読書と日々の記録2004.10下

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■読書記録: 31日短評5冊 30日『子どもの心を育てるカウンセリング』 25日『考えるヒト』 20日『図解社会学のことが面白いほどわかる本』
■日々記録: 27日教育実習の影響 26日【授業】恋愛の心理学 25日新聞の要約 21日プロセスと結論 19日超大型の台風 17日【育児】逆上がりする6歳児

■今月の読書生活

2004/10/31(日)

 今月は、授業は始まったものの、登録調整が中心だったり、台風で休講になったりしたので、あまり授業に追いまくられることなく、他の仕事ができた。本来は8〜9月がこうあるべきだったのに。まあできただけでもいいか。

 英語の多読は、今月は結局1冊。実はもう1冊を途中まで読んだのだが、初めての「投げ出し」本になった。まあ期が熟していないということか。

 今月良かった本を選ぶのは難しいところだが、強いてあげれば、『はじめてのデモクラシー講義』(歴史が大づかみにわかった)、『フランクル心理学入門』(機械的ではない人間観)あたりだろうか。まあ、『反社会学講座』なんかは(気になる点はあるものの)単純に面白いのだけれど。

『クリティカルシンキング―不思議現象篇』(T・シック・ジュニア & L・ヴォーン 2002/2004 北大路書房 ISBN: 4762824070 ¥2,730)

 訳者様からいただいた本。不思議現象を題材に、それを客観的に考えようという本。この手の本は、授業などでちょっと触れられるような話が載っていたりして、ありがたい。たとえば、「隕石というのは、科学の世界では長年に渡ってあり得ないことだと考えられていた」(p.14)みたいな。しかしそれ以外は、どちらかというと本書よりも、訳者である菊池聡さんが書かれた本(たとえば『超常現象の心理学』とか)の方が、読みやすく理解しやすいのではないかと思った。もっとも本書は、「心理学」的観点だけから不思議現象にアプローチしているわけではない。筆者は哲学者のようで、認識論や科学哲学という観点からも不思議現象が論じられている。たとえばポパーやクーンの議論の問題点が指摘されていたり。しかし、筆者の指摘する問題点は、私には、ポパーやクーンを十分に理解していないために出された問題点であるように私には見えた。認識論にせよ科学哲学にせよ、あるいは不思議現象にせよ、簡単に否定できる問題がある一方で、そうではない問題もたくさんあるように思うのだが、本書は、概論書という位置づけなのか、それぞれの問題にあまり踏み込むことなく(どちらかというと一方的に)論じられている部分が少なくないように感じた。その点はちょっと不満である。

『コンセプトマップ活用ガイド─マップでわかる!子どもの学びと教師のサポート』(福岡敏行編著 2002 東洋館出版社 ISBN: 4491018286 \2,940)

 コンセプトマップを教育に活用する方法を実践的に書いた本。コンセプトマップは、教師が授業を計画する教授ツールとしても、子どもが問題解決に活用する学習ツールとしても、子どもの変容を評価する評価ツールとしても使えるそうである。本書には、いくつかの教科で実際にどのように使ったかの例が豊富に書かれているが、学習前や第一時と最終時に、その単元で扱った概念についてのコンセプトマップを書かせるという、評価ツールとしての使われ方が一番多かったように思う。最初に出てきたものが子どもの素朴概念を表しており、それが修正され精緻化されることで学習の成果が目に見えるのである。使われている教科も、理科が一番多いが、それ以外にも国語や学級活動などで使われている。実際に使ってみたいと思った。

『痛快!心理学─ハンディ版』(和田秀樹 2000/2003 集英社インターナショナル ISBN: 4797671025 1,300円)

 タイトルは「心理学」だが、内容の9割以上は、精神分析(史)の入門書と言ってよさそうである。その基本的な流れは、「コフートの登場が一つの節目となり、「ワン・パーソン・サイコロジー」から「ツー・パーソン・サイコロジー」へ、「解釈」による治療から「主観的体験」による治療へと、心のモデルや治療のやり方が変わってきた」(p.386)とまとめられそうである。この分野は知らないことが多かったので、いろいろと勉強になったし、とても分かりやすかった。ただし、精神分析の発展形の部分である「今どきの日本を精神分析」している章や、日米の文化比較をしている部分は、ちょっとアヤシい部分があるのではないかという感じがした。

『日本語練習帳』(大野晋 1999 岩波新書 ISBN: 4004305969 ¥735)

 Geoで百円で買った本。まあこんなもんかという感じだった。私としては、昔読んだ『日本語相談』(朝日新聞社)の方が面白かった気がする。本書の中に書かれている、「文章を縮約する」練習(1400字のものを400字⇒200字に)は、何か授業で使えそうだと思った。

『心理臨床の技法と研究(心理臨床の基礎3)』(倉光修 2003 岩波書店 ISBN: 4000067087 3,000円)

 再読。前回よりも、少しは筆者のアプローチが理解できたような気がする。筆者のアプローチについて、前回私が引用した箇所はあまり適当ではなかったかもしれない。今なら、「クライエントが基本的欲求が満たされない現実を的確に把握し、高次欲求を満たす個人的当為を見いだす過程を、内的世界をできるだけ共有することを通じて促進」(p.213)するというアプローチのようである。その「理解」のために使われるのが、イメージその他ということなのだろう。そして、理解が目的なのではなく、それを通して「個人的当為」(「個人の価値観に照らして正しいと思える行動」(p.9))を見いだす手助けをするのがカウンセラー、ということのようである。理解の先があるのが大事なのだということに、今回気づけたような気がする。

■『子どもの心を育てるカウンセリング』(國分康孝編著 1997 学事出版 ISBN: 4761905298 \1,890)

2004/10/30(土)
〜教わる身になって教える〜

 あまり期待せずに買ったのだが、まあ悪くなかった。編者は、「これからの学校カウンセリングの新しいあり方を提唱」(p.4)しようとしているらしい。そのために、教師がカウンセリング(的な手法)を展開できる領域を5つ挙げ、それぞれについて、編者の概論、現場教師による実践、編者によるコメント、と構成されている。5つの領域とは、学級での構成的グループエンカウンター、教師の個別面接、キャリアカウンセリング、授業、特別活動である。

 本書で紹介されている実践の著者は、現場の教師なのだが、たとえばある教師は、非行、不登校、いじめ、しらけなどの様々な問題が繰り返されたクラスにおいて、構成的グループエンカウンターで学級経営を行ったところ、生徒に好評だったし、これで学級を組成できるという感じを強く持ったという。私は何となく、ゲームの延長のような捉え方をしていたので、そんな力があったのかとちょっとびっくりした。

 編者が、(専門家ではなく)教師によるカウンセリングを強調するのは、教育という領域の特殊性や、教師にしかできない(教師だからできる)カウンセリングがある、という考えのようである。そこには、受容や共感だけではなく、指示、自己開示、対決も含められている。「指示」といっても、生徒の状況についての情報を得てから、これぐらいのことはできるだろうと判断した上の指示である。「自己開示」は、自分に関する事実(過去など)、自分の感情、自分の思考を語ることだそうである。「対決」は、受容するだけでなく、退くに退けない線を決め、毅然とした態度で接することである。

 まあ確かに、普通のカウンセリングと違い、こういうことをするほうが教育上自然で効果的な場合も少なくないだろう。もっとも、単に指示をし、自分のことを話し、時として生徒と対決をする、というのは、ごく普通の教師なら誰でもしていることのようにも思えるが。その効果なり受け取られ方まで考えた上でするということなのだろうか。この点は、実践中心で理論部分の短い本書では、あまり十分には分からなかった。

 本書で一つなるほどと思ったのは、授業中生徒が騒がしいとき、それを、カウンセリングにおける「抵抗」と同じように考えるというもの。「クライエントの遅刻・無口・無駄口・無断欠席の度が過ぎるときは、何らかの理由でカウンセリングを受けたくないのではないかと推論するのが常識」(p.134)であるのと同じような考え方を、授業においてもしてみる、ということである。具体的にいうと、快楽原理を禁止する(禁止・命令が多い)と抵抗が生じる。また、現実感覚にあわない(学んでもムダだと思われる)と抵抗が生じる。プライドが傷つけられると抵抗が生じる、のだそうである。つまりやり方に問題がなかったかを考える、ということだろう(すべてが自分の責任か?についても自問すべきだと筆者は注意しているが)。

 こういったことも含め、「カウンセリングを活かした授業とは、教わる身になって教えること」(p.157)と述べられている。そのような考え方はもちろん、カウンセリングだけに特有なものではないが、しかし、カウンセリングとのアナロジーで考えると考えやすい部分があるのも確かだと思った。

教育実習の影響

2004/10/27(水)

 今日、私が指導教員をしている3年生と懇談会をした。

 彼らは、教育実習を終えたばっかりだったので、感想などを聞いてみた。教育実習というと、それを受ければ、将来の進路を迷っている学生もどちらかに方向性を決める大きな手助けをしてくれるものだと思っていた。1ヶ月も「先生」をするわけだし。

 しかし学生の話しを聞いてみると、そういう学生もいたものの、そうではなく、相変わらず決めかねている学生もいるようであった。

 それがいいとか悪いとか言うのではない。学生は、教育実習という出来事をどのように体験したのか、それをじっくり知りたいものだと、強く思った。いつできるかはわからないけれども。

【授業】恋愛の心理学

2004/10/26(火)

 今日は共通教育の「人間関係論」。登録人数は100名強である。先々週はオリエンテーション、先週は台風で休校だったので、今日が実質的な1回目、テーマは「恋愛」とした。

 内容は、数年前から割と固定しているのだが、1.「好き」には「タイプ」がある、2.「好き」には「理由」がある、3.「好き」には「段階」がある、の3本立てとしている。ちょっと盛りだくさんすぎるきらいもあるのだが。

 あと今年は、授業準備中に思いついて、この3本は「心理学研究法各種を知る」という裏テーマに対応している、という話をつけたした。1つ目が質問紙(恋愛タイプ尺度)、2つ目が実験研究の紹介(単純接触効果とつり橋実験)、3つ目がビデオ(NHK「今夜は恋人気分」の上田正樹の回)を20分程度見せ、事例を通して考える、という位置づけにしたのだ。このビデオを今年は入れたおかげで、全体がつめこみ気味になってしまったのだけれど。時間配分は次年度の課題か。

 あと今年から、大福帳形式の質問書を作ってみた。受講生が記入する欄は3行程度、質問には私がコメントを書き込む、ということにした。といっても全部にコメントを書くのは大変なので、半分以上はアンダーラインのみにしているのだけれど。それでもつい、何か一言書きたくなってしまう。おかげで授業後の一息がなかなかつけないのだけれど。

 #授業日誌はけっこう大変なので、今期はとりあえず1科目にする予定。

新聞の要約

2004/10/25(月)

 うちでとっている新聞(琉球新報)の夕刊は、1面の題字の横に、「人工衛星」というコーナーがある。その日の朝刊の記事を5つほど、30字程度で短く紹介している欄である(と私は理解している)。

 今日の「人工衛星」の中には、「直下型地震予知不能と識者。ありふれた規模とも。求められる政府の説明責任」とあった。朝刊に載っていた識者のコメントとは、島村英紀先生のものである。それは私も、朝食をとりながら読んだ記憶がある。

 でもこういうこと書いてあったっけ、と思った。1文目には「直下型地震予知不能」とあるが、それは直下型に限った話ではないのに。2文目はわかるが、3文目、何についての「政府の説明責任」が求められるというのだろう。この記述を見る限り、「予知不能」についてか「ありふれた規模」と読めるが、ちょっと理解しにくい。

 ということで、朝刊の原文に当たってみた。場所は3面のコラム「識者評論」である。長いので、関連箇所のみ(強調は道田)。

恐れていた直下型地震が、また起きてしまった。/〔中略〕日本には地震予知連絡会(予知連)があり、東海地震の予知が可能だという前提の地震立法(大規模地震対策特別措置法)もあるから、これほどの災害を生む地震の前には、何らかの注意報か警報が出るのではないかと思っていなかっただろうか。/実は、直下型地震を予知する観測体制はない。また地震を予知する学問的な根拠もない。/〔中略〕政府は、地震予知について、研究の現状と見通しを、国民に正直に説明すべきだろう。/〔中略〕この程度の規模の地震は、日本とその周辺海域では、一年か一年半に一度は起きている。いわば、地震としてはありふれた大きさのものだ。/〔中略〕地震予知の正直な現状を認識し、建物の耐震化推進などで将来の地震に備える。政府と日本の国民は今、その正念場にいる、というべきであろう。

 これをみる限り、先の要約は不適切であるように私には思える。直下型地震は、「予知が不可能」という以前に、予知する「観測体制はない」=そもそも観測していない、のである。ただし予知が可能なわけではない。予知に関しては、「地震を予知する学問的な根拠もない」のである。これは、直下型に限った話ではない。「すべての地震」についての話である。それを「直下型(のみ)予知不能」と思えるような要約をするのは不適切であろう。ちなみにこの記事のタイトルは「予知できぬ直下型」となっており、明らかに不適切である。

 また、要約の3文目「政府の説明責任」は、本文を見る限り、「地震予知について、研究の現状と見通し」についての話である。補足するならば,予知できる見通しがまったくないにも関わらず,巨額の予算が投じられていたり,予知を前提に法律が作られていることに対する説明責任であろう。しかしこのような「研究について」の話であることは、上の要約からは分からない。

 しかも、これは要約の3文目(締め)としては不適切ではないだろうか。このコラムの締めは「予知にはまったく期待できないので、今から将来の地震に備えておくべき」というものである。そういう意味では、要約の3文目は「求められる耐震対策」などとすべきだったのではないだろうか。つまり全体を私なりに書き直すと、こうなる。

地震予知不能と識者。ありふれた規模とも。求められる政府の耐震対策

 これなら全体のつじつまもあうし、私が知る限りでの島村先生の主張とも合致するように思う。それにしても、夕食時に目にした新聞から始まった、ちょっとしたメディアリテラシー学習になったなあ。

■『考えるヒト』(養老孟司 1996 ちくまプリマーブックス ISBN: 4480042016 \1,260)

2004/10/25(月)
〜崖の途中に貼りついて考える〜

 『解剖学教室へようこそ』の続編にして、<唯脳論>の解説に近いという本。中には、『人間科学』の考えの芽生えのようなものもある。内容も、「若い人のために、できるだけ平易に、かいつまんで書いた」(p.209)とあるように、読みやすくは書かれているものの、決してレベルが落とされているわけではないく、興味深く読めた。

 私が興味深かった部分として、「考えること」の意味を書いている部分がある(本筋とは直接関係ない部分ではあるが)。筆者は、科学には正解がないが、たえず正解に近づくためには、考え続けるしかないという。それに続けて、筆者は次のように書いている。

いちいち考えながら生きていたのでは、たいへんではないか。もちろんたいへんである。人生は崖の途中に貼りついているようなものである。手を離せば、落っこちてしまう。そうかといって、上に上るのは疲れる。もう登る余力もない。それでも登るしかない。それが人生だ。そう思っておけば間違いない。(p.20)

 まあこの比ゆが適切かどうかは別にして、考えることの必要性を、こういう比ゆで説明することも可能なんだなあと思った。また、筆者はそういう風に人生を捉えているんだなあとも思った。

 本書の第一のテーマは脳と心であり、それとの関連で、知覚、運動、現実、思考、意識、ことば、無意識が扱われている。それらは、興味深いものはいくつもあったが、しかし、筆者流の論じ方で論じられているせいか、「難しい問題」を含んでいるせいか、私がここでそれらをまとめて論じることはできない(「「ああすれば、こうなる」型の思考が、現実には万全ではない」(p.142)というのは確かに、と思ったが、それ以上コメントを付け加えることはできない)。

 ただ、『人間科学』にもあったように、筆者は、身体とか無意識を重視しているようである。それとの関連で、また、ここに書いたことや竹内敏晴氏の論考などとも関連することとして、筆者が「型」について書いている箇所があったので、抜書きしておく。

私たちの社会では、身体という表現を、たいへん重視していたと思われる。それが修行−道−型という文化を生み出したのである。仏教もまた、仏道修行だった。修行とは、身体の統御を完成することである。どうやって? 具体的には、それぞれの「道」を通じて、である。茶道だろうが、剣道だろうが、どれでもいいのである。それが完成すると「型」になる。型とは、万人が理解する進退の普遍的表現である。そうした型を、弟子は「その通り」真似するようにしつけられた。なぜか。型は進退表現であるから、無意識的表現を含んで成立する。無意識的表現は、意識的に真似するわけにはいかない。ともあれそっくりそのまま、とりあえず真似してもらうしかないのである。それでなければ、無意識の部分が落ちてしまうであろう。それでもそうしてもうまく真似できないところ、それは最終的には師匠の個性であり、あるいは弟子の個性だということになる。(p.206-207)

 ここには、「型」の意味が論じられている。よくはわからないけれども、「型」が、無意識の部分までも含んでいる(と筆者が考えている)ようである。これが型の最も大事なことなのかどうかはわからない。ちなみに型に関する考察は、『不確かさの中を』にも見られる。二つの論考は、ちょっと違うようでもあるが、しかし、どちらが正しいのか、あるいは両立するのかは分からない。もうこれ以上は、私が何かの「道」で「型」を学んでみるしかないような気がする。しかしそうすることが、意識や無意識を理解することにつながるなら、してもいいような気もする。

プロセスと結論

2004/10/21(木)

 おそらく昨日の記述に対する,猿並日記(10/20)さんのご感想。

 わたしが学部の一年のときに履修した「社会学」は、研究過程論ばかり、というか昔の某とある社会学者の方法論の解説ばかりでした。そして当時のわたしは、現実の社会のあり方を読み解いて示してくれる結論本的な授業の方が面白いのにぃ!と思っていました。なので、クラスメートにはしばしば、「あれは社会学(社会についての学問)なんかじゃない。社会学学(社会学についての学問)だ」と言っておりました。

 方法論というか研究過程を教えてくれる授業の方が、たしかに、「これなら自分にもできそう」という気持ちになりやすいのだと思いますが、そういう気持ちになりたい、というひとは(分野が社会学かどうかは別として)すでにけんきう者としての心構えができているひとなのではないかと思います。それ以前の、「けんきうできるようになりたい」という気持ちができる前のひとにとっては、社会学ってのはこんな風にみごとに社会を読み解けるのだよ、おもしろいでしょ、というメッセージを伝えることが重要なのではないかと思いました。

 以上は、学部のときの社会学学の授業に最後まで興味を持てなかったわたしの感想です。

 なるほど、確かに学生は、そういう面白さを求めているという部分は少なからずあるでしょうし、逆に「方法論の解説ばかり」だと、面白くないでしょうね。この両者は、とても大事な視点だと思いました。

 ただ、私が「研究過程」本と書いたときにイメージしていたのは、いわゆる「方法論」ではなく、どんな方法でどんな結果を得た上でそのような結論が得られたのか、という意味での「研究過程」なのです。「過程+結論」本と称した方が良かったかも知れません。できればこれら(方法、結果、結論)に加えて、その研究以前にはどんな先行研究なり社会認識があったか、ということもあると、その研究の意義なんかも見えていいような気がしますし、さらにいうならば、そのデータはこんな風にも解釈が可能かもしれないけれども、方法上の工夫なり、別のこのようなデータがあるために、その解釈ではなく研究者が出した結論の方が妥当なので、なんて話もついているといいような気がします。

 このようなやり方で狙うのは、知識を「生産するもの」(構成されるもの、変わりうるもの)としてみるという見方です。そうでない教育というのは、大きく言うならば、知識を生産するのは権威者(専門家)だけであり専門家がいうことは正しいのだという「権威主義的知識観」になり、教科書に載っているような知識はもう今後変わらない「正解」なのだという「固定的知識観」につながると思うのです。

 もちろん、結論本にも結論しか書いてないわけではなく、多少なりともデータは載っていますので、絶対にそうなるというわけではないのですが、研究プロセスの比重が軽くなり、「読み解き」の比重が重くなるにつれて、そういう危険性は多少なりとも増すかなあと思います。「社会学の概念を使うと現実がこのように読み解ける」というのは、話がもっともらしければとても面白いものなのですが、しかし、「現在の世界情勢がこうなのはユダヤの陰謀だ」とか「未解明の事件の多くはエイリアンが関わっている」みたいな話も、「○×という観点から現実を読み解く」という点では同型なわけで、それを面白いとかもっともらしいとか面白いと思う人にとっては、こちらもOKになってしまうような気がするのです。

 それとは違うものと認識してもらい、あるいは、そういうものに出会ったときにその信憑性を吟味してもらうためにも、結論には常に根拠をくっつけて提示したほうがいい、と思うわけです。この場合の根拠とは、「こういう概念を使えばうまく説明できる」という以上のものなわけで、簡単に言うと、それ以外の解釈可能性を排除できるようなものです。あるいはそれを知ることで、そのデータからどこまでは結論を一般化できてどこから先は一般化できないかが分かるような、そういう根拠です。

 ただ、思い起こしてみると、研究のダイナミズムの面白さを知ってもらおうと思って、「こういう研究からこういう結論が出されたけれども、別の研究が別の実験で別の結論を出し、それに対してさらに別の実験が……」なんて話をしたら、授業後の感想で「その結論もどうせいずれは否定されるんでしょ」みたいに書かれたことがあります。これって、結論が固定的なものではない、ということを伝えることには成功したかもしれませんが、その面白さを知ったというよりも、「世の中には不確かな知識もあって信用できない」みたいなニュアンスで受け取られたようで、ちょっとがっかりした記憶があります。

 ということで、「研究過程」を面白さにつなげるのって、けっこう難しいかも、とは思います。また、そういうプロセスの話しをしちめんどくさいと思う学生もいるかも知れません。しかし、まあそれなりに工夫のし様はあるかな、と思ったりしています(とはいっても現時点では、自分の授業でそこまで明確に「過程+結論」を強調しているわけではないのですが)。

■『図解社会学のことが面白いほどわかる本─本当のことがホントにわかる!』(浅野智彦編著 2002 中経出版 ISBN: 4806116319 \1,470)

2004/10/20(水)
〜変更可能性を知る〜

 これまで私は,社会学の概説書をいくつか読んできた(こちら参照)。それで思うのだが、社会学に限らず、ある学問の概説書なり入門書には、大きく2つのタイプがあるのではないかと思う。簡単に言うと、研究の「結論」を中心に述べる本と、研究の「プロセス」を示すことを重視する本である。本書は前者の「結論」本タイプ。同じようなタイプの本としては、『ビデオで社会学しませんか』が挙げられるであろう。これらは、さまざまな概念装置を駆使して,ある社会現象のなりたちや仕組みを「読み解いて」いるけれども、そのような概念が、どのような方法論から導き出されてきたかは、あまり重視されていない。したがって、その本の記述内容に対する評価は、「なるほどうまく社会現象が説明されている」という形で行われる。というか、そういう評価しかできない。方法論についての記述は基本的にはないので。

 私としては、どちらかというと「研究過程」本の方が好きである。そういう本でないと、「自分でもできそう」という感じがしないし、その方法論の効用も限界も感じることができないし。そういう点では、本書も不満ではあったのだが、しかし本書は、「結論」本ではあるものの、まあなかなかうまくできており、社会学が扱う対象を、私(個人)から世界情勢まで、幅広く見せてくれ、社会学的観点の切れ味の鋭さを見せてくれるので、悪くはなかった。

 なお、社会学が何なのかって、結構分かりにくいと思うのだが、本書では、「社会学とは、このような「社会」を対象にして、そこに見られる「関係のパターン」を調べる学問」(p.19)であり、「社会学はあたり前のものを当たり前ではないものとして眺め、それを相対化する学問」(p.29)と述べられている。この2つって、どちらか一つだけだと、「ん? それって社会学だけがそうなの?」と思いそうだが、その両方を挙げていることで、社会学の社会学らしさが見えるように思う。なかなか悪くない表現ではないかと思った。そのほかにも社会学に関する記述として、「「あたり前」のことを考えていくために、それが「あたり前でない」人々に目を向けてみるのも、社会学的なものの見方のひとつ」(p.140)と述べられており、これもなるほど的な記述であった。こういう視点は、心理学にはないのではないかと思う。

 そのような社会学が、一般の人にとってどういう意味を持つかについても、筆者らなりの視点が見られる。以下の記述は、日本的雇用システムと他の雇用システムについて論じた章の最後の記述である。

たしかに、現在の雇用システムは歴史的、社会的に形成されてきた強固さや慣性を持っています。日本的雇用慣行が形成された背景には、欧米とは異なる日本の文化の影響があります。したがって、他国の雇用システムがどんなに理想的にみえても、それをそのまま導入することは難しいでしょう。しかし、他方で、私たちがあたり前のように思っている働き方が非常に特殊なものであり、別様でもありうる変更可能性をもっていることもまた事実なのです。(p.176)

 この記述の最後に見られるように、社会学を知ることの意義は、私たちのあたり前とは違うあたり前がある、という「変更可能性の幅」を広げることができる、という点にあると筆者らは考えているようである。心理学が、ともすれば人間の「バイアス」(偏り)を指摘しがちなのに対して、さまざまなあり方がありうることを示している点も、心理学と社会学の違いなのかもしれない。

 #続きの考察あり。

超大型の台風

2004/10/19(火)

 おととい(日曜日)から風が強かった割には、昨日はさほど雨も降らなかったのだが、今朝から、沖縄は超大型の台風23号の暴風域に入っている。

 午前中は、結構な風が吹き、断続的に電気が消えた挙句、1時間程度停電した。私はこのアパートに住んで10年以上たつのだが、台風で停電したのは初めてではないかと思う。停電すると、水も出ず不便である。ということで、点いたときにあわてて水を溜めた。

 ところが昼過ぎから風が収まり、夕方の今まで、かなり静かである。というか、今、少し風が吹いているような音が聞こえるが、すぐに止んだりしている。台風の目にいるのである。その間に、ちょっと買い物に行ったりしてきた。もうちょっとしたら吹き返しだろうか。

 また夜に停電するのではないかと心配し、とりあえず妻と子どもはもう風呂に入ったりしている(風呂はガスなので停電しても入れるのだが、暗いと子どもが怖がるのである)。昼間、子どもが遊んでとせがんだが、電気が点いている間に仕事をすると言って、子どもはほうったらかしにしていた。上の娘はそのことをちゃんと理解していて「夜はいっぱい遊ぶんでしょ」と今から楽しみにしている。

 今日はほとんど動かなかったので、大しておなかは空いていないのだが、これから食事をしてから、停電に備えつつ子どもと遊ぶことになるかと思う。本当はもうちょっと仕事したいんだけど。

【育児】逆上がりする6歳児

2004/10/17(日)

 台風が近づいているせいか、今日は午後から雲行きも怪しく、また、風が強かったりしたのだが、午後から、上の娘(6歳4ヶ月)が外で遊びたいというので、付き合うことにした。

 最初は、アパートの入り口付近で、最近買った自転車を乗っていた(下の娘(4歳1ヶ月)は、お下がりの自転車を乗っていた)。私は、ここ数日、体重が微増しているので、アパートの周りをウォーキングすることにした。

 2000歩ほど歩いたところで、下の娘が、「じてんしゃはおわりにして、パパといっしょに歩きたい」と言い出した。上の娘は「一人になるのはいや」と言ったので、じゃあ一緒に近くの公園に行こう、ということにして、上の娘だけが自転車に乗って、私と下の娘は歩いて、公園に行った。

 上の娘は、最近、逆上がりができるようになったので、前々から「パパにみせたい」といっていたのだが、それを見ることができた。普通、逆上がりというと、勢いをつけてグルリと回る、というイメージがあるかと思う(このあと、小学生の女の子が来て逆上がりをやっていたが、確かに勢いをつけていた)。しかし、上の娘のやり方は違うのである。そのままぶら下がって、腕力なのだろうか、ゆっくりおなかを鉄棒に近づけ、そしてグルリと回ってしまうのである。こういう回り方なので、自分の頭よりも上にある、一番高い鉄棒でも回れてしまう。そういえば高校のとき、体操部だった同級生がいて、そいつが、勢いをつけずにけ上がりをやって見せてくれて、とても驚いた記憶がある。今回の上の娘の逆上がりもそれに近い。

 もっとも、今、上の娘は華奢なスラリとした体つきをしているので、これができるのだろうと思う。もう少し大きくなると、腕力に比して体重が重くなるだろうから、できなくなるんじゃないだろうか。そうなる前に、この逆上がり、一度ビデオに撮っておかねば。

 #ちなみに私は、腕力に比して体重がとても重く、まったく逆上がりができなかった。ちょっとショック。

 #鉄棒のあとは、ジャングルジム、ブランコ、シーソーをしたあと、滑り台で毛虫を見つけてからは、あと2人の子どもと一緒に、なぜか大「毛虫探し」大会になってしまった。


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