読書と日々の記録2004.11上

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■読書記録:  15日『学ぶ意欲とスキルを育てる』 10日『〈不良〉のための文章術』 5日『ウィトゲンシュタインはこう考えた』
■日々記録:  9日【授業】性格の変容 7日【育児】突っ込む幼児たち 2日【授業】性格の測定

■『学ぶ意欲とスキルを育てる─いま求められる学力向上策』(市川伸一 2004 小学館 ISBN: 4098373718 \1,470)

2004/11/15(月)
〜理論+事例集〜

 『勉強法が変わる本』『学ぶ意欲の心理学』『学力低下論争』などを書かれた市川先生の本(このほかに短評としてとりあげているものに、『言語論理教育の探求』、『心理学って何だろう』、『学力危機』がある。また学力問題と関係のない著作としては『心理学研究法入門』もある)。本書はタイトルからみると、これまでに読んできた本と似ているような気がしたので、買いはしたもののしばらく読まずに置いていたのだが、読んでみたところ、たんなる前著の焼き直しではなく、なかなか悪くないことが分かった。もちろん、これまでに読んだような話も出てくる。しかしそれらが、「学ぶ意欲とスキルを育てる」という全体的な目的の中に統合されているし、また、これまでに示されてきたモデルや考え方を基にした実践例が載せられており、私は本書をとても興味深く読んだ。

 まず総論的な話からすると、タイトルにある「学ぶ意欲を育てる」ことに関しては、次の発言の中にまとめられているように思えた。

いい先生がいる、親しい友だちがいる、そういうことに惹かれて勉強に入っていく。その中で、勉強に自信を持ったりおもしろさがわかってきたりしてやる気が出てくるのであって、「勉強以前の問題としてやる気がない」と言ってしまうと、「じゃ、どうやって、そのやる気を出すのか」ということになってしまいますよね。あくまでも、勉強しながら、やる気が出てくるのであって、そこで引きつけていくのが人間関係の力なのではないでしょうか。(p.198-199)

 このうちの「いい先生」は、単に先生(=わかる授業)だけを指すのではなく、「学びの文脈づくり」ということも含められているのであろう。学びの文脈とは、学ぶことの意味が見える課題や活動のことを指しているようである。筆者の言葉でいうなら、基礎に降りていく学びだろうか。それに加えて、認知カウンセリングや家庭学習などの授業外学習支援も通して学習スキルを身につけていくことが、「生きる力」や「人間力」になる、ということのようである(ちょっと大雑把なまとめかもしれないが)。

 「人間力」とは、多分筆者が提唱している概念で、「生きる力」に変わる概念のようである。生きる力は、学力を拡張する形の概念になっているのだが、そうすると、位置づけや概念が曖昧になる。そこで、「むしろ新しい言葉を使って、とくに社会の中で生きていく力を強調しよう」(p.42)としているようである。それは大きくは、文化生活、市民生活、職業生活を支えるものとしての、教科学習、社会参加、職業理解の力ということのようであり、もう少し詳しくは、学習スキル、社会的スキル、批判的思考、メディア・リテラシー、消費者教育、職業体験、職場見学、協同的問題解決、コミュニケーション・スキルなどが、人間力に必要な学習テーマの例として挙げられている(p.169)。個人的にはこれは、かなりのものが「批判的思考」ともいいうるものではないかという気はするのだが。

 あと、筆者が提唱する「わかる授業」としての「教えて考えさせる授業」も、とても興味深かった。それは、教科書の解説や例題にあたる部分は教師側で教えてしまい、それをもとに考える活動をする、という教育である。このような授業で「考える活動」は、3箇所に出てくるという。一つは説明を理解したり自分で説明するときであり、二つ目は発展的な課題を解決するときであり、三つ目は自分の理解状態を診断し表現するときである(p.102)。本書におけるいくつかの例をみても、これはなかなか悪くないやり方のように見えた。この「教える」部分を「予習」(予習レポート)にすると、大学の授業でも使えるようである。というか筆者は使っているようである。

 そういう具体的なヒントが、認知心理学やこれまでに筆者がやってきたことをもとに挙げられている点が、本書の大きな魅力であるように思えた。

■『〈不良〉のための文章術─書いてお金を稼ぐには』(永江朗 2004 NHKブックス ISBN: 4140910054 \1,218)

2004/11/10(水)
〜というよりは、遊びのある品行方正〜

 サブタイトルにあるように、お金が稼げるような文章が書けるためのハウツーを紹介した本。もっとも、そう簡単にはお金は稼げないだろうから、正確にいうなら、金の取れないようなつまらない文章を書かない本、と考えた方がいいように思うが。

 内容は、具体的な心構えから、例文とその批評、添削例などが豊富で、とても実用的な内容になっている。特に、文章術の練習としては、本の紹介文が適しているのだそうで、そこに1章がさかれており、なるほどと思えるようなアドバイスが多数書かれていた。書き手のためではなく読者のために書く、というような。読書記録を書いている私にも参考になるものも少なくなかったが、私の場合は、あくまでも「自分のための記録」が主目的なので、それを日頃どれほど実践するかは未定である。

 なお、本書のタイトルは「不良のための文章術」となっているが、実はここには多少のウソが混じっている。筆者の言う「不良」とは、不良品の不良であり、「どこかが過剰だったり、何かが欠落しているような文章」(p.11)がおカネになる文章だとある。あるいは、筆者が雑誌のカルチャー面に文章を書くときは、「冷静より情熱を、論理より倫理を、正確さより大胆さを、上品よりあえて下品に、というスタイル」(p.76)でやるのだそうで、それも「過剰や欠落」のある不良の文章であろう。

 しかし、本書が全体として、そういう文章の書き方だけを指南しているわけではない。不良の話もあるものの、それ以外の部分はむしろ、いかに読者に丁寧にサービスするか、という話なのである。それは、「普通の人がいやがることやできないことを、代わって行う」(p.116)(高い本を紹介する、体を使い手間ひまをかける、など)ということであったり、読みやすい文章や句読点、漢字の使い方だったり、想定読者を明確にして焦点を絞ることだったり、言葉選びにこだわることだったり、ひとりよがりにならないことだったり、丁寧に取材することだったり、中心のある文章を書くことだったり、補助線を引くことだったり、説得的に仮説検証するコラムを書くことであったり。そして、そのようにして文章を書くことは、「考える」ことを促進する効用もあるという。

不良の文章術を身につけると、ものの見方が変わります。裏から見たり、斜めから見たり、ひっくり返して見るようになります。書くためには考えなければなりません。(p.14)

 しかしこれは、「過剰や欠落のある文章」という意味ではなく、いかに読者にサービスし新しい視点を提供するか、ということであろう。あるいは筆者の言葉でいうならば、「正論を書かない」(p.250)ということであり「常識の枠の中で考えない」(p.250)ということであろう。そういう意味では本書は「不良のため」の文章術ではなく、「読者のために書く文章」術の本であり、その方向性として、不良的(常識的でない)になることで読者を喜ばせるというものと、きちんとした文章を書くことで読者を喜ばせる、という2つがあるように思う。

 もっとも著者はそのことはちゃんと分かっているようで、章見出しには<不良>に「プロ」とルビが振ってある。おそらく、あえて「不良」という方向性だけをタイトルとして全面に出したのは、筆者のいう「過剰」を演出しているのではないかと思う。その意味では、中身は「不良」と恐れるようなものはさほどなく、むしろ、遊びのある品行方正、という感じである。

【授業】性格の変容

2004/11/09(火)

 共通教育科目「人間関係論」。前回に続いて性格の話は2回目。

 先週でた質問などをもとに,前半は,ラベリング効果やフリーサイズ効果の話から,性格が多面的なものであることを話した。

 後半は,性格の一貫性が案外低いことを,ミッシェルの研究で示し,性格の変容が見られた例として,太田光と柴田理恵の例を挙げた。太田光については,この1週間で彼の自伝やエッセイを3冊も読んだりした。

 柴田理恵の話は,NHKのトーク番組「わたしはあきらめない」から,彼女の出演回を15分ほどみせた。

 授業後,質問書を見ると,「とてもためになった」とか「希望が持てました」という感想がいくつか見られたので一安心している。

【育児】突っ込む幼児たち

2004/11/07(日)

 今日、昔録画した「おかあさんといっしょ」をみていた。今の一代前の、あきひろお兄さんとりょうこお姉さんのときのものである。うちの娘たちは、それを見ながら、しきりに突っ込んでいる。

 番組の中、「でこぼこフレンズ」というアニメで、「カランコロン」というキャラクターがいる。ジュースの入ったグラスに手足のついたキャラクターである。それがブランコに乗って「ドキドキしましたー」というお話がある(ブランコが揺れて、ジュースがこぼれそうになるのでドキドキするのである)。

 それを聞いて上の娘(6歳4ヶ月)が「ドキドキするなら乗らなければいいさ」と一言。続けて下の娘(4歳2ヶ月)が、「ジューシュ飲めばいいしゃ」(ジュースを減らせば、こぼれそうにならないのでドキドキしない、という意味)。

 他にも「ロックンロールパンって意味が分からん」とか「トラってふちゅうこんなじゃないし」とか突っ込み放題。思えば、少なくとも1年以上前からそういうところはあったのだが、パワーアップしているなあと思う今日この頃である。

■『ウィトゲンシュタインはこう考えた─哲学的思考の全軌跡1912-1951』(鬼界彰夫 2003 講談社現代新書 ISBN: 4061496751 \966)

2004/11/05(金)
〜生活実践から生まれる論理〜

 ウィトゲンシュタインの思想の歩みを、年代を追って明らかにした本。ウィトゲンシュタインは、<一次手稿>−<最終手稿>−<一次タイプ原稿>−<最終タイプ原稿>という4段階でテキストを作成しており、それらが納められたCD-ROMが出されたのだそうで、それをもとに、最終原稿だけではわからないウィトゲンシュタインの思想表現の意味や、その変遷が丁寧に考察されている。

 思えばこれまで、ウィトゲンシュタインと関係のある本を何冊か読んできた(直接的には『哲学・航海日誌』『ウィトゲンシュタイン入門』。間接的なものとしては『科学の解釈学』『相互行為分析という視点』『心と行為』『無限論の教室』『ウィトゲンシュタインのパラドックス』『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』『「心」はあるのか』)。本人の著書は読んだことはないが。

 この中で複数読んだものに関していうならば、野矢氏のものは読みやすいものの、分かりにくい部分も少なくないし、野矢氏なりに発展させている部分もあるので、どこまでが本人の思想なのかはよくわかっていなかった。また、西阪氏は、「ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジー」と著者は言っているものの、どこがどのようにそうなのかは、ほとんどわかっていなかった。しかし本書は、丁寧に説明されており、これらの疑問がかなり解消し、ウィトゲンシュタインの考えがそれなりに理解できたような気がする(自信はないが)。

 ウィトゲンシュタインはいくつかのテーマについて考察しているのだが、「「論理とは何か」という問いこそ彼の哲学的思考の原点」(p.43)なのだそうである。そこから出発して、問いが答を生み、答が新たな問いを生み、それについて考えるという思考を行い、最終的には、生の意味や、「私」の意味にまで考察が深められているのである。基本的に彼は、常に一冊のノートを身のまわりにおいて、「日々の思考から生まれた「考察」はそこに日付とともに書きつけられた」(p.20)という。そのときの思考法は「批判的思考法」と本書では書かれている、「内的対話を通じて思考の穴を詰めていく」(p.141)思考法である。それが上記のような精錬過程を経て、まとまった思想になっているようなのである。毎日しつこく問い続ける姿勢といい、その深さといい、見習いたくなるようなものだと私は読みながら思った。もちろんそのマネゴト程度のことしかできないかもしれないが。

 個々の考えについては、私にはあまり簡単にはまとめられそうにないので、ちょっと目を引いた記述を引用しておく。これは、経験、規則、論理、科学などの関連について述べられている部分である。

人々の判断が繰り返し一致する経験命題が硬化して「規則」となり、論理命題となるということは、従来「論理命題」と呼ばれてきたものはこの広い意味での論理のごく一部を占めるにすぎないことを意味する。それ以外のもの、たとえば科学理論のようなものであっても、人々がそれを確実なものとして前提し、物事の判断の基準として用いるなら、それは新しい意味での論理の一部を構成するのである。(p.355)

 私が理解するにこれは、論理を「超越論的」(p.72)、「超自然」(p.227)的なものとしてではなく、人々の日常の実践(生活)の中から生まれてきたものとしてみるということであり、狭い意味での論理と同等の地位を占めるものが日常にはもっとたくさんある、ということなのだろうと思う。これに関しては、「かつて経験命題であったものが、いったん硬化して規則に転化されるや、それは不動の基準として新しい役割を言語ゲームの中で獲得する」(p.354)なんていう記述もある。あるいは、「人間の思考と認知には論理的内部構造が存在する。そのため全ての事柄が同様に疑われたり、確かめられたり、探究されたりするのではない」(p.380)なんていう、「疑うこと」と「自明視すること」の関係も書かれていたりする。私自身がこのあたりのことをちゃんと分かっているかどうかは分からないが、しかし、このようなダイナミズムは、私の研究テーマを考える上でとても関係ありそうな気がした。

【授業】性格の測定

2004/11/02(火)

 共通教育科目「人間関係論」2回目。テーマは「性格」なのだが,去年まで1コマで終わらせていたものを,今年から2コマに増やそうと考えたので,結構大変だった。昨日は9時ごろまで大学に残ってどう展開するか考えていたのだが,ちっとも埒が明かないというか,適切な展開が思いつかないのでとりあえず帰宅。今朝出てきて考えた末,とりあえず,去年と同じ展開で,少していねいに行うということにした。途中で終われば続きは来襲すればいいし,サクサクと最後まで進んでしまったらそれはそれでいいし,と。結果的にはそれで正解だったのだが。

 今日は結局,Y−Gをやらせて解説し,そこから,このような性格検査が,「魔法の鏡」ではないものの,「うさんくさいもの」でもないことを説明。それに対して,雑誌に載っているような心理テストがうさんくさいものであることを対比させた。

 魔法の鏡といえば深層心理,ということで,投影法(TAT)と,ネット上で拾ったいわゆる「深層心理テスト」も紹介し,それらの違いを説明したところで,ほぼ時間となった。

 これぐらいの話ができればいいなと思っていたので,まあこれでよしとするか。ということで来週は,状況性格とか,性格の変容について行う予定。


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