読書と日々の記録2005.03上

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■読書記録: 15日『言語ゲーム一元論』 10日『学校教育で育む「豊かな人間性と社会性」』 5日『音楽(シリーズ授業)』
■日々記録:  6日ポイント探し

■『言語ゲーム一元論─後期ウィトゲンシュタインの帰結』(黒崎宏 1997 勁草書房 ISBN: 4326153296 \2,520)

2005/03/15(火)
〜一つの語り方としての思考?〜

 ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という概念を用い、「全てをそこにおいて見ようと」(p.i)した本。といっても私は、言語ゲーム一元論について知りたかったわけではない。前に『ウィトゲンシュタインはこう考えた』を読んだときに、ほかに日本語で読めるウィトゲンシュタインの本を探したら、本書に行き当たったという程度の選書である。

 しかし本書は、私にとっては悪くなかった。野矢茂樹氏が『はじめて考えるときのように』などで、「考えるとは特定の行為をさすのではない」みたいな感じのこと(うろおぼえ)を書いているのだが、その意味がよくわからなかった。どうやらウィトゲンシュタインがそういうことを言っているらしいのだけれど。しかし何冊かウィトゲンシュタイン関連の本を読んだけれども、なかなかそういう記述に行き当たらなかった。しかし本書では、何箇所でそれと関係しそうなことが扱われていたのである。何箇所かあるので、まずはそれをまとめて引用しておく。

  1. 哲学で問題になる<心的な事柄>──信念・知識・理解・思考・記憶・等々──は、物的事象ではないのみならず、実は「心的事象」とか「心の状態」ですらない(p.64)
  2. 人は時折、「考えが稲妻のように閃いた」と言って、思考の速さについて語る。しかし、稲妻のように閃いた考えを具体的に述べるには、有限の時間がかかる。勿論、「考えが稲妻のように閃いた」とき、何等かの心的事象が起こっているであろう。しかしその心的事象の中にその考えが圧縮されて詰まっているわけではない。その心的事象を展開すれば、その考えが現れて来るわけでもない。その心的事象そのものは、閃いた考えに対して、本質的ではないのである。したがって、閃いた考えはそのとき生じた心的事象ではない。(『探究』第三一八節)(一瞬論法)(p.70-71)
  3. 私は、なんらかの測定に従事していて、私を脇で見ている人が「彼は──言葉無しに──「二つの大きさが第三の大きさに等しいならば、それら二つの大きさは互いに等しい」(推移律)と考えている」と言うであろう様に、行為する事が出来よう。しかしその時私は無心であり、その様に心で思う──これは心的事象である──必要は全くないのである。したがって、今の例で私が推移律を考えている、という事は心的事象ではない。(『探究』第三三〇節)(無心論法)(p.71)
  4. 「考える」という概念は、当にそのように、我々自身の内面を眺めればそこにその意味が見出せるようには、用いられていない。(それは、あたかも私が、チェスの仕方も知らないで、チェスの対局の最後の一手を厳密に観察する事によって、「詰める」という語の意味を見出そうとしているのに、似ていよう。)(『探求』三一六)(p.100)

 これらを見ると、「心的事象」という語がキーワードのようなのだが、しかし、本書では心的事象に明快な定義が与えられていないので、なんとなくわかるようでわからない、というところから先に理解が進まない。ただ何箇所かで筆者は、心的事象という語を「心的対象」とか「心的な状態」という語と同じように使っている。あるいは、感覚や感情は心的事象であると述べている。したがって私は、上の引用を、これらからほのかに推測する程度にしか理解(誤解かもしれない)していない。

 ただそれでも、上の引用はわかりにくい。というのは、2番目(一瞬論法)に関して言うならば、上のような言い方を「見る」例に当てはめてみるならば、「一瞬にして見たものを具体的に述べるには、有限の時間がかかる」。しかしだからといって、「見ることそのものは、語られたことに対して本質的ではない」とはいえないと思うのである。どうもよくわからない。3番目の「無心論法」にしても、人が他人を指して、考えていると「理解(推測)」することと、思考者の内面で何がおきているかが無関係なのは当たり前で、それが無関係であることは、「考える」ことの本質を知ることにはつながらないと思うのだが。4番目(チェスの詰み)も、たくさんの局面をちゃんと観察すれば、その意味を見出すことは可能だろうに、という気がする。とくにチェスであれば、「詰まない」ケースと比較すれば、さらに見えてくるものがあるように思う(当然、「考える」ケースも「考えない」ケースとの比較は有効であろう)。

 というように、ウィトゲンシュタインの「思考」理解はわかったようなわからないような、であったのだが、しかし本書で一箇所、ひょっとしたらヒントになりそうな箇所があった。それは、「無意識」に関する考察である。もっとも筆者自身が、これが上記引用の議論と関係している、と述べているわけではなく、私が勝手に関係していると思っているだけなのだが。筆者はある論考で、「精神分析は科学的であり得るか」という問いを立て、ウィトゲンシュタインのフロイト理解を紹介している。それはたとえば、「フロイトは「無意識」という新しい事実を紹介したのではなく、「無意識」という語の新しい語り方を発明したのである」(p.143)という具合である。ほかには、精神分析に関しては次のような記述がある。

精神分析においては、自然科学が不可欠の条件とする経験的検証は、必要ではない。そこにおいて大切なことは、説得力のある記述であり、患者がその記述を受け入れるという事なのである。(p.148)

 精神分析とは科学なのではなく、また精神分析的諸概念(無意識など)は科学的事実ではなく、ある種の「語り方」なのであり、「物語」なのである、ということのようだ。それは確かにそうなのだろうと思う。そしてそれは、心理学をはじめとする科学一般でも用いられる「仮説構成概念」すべてに当てはまることであろう。「思考」も含めて。つまり、「思考」なるものも、「事実」なのではなく、ある種の「物語」を生み出すような「語り方」といえるわけである。事実ではないということは、何等かの物理的過程とも心的過程とも一対一で対応するのではない、ということである(対応することが証明できるのであれば、それは単なる構成概念ではなく「事実」(あるいは実在)といえる)。そういう意味で、無意識も思考もその他の心的概念も、同列なのかもしれない。この考え方があっているかどうかはわからないのだが。

■『学校教育で育む「豊かな人間性と社会性」─心理学を活用した新しい授業例Part2─』(吉田俊和・廣岡秀一・斎藤和志編著 2005 明治図書 ISBN: 4185249128 \2200)

2005/03/10(木)
〜多種多様の考えかたをする場を提供〜

 中学生を対象に考えられた、「「人間や社会について考える能力」を刺激し、「社会志向性」や「社会的コンピテンス」を高める教育の実践」(p.3)を紹介した本。50分の授業例が12個紹介され、心理学的背景が解説されている。授業は、名古屋大学教育学部附属中・高等学校で実践しながら開発されている。授業を受けた生徒の感想として、「単なるゲームだと思っていたら実はそこに大切なことが隠されていてびっくりした」(p.67)なんていうものが紹介されている。この取り組みですばらしいのは、中学生に実践した、というだけではない。筆者らは本実践を、教員研修会でも学会でも紹介しており、また附属では説明会を開いたり、保護者にも模擬授業を行っている。こういう念の入った取り組みはとてもすばらしいと思うし、教育学部と附属学校の連携のあり方の一つのモデルを示しているといえる。

 本書で紹介されている授業例は、「目の前にはいない人の存在まで意識する」課題からはじまり、知覚的群化、ステレオタイプなどがある。どれも、中学生でも理解でき、考えられるよう、グループで行う参加体験型の学びになっている。ワタシ的に面白そう、使えそうと思ったのは、フォールス・コンセンサスに関する授業例(自分の意見はみんなの意見?)と、囚人のジレンマゲームに関する授業例(二つジャンケンゲーム)。囚人のジレンマゲームでは、「得点盤の見方やゲームの実施方法をスムーズに理解」(p.150)させるために、まずはジレンマではないゲームから導入されており、とてもうまく組み立てられている。また、囚人のジレンマゲームだけは、実施に50分、解説に50分使われており、解説では、高得点者と低得点者がどんな手を出したか、予想させ、結果発表する、という形で、競争や協力事態が理解しやすいように作られている。これもうまい作りであると感心した。

 最後の章はQ&Aになっている。その中で興味深かったものとして、次のような問いがある。この授業(ソーシャルライフ)では結論を出さす、多種多様な意見をもとに、「気づき」を重視しているが、教科指導や生徒指導ではある結論に導くことが求められる。そのジレンマをどう解決すればいいのか? これに対して、いくつかの答がなされているのだが、その中に、こういうものがあった(この文章自体は、前に出版されたPart1からの引用らしい)。

ソーシャルライフの授業を学校の先生が行う際に注意すべき点は、ソーシャルライフの授業の目的と、生徒指導の目的の違いを良く理解すべきであるということである。ソーシャルライフの授業で行ったことを直接生徒指導で使うと、逆にマイナスになる場面があるということだ。それは、ある事項について生徒を指導しているときに、生徒が「先生はそのようにいうけれど、それは先生の一方的な考えで、他の考えもあるのではないですか。」というような反論を、生徒がする可能性があるからだ。教師はある価値判断の基に生徒指導をする。しかし、多種多様の考えかたをする場を提供するソーシャルライフの授業は、ある一つの価値判断に基づく考えかたを否定する。この考え方の差を生徒にどのように説明し理解させるかについては、考えておかなければならない事項である。(p.170)

 この引用部分では「考えておかなければならない」という程度にしか答えられていない。しかしさらにこれに続けて、「一人の教師が時に応じて二つ以上の役割を演じ、その複数の役割にもちゃんとした意味があるのだということを教師自身が自覚し、必要に応じてそのことをきちんと説明することができる力量を備えれば、「案ずるより産むが易し」で、案外すんなりと子どもには伝わるものかもしれません」(p.170-171)という説明も付け加えられている。自覚しきちんと説明すれば「案外すんなりと子どもには伝わる」のかどうかは、私にはわからない(楽観的過ぎるような気はする)。

 しかし私の研究上の興味から言うならば、こういうふうに、この授業で学んだことを元に先生に反論する生徒が出ることは、この授業の成果と言うべきで、次に行うべきは、教師がその問いに真摯に向き合い、生徒と対等な立場で話し合うことではないかと思う(対等ということは、話し合いの結果として教師が生徒指導の元となる価値判断を変える可能性もある、ということである)。もちろんそれは簡単なことではないだろう。しかしそうしなければ、ソーシャルライフの授業で学んだことは、自分の都合にあわせて使ったり使わなかったりすればいいんだ、というダブルスタンダードを助長することにしかならないのではないか(「先生もそうしているじゃん」なんて思われたりして)。そうなってしまっては、授業目的からすると逆効果とさえいるような気がするのだが。かといって、そういうことまで要求してしまうと、この授業が気楽に実践してもらえなくなる、という危険性もあるかもしれない。著者もそういうことを考えたのかどうかは分からないが、そういうこともあって、上のブロック引用部分では、「考えておかなければならない事項」と曖昧に書かれているのだろうか。

ポイント探し

2005/03/06(日)

 今日、小さな地方学会があった。私は幹事なので、ゆっくり発表を聞いたりすることはできなかったが、最後の懇親会で収穫があった。フィールドワークを主な方法論としている若い社会心理学者に話を聞いたというか、私の問題意識を聞いてもらうことができたのだ。

 私の問題意識とは、簡単にいうとある文化を理解したい、というものなのだが、それに対して彼が示唆してくれたのは、一つは「文化にはその文化を理解するためのポイントがある」ということだった。その例として、とある集団を理解するのに「選挙」というポイントがあるというケースを紹介してくれた。選挙運動を通して人脈を見ることで、その集団内外での人的なつながりが見えてくる、というのである。これは、『異文化理解』に出てきた「どの社会や文化でもある種の急所というのがある」という話と同じなのだろうが、やっぱりそうなんだ、ポイントを探すことだ大事なんだ、ということを改めて確認することができた。私が対象としようと思っている集団は小さくない集団なので、理解するポイントは、その中に含まれる下位グループごとに異なるのではないかと思うが、それにしても、何らかのポイントがあると思って探すことが肝心なのだろう思う。

 じゃあどうしたらそのポイントを探せるのか、よくフィールドワーカーがやるように、その文化に弟子入りするしかないのか、弟子入りが難しいような文化だったらどうするのか、というようなことを、彼に聞いてみた。それに対する具体的な答えはなかったが、しかしヒントはあった。それは、おそらく私がメモしてきたことの中にヒントはあるはずだ、という示唆である。まったく具体的な話ではないが、しかし、これまでに観察したりインタビューして聞いてきたことの中にヒントがある(かもしれない)、というのは、ちょっとした光明である。どこにあるかわからないときに、あてどもなく探し回るとか、どうしていいのかわからないで途方にくれる、とならずに、手元にあるものを探しなおし、考え直してみるということは、探す範囲や方向性が狭められているわけで、それだけでもありがたい。それにしても、手元にヒントがあるというのは、幸せの青い鳥みたいだ。

■『音楽―リズム表現と合唱(シリーズ授業 実践の批評と創造)』(稲垣忠彦 (編) 1992 岩波書店 ISBN: 4000041282 ¥2,447)

2005/03/05(土)
〜原初と洗練をつなぐ〜

 『社会(シリーズ授業)』などと同じシリーズの本。アマゾンのマーケットプレイスで,定価の半額以下で入手。このシリーズを読むのは3冊目だが、幅広い分野の人が、実際の実践を「観察した事実に即して」(p.v)、しかし単なる方法論に終わることも理念に終始することもなく、教育の根本から論じ合っていることは、とても興味深い。授業について語るときの参考になる本である。

 本書は音楽の授業について論じられている本だが、『社会』を読んだときと同じく、音楽科教育の目的に着目してみた。音楽という教科は、いざその目的は何かと聞かれると、とても答えにくい教科であるように思うので。

  1. 〔リズム授業をやる目的として〕そういうステップをいろいろと経験したり、跳んだり走ったりはねたりするよろこびを知って、からだを開くのはうれしいなということから、だんだん友だちとの関係に広げていきます。(p.18, 授業者の一人大野氏)
  2. 巷にあるいろいろな音楽をすべてふくめて、そのいちばんの基礎となるところ、すごく単純で頑固で泥臭いけれども、そこからいろいろな枝が分かれていけるような、いちばん基になる音楽の型、というよりも、いちばん基になる音楽的に聞いたり歌ったりする感覚、そういうものを学校は教えるべきだと思うんですよね。(p.35, 林光氏)
  3. どうも日本では、専門的な音楽教育の雛形をつくっている感じがするんですよね。(p.43, 林光氏)
  4. 小学校の低学年の音楽でめざすものと、高学年でめざすものはちがうのではないかということです。〔中略〕たとえば低学年の場合は、音楽を聞くと自然にからだが動き出すような授業、中学年だとこうしたらもっと音楽がたのしくなるという工夫のあるもの、高学年になると、アンサンブルを中心とした、技術的なものもふくまれる授業、そういう積み重ねを通しながら、六年間の音楽が教えられるといいと考えています。(p.80, 授業者の一人である福井氏)
  5. 〔以前はかたくるしい個人レッスンのような授業になってしまっていたという〕指導上の反省から、今では音楽好きな子どもには、それなりの指導方法をとり、そうでない子どもには音楽をしようという気持ちを自ら起こさせる手だてを考えようというように変わってきた。(p.154, 福井氏)
  6. たのしく歌えるための発声訓練、たのしく奏けるための読譜指導、たのしく吹けるためのタンギング練習、たのしく聴けるための……。これが抑圧だ。歌いたいもの、奏きたいもの、吹きたいものがあってこそ、訓練はよろこびとなる。そして、「いま苦しむことがやがてよろこびにつながる」という説教ほどのうそはない。(p.188-9,林氏)
  7. 「学校音楽」から脱却する方途として、私たちがまず話し合ったことは、完成された音楽から演繹的に発想するのではなく、子どもたちの感情や表現の機微に敏感に感応し、そこを授業の原点にすることである。(p.213, 佐藤学氏)

 これまたいろいろあるわけだが、しかしその根本にあるのは、「魂を魅惑しその解放と調和をもたらす音楽文化と、その精神性と呪術性への統制として機能する学校文化との矛盾をはらんだ関係」(p.212)と佐藤学氏が指摘する、音楽文化と学校文化の対立のどちらに主眼を置くかの問題のようである。ただしここでいう「音楽文化」とは、原初的な意味での音楽文化であり、洗練された音楽文化は、むしろ「学校文化」に近いであろう(というか3にあるように、ともすると学校文化は、専門文化の雛形を目指しがちになる)。

 この対比としてみると、学校文化(3)ではなく、音楽文化(1、2、6)から出発しようとしている点で、この本の参加者の考えは一致しているようである。授業者も、音楽文化から学校文化へとつないだり(4)、相手によって使いわけたりしている(5)。そのための方法論としては、原初的な音楽体験を十分にすることに加えて、反省的実践をすること(7)が挙げられている。

 このうちの前者、音楽文化からはじめていき、自然に学校文化的なものに広げていくことは、本書で取り上げている2つの実践で行われている。しかし後者の、反省的実践を行うことは不十分のようで、その点を三善晃氏に、次のように指摘されている。

 手厳しいようではあるが、しかし、もっともなことだと思う。そしてこのことは、もちろん音楽の授業だけの問題ではない。あらゆる授業において、反省的実践が行われるとともに、原初文化から始まり、原初−学校−洗練の間を適切につなぐような教育が行われるべきなのであろう。音楽教育は、そのことをとても見えやすく示してくれているように本書で思った。


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