30日短評6冊 29日『発達障害の子どもたち』 25日『個人と国家』 20日『生体肝移植』 | |
| 25日6歳児のアニミズム 18日高知での研修会 |
今月は、帰省、学会、研修会と、出っ放しだったので、それ以外の仕事があまりできなかった。そして気づけばもう9月末。愕然としてしまう。それに,外ではつい食べ過ぎてしまうので,現在,適正体重より2〜3kgオーバー。それで最近、ややマジ減量モードに入ることにした。1ヵ月後までには元に戻したいものである。
仕事はあまりできなかったが、授業期間中よりは余裕ができたので、先月から、また英語の多読を再開した(4月以来である)。先月は8冊(うち5冊は再読)、今月は4冊のGRを読むことができた。途中3ヶ月のブランクがあったが、以前読んだ本を数冊再読するうちにカンを取り戻すことができ、レベルを上げることができた。総語数は現在70万語強である。来月以降、どれほど読み続けられるかは分からないけれど。
今月良かった本は、『マネー・ボール』(文句なし)、『オプティミストはなぜ成功するか』(なるほどそういう研究群だったのかあ)、『個人と国家』(なるほど個人と国家ね)、『生体肝移植』(涙)である。こうやってみると、なかなか悪くない。
発達障害について知るための本。扱われているのは、知的障害、ウィリアムズ症候群、自閉性障害、アスペルガー障害、学習障害、注意欠陥・多動性障害、特異的言語発達障害、成人期の知的障害の9つである。本書が目指しているものは3点あるのだそうである。
第一に、発達障害がひととおり見渡せて、専門書への橋渡しができる入門書であること、第二に、発達障害をもつ子どもを理解するため具体的なケースをとりあげて記述し、その後で考え方や知識を整理するというスタイルととること、第三に、ケースの紹介は専門的な記述に終始せず、できるだけ子どもの視点を意識したものとすること(まえがき)
この目的を達成するために、本書では、まずその発達障害児(者)の日常を描写し、その後に、専門的な記述が配置されている。しかしこれは、「専門書への橋渡し」としての試みは、少なくとも一部の章では、あまり成功しているようには見えない。というのは、確かに第二、第三にあるように、具体的なケースを、専門的な記述ではない子どもの視点で記述されているのだが、その結果、普通の子の記述とどう違うのかが不明確になっているように思えるのである(中には、その発達障害の特徴がよく見えるような形で日常の描写をしているものもあり、それは悪くなかったのだが)。
もちろん発達障害児といえども、個性豊かな存在であることには違いない。しかし、個性の記述が中心になってしまうと、「発達障害」という「カテゴリー」が見えにくくなってしまうのである。そのあたりは、各章後半の「専門的な記述」に任せるというやり方もあるのだろうし、本書もそういうところを目指しているのだろうが、しかし「個性中心のケース記述」では、その部分と専門的な記述のつながりが見えないのである。むしろ行為記述は、ある程度概論的な知識をもち、各障害児をステレオタイプ的に見ている(見ることのできる)人に有効なのではないかと思う。
おそらく本書が狙っているであろうような、各障害の内面を描くという作業は、私が読んだ本の中では、『心理臨床の技法と研究』がある程度成功しているように思った。もっともこちらの本は、具体的なケースを扱っているわけではなく、各障害児の内面世界をお話風に語っているので、こちらで障害のイメージを持った上で、本書でさらにそのイメージを具体化するのがいいかもしれない、と思った。
発達心理学の教科書(というかピアジェ)によると、幼児期(前操作期)の特徴として、アニミズム的思考があるという(生命のないものに生命を認めたり,意識や意志などの心の働きを認めたりする幼児の心理的特徴)。しかし、私は今まで、うちの娘がそういうことを言うのを聞いたことがなかった。
しかし先ほど、『魔女の宅急便』をDVDで見ていたとき、上の娘(6歳3ヶ月)が、「ネコって息できるの?」と聞いた。そこで私は、「生きているものはみんな息しているんだよ」と答えた。この答が合っているかどうかわ分からないけど、ルール的な答をしてみようと思ったのだ。
すると、上の娘は、「じゃあテレビもクーラーも壁も息しているの?」と言った。「違うよ」と答えると、上の娘は、「じゃあどうしてテレビはこんなのが映るの?」。「電気で映るんだよ」と答えると、「じゃあ電気は息しているの?」という返事。あと、「クーラーは息しているよ。風が出ているもん」とも言っていた。
これだけから、どの程度6歳児が、生命のないものに生命を認めているのかはわからないと思う。そもそも、「生きているもの」とか「生命」という言葉を、どういう意味で使っているのかも分からない。必ずしも私たち大人とは同じ使い方をしていないかもしれないし。
まあそれでも、「生きているもの」という表現を聞いたとき、6歳児にとっては、人もテレビもクーラーも壁も、同列に考えられていることは分かる。なんだかちょっと面白かった。
#「生きているってどういうこと?」と聞いてみたところ、「頭とか髪の毛とか顔とか背中とかお尻とかがあること」と言っていた。なるほどね。
立憲主義を軸に、「人権の主体としての「個人」と主権の担い手としての「国家」」(p.13)の位置づけについて論じた本。『憲法と平和を問いなおす』で引用されていたので読んでみた。どちらもキーワードは立憲主義である。本書もなかなか興味深かった。
筆者の考えでは、19世紀以降の人間社会の秩序の構造は、次のように俯瞰できるようである。
要するに現代は、人権(=個人)が危機的な状況にあるということか。このような流れの中で、立憲主義を論じているのである。特に現代は、「それ自体としては大切な存在である「民族」という価値が、国家を人質にしようとし、暴走するところに、世界中を吹き荒れている悲劇の根っこがある」(p.13)と考えており、個人−民族(=文化多元主義?)−国家の関係が論じられている。
「個人」というと最近は、グローバリゼーションや規制緩和の流れから、「自己責任」が強調されたりしているようだが、そのような個人観に筆者は異論を唱えている。
近代憲法の正統的な考え方に従えば、いちばん厳格な意味での「人権」の主体としての「個人」、自分自身で考え、自分自身で決め、自分でそのことについて責任を負うような個人が、想定されています。しかしここでも、社会契約論の国家がフィクションであるのと同じように、この個人もフィクションなのです。生身の個人はそんな立派なものではなく、弱い。自分で考えるよりも何かその場の都合で強い人についていってしまったり、あるいは自分がおかしいと思っても黙っていた方が利益になるなら黙っているという、そういう弱い存在です。(p.64)
そのような弱い存在である個人を、「ジャングル」の中に放り出すのではなく、「市民生活の物質的な安全、経済的な生活水準の維持」(p.58)のために個人を守るのが国家である、というのが筆者の認識である。その一方で国家は、「人々の心の問題については国家は中立を保ち、やみくもに出てきてはいけない」(p.58)。おそらく、この2点のために機能すべきものが、「立憲主義」ということなのだろうと思う。筆者のいう立憲主義とは、「議会に対して裁判所の力を後押しする」(p.90)ことである。ここでいう議会とは、ようするに(多数派支配的な)民主主義のことであり、「民主」だけで行くと、民主の名においてとんでもないこと(特に個人の人権の侵害)が出てくる。それを抑止するのが、憲法で保障された権利(人権)が本当に守られているかどうかを、裁判所が審査することで、立憲主義が民主主義の抑止力になりうるということらしい。なるほど。
本書では、文化多元主義に対する考えも興味深かった。筆者は、文化多元主義を、芸術や文学の領域と、人権の領域とに分けており、前者は留保なしに認めてよいが、後者は、それなりの合理性があるとしての、単なる文化や好みの問題としてではなく、「そういう文化の中で育った人が、そこから逃げ出したい、それを拒否したいという自由を迫害する、これを許してはならないということ、これが文化多元主義と人権の普遍性とのぎりぎりの接点」(p.126)と論じている。多様な価値と普遍的な価値の共存の問題を考える上で、ヒントになりそうな考えであると思った。
また筆者はこのような考えを、絶対的なものとして考えているのではなさそうである点も評価できる。筆者は、「たとえば「人権」といういちばん基本的なコンセプトですら、疑って」(p.223)みた上で、「改めてそこに戻ってきて、一つの公共社会の、みんなが大事にすべき価値としてそれを共有するように持っていくというのが、私たちの社会のあるべき真っ当な姿」(p.224)と述べている。もちろんこれを言う筆者の考えの中に、「人権をやめる」という選択肢はないようだが。これがどのような議論のもとにどのように展開すると筆者が考えているのかはちょっと知りたい気がするのだが。
日本は、生体肝移植に関しては、世界で一番進んでいるらしい。そのことを、京都大学の附属病院を通して扱ったルポルタージュである。とても面白かった。その面白さは、俗っぽい言い方をするならば、プロジェクトX的な面白さである。あるプロジェクトが、さまざまな難関を乗り越える中で、次第に技術やシステムが整備されていき、さらには世界に認められていくようになるという問題解決の物語である。本書がそういう流れで書かれているわけではないのだが、しかしまとめていうならば、そういう感じである。
海外では、臓器移植は、脳死者からの移植が主流なのだが、わが国では、脳死が人の死かどうかという議論に決着がつかないため、脳死移植はできない。そこでこれまでは、脳死肝移植を望む場合は、海外でということになっていた。逆に海外では、生体肝移植は、「生体にメスを入れることは非倫理的かつ非合理的」(p.37)という考えで、あまり行われていなかった。臓器提供側(ドナー)にとっては、肝臓を取り出す手術は、危険というマイナス要因はあっても、本人には何のメリットもない。それが非倫理的かつ非合理的ということである。
世界的にはそのような認識であったのだが、日本では、上記のような事情もあって、生体肝移植しか道はなかった。しかし、生体肝移植は、脳死移植よりも優れている点があるという。それは、「まず手術のタイミングがはかれること。手術以前に、ドナー、レシピエントの双方にわたって十分な検査ができる。部分移植であるからそれだけ手術はむつかしいが、ドナー肝が良好であることも大きい」(p.37)ということである。それ以外にも、親子間の移植であれば、適合度が高いために、他人間の脳死移植よりも好成績がおさめられるだろうという予測もある。とはいっても、日本で生体肝移植が行われ始めたのは1990年前後。はっきりした結果がでるまでには、もう少し時間が必要のようであるが。
そして、ドナーである健康人にメスを入れることの危険性については、京大チームは「怖いからその不安を取り除くために必死にサイエンスを導入してきた」(p.44)という。そして現在、京大チームは、「他の施設で手術不能といわれた患者も引き受け」(p.121)た上で、脳死肝移植と同等かそれ以上の結果を出している。
しかし実のところ、私が本書が興味深かったのは、こういうところ(だけ)にあるわけではない。京大のチームのメンバーがなぜ、どのように、世界的な反対の中で生体肝移植をはじめ、それを続けているのか、難手術であることが発覚したとき、現場で彼らがどのように対処したのか、といった、俗な言い方をすれば人間の物語が垣間見れる点が、私にとってはとても興味深かった。それはもちろん医療者側だけではない。ドナーがどのような心境で臓器を提供したか、生体肝移植にも関わらず結局亡くなってしまった患者の家族の思いなど、人の生死に関わる事柄であるせいか、読みながら目頭が熱くなることも少なくなかった。実は出張先の電車の中で読んでいて、そのせいで何度も困ってしまった。そういう本である。
昨日、高知で、県職員対象の研修会を行ってきた。タイトルは、実は研修担当の方が考えてくれたのだが、「考え方を考える」というもの。7時間の研修である。
最初の2時間が主に講義、次の2時間が「原因を考える」実習、次の2時間が「自分について考える」実習(内容は、論理療法のさわりである)、最後の1時間が、職場や仕事の課題を話し合ってもらう、という形にした。
出来は、自分では評価はできないが、少なくとも悪くはなかったのではないかと、自分では思っている。しかし、反省すべき点はもちろんある。一番大きいのは、論理療法のところが、内容も、その前とのつながりもわかりにくかったという点であろう。この点は、類似プログラムを大学の授業などで試行した時も見られた点なので、もう少し根本的に考える必要があるかもしれない。帰りの飛行機の中で思いついたのは、正解のあるクリシンから正解のないクリシンへ、という流れ。このアイディア、どこかで試してみてもいいかなと思っている。
それから、最初の講義のところでは、社会心理学の知見をいくつか紹介して、人は集団の中にいるからこそ考えない、という話をした。一方、午後の話の中では、(正解のないクリシンにおいては)対話こそが重要、というような話をちょっとした。最後に、この2つをつなげればよかったのに、と後から思った。つまり、人にとって集団とは、考えなくするような圧力を生み出す場になるのと同時に、自分とは異なる考えに触れる場にもなりうる両刃の剣である、というふうに。そうすれば、単に集団の問題を嘆くだけでなく、よりよく集団を活かす道を考える第一歩になったのに、と思った。
あと、50分ごとに休憩をとって、その間にその時間に分かりにくかったことがないかどうか、隣同士でちょっと話をしてもらった。その結果は、次の時間の冒頭に、数名に指名をして聞いたのだが、ここの部分は、まず挙手で意見を募ればよかったと思った。指名したのは、大学での講義の経験から、こういうときに受講生はあまり自発的に発言しないだろうと思ったからなのだが、しかしこの研修会は、志願して受けに来ているので、もう少し皆さん積極的だったかもしれないのに、挙手を募らなかったのは、ちょっと失敗であった。
と反省点はあるものの、県職員という立場にある人が考えていることの一端を、多少なりとも知ることができたし、このような研修のあり方について、何人かの方(受講生以外)と話をすることができたし、いろいろと得ることがある会であった。あと、生まれて初めて行った高知で、日本酒が意外に美味しくてビックリしたことも付け加えておこう(研修前日だったので、あんまりは飲まなかったのだけれど)。