30日『心の先史時代』 25日『もうひとつの教育』 20日『見城徹 編集者 魂の戦士』 | |
| 29日日常雑記 23日幼児における読書の意義に関する一考察 17日謝恩会でスライドショー |
数えてみたら今月は,アマゾンのマーケットプレイスで買った本が5冊ある。もちろんそれ以外にも未読本がある(数えてみたら6さつあった...)。何とか自制しているものの,安かったりするとついつい注文したくなってしまう。
しかも悪い(?)ことに,AmazonPrice SELF CHECKなんてソフトを見つけたので,毎日チェックしている。他にも,マーケットプレイスで安いモノなんてページをついつい見てしまう。とても危険な毎日を送っている。
今月よかったのは,『見城徹 編集者 魂の戦士』(そんな授業だったのかあ),『もうひとつの教育』(もう一つの世界かあ),『心の先史時代』(ジェネラリストとスペシャリストかあ)であった。あと,『音楽(シリーズ授業)』もなかなか悪くなかった。ちなみにこのシリーズ,品切れなものが多いので,プライスチェックに登録している。便利便利。
心の進化について、考古学的に論じた本。一つの仮説といわれればそれまでだが、しかし私には非常に興味深く見えた。まずは自分なりのまとめから。
本書では、初期人類やら現代人類やらの考古学的な考察に加えて、現代の霊長類研究や狩猟採集民族研究や発達心理学の知見なども使いながら、幅広く心の進化について論じている。その中で本書で基本的に問われているのはおそらく、「ある生き物(たとえば初期人類)は一面では現代人類そっくりに見えるのに、他面ではすっかり違って見える」のはなぜか?という問いであろう(と私は思う)。たとえばサル研究その他の動物研究では、彼らがとても高度な知能が示されている。つまり現代人と同じような部分をもっていることが明らかにされている。では彼らと現代人類の違いは何か。私の知っている範囲では、あまりそういうことは語られないような気がする。それに対して本書では、心の進化を統一的に捉える理論が提唱されており、そのような疑問にも、また上記の問いにもそれなりに答えられている。
筆者はそれを、「聖堂のような心」という形で表現している。この言葉、『複雑さに挑む社会心理学』で初めて見たときには、ナンジャソリャ、と思ったのだが、本書を読んでよくわかった。これは正確にいうならば、「建て増しされた聖堂」との比ゆで心を語っているのである。たとえば中世の教会が発掘されたとする。その建物が多層構造をしていたとして、いつどの部分が建てられ、いつどの部分が建て増しされたのかを知る必要がある。それと同じなのである。人間の心も、古霊長類から始まって、次第に新しいものが建て増しされている。たとえばチンパンジーが我々と同じような知性を示すということは、その部分は古くから建てられている部分といえるわけである。それらがいつどのように(そしてまた、なぜ)建て増しされて現在の形になったのかを論じているのが本書なのである。建て増しの基本的な流れは、第1期:一般知能(学習及び意思決定についての汎用の規則)→第2期:特化した知能(社会的知能、博物的知能、技術的知能、言語的知能が別個に働く)→第3期:認知的流動性(特化した知能によって生成された思考と知識は、心の中を自由に流れることができる)というものである。なかなか悪くない考えなのではないだろうか。
認知的流動性とは、複数の特化された知能を統合することによって可能になる新しい知性である。たとえば社会的知能と技術的知能が統合されると、人工物を社会的相互作用のために用いることができるようになる。装飾品を通して社会的メッセージを伝える、なんていうのがその例である。博物的知能と技術的知能が統合されると、特定の獲物専用の武器が作られたりする。社会的知能と博物的知能が統合されると、動植物を擬人化して見ることで、その行動や変化を予測できるようになる(実際はここに述べたことは順序が逆で、初期現代人にこういうことができるようになったのは、このような知能統合があったからなのだろう、という方向の推論になっているわけだが)。また筆者は、芸術や宗教や科学は、これら3つの特化知能の統合によって生じたものだ、と考えている。
さて、これらの説明は、一つの仮説と言ってしまえばそれまでだし、今後、考古学の進展とともに、仮説が書き換えられる可能性は大いにある。特化された知能も、3つで済むのかどうか、他にはないのかは気になるところではある。しかし全体としては、話が美しく構成されており、心の進化「以外」を考える上でも有用な枠組みとなりうるような気がする。たとえば心の発達もそうだし、何かに熟達する過程も、このようなジェネラリストとスペシャリストの切り替わりや統合によって説明できるかも知れない(私にはそういう力量はないけど)。そういうことにまで話が広がりそうな予感を感じさせるほど壮大な仮説が提示されており、非常に興味深い内容であった。
品切れ本(絶版?)だがアマゾンのマケプレで購入。筆者の海外経験を通して「もうひとつの教育」について語っている本である。「もうひとつの世界」とは何か。それは、「なじみの教育以外にありうる教育」のことのようである。筆者は「「もうひとつの世界」がほんとうには何であるかは、子どもたちも知らなければ、私たちも知りません。知っているとすれば神だけといってもよいでしょう」(p.69)と述べている。
これだけではわかりにくいかもしれない。しかし、もうひとつの世界が何であるかを述べることは難しくても、多くの(特に日本の)教育が、ひとつの世界だけを絶対のものとして行われていることを指摘することは可能である。そのことについて筆者は、「子どもたちを善くしようと思って熱心になればなるだけ、人々は、教育において、現実に自分たちが作りあげている小さな世界での小さな知識、小さな技術、小さな習慣や価値づけ(善さ)に心を奪われて、そこに子どもを閉じ込めようとしがちなのです。それでかえって子どもを小さくし、ダメにするのです。」(p.35)と述べ、教育にパラドックスがあることを指摘している。このことは私も気になってはいたものの、まったく解決法が検討もつかないため、あまり考えないようにしていたのだが、本書ではそのことがずばりと指摘されていた。
ではそのことを自覚したときに、教師はどうすればいいのか。筆者は次のように述べている。
その道はもちろんただひとつしかありません。/教師自身が、「もうひとつの世界」が自分にとってあることに気づいていること、その上で、子どもたちにとっても当然それがありうること、したがって、子どもたちの生活はいつも必ずそこに向かって開かれていなければならないということを、心得ているということです。/もちろん、この心得をもつということがじつは、いかに難しいことであるかも知らなければなりますまい。(p.73)
まあわかったようなわからないような記述だが、筆者は続けて「すぐれた教師であれば、それだけ鮮やかに、見事にこのパラドックスを克服してみせることができるのです」(p.74)と述べ、その例としてペスタロッチをあげている。ペスタロッチについては私はほとんど知らなかったのだが、筆者によると、ペスタロッチは「上から下へ」教育を行うのではなく、「下から上へ」の奉仕として教育を行っていた教師のようである。別の章の表現で言うならば、上から下への教育とは国家主義の教育であり、下から上への教育とは、人間主義の教育という言葉が該当しそうである。人間主義の教育とは、「それによって国民ひとりひとりの善く生きようとする能力を、存分に自由に、存分に多彩に、豊かに開発できる」(p.123)もののようである。なんとなくイメージはつかめるような気はする。
なお、最初のほうに引用した考え方で言うなら、「人間主義教育」なるものであっても、「ひとつの世界」として子どもに強制し教え込むのは不適切、ということになるであろう。それが問題になるのは、「ひとつの善いもの」を教師側が勝手に想定して、それを唯一の善いものと考えてしまうからであろう。そういうふうにしてしまうと、それはショーンのいう「技術的実践」でしかなくなってしまう。となると筆者の言う「もうひとつの世界」に開かれた教育とは、教育の現場において、子どもとともに考えるという「反省的実践」を行うことで可能になるといえよう。その「反省」も、教師の考えを子どもの考え方に向かって開くという反省(佐藤学氏の言うgive kid a reason)だけでなく、他の教え方、他の価値、他の考え方に開くという反省も、村井氏のいう「もう一つの教育」のためには必要であろう。
そしておそらくそのことと関係しているのであろうと思うのだが、筆者は教育を「見る」場合の心得として、単なる観察ではなく、「子どもたちが大人たちによってどう見られどう取り扱われているかという、いわば教育文化ともいうべきものを見る」(p.66)必要性を述べている。それは「教えたり学んだりする人間の関係を見る」(p.67)ことである。それがそれなりの役割を果たしているのであれば、「教育の方法や手順などというものは、そこから必要に応じていくらでも、またどんな形ででも出てくるはず」(p.67)と筆者は述べる。なるほど、これは教育のパラドックスの克服(そしてもうひとつの世界へのいざない)を知る上で、非常に重要な視点であろう。
本書は、ある教育が行われている地域の雰囲気を伝えようとしてエッセイ風に書かれており、教育場面そのものについての話は、実はさほど多くないのだが、しかしそのポイントでは、平易ながらも実に示唆的なことが書かれており、考えさせられる本であった。
毎晩寝る前に,子どもたちに本を読んであげている。歯磨きが済んで「パパにごほん読んでもらう人(は手をあげて)!」というと,二人ともすごい勢いでやってくる。最近気づいたのだが,子どもたちは,必ずしも「本を読んでもらう」(話を聞く)ことを目的としているわけではないらしい。特に上の娘(6歳9ヶ月)は。
というのは,最近は私はほとんど本を読んで(音読して)いないのだ。上の娘が読みたがるので,私は娘たちが選んだ本を娘たちのほうに向けて持ち,ページをめくっているだけである。音読するのは,ほとんど全部上の娘だ。本の選定は娘たちに任せているのだが,毎日同じ本を持ってくるし。だから,ストーリーの新奇さやワクワク感を目的にして読んでいるわけでもなさそうだ。
私が音読しないのなら,別に私と一緒じゃなくても,上の娘は一人で本を読んでもよさそうなものだ(実際上の娘は,「怪傑ゾロリ」の本を図書館で借りたときは,一人で黙読している)。しかしそうはしない。おそらく上の娘は,「パパやしいちゃん(仮名)と一緒に本を読む」という「遊び」をしたいのだろうと思う。
そういえば,ちょっと前までは私が音読してあげていた。そのうちに,上の娘が「まあちゃん(仮名)も読みたい」と言い出したので,右ページは上の娘,左ページは私が読むことになった。上の娘が読んでいる間,私がいたずらっ気を出して,挿絵の人物の顔マネをしていると,娘たちはそれをおもしろがって,娘たちもするようになった。そのうちに上の娘は,一行飛ばしで読むようになった。日本語が変になる,その変さを楽しむのである。そして今では,全部自分で読む,というようになったのだ。最近も,一行飛ばしで読んだり,肯定文を否定文に変えて読んだりしている。
ということで,結果的に音読しているのは上の娘で,私はページをめくったり顔マネをしたりするだけなのだが,そういう「遊び」なのだと思ってやっている。読書の意義や楽しさなんて,読むことだけには限らないし,何が楽しくてやっているのか,読んでいる人が自覚しているとも限らないんだなあと思う。
NHK「課外授業ようこそ先輩」の見城徹の回を本にしたもの。見城氏は幻冬社の社長である。番組は見ていたのだが、本で読んで、番組でわからなかったところもわかった。番組も非常に興味深いものだったが、本書の方が詳しく授業内容が紹介されており、それに加えて見城氏のインタビューも載せられているので、本書を読むことで、その興味深さが深みを増したように思う。
見城氏が行った授業の概要は、1日目(たぶん金曜日か土曜)に「編集」とは何かを語り、それから、子どもたちが書いた作文を何人かに読んでもらってコメントをする。次に、子どもたちの作文から6編を選び、6班に分かれて編集会議。作家一人、残りが編集部員というわけである。編集長も決めている(もちろん子ども)。編集会議では、画用紙に編集方針を書いてもらったりしている。それで1日目の授業が終わりで、作家になった子どもは持って帰って書き直している。
次の授業(たぶん次の火曜日)では、見城氏が編集結果を聞き、ダメ出しをして、もう一度編集会議をしてもらう。午後に作品の発表をし、各作品に見城氏がコメントをして終わりである。
見城氏の関わりは、一日目はほめることが中心で、二日目の午前だけ、厳しいことを言っていた。この緩急のつけかた、うまいなあと思っていたのだが、それは計算されたものではなかったようだ。見城氏がいうには「最初はぼくは彼らをちょっと甘く見ていたね。子どもだから手加減しようとかやさしくしようとか思っていた」(p.195)そうなのである。しかしそれは(見城氏が言うには)見抜かれていたし、「こちらが踏み込んでいけば踏み込んでいくほど、やつらはちゃんと反応する」(p.196)ので、途中から手加減をやめ、「真剣勝負」をしていたのだという。もっとも、見城氏が編集とは何かについて語っている部分によると、編集者は作家に対して、「相手の反応を見ながら、うまく書いてもらうように仕向けていっている」(p.36)のだそうで、見城氏にとっては日頃からやっていることなのかもしれない。それでも、小学生相手の授業でもそれがちゃんとできるのはすごいことだろうと思う。
今回の授業における「真剣勝負」というのは、たとえば「作家」となった子どもに対しては、「きれいだなってことを表現するために、詩にしたんだろ? それなのにきれいだなって言っちゃったら、もうおしまいじゃない。この「花火を見ると感動する。きれいだなと感じるからだ」は、ぜんぜん、詩になってないよ」(p.129)という具合である。「編集部員」に対しては、「みんなは、もっとそのことを言わないとダメだし、〔中略〕もっと引き出してやらないと。ものを言ってやらないとダメだよね」(p.130)という具合である。
ただし、ダメ出しをしているだけではないし、自分の判断を押し付けているわけでもない。たとえば見城氏は、ある作品に対して、次のように言っている。
このあとの文章は本当にすごく良くなったのに、この五行があるためにそれがぶち壊しになってるんだよ。そう思わない? 思わなければ、「思わない」って言ったらいいし、小川が納得しないんだったら、納得するまで話し合えばいいと思う。おれは小川と話し合う用意があるよ。(p.137)
こういうところに、「真剣勝負」さが表れていると思う。特にこの最後のセリフ、私はちょっと感動してしまった。残念ながら放送ではカットされていたが、本人がしゃべっているところをとても聞いてみたいセリフである。ほかにも同様のセリフとして、「君にとっては思い入れがあって、「これは直したくない」って言うんだったら、その理由がきちっとしてれば、それでもいい。ぼくは、文章には正解はないと思うからね。〔中略〕一二年しか生きていない君たちよりも、ぼくのほうが正しいってことはないからね」(p.146)なんていうのもある。ほんと、ステキだ。こういうところが、見城氏の言うところの「自分もさらけ出して何かを言う」(p.37)ということの一例なのだろう。そうすることで、作家が書く前や編集作業の前とは変わっていくように、「編集者であるぼくもまた、違う自分になる」(p.38)し「新しい自分になっている」(p.113)。だからこそ見城氏は、自分をさらけ出し、相手に厳しいことを言いながらも、「話し合う用意」(つまりは変わる用意)をしているのだろう。
なお最初の方で見城氏は、「書くということは、「自分を整理する」というか、「自分を見つめ直す」ことじゃないだろうか。だから書くことは大事なんだよ」(p.54)と言っている。これはよく言われることだし、そのとおりだろうと思うのだが、この伝でいくなら、編集とは、「自分と相手」を整理し、見つめ直すことと言えそうである。そうするために、見城氏がいかに他者と関係を作り、言葉かけをするのかの一端を垣間見ることができる、興味深い本であった。本だけじゃなくて映像も見た方がいいと思うけど。
昨日,幼稚園で謝恩会があった。上の娘(6歳9ヶ月)が卒園なのだ。妻が準備のための委員になった関係で,私はスライドショーの準備をする係になった。初めてのことだったので,備忘録がわりのメモ書きを少々。
スライドショーは,大学の留送会(卒業パーティ)で毎年見ているので,基本的なイメージはあった。あるお母さんがパソコン,プロジェクタ,スクリーンを用意してくれるというので,私は幼稚園から写真を借りて,取り込んで整形する部分を担当した。
取り込んだ写真は全部で200枚ぐらいだろうか。この作業が大変かと思ったが,BTScanという,TWAIN対応機器から画像を連続して取り込み,連番をつけてファイルに保存してくれるソフトがあったので,思ったよりも速くできた。
画像の切り出しや整形は,『デジカメ写真は撮ったまま使うな!』を参考にして,IrfanView(トリミング)とJtrim(一括変換でリサンプリングとヒストグラムのノーマライズ)を使う。ヒストグラムのノーマライズは強力で,色調の悪い写真でも,鮮やかに蘇ってくれた。スライドショーの仕上げは,別の方がPhotoJamでやってくれたのだが,私は自分で出来具合をチェックするのには,フリーソフトのMam's Slideを使った。画像のあるフォルダに放り込んで起動すれば,ファイル名順に表示してくれるし,フォルダ内の音楽ファイル(mp3など)も再生してくれるというスグレモノである。画像表示時のイフェクトもいくつかあるので,あまり凝ったことをしようと思わなければ,十分使える大変便利なソフトであった。
プロジェクタでの映写は,当日初めて行った。プロジェクタで映写すると,顔が暗くて案外見えにくいことに,当日映写してみて気づいた。次にこういうのを作るときには,明るめに作るべきだな。
という反省はあるものの,それ以外はとてもよかった。当日,子どもたちは大喜びしていたし,お母さん方も喜んでいたみたいだし。それに私も,作りながらけっこうジーンと来るものがあったりして,楽しい作業だった。