31日短評9冊 25日『ルポ十四歳』 20日『納得の構造』 | |
| 30日この1年 27日パパへのクリスマスプレゼント 21日【授業】援助と傍観 20日クリスマス発表会 |
今月よかった本は,『納得の構造』ぐらいか。ノンフィクション2冊(『スカウト』,『ルポ十四歳』)も,まあ悪くはなかったのだが。
結局今年1年で読んだのは,再読も含めて合計144冊。昨年から1割減か。まあこれ以上少なくならなければいいんだけど。
この1年がどんな1年だったかというと,あんまりはっきりしたキーワードがあるわけではないのだが,強いてあげれば「多忙」だろうか。読書冊数は,正確にはまだ数えていないが,おそらく激減しているだろうと思われる。他にも,前期は授業が増えたり,夏休みは例年やらないような仕事がいくつかあったり。
「研究」はおととしからのキーワードだった。昨年の年末の記述を読み返してみると,なんだかそれなりに成果が挙がっていたようだが,今年はこれといった成果はないような気がする。まあそれなりに新しい仕事はしたし,来年はさらにそれをバージョンアップする必要性も,別の新しい仕事をする必要性も出てきてはいるのだが。
こんな風に書くと,何もなかったようにもみえるが,しかし考えてみると,今年度新しく(というか久々に)はじめた授業で得た着想が,夏の仕事に活きてきたし,さらにそれが私の興味分野にも繋がっていきそうではある。そういう意味では,今年全体が「芽」の1年だったとはいうことはできるかもしれない。
もう2日も前のことなのだが。
25日の朝,起きると,我が家のツリーの下に,クリスマス・プレゼントが置かれていた。もちろんサンタさんからで,4歳と6歳の娘への贈り物だ。それを見て私と妻は,「いーなー,パパにもママにもサンタさんからのプレゼントはないんだよ」とか,「そのDVDはパパとママへのプレゼントじゃない? まーちゃんとしーちゃん(仮名)には別のプレゼントもあるし」なんて言っていた。もちろん娘たちは「ちがうよー」と強く否定していたのだが。
その日,私は仕事で職場に行っていたのだが,午後に帰ってみると,上の娘(6歳6ヶ月)が,私に手書きのカード(というか,A4の白紙を4つ折りにしたもの)をくれた。表を見ると,次のように書いてある。
うさちゃん
ぱぱへ
ぱぱに。
あけてみてね!
サンタクロースに,
プレゼントをもらってないから,
あげるね!
いろをぬっていいからね!
まーちゃんより
4つ折された紙をあけると,中には「うさガールズと ガールズのいもうと(ハート)とおとうと(ほし)」と書かれている(ハートとほしは記号が書かれている)。その下には,擬人化されたウサギ3匹と,チューリップとひまわりの絵が描かれていた。
なんともまあツボを押さえたクリスマス・プレゼントである。来年もまたくれるといいんだけど。
「十四歳で変わって、十五歳でこういう世界に飛び込んでくる」(p.187)少女たちのルポ。こういう世界というのは、新風俗店だったり、援助交際だったり。筆者は渋谷を中心に、そういう少女(本書では「ストリート・サヴァイバー」と呼ばれている)をフィールドワークしている。そういう少女のなかで、内省的な部分をもっている子に重点的に密着取材し、また、その子と一緒に、アメリカに取材旅行に行っている。本書は、日米のそれぞれにおけるこういう世界について知ることができ、また、こういう世界にいる子が考えていることについて知ることができ、また、こういう世界の周辺にいるさまざまな大人について知ることができる、なかなか分厚いルポルタージュであった。
思考ということとの関連でいうと、ある店の店長が、次のように評している。「あの子たちの価値観、お金とブランドだけなんです。たとえばお客さんから二万円手にするでしょう。そしたら瞬間的に、まったく考えることなく、贋シャネル・ショップに行きますね、彼女たち。ためらうってこと知らないですね。ふと、立ち止まる子供っていないんですよね」(p.188) つまりこういう子たちは、さまざまな原因がもとで「思考停止」してしまった子たち、という理解である。
しかしこういう記述だけ抜き出したら、とてもステレオタイプ的になってしまう。もちろんこの発言は、そういう子たちを知り尽くした人の発言なので、多分その通りなのだろう。だがそれだけではないことも、本書から読み取れる。たとえば本書には「この世界に入り込んだら、何がなんだかわからなくなっちゃった」(p.104)といいつつも、「自分が何しているのか知りたい」(p.105)という少女が出てくる。あるいは、「電車の中で着替える中高生」の思いが語られていたりする。それは簡単に言うと、学校では先生の受けがよければ規則違反も黙認されるようなことが繰り返される。そういう中で、「電車に乗ったときが初めて自分を取り戻せるときなんです。先生の目がなくなる」(p.264)というような語りである。本人には、「他人には、すごくへんに見えるだろうっていう気持ち」(p.264)はちゃんとあるらしい。これ一つを見ても、そんなに単純じゃない(部分もある)ことが分かる。
共通教育科目「人間関係論」。集団と個人というテーマの4回目。人が他人を援助したケースと傍観したケースを新聞や週刊誌の記事で見せ,なぜ助けた/助けなかったのか,と導入。続いて,キティ・ジェノヴィース事件を紹介して,ラタネの実験を4つ(フィールド実験,煙実験,けが実験,発作実験)を,学生に数値を予想させつつ紹介した。
学生の質問書で,キティ・ジェノヴィース事件を「世界仰天ニュース」という番組で見たことがある,といっている学生がいた。この番組,きちんと見たことがなかったので,ちょっとチェックしてみようと思った。
数値の予測に関しては,フィールドで養成する実験で学生が低めの数値を言っていた。どうやら都会人は,どんな要請にも冷淡に対応するというイメージを持っていたようで,それは多少修正できたのではないかと思う。最後に,全体をまとめたあとで,いじめを例に,個人個人の判断が集団としての傍観(や非傍観)になる,というマイクローマクロ関係の話を少しした(実際にいじめの仮想場面で自分がどう振舞うかを,10人にマグネットを渡し,黒板の該当箇所に貼り付けてもらって説明した)。また,これまでに扱った同調,服従,役割,傍観の関係を図示させてみたが,これはうまくできない学生が多かったようだ。これは毎時間ごとにしたほうがよかったかもしれない。
ちょっと気になったのは,質問書に,「集団が強い日本」というような記述をしている学生が複数いたこと。確かにそういう部分はあるかもしれないが,しかしこの授業で紹介したのは,すべてアメリカの研究なのに。そう簡単に文化差の話にせずに,人間が普遍的に持つ傾向として理解してほしかったのだけれど。
非常に興味深い本だった。ひさびさに、ほとんどのページにマーカーを入れてしまうような。
本書で扱われているテーマは、「私たちが話を聞いて心底から「納得した」と感じた時、その確かな感覚はどこからくるのだろうか」(p.i)というものであり、主に実験研究と小学校の授業観察から、社会学的に検討されている。そこから、「日本では時系列と共感が、アメリカでは因果律と分析力が学校生活のあらゆる場面で一貫して強調されていた」(p.202)ということが見出されている。
具体的には、実験研究としては、4コマ漫画をもとに作文してもらうという実験から、日本の児童は、すべての出来事を起こった順番に「時系列」的に述べる(自由課題で9割以上)のに対して、アメリカの児童は、順序を変えたり要約をつけたりと、多様な構造の作文を書いており、なかでも「因果律」的な述べ方が、日本の児童よりたくさんみられている。授業観察によると、アメリカでは作文教育で複数の文章様式を書き分ける訓練をしているし、特にエッセイでは「トピックセンテンス」と「理由」という因果的な構造が強調されている。それに対して日本では、「技術的な指導は意図的に避けられ」(p.72)、「気持ちが伝わるように詳しく状況を書く」(p.78)という「気持ち表現」が重視されるため、結果的にどの作文も時系列中心で書かれ、多様性が現れにくくなっている。ここでいう多様性とは、第一には「作文構造の多様性」であるが、そこから「作文技術の習熟度の多様性」「内容の多様性」が生まれている(p.66-67)。
同じような構造は、歴史の授業でも見られる。日本の歴史授業では、「教師が物語を物語るように出来事が起こった順番に過去を再現し〔中略〕ながら、歴史上の人物の気持ちを想像する」(p.151)という「時系列+共感」構造が見られる。それに対してアメリカの歴史授業では、時系列の確認は短時間で終え、あとは「特定の出来事を結果と定め、時間を遡ってその原因となる出来事を探す作業」(p.151)が、「なぜ」という問いの元に行われていた。この両国の歴史の授業の対比を筆者は、「アメリカがトピックセンテンスに導かれる波乱や驚きを排した直線的なエッセイに、日本は静かに始まり謎解きや意外な展開に満ちたミステリー小説に喩えられるのではないだろうか」(p.196)と、両国とも作文教育と歴史教育に通低する考えがみられることを指摘している。
最初に述べたように、本書は基本的にとても興味深いものであったが、しかし、多少不十分に感じられる点もあった。たとえば、筆者も書いているように本書は、「日本とアメリカの教育の現場では、いかなる論理と認知の方法が反復して教えられるかを明らかにしようと試み」(p.220)てはいるけれども、本書のテーマである「納得という感覚の由来」は、実験でも授業観察でも直接に確かめられているわけではない(7章で、いつもと異なるスタイルで教育が行われたときに何がおきるかについて触れられている部分は直接的な検証に近いだろうが、ほかには見当たらない)。もちろん学校教育の中に、その国特有の納得の構造や源泉が現れている可能性は少なからずあるであろう。しかしひょっとしたら、そこに現れているものは、一般社会における一般人の納得の構造というよりも、単に「学校文化の中での語りの構造」にしかすぎないかもしれないのである。学校と一般社会をつないではじめて、本書で得られたデータが「納得の構造」を明らかにするものとして位置づきうるのではないか、と私は思った。
昨日はうちの娘たちの幼稚園のクリスマス発表会だった。ちょっと思ったことのメモ。
最近買ったデジカメは,こういう日のために,という目的があったので,昨日がその目的での初使いだった。たくさん撮って家で見てみると,さすが手ブレ補正がついてたりレンズが大きいだけあって,手持ちフラッシュなしで離れて撮ったにもかかわらず,きれいにとれていたものがいくつかあった。しかしその一方で,やっぱりブレているものもあった。次は一脚を用意すべきか。
あと,ついつい10倍以上の望遠で撮ってしまいがちになるのも,手ブレの一因かと思う。いくら大きく写しても,ブレていては意味がないので,次は中程度の望遠でぶれにくい写真を撮るべきだな。
まあそれにしても,下の娘(4歳3ヶ月)は普段どおりにかわいらしく,上の娘(6歳6ヶ月)は普段は想像もできないようなおとなしく落ち着いた演技を見せてくれた(親バカ失礼)。ビデオを撮りつつ写真も撮っていると,ゆっくり落ち着いて見ることができないのが玉に瑕ではあるのだが。