読書と日々の記録2004.10上

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■読書記録: 15日『フランクル心理学入門』 10日『はじめてのデモクラシー講義』 5日『反社会学講座』
■日々記録: 14日小1国語を授業参観 8日腰痛対策 7日違うところを探せない4歳児 3日ティンクティンクのライブ

■『フランクル心理学入門─どんな時も人生には意味がある』(諸富祥彦 1997 コスモス・ライブラリー ISBN: 4795223637 \2,520)

2004/10/15(金)
〜自由意志を持ったものとして人間を扱う〜

 フランクルの心理学(理論や臨床)についての本。『夜と霧(新版)』『それでも人生にイエスと言う』を読んで、実存分析についてもう少し知りたいと思って読んでみた。本書は詳しいながらも読みやすかった。というか、筆者によると、日本では「彼の思想のエッセンスをよくつかみよく言い当てていると思えるものは、一冊も存在しません」(p.2)ということなので、一読の価値はあるのだろう。

 まず、筆者がまとめたフランクル心理学の要点は、「どんなときも人生には意味がある。なすべきこと、充たすべき意味が与えられている。」(p.2)というものである。確かにそういうものであることは、前に読んだ2冊にも書かれていたようだ。また、このように「意味」を重視する点は、最近の私の志向に近く、それでフランクルに興味がわいているような気がする。

 で実存分析(ロゴセラピー)であるが、そこには「逆説志向」と「反省除去」という2つの技法があるのだそうだ。逆説志向とは、「平たく言ってしまえば、「こんなことが起こったら……」とか「またこんなことをしてしまったら……」とクライエントが恐れている、まさにそのことを実際におこなわせたり、それが起こるように望ませたりする方法」(p.216)である。たとえば、強迫神経症的に引き出しを整理したり、鍵を確認する患者には、「引き出しに無造作にものを投げ込むこと」を指示するのだという。これは、恐怖症や強迫状態でも数週間から数ヶ月の急性のケースの短期治療に適しているのだという。ただし、うつ病の患者には禁忌だそうだ。

 もう一つの「反省除去」は、文字通り、あることについて過剰に反省することをやめさせるやり方である。「「過度の自己反省」や「過度の自己観察」のために、本来持っている自然な力が発揮されないでいるすべての状態に、この方法は適用」(p.224)できるのだそうで、たとえば面接でフランクルは、次のように患者に言っている。

 この2つの技法は、まあなるほどという感じではあるが、しかし、これとフランクルの思想(2段落目に挙げたような)はどう関係するのだろう、と読みながら思った。反省除去の方は、フランクルの考えがダイレクトに出ているので分からないでもないが、しかし逆説志向はどういう関係にあるのだろう、と思って探してみると、「このいずれも、人間の「精神」が持つ「心理反応」に対する抵抗力に着目して、その力を利用しようとするもの」(p.171)という記述が見つかった。この記述は、単に治療技法の説明であるというだけでなく、それ以外のフランクルの考えを理解するのになかなか要点をついているのではないかと思ったので、そのことを以下に書いておく。

 この記述にある「心理反応」とは、刺激に対して私たちが自然かつ自動的に行う反応のことである。そして、「自動的に生じてくるこのような「心理的な現象」に逆らうか従うかを決める」(p.171)のは本人の主体的な決断であるという。それが、主体的な「抵抗」ということである。そして、そういう観点から、フランクルは生物学や心理学や社会学のような還元主義的な考えを否定するのである。

 というのは、これらはどれも、人間をある観点からのみ見ている。生物学であれば人は遺伝と環境に対して反射(条件反射)で反応する自動機械に、精神分析であれば人は衝動の束(エス)に支配される心理学的メカニズムに、社会学であれば権力や経済環境に突き動かされるボールに還元されてしまう。それは人間を、人間に似てはいるけれど人間ではない何者かとして理解する「人間模型主義」である。しかしフランクルがたとえば強制収容所で体験したのは、「同じ状況に直面してある人間は、それこそ豚のようになったのに大して、他の人間はそこの生活において反対に聖者のようになった」(p.57)という姿であり、自分がどう振る舞うかを自分で主体的に(環境に対する反射ではなく)決めることのできる人間の姿だったのである。そのような主体性を取り戻させるための技法が、先の2つということなのであろう。

 もちろん、強制収容所での反応を、遺伝と環境の個人差として記述することは可能だろう。しかし、還元主義では、人の自由意志を自由意志として扱うことは不可能だろうとは思う。ではそれ以外にどういう道があるのか、この問題を考えるのにフランクル(あるいは人間性心理学)に明るい先行きがあるかどうかは分からないが、しかし、こういう形で、人間の主体性を扱おうとしている点には非常に興味をそそられるものがあった。

小1国語を授業参観

2004/10/14(木)

 今日は,とある学校にいく用事があったので,ちょっと知っている先生に連絡して,授業を見せてもらった。見たのは小学校1年生の国語。考えてみたら,低学年の国語の授業を見るのはこれがはじめてである。

 授業は,新しい単元(くじらぐも)の1時間目だったようだが,雲に関する子どもの経験をひとしきり引き出すことから始まり,教科書の挿絵を見ながら,その内容を口頭で文章化していく,という作業を一通りやったあとで,先生が文章を音読し,どこが楽しかったかを発表させ,自分が楽しかったところを文章と絵にする,という授業であった。

 なるほどと思ったのは,文章に入る前に,挿絵を見るというやり方。これって,ひょっとしたら大学の授業でもできるのではないかと思った。もちろん見るのは挿絵ではなく,実験の方法や結果が書かれた図になるのだろうけれど。こういうやり方をすると,文章を読むときに,文章内容が頭に入りやすいに違いない。

 あと,授業は,ときどきちょっと締めたりするものの,基本的には穏やかで楽しげな雰囲気で進められており,見ている私も楽しくなるような授業だった。大きい声を出したり絵を描いたりと,子どもが喜びそうな活動もちりばめられていたし。まあ私が楽しくなったのは,子どもたちがかわいかったり,うちの娘と歳が近い,というのが大きいのかもしれないけれど。子どもたちも,よくしつけられているようで,授業態度もとてもよかった。先生は,普通の授業だとかお恥ずかしいなどとおっしゃっていたが,私は,とてもいいものを見せてもらったと思う1時間だった。

 #猿並日記にて次のコメントあり。

実は大学の英語の読解の教材には、これと同じ発想を使って作られたものがあります。というか、最近作られたものには結構な割合であります。単元のはじめの、文章にはいる前のところに、文章のトピックに関係する写真とか絵とか英語の単語とか英語の短文とかがあって、それらに関連して知っていることや思ったことを言わせたり書かせたり単語を覚えさせたり短文を解釈させたり質問に答えさせたりするというもの。トピックに関して学習者が持っている既有知識*1つまりスキーマを活性化させておくと、文章の内容理解がやりやすくなるということで。

これは英語教育業界ではどうやら「スキーマ理論」と呼ばれている気配です。「理論」というほど大層なものかどうかは実は分からないのですが。

 ちなみに,スキーマ理論というかBransford の洗濯文からわたしがいつも思い出すのは,山藤章二の似顔絵塾(週刊朝日)で,山藤氏がどうやって投稿された似顔絵を選ぶか,ということについて書かれていた文章。うろ覚えなのだが,「誰の絵を描いているのか,名前を見なくても分かるのがいい似顔絵ではなく,名前を見たうえで絵を見たときに,なるほどと思えるようなのがいい似顔絵」というような内容だったと思う。これは要するに,トピックについての既有知識が活性化されているかどうかによって、似顔絵が理解できるかどうかが全然違ってくる,ということかな。

■『はじめてのデモクラシー講義』(岡田憲治 2003 柏書房 ISBN: 4760124063 \1,680)

2004/10/10(日)
〜デモスとしての我々〜

 「どこから手をつけていけばいいのかわからない人のために、民主主義(デモクラシー)の基本の理屈をできるだけわかりやすく説明する目的」(p.17)で書かれた本。確かにわかりやすく書こうという努力は見えるし、だからといって、手抜きをしているわけではなく、「デモス」という言葉の起源から始まり、中世、教会の没落、市民社会、大衆社会、福祉国家の登場、アメリカと、歴史を追って丁寧に、「市民」概念を中心とした政治史が語られている(のだろうと思うが、私は政治オンチなので、あまり自信があるわけではない)。

 以上が前半で、後半は、日本における「市民」という語を、明治から現代までを、時代を追いながら、検討している。基本的には大括りで論じられているため、分かりやすい。多分、大括り過ぎて、逆に問題を生んでいる部分もあるとは思うのだが、しかし、「どこから手をつけていけばいいのかわからない人のため」という目的からすると、ある程度はしょうがないだろう(大括りすぎる、という問題は、たとえば「多くの沖縄の人はもうヤマトに適応しようなどと思っていません」(p.210)というような沖縄に関する記述で私は感じた)。

 これだけ丹念に「市民」について論じた上で、最後の章で筆者は、こう述べる。

僕たちが市民であるかどうかという問題のたてかたは、実はあまり意味がないのです。それよりも、僕たちは自分たちをどういう者だと思い「たい」のか、あるいは「なんと呼ばれようと、こうなった時には絶対にこうするだろうなという地点」をどう探し当てるかのほうが重要だと思うのです。そして、それが「デモクラシー」という問題なのです。(p.239)

 つまり、自分たちが「市民」なのかとか、日本に市民社会が成熟していないと考えるのではなく、「自分で判断してある立場を選択する」(p.243)ことをしていれば、それはデモクラシーなのだと考えるのである。特に、自分の選択がお国の尺度とは違っていたとしても、それを選択することを主張することが重要のようである。そしてそのような人を筆者は、(市民とか大衆とか庶民というような言葉ではなく)「デモクラッツ」(デモクラシーをよしとする人)とか「デモス」と呼ぶのである。そのことについて筆者は、こう述べている。

これまで誰も使わなかったデモスという言葉で自分たちを呼ぶことで、僕たちはいろいろな障壁を取り払って、僕たち自身にお互いに世界を共有する意志があるかないかを、僕たちの考え方はどこから分かれてしまったのだろうかということを、僕たちはどうしてこんなに臆病なのかを、ともに確認する第一歩を踏み出そうというわけです。(p.261)

 まあこれは、新しい言葉を一つ増やしただけといえば増やしただけかもしれない。しかし確かに、(本書にも引用されていたが)『「市民」とは誰か』などと問い始め、歴史的に掘り返し始めると、市民という言葉に歴史的にこびりつけられた意味に引きずられるということもなきにしもあらずであろう。『民主主義とは何なのか』と問うことも同様で、民主主義の負の歴史にひきずられてしまう部分が出てしまう。それを避けるために、新語を提案するという方法も、悪くはないのかもしれないと本書で思った。ちなみに筆者は、それがうまくいかなかったときは、「やっぱりダメだと思えばその時はその時です。手放してしまえばいいのです。僕たちの欲望に道をつけてくれそうな言葉をまたつむぐだけです。」(p.261)と述べている。なかなかタフな姿勢でステキ。

 あとちょっと思ったことなのだが、筆者は、アメリカの三権分立を指して、「アメリカの政府のこの「ある一部分の人々が強引に物事を進めにくくするカラクリ」は、まさに芸術といってよいほどのものです」(p.102)と述べている。私はアメリカの事情も大して知らないので、印象なのだが、実際のところアメリカは、そんなに「一部分の人々が強引に物事を進めにく」いのだろうか。そうじゃない部分もけっこうあるんじゃないかなと思ったりするのだが。

【健康】腰痛対策

2004/10/08(金)

 腰痛で病院に定期的に通い始めて1年以上たった。いろいろあって、今は2軒目の病院(リハビリ)に通っている。ここは、最初は割とよく、症状が軽くなったような気がするのだが、その後は小康状態というか、それ以上の変化がなかなか生まれない。

 それで、インターネットでいろいろ見ているうちに、「イス」というキーワードにたどり着いたのが先月。仕事は、講義以外は座りっぱなしなわけで、それがどうも悪いような気がするのである。ひどいときは、いったん腰が痛くなってしまうと、もうそれ以上イスに座り続けるのは辛く、ソファに寝そべって仕事を続けざるを得なくなる。とはいってもコンピュータを使う必要は多いので、それでは仕事にならない。もうイスを変えるしかないか、と思った。

 腰にいいのは「バランスチェア」という、座面が前傾したイス。けっこうな値段がする(少なくとも、パソコンチェアが数千円で買えるのに比べると)。まずは一度試してみないと、購入に踏み切れない。ネットで調べると、大阪は阪神百貨店にあるようなので、先月、学会出張ついでに座ってきた(というか、学会出席に次ぐ第二の目的にしていたのだ)。

 ちょうど空港バスが、阪神百貨店のすぐ近くで停まったので、旅行カバンを引きずりながら、そのままスカンジナビア家具売り場に直行。2時間ほど飛行機に乗っていたので腰も疲れていたのだが、バランスチェアに5分も座っていると、腰の痛みがひいて行った。

 おおコレは凄い、と感動して、沖縄に戻るとすぐに注文(大学で使うので研究費で)。で、昨日の夕方、ようやく実物が納品された。まだ1日と少ししか座っていないのでなんともいえないが、まず、座り方のコツはなんとか分かったように思う。あと、コレさえあればずっと座り続けられる、というわけではなく、時々いつものイスに座ったり、ソファに寝転がったりはしたのだが、今、毎日やっている寝る前の腰痛体操をやったところ、なんだかいつもより腰の調子がいいような気がしている。プチ感動である。もっとも、今日は台風の影響で雨模様だったので、朝晩の通勤ウォーキングをしていない。だからいつもと同じ条件ではない。しかし、背筋が伸びた状態でイスに座るのは、確かに悪くない感じはする。ただちょっと座面が高いので、いつもよりコンピュータのキーボードが遠い。これが何とかできるといいのだが。

 もうちょっと長い時間使ってみて、よさそうであれば、うちにもほしいところである。しかし、バランスチェアは結構場所をとる。うちはあまり広くないので置くのは難しいかもしれない。どうしよう、なんて考えたりしているが、まあ、まずはもう少し使ってみないことにはね。

【育児】違うところを探せない4歳児

2004/10/07(木)

 さきほど、下の娘(4歳1ヶ月)が妻と「どこがおなじ? どこがちがう?」という絵本で違うところ探しをしていた。女の子の絵がずらっと並んでいて、見本の女の子とどこが違うかを指摘する、というものだ。違うところは、帽子の形だったり、手の挙げ方だったり、洋服の色だったり。いっこいっこ手書きで書かれているので、違うといえば微妙に違うところも多いのだが、明らかに違うところは違う。まあ、大人が見れば一目瞭然のものばかりだ。

 ところがこれ、下の娘にはなかなか難しいみたいで。「どこがちがう?」と妻に聞かれても、下の娘はすぐには答えられなかったり、「口の形が違う」などとごく小さな絵の描き方の違いを指摘したりして、妻に「よーく見てごらん」なんて何度も言われている。それでもなかなか答えられない。

 まあ私は、やっているところをじっくり見たわけではなく、妻が「よーく見てごらん。ぜんぜん違うでしょう」なんていっているのを聞いているだけなのだが、それで思うのは、大人にとって自明であることが、必ずしも子どもにとっては自明ではないのかもしれない。もちろん、面積などを出して比べれば、小さな違いと大きな違いというのは、数字上も明らかにできるかもしれない。しかしおそらく子どもは(というか人は)、面積という観点ではなく、自分で見たいものを見ているのではないかと思う。そうであるとするならば、面積が小さい違いは不正解で、面積が大きい違いは正解、とは必ずしもいえなくなるのではないか。

 そして、こういう違い探しができるようになるということは、「よく見る」ことができるようになるというよりも、大人と同じ見方を学んだ、ということなのではないだろうか。ということは、「よく見なさい」という言い方は、文字通りよく見る、というよりも、「(私が見ているようなやり方で)見なさい」と言っていることになるのではないかと思う。それは「考える」ということに関しても同じである。「よく考えなさい」とは、「私のように考えなさい」といっていることに等しい場合が少なくない。

 だから何というわけじゃないのだけれど。

■『反社会学講座』(パオロ・マッツァリーノ 2004 イースト・プレス ISBN: 4872574605 \1,500)

2004/10/05(火)
〜ちょっと残念〜

 本書カバー袖に書かれている「反社会学の目的は、次の2つである。

第一に、社会学という学問が暴走している現状を批判すること。
第二に、不当な常識・一方的な道徳・不条理な世間体から人間の尊厳を守ること。

 本書の内容は、概ねそういうものであり、それは基本的には、読みやすくて面白く、なるほどとかもっともだと思える点も多い本であった。その上、筆者のもつ豊富な知識と引用されている豊富な資料には、なかなか圧倒されるものがある。

 本書の中で、私が一番もっともだと思ったのは、「核家族の弊害」に反論している次のくだりである。

人類の歴史上、社会や経済の状況、あるいは環境の変化に応じて、家族形態や規模には常に変動がありました。家族形態や規模の変化は、家族という単位で社会の荒波に立ち向かうために人類が適応してきた結果です。家族形態の変化を社会が悪くなったことの原因とする説は、本末転倒ですし、核家族がいいか悪いかなどという議論も無意味です。理想的な家族像などというものは幻想にすぎません。いろいろなかたちの家族が存在することが、もっとも自然なのです。(p.257-258)

 筆者はその根拠として、時代や地域によって家族規模や子どもの数に違いがあるものの、それと連動してその時代や地域に特有の問題が生じているわけではないことを示している。根拠がこれだけでいいのかどうかは別にして、意見は実にもっともだと思う。「適応」が重視され、評価軸によって価値判断は変わりうる(ので一視点からの評価は無意味)という観点は、とても私好みなものである。

 これが、冒頭の2つの目的で言うと2番目の、「一方的な道徳・不条理な世間体から人間の尊厳を守る」ということであろう。しかし、目的の1番目の「社会学の暴走を批判」に関しては、ある意味本書は微妙とも言えるような気がする。というのは、「不当な常識」その他を指摘するのに、本書が使っている方法は、基本的に「社会学」の手法であるからである。そしてその常識の不当性を、「強く」主張しようとすれば、そこには、「社会学の暴走」的な部分が顔を覗かせる可能性が高くなる。具体的にはそれは、「自分の結論を裏づけるのに都合のいい証拠だけを集める」とか「データの一部分だけを抽出したり、意図的に資料を誤読したりする」(p.11)という形などをとる。あるいは不十分なデータから強引な結論を出したり。

 たとえば、ある章では「江戸時代まで、日本人はさほど勤勉ではなかった」(p.87)という結論が出されている。しかしその章をよく見ると、江戸時代以前の時代については検討されていないし、「日本人」とくくってはいるものの、「江戸における武士と町人」以外に関しては、検討されていない。こういう、結論と証拠が対応しているように見えない箇所は、ざっと見た限りでも、いくつかある。

 もちろんこれは、ある部分は意図的にやられているのかもしれない。しかし、さほど意図していないか、あるいはその意図が非常に読者に見えにくい形で、少ない資料から過度の結論を導き出したりしているように思われる部分も少なくない。もっとも、筆者のWebページを見ると、「反社会学講座は、むしろ読者のつっこみを誘っているのです」と書かれているので、そもそも意図的に、意図を見えにくくしているのかもしれない。しかし、それは本書の趣旨にはずれると私は思う。というのは、そもそもそういうものが最初から見破れる人には、「反社会学」は必要ないからである。この点が、ちょっと残念な感じのする本であった。基本的には悪くない本なのだけれど。

 #ちなみに,そんな無粋なことを言わなくても,という意見があるかもしれない。本書に「社会学や社会学者を批判しているにもかかわらず,結果的に本書は,非常に優れた社会学の入門書になっている可能性もありますので,ご注意ください」(p.17)という表記がなければ,私もそう思う。というか,この一文が,本書の立場を非常に不明確にしていると思われる。

ティンクティンクのライブ

2004/10/03(日)

 今年の夏は、例年と違い、学外の仕事をいくつかやったので、昨日の夜は、その慰労会という名目で、一家でティンクティンクのライブを見に行った。最近、なんだか知らないけれども上の娘(6歳3ヶ月)が、ティンクティンクにいきたーい、と言っていたのだ。1年ぶり2度目である。

 今回は、前回と違い、当日に思い立って予約したにも関わらず、客があまり多くなかったようで、開店と同時にライブハウスに入ると、一番前の席に案内された(2ステージ目から客がかなり増えた)。

 下の娘(4歳0ヵ月)は、ちょっと前まで眠っていたせいか、1ステージ目はのりが悪く、モジョモジョしながら見ていた。私に抱っこされながら。しかし2ステージ目、妻に抱っこされてからは調子が出てきて、スプーンを2本持ってそれでリズムをとりながらノリノリで見ていた(ちょっと酔っ払いのオヤジのようでもある)。

 一方上の娘は、じーっと動かず、しかし顔を見ると、食い入るように興味深そうに見ている。そして時々、妻に「この曲が好き」などと耳打ちしていた。元気で明るい曲が好きなようであった。

 妻は、「左の人は歌い方に気持ちが入ってきているわねえ。心に響くというか。しっとり感というか。うまくなったわねえ」などと、評論しながら聴き入っていた。

 私は、「ややマジ減量モード」ではあったのだが、今日はセルフ慰労会ということもあり、遠慮せずに(誰に?)ビールを飲んだり食事を取ったりした。しかし今朝体重をはかってみたら、昨日より200g増に留まっていた。ちょっと一安心


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