30日短評11冊 25日『「脳死」と臓器移植』 20日『親と医師、教師が語るADHDの子育て・医療・教育』 | |
| 30日【授業】知覚2 20日【授業】学習障害 16日【授業】知覚1 16日【育児】お話を怖がる4歳児 |
相変わらず忙しいのは忙しいのだが、マケプレ購入本がどんどん増えてしまう(というか、目についたらどんどん買ってしまう)ので、ついたくさん読んでしまう(ちなみに今月読んだ本の中には、マケプレ本が6冊ある)。
今月良かった本は、『コリアン世界の旅』(なるほどこんな世界が)と『親と医師、教師が語るADHDの子育て・医療・教育』(なるほどこんな子にこんな対処が)である。それ以外にも、下に挙げた『子どものつまずきと授業づくり』なんかもよかったのだけれど。
共通教育科目「心の科学」。知覚の二回目。人の知覚がいかに適応的なものであるかについて知ってもらうことを目的に授業を組み立てた。
まずは前回の補足で,人は,周囲の状況,直前の状況,そのときの欲求などの内的状態,過去経験,遺伝的個人差,種としての経験など,さまざまなものが重なり合った結果として今の知覚が生じていることを説明(『<意識>とは何だろうか』(下條信輔)でいう「脳の来歴」だ。ついでに,ここに出ていた「左右の手を温度の違う水(お湯)につけてから同じ温度のぬるま湯につけると,感じ方が左右で異なる」という話をした)。それから,目の錯覚の復習として,エイムズの部屋のビデオを見てもらった(これは前週でもよかったかもしれない)。その中で「錯覚にはどんな意味があるのか」と出演者がいうので,今日のテーマはこれだと告げる。まずは,私たちが気付いていない錯覚として,人には外界が正立して見えることがあることを,視覚野に外界が上下左右逆転して投影される図を示しながら説明。では視覚野に外界を逆に投影したらどうなるか,ということで,逆さめがね実験のビデオを見せる。途中で,学生一人に左右反転眼鏡をつけさせて,いかに行動しにくいものであるかを見せたりしながら。
ビデオ終了後,反転めがね実験のまとめ,先天盲開眼者の話,ヘルドとハインのネコの実験(自分で移動することの重要性),赤ちゃんの知覚の話(『もし、赤ちゃんが日記を書いたら』(ダニエル スターン著 草思社))をして,知覚と運動の結びつきを学習することが見ることであることを説明した。
その後,外界の認識を我々が目だけでなく,耳,手足,口などを用いて総合的に行っている,という話をし,その例として,盲人がたくみに外界を知覚しているビデオを見せた。最後のまとめとは以下の通り。我々は,知覚と行動を繰り返しながら,その環境に最適なように外界を認識できるようになる。しかし環境が変わると,そこにズレが生じる。それが錯覚なのである。したがって錯覚は,誤りなのではなく適応の結果なのである。環境をずらすことによって錯覚を生じさせる例として,手品を少しOHP紹介して講義は終わりとした。質問書を見る限り,内容は理解されているようであった。
いわゆる「脳死」と判定されたものから臓器を取り出し、他の患者に移植することの是非に関する問題は、年刊誌『日本の論点』でも毎年のように取り上げられる問題である。本書は、脳死移植に賛成しない人たちが寄せた論文集である。論者は医療関係者、法学者、哲学・宗教関係者で計16人おり、さまざまな立場からの反対論を読むことができる。
編者の梅原氏によると、賛成論者の論拠は2点であるという。一つは臓器移植によってしか治らない患者の存在であり、もう一つは西欧先進諸国が脳死を死と認めて臓器移植を行っているという事実である。これらは、これらだけを提示されるならば、確かにそうかもなあと思うが、しかし本書を読むと、その考えが甘い/浅いことに気づかされる。
一点目に関しては、そういう患者がいるとしても、まだ死んでいない人(脳死者)から臓器を取ることがそのことによって是認されるわけではない、と反対論者は言う。たとえば斎藤氏は、「たとえ「もうすぐ確実に死ぬ」状態であっても、生死の境界線よりわずかに「生側」であればその人を人為的に死側に引き込むことは許されない」(p.29)と論じる。もちろん賛成論者はそうは考えないわけで、脳死=人の死と考えるわけである。そのどちらが正しいかは私にはわからないが、しかし少なくとも、脳幹を含む全脳が機能停止したからといって、それで単純に死といいうるものではないことは、本書を読んでよくわかった。これまで死の徴候として合意されてきた心臓停止は、誰の目にも見えるものであり、それを契機として関係者が死を受容していくものとなりえた。つまり社会的に受け入れられるものであったのに対し、脳の機能停止は、専門知識と技能を持つ医師にしか見えない私秘的なものであるために、死を社会的なものから切り離してしまうという問題がある。実感としても、まだ心臓が動いており、したがって身体が温かい人を「死者」とみなすのは難しいように思う(あくまでも予想であるが)。
2点目(諸外国の事情)についても、複数の論者から効果的な反論が寄せられている。たとえば梅原氏は、日本は確かにこれまで先進文明国か文明を輸入してきたが、しかし何でも輸入したわけではなく、日本人にとって不自然なものは取り入れていないとして、宦官、纏足を例に挙げている。そのほかにも「西洋に学ぶことが良いとする論者でも、西洋から同性愛と麻薬を学べとは誰も言わないであろう。とすれば、いくら西洋において流行しているからといってすべてがよいわけではない」(p.273)と述べている。これはあくまでも可能性の指摘だが、実際のアメリカの現状としては、「アメリカでは四〇を超える州で脳死法が成立してはいるが、これはその必要性を認めた医学界が州議会に働きかけたことの結果」(p.406)であり、日本のように一般の人や他領域の専門家(法律、哲学、宗教など)を広く巻き込んで議論して民意が合意された結果として是認されているわけではないようなのである。
なお、アメリカで職能集団が相互チェックを機能させている事情についての記述には、とても興味深いものがあった。それは次の通りである。
七〇年代に入ると医療の現場が一段と複雑になり、専門職への風当たりが厳しくなったため、アメリカの医療職能団体は、個々の医師の経験を、成功も失敗も含めて共通のレファレンス・プールに入れて共有し、診断と治療方針の決定の均質化を図るようになる。これは、個々の医師の独立性は犠牲にしてでも、専門家の側の相互チェックによって医療行為に関して品質管理を行い、これとの見合いで、社会に対して職能集団としての自治を認めさせる、という体制に移行したことを意味する。この過程の中で生まれてきたのが、無作為に取り出したカルテの検討会議、摘出された臓器や組織標本を検討する組織委員会、手術を行うか否かの判断の際に別の医師に意見を求めるセカンド・オピニオン、などである(p.400-401)
なるほど、セカンド・オピニオンが当たり前になったのは、アメリカ人の国民性や社会風土、というだけではなく、社会の風当たりの中で、内部改革によってなされたということのようである。しかもそれは、「個々の医師の独立性は犠牲」にして、集団全体としての品質維持を行ったということで、独立性と品質管理は両立しないんだなあ、ということもわかる(いわれて見れば当たり前のことなのだが)。ちなみに風当たりの強くなる前の60年代は、「個々の医師が医の権威を体現できていた」。そうで、要するにそういうことを犠牲にしてでも全体としての品質維持を行った、ということである。
この話は、医療職能集団だけでなく、たとえば高等教育職能集団(要するに大学)にも共通するはずで、大学改革について考える上でのヒントになりそうである。
いやー、これはADHDを理解するうえで、とてもよい本だった。内容はタイトルどおりで、まず、ADHD児を持つ親が子育て記を語り、次にADHDについて詳しい医師が、診断、治療、親訓練、アメリカでの取り組みなどを語り、最後に障害児教育に詳しい教師が、ADHD児の教育と指導について、実践から学んだことを中心に書かれている。3方面から総合的にADHDについて理解できるというわけである。
本書から学んだことは多いのだが、一番印象的だったのは、「障害児教育には、教育の原点がある」(p.205)という言葉。実はこれがどういう意味なのかは、本書には詳しく書かれていなかったのだが、私は、障害児にとって適切な対応をすることは、健常児にとっても適切な対応になる、という意味で受け取った。
たとえば親訓練についていうならば、子どもの行動を理解する際には、「「行動が起こる前の状況−子どもの行動−それに対する周囲の対応」というように前後の状況を客観的に観察する」(p.112)ことの重要性が強調されている。そしてたとえば、行動が起こる前の状況の中に、注意集中持続を困難にするような要因があれば、「気の散るものを取り去る、まずほめる、途中でほめる、できたら思いっきりほめる」(p.130)などと書かれている。行動療法の考えが根底にあるようだが、このような観察や対応は、健常児にも必要であるにも関わらずなかなかされないことではないかと思う。
ちなみに行動療法に関しては、本書にうまい紹介がしてあった。行動療法というと賞罰によるコントロールと見られがちだが、行動療法は「適切な行動の積み重ねをトレーニングしていくことで、適応行動を増やし、不適応行動を減らしていくためのもの」(p.98)なのだという。そのためのスモールステップであり、情報としての賞罰ということなのであろう。なかなかうまい説明であると思った。
そのほかにも授業中の教師の留意点として、「今から大切なことを一つ言います。しっかり聞いてくださいね」と注意を促してから話す、視聴覚機器を利用して注意集中させる、集中力が長続きしないので、45分を15分単位ぐらいにわけて行う、などが挙げられている。これも健常児にも(大学生にさえ!)十分当てはまるし必要な工夫であると思う。そういう意味では本書は、ADHDを題材にはしているけれども、あらゆる子育てや教育に役立つ情報が含まれているのではないかと思った。
教職科目「教育心理学」。今日のテーマは「学習障害」であった。いつものように,まず前週発表グループに,前週に質問書で出た質問に回答してもらった。その後,今週発表グループに,テキスト範囲をコンセプトマップにしたものを投影しながら概要説明をしてもらうのだが,今回発表の2グループは,障害児教育専修の2年生を中心としたグループで,事前に聞いたところ,テキスト範囲がマップにしにくいというので,1グループはテキスト範囲で,もう1グループはテキスト範囲を離れて,特定の障害を狭く深く紹介してもらうことにした。それにしてもマップにしにくい(「コンセプト」というより文章になってしまう/2グループとも同じマップになってしまう)というのは本当かと思い,私も飛び入りでマップを作って発表することにした。ということで今日は3チームの発表であった。次年度は,2チーム発表のときは,別の範囲を担当してもらってもいいかもしれない,と思った(あるいは一部だけ重ねるとか)。
その後,質疑応答を行ったのだが,いくつか質問が出たところで,質問が途切れたので,あと2グループほどを当て,「どういうことがわかったか」「グループの話し合いで何を話したか」を聞かせてもらった。
中盤(開始25分〜50分ぐらい)は,道田による補足。障害児教育の先生から教えてもらった『学習障害(LD)及びその周辺の子どもたち』という本に載っていた図を中心に,「どんな障害か」「LD児の内面世界はどのようなものか」「どのような対処があるのか」の話をした。次のようなことを強調した。
後半35分ほどは,先日NHKで放送された「ETVワイド ともに生きる〜発達障害の子どもたち〜」から,学習障害児の映像を合計17分見せた。今回,ふと思い立ち,ワークシートを作って配布した。映像では4人の学習障害児(者)が出てくるが,それぞれの障害の特徴と,有効な手立てを書き込みながら見てもらった。一人終わるごとにビデオを止めて,何を書き込んだかを数人に聞きながら進めたので,みんなビデオを集中してみてくれたようだ。
ビデオ終了後,ここに出てきた手立てで普通学級の教育にも有効なものに印をつけさせ,発表したもらった(時間がなかったので,今回は一人にしか聞けなかった)。また,これまでに教育心理学で学んだ内容が,学習障害児の教育と関係しないかどうかについても考えてもらった。これも時間がなかったので,教師期待効果を発表したグループの人一人にしか聞けなかったのだが,これまでの授業との関連性は,多くの人たちが理解してくれたのではないかと思っている。
共通教育科目「心の科学」。知覚の一回目。いつもは知覚を最初にするのだか,今年は後ろのほうに回してみた。これまで授業で,人はだまされやすい(錯覚を起こしやすい)のと同時に,必要に応じてすばやくそこそこ正確に判断できる,すなわち適応的であり,このニ側面は表裏一体と話してきた。今日は知覚に関して,第一の側面,つまり錯覚を中心に話をした。
まず,「火星の人面石」について軽く説明した後,「ビジュアル・イリュージョン」という古い映像を見せつつ,説明をはさんだ。出てきた錯視は,月の錯視,ポンゾ錯視,ミュラーリヤー錯視,幽霊坂,速さの錯覚,カニッツァの三角形,エッシャーの絵,ペンローズの三角形である。合間合間に,人がどのような錯覚を起こすのか(近くの小さなものと遠くの大きなものが同じに見える,ありのままに見えない,ないものが見える,ありえないものが見えてしまう)について説明したり,補足的に別の図形を見せたり。この教室では,正面のスクリーンには液晶プロジェクタのビデオ映像,前方横のスクリーンにはOHPの画像を提示できるので,こういうときはとても助かる。あと,大きさの違うトランプを使った自作ビデオも見せた。
次に,教科書に沿って,視野の狭さ,注意の範囲の狭さ,盲点など,いかに目が貧弱なものであるかを説明。しかし盲点が「見えない」のではなく,周りの情報や経験を元に脳が「補って」いることを説明した。3次元世界でものを見るという経験があるがゆえに,2次元に描かれた図形で錯覚を起こすのは,適応的なことなのだ,ということで,ミューラーリヤーと部屋の隅の図や,ポンゾ錯視と透視図を示し,また,ザンダー図形も3次元を2次元に投影したものとして理解可能なことを説明した。
ここで最初の話題に戻るために,顔に見えるドアノブや車の後部写真を示し,人が顔じゃないものを顔に見がちであることを説明。となると火星の人面石なるものも,本当に人面かどうかは分からないよね,と話し,ついでに9.11のときにビルの煙に顔が見える,という写真も見せた。最後にちょっと時間が余ったので,誤診の週刊誌記事を紹介し,経験がないと見えるものも見えないんだ,という話しをして終わった。
今日の授業で一番受けたのは,「錯視トランプ」に載っていた牛の絵。ぱっと見たところ,何が描いてあるのかが分からないのだが,しばらく見ていると,牛だと分かる絵だ。こういうネタがあると授業がやりやすい(今日は必ずしもきちんと組み立てて行ったわけではないのだけれど。来年はもうちょっと構成を考えたり,配布プリントを有効活用するべきだな)。
そういえば今日,授業の最初に「来週は慰霊の日だから休講」と告げたところ,学生がえらくザワザワしていた。何をザワザワしているのか,私には皆目検討がつかなかったので,一番前に座っている男の子に聞いたところ,「ナイチャーは慰霊の日を知らないから何だろうと言っているのだろう」と言っていた。そうかー沖縄県民以外は慰霊の日って知らないんだー,と沖縄在住14年弱の私は改めて気づいた。
久々の育児記録。おとといの夜の話である。
いつも就寝前,私が子どもたちに絵本を読んであげている。しかしおとといは,何やかんやで床につくのが遅くなった。それで,今日は絵本を読む時間はないよ,と子どもたちには宣言した。しかし妻はまだ歯磨きをしたりして,すぐには就寝体制に入れそうにない。そこで私は,口からでまかせのお話をしてあげることにした。これなら,切りのいいところで適当に話を終わらせることができると思ったのだ。
でもいざお話を作ろうとすると,なかなか出てこない。しょうがないので既存の昔話(桃太郎だの金の斧と銀の斧だの)を話そうとすると,「それ知ってるー」といわれる。かといって子どもたちも知らないような昔話をしようとすると,こちらがどんな話かを忘れていて,お話にならない(金太郎ってどんな話だっけ?)。
しょうがないので,本当にお話をでっち上げることにした。兄弟が力を合わせる話がいいかと思ったので,主人公は娘たちの名前に「太郎」をつけ,二人の男の子が主人公とした。二人が力をあわせるためには,何か困難がなければ,と思い,二人が魔法使いに魔法をかけられて豚に変身させられることにした。そこに妖精さんが来て,元に戻る方法を教えてくれたので,二人が力をあわせてがんばってめでたく人間に戻る,という適当な話を聞かせてあげた(こんなことしたの,初めてじゃないかと思う)。
話が終わりかけるころ,ふと気がつくと,下の娘(4歳9ヶ月)がシクシク泣いている。泣くような話じゃないのに,と思いつつ「どうして泣いているの?」と聞くと,「パパが怖い話をするから夢に見るかもしれないさー」と言うのである。どうやら魔法使いに豚に変身させられる,というのを想像したのか,リアルに怖かったらしいのである。しまったー,ウサギみたいなかわいい動物にしておけばよかった。
それにしても,こんな子どもだまし的なお話,よろこんでくれるのかと思いながら話していたんだけど,上の娘(7歳0ヶ月)はけっこう真剣に聞いていたし,下の娘は泣いてしまったし。昨日の朝起きたら,「豚さんの夢は見なかったよ」と真顔で報告してくれた。これが「お話」の持つ力なのかなあ,と思った。