私たちがプロジェクトについて相談しに行くと,ソロモンはそう言った。「生物は反応の仕方によってほうびか罰がもたらされる時にだけ,反応を学習するものだ。君の提案する実験では,反応はほうびとも罰とも関連がない。二つとも動物のやることとは関係なくもたらされる。現在ある学習理論では,これは学習を生み出す条件とは言えないね」。ブルース・オーバーミヤーも口をそろえた。「自分が何をしても関係ないことをどうやって動物が覚えることが出来るんだ? 動物はそんなに高度な精神生活はしていないよ。彼らは恐らく全然認知などしていないだろう」(p.47-48)

 引用にでてきた教員は二人とも懐疑的だったけれども応援してくれたというし,これはあくまでも「当時の学習理論」での話であって,セリグマンの結果で行動理論すべてが否定されるかどうかはわからない。しかし少なくとも,そのような解釈が主流であった時期にセリグマンは実験を行い,結果を出したということが本書で分かった。なおセリグマンは,例の有名な実験だけでなく,「犬たちがじっと座っていることで報われるような状況が起こった」(p.53)という(当時の)行動主義者たちの解釈を否定するような実験も行っている。結局この論争は20年続き,なんとかセリグマンたちが勝利を収めたというような状況なのだという。

 セリグマンは,論争や反論を通して学び,理論を精緻化させる,という研究を行っており,その考え方や研究の進め方も興味深い。たとえば「悲観主義はうつ病を引き起こすか?」という問題をセリグマンらは10年かけて研究しているようだが,その流れは次のようになっている。まず,何千人ものあらゆる程度のうつ病の人の説明スタイルのアンケートを行い,「誰でもうつ状態にあるときは悲観主義的」(p.126)であることを明らかにしている。しかしこれは単なる相関研究で,因果関係はわからない。そこで次に,うつ状態ではない人が,何か大きな打撃を受けたとき,悲観的な人は楽観的な人よりもうつ状態になりやすいことを,大学生を対象に中間試験の前後で調べたり,囚人の刑務所入所時と出所時で調べたり,400人の小学三年生を六年終了まで年2回説明スタイルを調査しながら追跡して,準実験的に仮説の妥当性を確認したりしている。しかしこれでも,悲観主義がうつ病を引き起こしているのか,それもと単に悲観主義がうつ病の前触れなのかは分からない。そこで最後に,説明スタイルを変えるという治療によってうつ病がどのように変化するのか,という介入研究によって,悲観主義がうつ秒の原因であることを証明しているのである。

 その他に本書で感心した点として,「楽観主義原理主義」ではない点がある。そのことは,次のような記述に現れている。

 まあしかし最後の点に関しては,「どのように選択するか」という話にまではなっていないのは少々不満を感じるが,しかし,これまでに目にしてきた認知療法万能主義的な言い方とはちょっと違う注釈も入っている点は,本書のいいところであろう。

 #なお,筆者は楽観主義を,「才能や意欲と同じくらい重要な第三の要素」(p.33)と述べている。これと似たような記述をどこかで見たと思ったら,『思考スタイル』だった。

【育児】4歳になった娘

2004/09/07(火)

 昨日,下の娘が4歳になった。上の娘が4歳になるときは,あまり大きな期待の高まりはなかった。むしろ,3歳になったときのほうが,なぜかは分からないけれども,期待が大きかった。

 その点で言うと,下の娘に関しては,なぜかは分からないけれども,4歳になる前,とても期待が高まっていた。多分,下の娘は,まだ赤ちゃんぽい部分が少なくないからだろう。言葉も,サシスセソがシャシシュシェショになるし,触った感触も,まだちょっとプクプクしているし,喋り方もかわいいし。もちろん,できることも増えているのだけれど。ひらがなを読むようになっていたり,風呂で髪の毛を自分で洗うこともできるし(まだ1回しかしていないらしいけど)。

 4歳になるまで,下の娘は自分のことを「大きい3しゃい」と理解していた。6日になったら「ちいしゃい4しゃい」になるのだそうだ。それで,「ちいさい4さいになったらどうするの?」と聞くと,「自分で牛乳とお茶をちゅぐ」と言っている。今は帰省中なので分からないが,沖縄に戻ったらどうするのか,楽しみである。

 それにしても,下の娘であるせいか,私たち親としては,まだあんまり早く大きくならなくてもいいのになあと思っている。もう少し,赤ちゃんぽくてかわいい娘を楽しみたいというか。勝手な思いなのだけれど。

■『取調室の心理学』(浜田寿美男 2004 平凡社新書 ISBN: 4582852262 \735)

2004/09/05(日)
〜細部に宿る真実と誤解〜

 筆者が関わっている,供述分析に関する本。これまでにこの手の話は,同じ筆者の『自白の心理学』などでも読んできた。まあ同じような話だけど,他の本に書かれていたなかった事例が触れられているから,まあ悪くはないかなあ,そう思いながら読んでいた。しかし,本書の主眼が他の本とは違っていることに,読了間際に気づいた。要するに『自白の心理学』は自白「する側」の本,本書は,取調室内で自白「させる側」の本なのである。タイトル通りといえばタイトル通りなのだが,分かりにくいといえば分かりにくい。

 取調室で自白を「作って」しまう心理は,次のようにまとめられている。

確たる証拠にもとづかない疑いからはじまって,この疑いが,犯罪への憎しみ,犯人を逃がすことへの恐れや不安,そして職務への熱意や組織としての面子を栄養にしてふくらみ,やがて確信にまでいたってしまう。かくして証拠なき確信が取調室のなかで強力な磁場としてうずまくようになると,そこから嘘の自白が引き出され,歪んだ供述が生み出され,ときにはまがい物の証拠が作り出される。(p.204)

 筆者が本書であげている事例は,取調室のなかで上記のようなことが行われていることを十分に疑わせるに足るような事例である。ただし,上の引用では,取調べ側の「憎しみ,恐れ,不安,熱意,面子」という感情に言及しているが,これらは直接に確認されていることではもちろんない。被疑者の供述の変遷を分析すると,取調べ側にそのような感情が想定される,というか,そういう感情でもないと説明が難しい事柄が見られる,というような,間接的な証拠なのである。

 もちろんそれを直接に確かめることはかなり難しいことだろうし,筆者自身もそのことは十分に理解しているようで,本書は「具体的事件のなかに,「取調室の心理学」という問題領域が広がっていることを示しただけ。むしろこれは一つの出発点なのです。」(p.204)と述べている。そしてこの領域に切り込んでいくための方策は,筆者自身が述べているように,取調室で行われていることを可視化(公開)していくしかなく,そうでなければ,取調室という「密室」で,いくらでも自白や証拠が捏造される,という犯罪が起こりかねない。そういう恐ろしいことが起こっている可能性があることを示しているという点で,本書は一読,一考の価値があると思う。

 あと,本書を読んで思うことは,裁判という一見公正で,批判的思考や証拠に基づく熟考と妥当な推論が行われていそうな場所でも,実はなかなかそういうことが行われにくい状況がある,ということである。それは,裁判だけに限った話ではなく,公的な議論でも科学的な推論でも同じなのではあるが,しかし,取調べや裁判でもやっぱりそうなのか,と改めて本書で確認をすることができた。そうであるならば,ましてや私の身の回りの世界で,論理的でない議論や推論が行われていたとしても,それは落胆することではなく,それが当たり前なのだと思う方がいいのかもしれない。まあ論理的であるということは,かくも不自然なことなのだということなのだろう。

 あともう一つ思ったことは,「真実は細部に宿る」ということ。正確に言うならば,それに加えて,「誤解も細部から始まる」といえそうである。筆者は,調書や裁判記録などを通して,一見ささいに見えるところに調書の矛盾や問題点を見出す。ただし,それは同時に,取調べ側が,一見ささいに見える(見方によっては十分な証拠には見えない)ところに根拠を見出し,それを針小棒大的に解釈し利用してある被疑者を犯人に仕立てていくところと,基本的には同じ構図である。つまり,「細部」に問題を見出しているということ自体は,証拠の不適切さも確かさも示してはいない。そのどちらが本当に「真実」であり,どちらが「針小棒大」かは,証拠の確かさを細かく議論していかなければならないはずである。筆者らが求めているのはそういう方向性であり,その努力はぜひ実って欲しいものである。

もう一回読みたい本

2004/09/02(木)

 この1年間のMIBを選んだ。総冊数が少ないので、今年は全部で10冊とした。このMIB、毎月1冊ずつ読み返しているのだが、今年は10冊しか選ばないので、来年の7、8月は、読み返す本がなくなる。ちょうどいい機会なので、その間は、過去に選んだ大学生に読んでほしい本の中から選んで読み返してみようと思っている。

 この1年、読み返してみてよかったのは、『心理臨床の発想と実践』、『教育のエスノグラフィー』、『追補 精神科診断面接のコツ』といったところか。MIBにどういった本を選べばいいのか、なかなかつかめないでいる。


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