15日『教室で学ぶ「社会の中の人間行動」』 10日『コリアン世界の旅』 5日『ファシリテーション入門』 | |
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前に読んだ『学校教育で育む「豊かな人間性と社会性』の前著。中学生を対象に、「これまで心理学の世界で蓄積されてきた知見を、実際に授業で生徒に体験させることによって、「人間」や「社会」に対する考え方の基礎を養う」(p.169)ことを目的にした授業案(15個)と解説と、実際に授業を体験した教師と生徒の感想が載せられている。授業(「ソーシャルライフ」と名づけられている)に関しては、本当によく考えられていて、なるほどと思ったり、大学生にも仕えるんじゃないかと思うようなものがいくつもあり、感心した。
さて、前回、本書の続編を読んだとき、教科指導や生徒指導とソーシャルライフの理念のずれが気になり、読書記録にちょっと書いた。今回もその点が気になったのでここに記しておく。本書には、授業開発者や授業者(心理学の院生が中心)が執筆しているほかに、この授業が行われた学校の教師と生徒も文章を寄せている。その中である先生は、この問題について、次のように書かれている。「ソーシャルライフの授業の目的と、生徒指導の目的の違いを良く理解すべき」「ソーシャルライフの授業で行ったことを直接生徒指導で使うと、逆にマイナスになる場面がある」「教師はある価値判断の基に生徒指導をする」(p.155)。
ちなみにこの記述や、両者は別の役割なのだから矛盾ではない、という意見を、私は大学院の授業で提示してみた。受講生は主に現職の先生たち(小学校〜高校)である。多くの人が、「役割を使い分ける」という意見に賛成のようだった。それを聞いて、私の考えは幼稚だったのか、とそのときは思った。しかしその後、本書を読みながら再びこの問題について考えてみたが、やはり釈然としないものが残った。
その「釈然としなさ」が確信めいたものに変わったのは、本書の別の箇所で別の教師が、ソーシャルライフの授業の意義について、次のように述べているのを見てからである。
教師や親が注入主義的に、あるいは方法論的に生徒にスキルを押しつけても、その場しのぎの解決にしかならないのではないか。生徒は生徒なりにしっかりとした価値観や考え方を必ず持っている。〔中略〕最終的に親の意見は「親の意見」であり、先生の意見は「先生の意見」である。肝心なのは、生徒が自ら「何を感じるか」であり、また、「どのように感じさせるか」ということである。(p.159)
この文章は、「今の時代に「ソーシャルライフ」の授業が求められるわけ」というタイトルで書かれたものであり、ソーシャルライフの授業の意義は、ここに書かれているとおりだろうと思う。しかしそれだけではなく、ここで書かれていること(注入はその場しのぎにしかならない)は、生徒指導にもまったく同じように当てはまることなのではないだろうか(もしそうでないという理屈が成り立ちうるのであれば、その理屈は今度は逆に、ソーシャルライフの存在意義を否定できるはずである)。とするならば、ソーシャルライフと生徒指導は目的が違うとか、ソーシャルライフの授業で行ったことを直接生徒指導で使うとマイナスになる場面があると、ナイーブに言い切るのはどうかと思うのだが。もっとも、少なくない人数の生徒を相手に、差し迫った問題で生徒指導を行っていると、そんな悠長なことはいえないのかもしれない。そういうことであるのであれば、上記のようにいうのもまあわからなくはないのだけれど。
講談社ノンフィクション賞と大宅壮一ノンフィクション賞をダブル受賞したノンフィクション。筆者は、次のような問題意識をもって在日韓国・朝鮮人についてのルポルタージュを行っている。
著名人に限らず、私たちは毎日、知らぬまに大勢の韓国・朝鮮系の人たちと出会っているのである。それなのに、なぜ日本人の目には彼らが見えないのか。どのようにして見えなくされてきたのか。
この謎を出発点として、日本をはじめ、アメリカ、ベトナム、韓国にいるコリアンを取材し、それを通して在日韓国・朝鮮人のみならず、日本人について考えたノンフィクションである。とても興味深かった。本多勝一氏は『アメリカ合州国』で、アメリカ合州国=白いアメリカの中に、「全く別の、対立するアメリカ」(p.138)=「黒人国」という国境なき別の国があることを描き出している。本書も要はそういう内容である。もっともアメリカの場合、「黒人国」が外から見えにくいのに対して、在日韓国・朝鮮人は、内部にいる我々にも見えにくい。そういう意味では、本書に描かれているのは、「全く別の、隠れた日本」といえるかと思う。
私たちが知らぬ間に出会っている韓国・朝鮮系の人たちとしては、芸能人などの著名人のほかに、たとえば、「全国二万軒の焼肉店のおよそ九割が在日か帰化者とその子孫の経営ではないか」(p.68)という話が本書には載っている。それだけでなく、パチンコ店の6割から7割、パチンコ台製造メーカー、景品交換所の人、暴力団組員、ラブホテル、ソープランド、雀荘の経営者、カバン製造者、神戸の靴製造者などが本書では言及されている。大阪は50人に一人以上が在日だという。
在日韓国・朝鮮人というと、私はリアルワールドではほとんど出会ったことがないのだが、私はこういう人たちは、戦時中、強制連行で連れてこられた人たちだと思っていた(そういえば『三たびの海峡』はそういう人を主人公にした本だった)。しかし本書によると、強制連行された朝鮮人のほとんどは、戦後まもなく日本政府の計画送還で帰国しており、いま日本にいる在日の大多数は、「戦前からの渡航者」および「戦後の密航者」と、その子孫たちだという(そういえば『三たびの海峡』の主人公も、戦後帰国しているのであった)。ということは彼らはいわば、日本人がハワイに移住して日系アメリカ人になっているのと同じで、朝鮮半島から日本に移民してきた韓国・朝鮮系日本人(あるいは日本在住の外国人)ということのようだ。つまり、日本の中の韓国・朝鮮系の人々は、世界の中でそれほど特殊な存在というわけではないのだ(歴史的には日本と韓国・朝鮮の間には特殊な部分があるとしても)。
そういう人たちがなぜ「見えない」存在になっているのか。それは、日本が単一民族という幻想があるためである。単一民族という幻想が強く生きている国にいる、という意味では、アメリカにいる日系人や韓国系人とはまるで違う、特殊な存在といえるかもしれない。しかし表に出にくい存在という点では、ベトナムにいる韓越混血児(ベトナム戦争時にベトナムに来た韓国人との間に生まれた)と同じである。その視点で見るならば、さほと特殊ではないとも言える。また、彼らが他の外国系アメリカ人や在米外国人と異なるのは、朝鮮半島の南北対立のため、現地人との民族の違いだけでなく、韓国・朝鮮人の国家の違いを意識せざるを得ない点がある。
そのような現状に対して、筆者が提言らしきものをしている部分は何箇所かあるのだが、それらはまとめるならば、「「民族」や「国家」の違いをエキセントリックに煽り立てるのではなく、それを融和させる方向を目指すべき」(p.438)であり、現地人(たとえば日本人)に対しては、民族共生教育(国籍や民族が違っても受け入れていく教育)をする、ということのようである。
本書は、これまで見えなかった韓国・朝鮮の人を日本だけでなく世界的視野で見せてくれ、そういう人の思いを知り、日本について、民族について、そして今後について考えさせてくれる、とても上質のノンフィクションであった。
『ワークショップ』が興味深い本だったので、ソレ系の本をほかに探してみた。結論からいうと、ちょっと思っていたのとは違ったが、興味深いところもある本だった。私がこういう本を読むのは、ワークショップスタイルの授業の参考にするためである(って、ちゃんとしたのはやってないけど)。しかし本書では、ビジネスなどにおける問題解決型や合意形成型のワークショップが主に取り上げられている。それって要するに、「会議」ということであり、そういう本だと思って読めば、悪くない本だと思う。
とはいっても、教育系ワークショップに役立つような情報も本書には含まれている。たとえば筆者によるとアイスブレイクは、大きく3つに分けられるという。メンバー同士が知り合うことに焦点を当てたもの、体をほぐすことによって緊張を解くもの、アイスブレイクを通して何か学びがあるものの3つである。こういうのって、類書には具体例がたくさん紹介されていたりするが、こういう枠組みがあると、どれを使うかの判断材料となるのでありがたい。
本書では、タイトルどおり、「ファシリテーター」に焦点が当てられている。ファシリテーターは単なる進行役ではない。ファシリテーターがどのようなものであるか、筆者は次のように述べている。
コミュニケーションの場をつくり、人と人をつないでチームの力を引き出し、多様な人々の思いをまとめていきます。その場に参加しているメンバーの主体性を育み、優れたコンセンサスを生み出していくのです。/議論が対立に陥った場合は、お互いの主張が正しくかみ合うよう、連結ピンの役割をします。そして、全員が満足できる答えが見つかるまで、あらゆる知恵を引き出していきます。」(p.24)
「連結ピン」の部分などは特に、会議における司会のうまい振舞い方について、本書で学ぶところがあるように思った。具体的には、「対人関係のスキル」の章で、メンバーとファシリテーターのやりとりばかりになるときに、他のメンバーに投げ返すやり方が紹介されている。これは会議の司会のスキルとしても有用だが、ワークショップ型授業における授業者の振舞い方としても参考になるかもしれない。
あともう一つ、今の私にとって役立ちそうだと思ったのは、振り返りにおける参加者同士のフィードバックのあり方について(これはファシリテーターについての話ではない)。筆者によると「良いフィードバックとは、相手の行動や態度を見て思ったことや自分に与えた影響などを、できるだけ具体的に伝えてあげることです。批評や助言は必要なく、相手の行動をコントロールするようなことを言ってはいけません。」という。私は何かのワークショップに参加するわけではないので、そういう場でこういうことが必要になってくるわけではないのだが、たとえば授業後に個人にあるいは授業研究会で感想を述べる場合も、第一にすべきは批評や助言ではなく、相手(授業者や子ども)をみて思ったことや自分が感じたことだろうと思う。
今日は附属小学校の研究授業を参観し、授業研究会に参加してきた。小学校1年生の体育の指導助言者なんていう恐ろしい役目をおおせつかりながら。1年生の体育なんて、どこをどう見ていいか、非常に難しい。事前に何回か見たりして、今日も何とかコメントをひねり出してきたのだが、他の参観者や授業者の意見を聞きながら、私のほうが勉強をさせてもらったというのが正直なところである。
ただ、今日の指導案の中には「アフォーダンス」について触れられていた。心理学を専門にしている私が威張れるのはここぐらいか、と思って、それにはちょっと触れたのだが、しかし実際のところは、ギブソニアンの考えは、本を何冊読んでも今ひとつ分かるようで分からない(私も『エコロジカル・マインド』など何冊か読んでいるのだが)。そこで終了後、研究室に戻って『アフォーダンス』(佐々木正人著 岩波書店 1994年)をパラパラとめくっていた。それでもやっぱりよくは分からなかったのだけれど。
しかし、読んでいてちょっと思うところのある文章があったので、ちょっと引用しておく。
ドナルド・ノーマンは『誰のためのデザイン?』(野島久雄訳、新曜社(1990))の中で、道具はそれを使ってどのような行為を行うことができるのかがわかるようにデザインしておくこと、コンピュータによるシステムの設計もそれが何をアフォードしているのかが、よく「見えるように」しておくことを提案している。一言で言えば、「物」ではなく、「リアリティー」を、「形」ではなく「アフォーダンス」をデザインすべきだということである。/もちろん、アフォーダンスをデザインするために一様な方法があるわけではない。設計のアイディアは、道具やシステムが利用されるまさにその現場で発見されなければならないのだろう。デザイナーは、道具の要素となる「形」の専門家ではなく、まずは道具を解したときに、人々の「知覚と行為」にどのような変化がおこるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。(p.104-105 強調は引用者)
2箇所を強調表示したが、この2箇所は授業を考える上でのヒントがあるように思うのだ。それはおそらく、ギブソンの考えを我流で(あるいは我田引水的あるいはこじつて的に)拡張することになるのだろうが。
一つ目の強調箇所(道具のデザイン)は、たとえば授業における教材にもいえることではないかと思う。上の言い方でいうならば、「教材は」それを使ってどのような行為を行うことができるのかがわかるようにデザインしておく、ということである。そしてその話は、さらに拡張するならば、教材だけに限らず、教師の指示や発問にもいえるのではないかと思う。それはデザインという言い方でいうならば、子どもが行為しやすいように(それが何をアフォードしているのかがよく見えるように)授業をデザインすること、と言えそうである。
この一つ目の話は、「子ども」が教材や教師の言葉の意味(=アフォーダンス?)を発見する、という話である。それに対して2番目の強調箇所(アイディアを現場で発見)を見て私が思ったのは、それとは逆方向の話、つまり「教師」が環境の意味(=アフォーダンス)を発見する、ということである。授業における教師の環境とは、子どものことである。教師は授業において、子どもがいる教室という環境に投げ出される。知覚者が環境の中でアフォーダンスを探索し価値を発見するように、教師も授業において、子どもたちという環境からアフォーダンス(=行為の可能性)を探索し価値を発見している、と言えるのではないだろうか。それに基づいて、教師は子どもに対して行為し働きかける。そしてそこで何がアフォードされるかは、上の引用箇所(2番目)にあるように、「まさにその現場で発見されなければならない」。
授業研究会のときに指導案のことが話題になった。私は「事前に指導案は簡単なものでいいのではないか」と述べた。それは、一部は佐藤学氏の言うことが念頭にあったし、また、反省的実践の考えや状況論者の言うことが念頭にあったのだが、上の引用もそのことを後押ししているのではないかと思う。教師という知覚−行為者にとって、子どもがある種の環境だとするならば、佐々木氏が別の箇所で書いているように、「環境と持続的に、反復して接触することで、それまでは発見できなかった情報を特定できるようになる」(p.81)し、それは第一に現場で発見されることである。とするならば、指導案という形で事前に詳細な道筋をつけておくことは、環境がそのときにアフォードするものを発見しにくくするのではないかと思う(指導案ががたとえ複数の選択肢を用意していたとしても)。それよりも、現実の環境に投げ出されたときに(要するに授業のときに)、教師がどのようなアフォーダンスを知覚してどのように行為を選択したかを、授業後に検討し記述したほうが、教室のリアリティの中で教師の行為や意思決定を考える上で有用なのではないか、と思った。