読書と日々の記録2005.01上

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■読書記録: 15日『証言 水俣病』 10日『声の文化と文字の文化』 5日『占いの謎』
■日々記録: 11日【授業】対人認知 10日赤鼻のトナカイ

■『証言 水俣病』(栗原彬編 2000 岩波新書 ISBN: 4004306582 \700)

2005/01/15(土)
〜問われているのは私たち〜

 水俣病患者10人の証言を集めて、社会学者が編集した本。序章で編者が、「アウシュヴィッツが陸のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイド」(p.16-17)と書いている。あるいは「水俣病は、生命、身体、アイデンティティ、世界観、文化、暮らし、家族、地域社会にわたる社会病」(p.11)という記述もある。最初にこれらを見たときには、どういう意味なのだろうと思ったが、証言部分を見て、確かにそうであることがわかった。

 症状は人によってさまざまだが、たとえば「身体」に関しては、ある人の妹は5歳のときに、「足がもつれて歩けなくなって、ようしゃべれんようになって、〔中略〕それから目は見えなくなるし、手がかなわなくなって靴も履けなくなる」(p.30-31)ようになり、3年後には「昼も夜もずっと泣いて、泣きつづけて亡くなった」(p.35)という。

 「地域社会」に関しては、あるムラは「みんなが家族」のような楽しい、よか部落だったのに、訴訟を起こしたところ、親戚からもう身内とは思わないと捨てられ、猟師の命である網を誰かにズタズタに切られ、船をことわりなしに乗り回され、といじめにあったという。いろんないじめの言葉を浴びせられたり白い目で見られたり、ということが、「今でもそんなことがつづいています」(p.52)という人もいる。それは身体的にも精神的にも社会的にも(さらには行政的にも)殺されるという意味で、確かにジェノサイドと呼べるものであると思った。

 10人の証言のなかで、一つ毛色が違うと思ったのが、水俣病事件を通して「自分が問われている」と感じた人の話である。患者として訴えるなかでその人は、次のようなことに気づいていく。

この四〇年の暮らしの中で、私自身が車を買い求め、運転するようになり、家にはテレビがあり、冷蔵庫があり、そして仕事ではプラスチックの船に乗っているわけです。いわばチッソのような化学工場が作った材料で作られたモノが、家の中にもたくさんあるわけです。水道のパイプに使われている塩化ビニールの大半は、当時チッソが作っていました。最近では液晶にしてもそうですけれど、私たちはまさに今、チッソ的な社会の中にいると思うんです。ですから、水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任がありますけれども、時代の中ではすでに私たちも「もう一人のチッソ」なのです。(p.196)

 あるいは、「かつてチッソが毒を流しつづけて、儲かって儲かって仕方がない時代に、自分がチッソの一労働者あるいは幹部であったとしたらと考えてみると、同じことをしなかったとはいい切れない」(p.194)とも述べている。だから、今、チッソに対してはほとんど恨んでいない、むしろそういう人たちも含めてともに救われたい、と述べている。

 これに対して私がましなコメントをつけられるわけではないのだが、そのとおりだなあと思うし、水俣病と戦いながらこのような考えにたどり着いたこの人は、とてもすごいと思う。

【授業】対人認知

2005/01/11(火)

 共通教育科目「人間関係論」。社会心理学の5回目で,対人認知の話をする。最初にアッシュの印象形成の実験を授業中に行う。次いで,ローゼンハンのニセ患者実験を紹介する。今日の午前中に,この実験の詳細が『マインド・ウォッチング』に載っていることに気づいたので,いつもより詳しく話せた。他にももう少し実験を紹介したり,簡単なことをやらせたり。結局,仕込んだネタを全部消化できずに終わってしまった。まあ正月明けなので,これぐらいのゆっくりしたペースでいいのだと思うのだが。

 授業後に思いついたのだが,今回の受講生には中国からの留学生が3名いる。その人たちに,日本に来てから,ステレオタイプ的な見方をされたり,偏見にあったことがないか,聞いてみればよかった。考えてみればとても残念なことをした。来年度,また留学生が受講してくれればいいのだけれど。

■『声の文化と文字の文化』(ウォルター・J. オング 1982/1991 藤原書店 ISBN: 4938661365 ¥4,305)

2005/01/10(月)
〜累加的で冗長で状況依存的な思考の文化〜

 以前読んだ『学生の学びを支援する大学教育』に、「読書によって自分とじっくり相対して思考力を伸ばすことができる」というような記述があり、それについて私は読書記録に、「この考え方は要するに教養主義」と書いた。それを読んだ人が、「確かに「教養主義」でもありますけれど、わたしはマクルーハンやオングの議論を思い浮かべました」というメールをいただき、本書を紹介していただいた。それで読んでみた。結論からいうと、とても興味深い考えが書かれている本であった。

 まず本書の主張と思われるものを、私の理解した範囲で書いておく。われわれにとっては、書いたり読んだりすることは当たり前の活動である。しかし、かつては書くことがまったく存在しない時代があった。それが「声の文化」であり、その文化における思考やコミュニケーションは、それ以降の時代である「文字の文化」における思考やコミュニケーションとは全く異なるものであった。

 その違いが生じるのは、「声」が生み出される端から消えていくものであるのに対して、「書くということは、ことばを空間にとどめること」(p.25)という性質の違いに由来する。書かれた文字は、文脈から切り離されて存在するし、照合したり不整合を取り除いたり推敲したりすることが可能になるので、思考は組み立て直されるし、「書くことによって、正確さと分析的な厳密さを求める感覚が生まれ」(p.217)る。また、書いたり読んだりすることは、「声」と違って一人でする活動であるため、「書くことと読むことは、こころを、精力的で、内面的で、個人的な思考に引きこむ」(p.312)のである。大まかにいうと、われわれが当然と思っているようなこれらの特徴は、書くことによってはじめて生まれる思考でありコミュニケーションなのである。

 本書で「声の文化」の例と挙げられているものは、ホメロス、聖書などがあるが、それと並んで、ルリヤが行った、読み書きのできない人々に対するフィールドワークが挙げられている。ルリヤのこの仕事については私は、認知心理学の概論書で、「社会によっては、生活の中で仮定的な思考をしない文化がある」(市川・伊東編『認知心理学を知る』ブレーン出版)ことの例として挙げられているものを見たことがある程度であったが、それって結局未熟な思考ということなのだろうか、と漠然と理解していたのだが、そうではなく、それこそが「声の文化」における思考なのだということが、本書で分かった。このような思考について、本書では次のように述べられている。

熊がどんな色をしているかは、その熊を見ればだれにでもわかる。実生活のなかで、北極熊の色を推論によって導きだすなんていうことは聞いたことがない。そのうえ、雪国の熊はみな白いということをだれかが確実に知っているとしても、かれが本当に確実に知っているということを、どうやったら確実に知ることができるのだろう。(p.114-115)

 言われて見ればたしかにその通りである。そう考えるならば、形式論理的な推論が日常生活の文脈の中ではいかに不自然なものかということがわかる。

 本書で基本的に行われているのは、読み書きが当然となった時代とそれ以前の時代を比較するという、通時的な議論である。これ以外に、「ある時代に共存する声の文化と手書き文字の文化とを比較する」(p.7)ことも可能であるが、それは本書ではほとんどなされていない。しかし、これまでに私が読んできた本の中には、現代でも「声の文化」的な思考が息づいていることを思わせるようなものが、いくつかあったように思う。以下では、筆者が挙げている「声の文化」における思考と表現の特徴(p.82-)を挙げながら、それに相当すると私に思える例を、メモ書き的に挙げておく(それらの例が適切であるかことは保証しないが)。

 これらのほかにも、声の文化の特徴として、「人間的な生活世界への密着」「闘技的なトーン」「恒常性維持的」が挙げられている。これらとの対応が十分に見えているわけではないのだが、上に挙げた本以外にも、『日常生活の認知行動』に見られる日常的な思考も「声の文化」的という感じがするし、『もうひとつの声』に見られる女性的な思考も「声の文化」的であるように感じる。

 このように考えると、「声の文化と文字の文化」という対比は、これまでに私が読んだり考えたりしてきたことをまとめる主軸の一つとして、とても有用という気がした。また、冒頭の話に戻ると、『教養主義の没落』で描かれているような「教養主義」とは、「文字の文化」の一つの極地であると言えそうである。そう考えるのであれば、『教養主義の没落』の最後で描かれている「教養主義没落以降」に見られる「大衆文化への同化主義」的な適応戦略とは、「声の文化」的なものと考えていいのだろうか。大雑把にはそういっていい気もするし、そういうのは単純すぎるような気もする。この点は今後の検討課題か。

赤鼻のトナカイ

2005/01/10(月)

 下の娘(4歳4ヶ月)は、「赤鼻のトナカイ」の歌が好きで、去年の11月ごろから歌っていた。でも歌詞がかわいいのである。

 歌詞の中の「でもっそのっとっしっのー」(でもその年の)の部分を、最初は彼女は「でもっとなっかっしっごー」と歌っていた。どこからそういう歌詞を作り出したのかはわからないが、とても自信満々に「でもとなかしご」と歌っていた。

 これってとてもかわいいので、私たちは好きだったし、そのまま歌っていてほしいなあと思っていた。ところが幼稚園のクリスマス発表会で、彼女は「赤鼻のトナカイ」を歌いながら踊ることになった。そのせいか、すぐに「でもとなかしご」を歌わなくなった。

 しかし完全に正しく歌えるようにはなっていなかった。「でもっとのっとっしっのー」(でもとの年の)と歌うようになったのだ。間違っているとはいえ、あと1文字。もうほとんど正解か、と思った。が、どうやらそうではなかった。

 彼女は「でもとのとしの」と信じたままクリスマス発表会を終えた。うちで歌ったりしているとき、上の娘(6歳6ヶ月)が訂正したくなるらしく、「でもその年の」だよ、といっても、下の娘は「でもとのとしの」と言ってしまう。ゆっくり歌わせたりいろいろしているうちにわかったことは、彼女は「でも、との年の」と歌っているわけではなく「でもっと、のとしの」と歌っているようなのである。つまり「でもっと」というひとまとまりのフレーズ(ひょっとすると「で」+「もっと」かな?)で歌っているのだ。「もっと」という日常使い慣れたことばだと思っているから、修正がなかなかできないわけである。それでも根気よく上の娘が繰り返すと、「そ」はいえるものの「でもっそとっのっしっのー」なんていうふうになったりする。

 ところがさっき。上の娘がしつこく「そのそのそのそのっていってごらん」なんて練習をさせたものだから、「でもそのとしの」と歌えてしまったのである。まだ1回だけなのだけれど、この調子だとそのうち正しく歌えてしまうようになるかもしれない。そうなるとちょっとさびしいなあと思ったりしている。

■『占いの謎─いまも流行るそのわけ』(板橋作美 2004 文春新書 ISBN: 416660120 \700)

2005/01/05(水)
〜偶然の秩序化〜

 サブタイトルにある問い「占いが流行るわけ」を,文化人類学的に考察した本。その答らしきところを抜書きするならば,このあたりだろうか。

占いは,バラバラで,一貫性がなく,その場かぎりとしか思えない過去・現在・未来の出来事,人生,性格などを,たがいに関連づけられたものとして,一つの統一体として見ることを可能にする視点を与えるのだと考えられる(p.199)

 「としてみる」という言葉が出てくることからわかるように,ウィトゲンシュタインのアスペクト知覚の議論が筆者の考えのベースにはあるようである。本書では迷信も占いの一種として扱われているが,迷信というと,『人はなぜ迷信を信じるのか』を読んだが,この本には「迷信とは、コントロールできないものを支配しようとする試み」というようなことが書かれていた。その言い方でいうならば,本書の結論は「占いとは,理解できないものを理解しようとする試み」と言えそうである。なお,このような心理学系超常現象本と違い,本書では,「相関の錯覚」のような「科学的」視点からの考察はほとんどない。複数の言い伝えの間の矛盾について,「つじつまがあわないと考えるのは,これらの天気予知を気象学的,自然科学的な知識だと思うからである」(p.124)なんていう記述で,本書の立場が「自然科学の立場から錯覚を指摘する」ようなものではないことが示されている。占いとは占いという「ゲーム」なのである。そういう筆者の視点は興味深かった。

 「出来事などを統一体として見る」とはいっても,そのような目的のために人間は,言語を用いて世界の分節化を行っている。あるいは,宗教や自然科学の目的も,世界の秩序づけにある(p.216)。それらと占いの違いは,占いが,それらでは説明のつかない「偶然」を対象としており,その秩序化のための一つの試みが占いなのである(p.213)。筆者は,「世界が偶然の寄せ集めととらえられることに気づいたとき,そういう偶然性を,なんとか必然性へと読みかえようとするこころみ,その一つが占いなのではないだろうか」(p.216)と述べており,人間が無意味さを嫌うというあり方そのものに,占いが根ざしていると筆者は指摘している。

 これはなるほどと思えるような指摘であったが,一つ気になったことがある。占いであつかわれる「しるし」を,筆者は(というか柳田国男は)「兆」と「応」にわけている。兆はこれから起きることについてのしるしで,前兆の「兆」である。応は,実際に起きたことの原因を説明するためにもちだされる知識である(因果応報の「応」であろう)。この分け方でいうならば,「占いが世界を秩序化する」というのは,主に「応」についての話だろうと思われる(こんなことが私の身の上に降りかかったのは,過去のこのようなことが原因なのだ,というように)。それはすでに起きたことをどのように「解釈」するか,ということなので,世界の説明様式として機能するであろう。こちらの方は,筆者の結論がそのまま当てはまると思われる。

 それに対して,未来を予測する「兆」に関しては,「世界の秩序化」だけではない部分があるのではないだろうか。こちらは,その予測が当たったり外れたりすることがあるわけで,外れる場合というのはむしろ世界の「無秩序化」(予測不可能性)につながるわけだし。そのあたりの説明が,私が見た限りではなかったように思う。

 この点が残念ではあったのだが,このことを明らかにしようと思うなら,占いを信じる人の日常生活や考え方をフィールドワークするしかないような気がする。そういえば本書は,占いの実例は市販の占い本から,迷信の実例は市町村史から多数取られていた(こんなところに迷信が採録されているのかあ,とちょっとびっくりした)。その意味では,本書を作った筆者のスタンスは,アームチェア・アンソロポロジスト(書斎の人類学者)だな。これはこれで,とてもよくできているとは思うけれども。


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