読書と日々の記録2005.02上

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■読書記録: 15日『「不自由」論』 10日『常識「日本の論点」』 5日『アメリカの反知性主義』
■日々記録: 8日カウンタ/せどり 1日【授業】青年期(2)とまとめ

■『「不自由」論─「何でも自己決定」の限界』(仲正昌樹 2003 ちくま新書 ISBN: 4480061320 \735)

2005/02/15(火)

 「人間は自由だ」とか「何でも自己決定しなければならない」という言い方の虚構について論じた本。だろうと思うのだが、十分に全体を理解できたとは言いがたいので、自信はない。とはいっても本書は、部分的にはなるほどと思えるような箇所も少なくなかったので、わからないなりに理解したことをまとめておこう。特に、私なりに本書の骨組み部分と思われる箇所を中心に全体を眺めなおした結果をまとめておく。もっとも筆者は、わかりやすさは信用できない、というようなことも書いているので、このように単純にまとめてしまうと怒られるかもしれないのだけれど。

 筆者自身が本書の概要について書いている箇所としては、「近代的な「自由の主体」の「限界」を振り返りながら、ポスト・モダン状況の中で、"とりあえず"どういう態度を取ったらいいのかについて考えていこうというのが、本書の主題」(p.16-17)という部分がある。ではここで書かれているようなことが本書ではどのように扱われているのか。一度読み終わったあとで、その点を中心に、全体を再び拾い読みしてみた。

 まず、上記引用の前半の(そして本書の)キーワードと思われる「自由」については、特に本書第一章で、「人間は自由だ」という考えが虚構であることが論じられている。その概要を整理するならば、次のようになるだろうか。

人間は生まれつき、他者からの影響を受けることなく、自分の頭で自由に考えられる、と思われている。それは古代ギリシャのポリスでは可能であった。なぜならポリスで議論できた人々は、奴隷制などを前提として、日常的・物理的な生活の心配から解き放たれていたため、個人的な利害に囚われることなく、自由に討論できたからである。しかし現在は、むしろ自分たちの物質的な利害関係の調節が政治(市民社会における公的な討論)のメインテーマになっているため、その議論は、自分や他者の日常的・物理的生活における利害にしばられており、「自由」な討論とはいえない。(道田による要約)

 およそこのようにまとめられるであろう。まとめながら気になったのは、「自由」という言葉が「自由に考える」「自由に討論する」「経済活動の自由」と、文脈的に異なると思われる表現が注釈なしに同じように使われている点である。これらの「自由」は同じものではないであろう。しかし本書ではたとえば、「自由な議論のなさ」の帰結として、「利害調整が問題になる「経済」においては、本当の意味での「自由」はない」(p.52)などと、異なる「自由」を同列に扱ってしまっている部分がある。こういう整合性の甘さが、本書のわかりにくさの一因であるような気がする。

 まあそれはさておき、以上が「現代の自由のなさ」に対する考察だと思われる。本書ではそれを元にさらに、「自由の主体」の「限界」について論じられているわけだが、その要点と思われる箇所を次にあげる。これは、回転効率を重視する資本主義的な生産体制下にいるわれわれの主体性についての考察であり、そのような状況を筆者は「気短」と呼んでいる。

近代的な「主体性」は、そのように気短に短縮された関係性の中で、姿を現してくる。こうした「主体」は、建前上は、他者の影響から"自由に"自己決定する能力があることになっている。しかし、その背景を考えれば、むしろ、「他者との関係についていちいち考えないで、さっさと、"自己決定"するよう」強制されていると言える。言わば、市場における効率性の原理に従って、「主体」であることを強いられているのである。我々は、「自由な主体」で有らねばならない、という極めて"不自由"な状態に置かれているのである。(p.201-202)

 この考察は、政治において経済的利害について議論するときだけの話ではない。医療においてインフォームドコンセントに基づいて自己責任で自己決定するときもそうだし、教育において、自ら学び自律的に考える、というときも同じで、自由な主体であることを強いられているといえるのである。これは、私自身もうちょっと考えるべき問題だと感じられた。もっともここにおける自由も、「自由な討論」というときの自由とはちょっと違うような感じがしないのでもないのだが。

 さて、冒頭に引用した文章の後半である「どういう態度を取ったらいいのか」については、一箇所にまとまった答えがあるようには見えない。たとえば自己決定場面に関しては、「どういう場面での「自己」が問題になっているのか「状況設定」を可能な限り明確にしたうえで、そうした"自己"を拘束している所与の関係性を捉え直す機会が与えられるべきだろう」(p.192)という記述あたりがそれに対応しているのではないかと思う。また、現代思想に関しては、「今、現代思想に求められているのは、「自由な自己決定」あるいは「非主体的な主体性」からの"自由"について、じっくりと考えること」(p.206)というような記述がある。「捉え直す」とか「じっくり考える」という表現は結論としてはちょっと頼りないような気がしないでもないが、これは現代思想だけの課題ではなく、教育者の課題でもあるだろうし、主体であることを迫られている本人(私たち)の課題でもあるだろう。

 本書で扱われている問題はこのように、わかりにくくはあるものの、教育を考える上でも大事な視点が含まれているように感じた。

■『常識「日本の論点」』(『日本の論点』編集部編 2002 文春新書 ISBN: 4166602713 \829)

2005/02/10(木)
〜定番論点の基礎知識〜

 『日本の論点2005』が面白かったので、インターネット書店で検索したところ、『日本の論点』編集部が編集した本があることがわかったので注文してみた。かなり期待をして。だってあんなタイプの本、年刊誌として雑誌的に読み捨てるのはあまりにももったいない気がするので。

 結論からいうと本書は、私が期待したようなものではなかった。『日本の論点』の論争部分ではなく、解説部分(論点の基礎知識)部分をちょっと長くしてまとめたような本だった。具体的には、日本人が長年にわたって議論し、解決できていない、定番の論点を39項目取り上げ、その解説が載せられている。なるほど、それでこういう(へんな)タイトルになっているわけね。

 とりあげられている論点は、大きく4つのテーマに分けられている。国のあり方をめぐる論争(資本主義は絶対の原理なのか、など)、日本の社会制度をめぐる論争(成人は何歳からが妥当なのか、など)、生き方をめぐる論争(日本社会の差別とは何か、など)、生命と環境をめぐる論争(脳死・臓器移植は日本に定着するか、など)である。解説だけでナマの論争が収められているわけではない。そういう意味では、現代用語の基礎知識的な本と言えるかもしれない(って、その本も、もう10年も見ていないけれども)。あるいは大項目主義の百科事典のような本といか。

 そうはいっても、議論の全貌をちゃんと理解しているようなものはほとんどなかったので、全体を俯瞰したり、知らなかったマメ知識を得る、という意味では、これはこれでそれなりに興味深くはあった。

 ちょっと気になるのは、論争のタイトルで、たとえば「いじめ」に関しては、「いじめはいつまでつづくか」というタイトルになっているが、実際には「いつまでつづくか」について書かれているわけではなく、いじめの歴史と海外の現状が紹介されているだけで、明らかにタイトルとミスマッチである。なんていう点があったりはするけれども、定番論争の基礎知識を得るための本としては悪くないかもしれない。

カウンタ/せどり

2005/02/08(火)

 ちょうど1年前,「読書と日々の記録」の最新ページのカウンタが10万だった。それから1年(正確には2日過ぎているけど),カウンタの数字は,128252である。1年間で2万8千ヒットか。こういうページでも見てくれている人がいるのはありがたい。

 最近,本を買うのに,何度かアマゾンのマーケットプレイスを利用している(『日本の論点』が主だけど)。これって結構安い本があったり,品切れ本が出ていたりして,お得なこともあるのだけれど,しかし,出品者を見ると,過去に何千件も出品している人が少なくない。これって何なんだろう,古本屋さんなのかな,と思っていた。しかし私が買った相手も,古本屋だったこともあるが,そうじゃなさそうな人もいた。とても不思議だった。

 と思って,先日,出品者の名前でGoogleで検索してみたら,「せどり」という言葉に行き着いた。さらにそれを調べてみて,ようやくわかった。どうやら,BOOK OFFの105円の本を買って,マーケットプレイスに出品することで,月に何十万も儲けている人がいるらしい。まあ全員がそうじゃないだろうけど,そういう儲け方もあるのかあ,とちょっとびっくりした。

 そういえば,『日本の論点2003』でBOOK OFFが出版業界のパラサイトだという言い方があることが書かれていた。本の内容には関係なしに、見た目(新しさときれいさ)で商売しているから、というようなことのようだ。しかしBOOK OFFに莫大な利益をもたらしているのは、新刊本が再販制度(再販売価格維持制度)で価格が維持(というか保護)されており,価格が直接的に市場にさらされていないせいでもある。BOOK OFFは再販制度の間隙をぬった商売なのである。

 BOOK OFFの普通棚で半年以上売れなかった本は,105円の棚に移動するのだという(これは「せどらー」のページで知った)。せどらーはそういう本を買い集めて,アマゾンのマーケットプレイスに出品しているのである。これって要するに,BOOK OFFが本の内容を問題にせずに価格をつけているから成り立つ商売である。いうなれば,出版業界にパラサイトしているBOOK OFFに,せどらーはパラサイトしている,というわけである。

 しかし,そういう人は私にとってはありがたい。『調べる、伝える、魅せる!』にもあったのだが,「この本がほしい」と思って古本屋にいっても手に入らないことが多い。しかしこういう人たちは,そういう本を探してきてくれるわけである。しかも日本中のBOOK OFFから。しかも,BOOK OFFで半額で出ていても大喜びで買ってしまうようなものを,半額以下(『日本の論点'98』のときは,送料込みで600円ちょっとだった)で売ってくれるのである。

 せどらーのことを知って,ひとつ安心したことがある。私が最近買っている『日本の論点』は,年刊誌なだけに,他の本と違って,ある年度の本の出品って時間が経つに連れて出品数が減っていったり,値段が高くなっていったりするんじゃないだろうか,買うなら早く買わないとなくなってしまうんじゃないだろうか,と思っていた。でもきっとどこかでせどらーが,新しい古本(←ちょっと変な表現だけど)を探してきて出品してくれるに違いない。

■『アメリカの反知性主義』(リチャード・ホーフスタッター 1963/2003 みすず書房 ISBN: 4622070669 ¥5,040)

2005/02/05(土)
〜知能・直観・行動・実用性重視(?)〜

 以前、『マネー・ボール』を読んだときに、「教養ある人物に反感を持つ傾向は、アメリカ社会全般に見られ」というくだりがあり、これがちょっと気になる、と読書記録に書いた。大教室のMONOLOGUEを書かれている中村さんがそれをみて教えてくれたのが本書である。ちなみに、中村さんが書かれた本書の評はこちら

 本書は私にとっては、なかなか分かりにくい本だった。おそらく理解できたのは半分程度ではないだろうか。というか、「知性」「反知性」「知識人」について書かれているところを中心に拾い読みした、という程度である。それでも今ひとつ全体像をつかめてはいないと思う。

 ただしちょっと思ったことはいくつかある。一つは、どうやら反知性主義は、(アメリカだけでなく)人間の思考を考える上で重要な評価軸ではないかということである。しかし、本書に書かれている知性/反知性主義概念には、なんだかブレというか幅があるような気がした。それは、私がまだこの概念をちゃんと理解できていないからかもしれないし、この概念は単純な二項対立的には理解できないからかもしれない。以下ではとりあえず、本書の引用を通して、反知性主義について私が理解したことを記しておく

 まず、反知性主義について本書で初出の箇所にどのような説明があるかというと、「知性(マインド)を軽んじる国民の風潮」(p.3)と表現されている。まあ定義の言葉と考えるには不十分だが、しかし基本的にはそういうことだろう(『マネー・ボール』における記述も同様だし)。次に、本書で描かれている反知性主義について、比較的まとまって記述されている箇所としては、次のものがあった。要するに、福音主義と平等主義が元となって反知性主義になっている、というようなことのようである。

反知性主義がわれわれの文明のなかに広まっているとすれば──私はそう信じている──原因はそれが良き大義名分、少なくとも弁護しうる大義名分としばしば結びついたためである。反知性主義がわれわれの思考方法に強い影響をあたえたのは、多くの人間的で民主的な感情を人に植えつけた福音主義の信仰から力を得たからである。反知性主義が政治の世界に入りこんできたのは、平等を求めるわれわれの熱情と結びついたからである。反知性主義が教育の分野で手強い存在となった理由のひとつは、われわれの教育上の心情が福音主義にもとづく平等主義だったためである。(p.20)

 上にあるように本書では主に、宗教、政治、教育(それにビジネスや文化)の各分野でどのように反知性主義が生まれ育ってきたかについて書かれている(のだろうと思う)。

 その他に、本書の中で比較的私の目を引いた記述を引用しておく。

  1. この国の反知性主義自体はきわめて深刻な問題に思えるが、反知性主義自体は形や程度の差はあれほとんどの社会にみられるだろう。鎮静剤の投与、市民や大学の暴動、検閲と規格化、議会による調査など、反知性主義は国によってさまざまな形をとる。(p.17)
  2. 指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。(p.19)
  3. だれでも、知性という観念と知能という観念とが明確にちがうことに気づくはずだ。前者はよく、一種のののしりとして使われるが、後者はけっしてそういうことはない。〔中略〕信頼できない、不必要、非道徳的、破壊的といわれているのは知性の人であって、知能の高い人ではない。〔中略〕知性は頭脳の批判的、創造的、思索的側面といえる。知能がものごとを把握し、処理し、再秩序化し、適応するのに対し、知性は吟味し、熟考し、疑い、理論化し、批判し、想像する。(p.21)
  4. 〔注:アメリカの政治で、真に協力で大がかりな反知性主義への最初の衝撃となった〕ジャクソンは、幸運にも「活力と独自の理解力」を損なうような、型にはまった教育を免れた人物だといわれた。〔中略〕彼の精神は「三段論法という手間のかかる行程も、分析という踏み固められたコースも、論理的演繹という慣れきった散歩道も」たどる必要はなかった。彼の精神は自然の直観力を備えていたので、「稲妻のような閃光に導かれて歩み、みずからその進む道を照らすこと」ができるとされたからである。(p.139-140)
  5. 〔注:セオドア・〕ローズヴェルトは、都会的で商業主義的でいやみな、女々しい世界に対抗する存在だった。〔中略〕彼はくり返していった。よきアメリカ人なら批判ばかりせず、現実の行動に移すだろう。(p.169-170)
  6. 実業界における反知性主義がことさらに取り上げられるのは、ビジネスがアメリカ社会の主要部門のなかで、とりわけ反知性主義的で俗悪なためではない。そのおもな理由は、ビジネスがアメリカ的生活においてもっとも強く、広い関心をもたれている分野だからにすぎない。だからこそ、アメリカの生活文化では実用性が圧倒的に重視されてきたし、実業家は十九世紀中葉以降もっとも強力な反知性主義勢力だったのである。(p.209)
  7. アメリカの高等教育に職業教育的性格が強まったことは、学部と大学院をもつビジネススクールの創設によって示されている。〔中略〕大学内でビジネススクールは、しばしば非知性主義の、時には反知性主義の中心となり、頑固な保守的観念を信奉していた。(p.231)
  8. 学校は子どもの知性を伸ばすのではなく、子どもを市民として訓練するのだと考えられるようになった。より多くの知識と知的能力を身につければ、それでよき市民だなどと考えてはいけない。子どもに市民の条件と民主主義、公民道徳を直接教えなければならない。(p.292)

 一応これらをまとめてながめておくと、反知性主義はアメリカに特有のことではないし(1)、知識人vs反知識人という単純な図式のことでもないようである(2)。「知性」に相対して述べられている概念は、知能(3)、活力と独自の理解力、直観(4)、行動(5)、実用性(6)などであり、逆に知性と関連する事柄に対する形容は、型にはまった教育(4)、都会的で商業主義的でいやみな、女々しい世界(5)などが挙げられている。こういうのをみても、どうも分かりにくい概念なのだが、しかし簡単に二項対立的にわかりやすく理解してしまうのも問題だろうと思うので、とりあえずこのままにしておく。

 あと興味深いのは、教育とのかかわり(7,8)。ビジネススクール的な実用性も、子どもに対する市民として訓練も、反知性主義の表れだという。まあしかしこれは、教育だけでなく、宗教における伝道(福音主義)もビジネス(6)も同じだろうと思うのだが、一旦過去の伝統を捨ててゼロからスタートしたアメリカという土地において、人びと(大衆というべきか)に受け入れられるためには、「伝統」とか「学問」のようなものとは違うものが必要だったのだろう(と一応私は私なりに理解している。適切なのかどうかはわからないけど)。

 ちなみに『マネー・ボール』に出てきた反知性主義とは、客観的に分析されたデータよりも、老練なスカウトの経験やカンの方が重視される(前者は無視される)ということであり、本書に出てきた「《たたき上げ》(the self-made man)の理想」(p.223)に当たるような気がした。これもあっているかどうかは自信ないのだけれど。

#たまたま知ったのだが、新約聖書に「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました」(使徒パウロのコリントの教会への手紙1・26-31)という一節があるようである。それに対する解説としては、「人間的な知恵や力に頼り、分派争いをしているコリントのキリスト者に対して、パウロは神の知恵、神の力であるキリストを思い出させ、ここでは自分たちの召命の原点を見つめ直させる」(聖書と典礼, 2005.1.30)とあった。これが反知性主義と関係があるのかどうかはわからないけど。

【授業】青年期(2)とまとめ

2005/02/01(火)

 共通教育科目「人間関係論」の最終回。今回も青年期についてで,まず,前回の補足説明を行った。質問の中に,アイデンティティ拡散が続くとどうなるのか,というものがあったので,そこから今日の本題に。社会的引きこもりの事例(柳美里の『家族の標本』より)を紹介し,同一性地位尺度に回答をさせた。そこで,「危機」と「自己投入」の説明をし,何度かそういう体験をしている事例として,NHK「わたしはあきらめない」から森公美子さんのビデオを見た。それと関連して,授業全体のまとめとして,捉え方/考え方が大事なのだ,という話をして,60分程度で授業部分は終わりとした(今考えると,全体のまとめがもう少しあったほうがよかったような気がする)。

 その後,推薦図書の紹介と,次週のテストの予告を行い,授業評価を行ってもらった。評価は,まず質問書を用いて,今週分の授業と,授業全体についての感想などを記入。次に,大学の共通フォーマットのアンケート(マークシート)で,所定の質問に対して答えてもらい,最後に,毎回の授業1回ごとの評価を,マークシートに記入してもらった。

 質問書最後に書かれた,授業に対する感想をみると,好意的なものがほとんどのようで,安心をした。もっともこれは,記名回答になるので,無記名で意見を書きたい人は,マークシート形式のアンケートの裏に書くことになっている。そこに何が書かれているかは,集計結果が戻ってくるまではわからない。


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