読書と日々の記録2005.07上

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■読書記録: 15日『“私”はなぜカウンセリングを受けたのか』 10日『新編教えるということ』 5日『新・教育学のすすめ』
■日々記録: 11日【授業】教育心理学・まとめ

■『“私”はなぜカウンセリングを受けたのか―「いい人、やめた!」母と娘の挑戦』(東ちづる・長谷川博一 2002 マガジンハウス ISBN: 4838712855 ¥1,470)

2005/07/15(金)
〜以前から言われていたことに初めて気づく〜

 教育心理学の授業で、東ちづるさんがトーク番組でカウンセリング体験談を話すビデオを見せているので、本を買って読んでみた。自分がアダルト・チルドレンではないかという予感を持ち、母とともにカウンセリングを受けている。本書を買ってみてはじめて知ったのだが、カウンセリングは、本書の企画の後に開始されたらしい。従って本書では、カウンセリングの逐語録が載せられている。載せられているのは、行われたカウンセリング全12回のうち、9回分である。正確には逐語録なのかどうかはわからないが、毎回、2段組で20ページ弱が載せられているので、かなりの部分は収録されているのだろう。

 本書の構成としては、彼女のエッセイ(もちろんカウンセリングのテーマに関わる内容)とカウンセリングの逐語録が交互に載せられており、最後にカウンセラーの解説が載せられている。私は彼女のトーク番組のビデオは何回か見ており、彼女のカウンセリングについてはおおよそ理解していたつもりでいたし、逐語録も割と丁寧に読んだのだが、私の理解が浅かったことが、最後にあるカウンセラーの解説を見てわかった。

 彼女のカウンセリングのテーマが初めから明確であったことも、母や彼女がどこで変化したのかも、解説を読んで初めて気づいた。またカウンセラーの関わりも、クライエントが言ったことの繰り返しだけでなく、別の言葉への置き換え、問い返し、そのときに感じたことの表明、解釈など、さまざまなものが見られる。カウンセリングなんて、受けたこともやったことも(もちろん)ないので、こういう形でカウンセリングの流れ(1時間の流れ、終結にいたる流れ)を知ることができるという点では、なかなか貴重な本ではないかと思う(それに近い本としては『マルチメディアで学ぶ臨床心理面接』があるが、これに収録されているのは、1回分の初回面接のみである)。

 あと、母親がこのカウンセリングを通して「気づき」を得たことは、自分の子どもたちからも以前から言われていたことと基本的には同じであった。しかし、このカウンセリングで初めて「気づき」になったということは、それは通じていなかったわけである。それについては、娘さんと母親とで、カウンセリング中に次の会話がなされている。

 先生とお話しするうちに、あのー……「人に見られるからですか」とか「自分を出してもいいんじゃないですか」とか先生に言われたでしょう。同じことを、この子たちにも言われてきた思うんですよ。今になって、「あ、そうだ」と思ったんだ。
ちづる 私も美香ちゃんもさんざん言ってきたよ、今まで。
 今まではね、分かんなかった。
ちづる 私たちが何を言ってるのかが?
 ……なんか責められてるような気がしてたのね。
(p.239)

 同じことを言っても、通じる状況と通じない状況がある。そういう意味で興味深い部分である。もっとも、ここでなぜ通じたのかは、もう少しじっくりこのあたりを読み返さなければわからないような気はするのだが。

【授業】教育心理学・まとめ

2005/07/11(月)

 教職科目「教育心理学」。先週で,教科書のトピックの授業が終わったので,今日はまとめの回。いつもは私がまとめるのだが,今年度は,学生が作って発表したコンセプトマップを中心に授業を進めたこともあり,まとめもこれで行くことにした。

 具体的には,グループで「この授業全体のコンセプトマップ」を作ってくることにして,全グループに発表してもらったのだ。「この授業全体のコンセプトマップ」を作るというアイディアも,全グループが同じテーマで発表をするというのも,近畿大学の山口先生の授業からいただいたものなのだが。

 当初の予定では,各グループとも1分で発表し,フロアの学生は評価をつけ,グループ毎に評価をまとめて集計する予定だったのだが,これではかなりタイトなスケジュールになるだろうと考えて,その場でグループごとに評価を集計するのはヤメにした。その代わり,各グループの発表時間を1〜2分と延ばし,各個人でだけ評価をしてもらうことにした(最後にグループリーダーに集計用紙を渡したので,集計は次回の授業までにはできるようになっている)。

 前回,この授業の予告をするときに,「この授業の縦糸はスキーマだから,できるだけスキーマと関連づけてマップを作ってね」とお願いした。あと,この授業で扱ったトピックは10テーマあるので,それらを適当に並べるだけで,マップはできるので,グループによってさほどマップに違いはないんじゃないかなあと思っていた。が,実際には,どのグループもかなり異なるマップを作って持ってきていた。学生も意見書に書いていたのだが,同じ授業を受けても,その受け取り方やまとめ方は,本当に人それぞれであることがわかった。これを私のやり方で私だけがまとめていたら,学生によっては素直に内容が入ってこないまとめになっていたかもしれないなあと思う。

 発表会の基本的な流れは,1〜2分のマップ発表−フロアの学生の個人評価(1分程度)とした。発表時間は事前に1分と伝えていたこともあり,どのグループも順調に発表は進み,予定よりも早く発表会を終えることができた。

 全部の発表が終わった後で,私もマップを作ったのでそれを説明し,「今日の授業の目的は,みんなが自分なりに授業をふり返ってまとめることなので,準備段階でもう目的の半分は達成されているはず」というようなことを少し述べ,最終課題(個人レポート)の告知をし,授業評価アンケートを配布して授業は終了した。

 これははじめての試みだったので,反省点もある。一つは,発表後の個人評価の部分が「黙々」と行うような感じになってしまったということだ。授業中にはふと思いついて,そのグループの発表やマップの特徴を私のほうで簡単にまとめて話す,という「解説」めいたことをはさんでみた。これはこれで悪くなかったのだが,時間的には余裕があったので,グループ内で評価内容や理由を簡単にシェアしてもらってもよかったかもしれない。あと,各グループの発表には,それぞれ特徴があったので,発表の最初に,「うちはこんな点に注目してマップを作ってみた」というようなウリを強調してから発表に胚ってもらってもよかったかもしれない。次年度は考えてみよう。

■『新編教えるということ』(大村はま 1996 ちくま学芸文庫 ISBN:4480082875 \840)

2005/07/10(日)
〜専門家としての教師〜

 大村はまさんの講演を文章化したもの。筆者の考え方にははじめて接したが、筆者は、専門家としての教師というものをとても重視しているようである。たとえば教室は教える場所であって、家でやってきた宿題を検査する場ではない、という考えであるとか、教室を魅力的な場所にする(=「どの子にも確かな成長感があること」(p.165))とか。

 このような考えから、筆者はいくつもの言葉を禁句としてあげている。「(家で教科書を)読んできたか」とか、「わかりましたか」とか、「やってごらん」「できたか」とか。それでもついいいそうになるようで、「私は「わかりましたか」ということばを口から出すまいと思って指をしばっておいた」(p.100-101)ことがあるのだという。それが禁句である理由は、「わかりました」という返事だけを期待して聞くから、ということのようで、それなら、わからないときはわからないと言える子どもを育てる、というやり方もあるような気はするのだが。

 筆者のいう専門家とは、「そのとき、育てようとねらう力によって、対象と生徒を見つめながら、さまざまな方法で教えることができる」(p.142)とか、(うまく読めない子どもの)「読む病気をどんどん発見して手当てをすること、あの子にどうするかという案をたてて、それぞれの指導をすること」(p.42)というようなイメージのようである。これは私も大賛成で、さまざまな手立てを持っていてこそ専門家だろうと私も思う。

 あと私にとって興味深かったのは、話し合いの授業についての考え方。うまくいかなかったときのことを、筆者は次のように語っている。

ほんとうに発言が偏って少なく、多くの子どもが話す内容もなく、したがって意欲もない、沈滞した空気になったのでしたら、それは、話し合いの事前の指導の失敗です。話したいことを、ひとりひとりにもたせられなかったということです。あるいは、その話し合いの準備の時間がはじめからなかったのかもしれません。(p.209)

 話し合いに関してはこれぐらいしか述べられていないが、基本的には作文の教育と同じのようである。書けないのは(教師の)事前準備の失敗という。そうならない具体例は本書に挙げられている。たとえば、子どもにとって興味深い話を先生が話してあげて、話の途中の適当なところで切って続きを書かせるとか。ここには、題材選択、切る場所の選択など、教師の専門性を発揮できる場所がいくらでもある。話し合い学習もまったく同じで、題材選択や、問いの投げかけ方など、いくつもの工夫場所があるのだろう。そのように捉えれば、本書に書かれている考えや実践例は、大学教育にも役立つ部分が含まれているように思う。

 もう一つ。筆者はよく、「こどもというのは、「身の程知らずに伸びたい人」のことだと思う」(p.27)と何箇所かで書いている。いくつであっても、伸びたくて伸びたくてたまらない、一歩でも前進したくてたまらないのが子どもだ、というわけである。筆者のこの考えは、終戦後最初の授業で、子どもが騒いでどうしようもなかったときに、新聞や雑誌から教材を作って子どもに渡したところ、「食いつくように勉強し始めた」(p.76)という経験から来ているようである。このような原風景をもつことは、教師にとってとても大事なことだろうと思う。またこの考えは、村井実氏のいう、「すべての子どもたちは"善く"なろうとしている」(『新・教育学のすすめ』)というのと、同じ考えだろう。私にはどちらかというと、筆者の言い方のほうがわかりやすい。でもお陰で、村井氏の言うことの意味が、多少なりともわかったような気がするのも本書の収穫であった。

■『新・教育学のすすめ』(村井実 1978 小学館 ISBN:4098200228 \1,325)

2005/07/05(火)
〜いい授業とは〜

 村井氏の著作を読むのは、『もうひとつの教育』に次いで2冊目なのだが、本書もなかなか興味深い本であった。興味深い本ではあったのだが、理解が「なんとなく」のレベルにあるような気がするので、自分のために、内容を整理してみる。

 本書はタイトルどおり「新・教育学」についての本である。新・教育学とは何か。その意図するところを、筆者は次の3点にまとめている。

  1. 学校というものが、歴史上不断に人間に与えてきた、また今後も当然にそうしつづけることを期待されている「最善のもの」、人間への「最高の贈りもの」ともいうべきものは何であるか、を明らかにすること。〔中略〕
  2. あわせて、現代の学校が、その「最善のもの」、「最高の贈りもの」をいかに見失っているか、子どもの観方、取り扱い方、授業の進め方、学校の運営等においていかにゆがんだ考え方に支配されているかを明らかにすること。〔中略〕
  3. 学校におけるこうした「最善のもの」、「最高の贈りもの」の自覚のうえに立ったばあい、学校での授業、生活指導、学校経営、学校行政等が当然どうあるべきか、現在の実情に比してどう変化すべきか、をできるだけ明らかにすること。(p.16-17)

 1点目に挙げられている、学校にあるはずの「最善のもの」、「最高の贈りもの」は、2点目にも3点目にも出てくる、重要な概念だと思うのだが、しかしこれについては、あまり詳しくは述べられていないようである。もっとも明確に述べられている箇所としては、「学校が私たちに贈ってくれる「最善のもの」、「最高の贈りもの」は〔中略〕一口にいえば、学校というのは、人間として善く生きるためのもっとも基本的な経験を与えてくれる、私たちにとってのかけがえのない場所なのだということ」(p.8)というものがある。上に挙げた3点は「本書の」意図ではなく「新・教育学」の意図ということなので、この点を明らかにすることは、今後の課題ということであろうか。

 2点目に挙げられている「ゆがんだ考え方」(子どもの観方、取り扱い方)については、筆者自身の考え方との対比で、次のように述べられている。

私の理論の根本は、「すべての子どもたちは"善く"なろうとしている」という子ども観です。これに対して、現代の学校というのは、明らかにこれと異なった子ども観、つまり、「すべての子どもたちはカリキュラムどおりに学ばなければならない──そうでなければ本来ダメなもの、それが子どもというものである」という、いわば子ども不信の子ども観の上に成り立っているといえます。(p.86)

 その「子ども不信の子ども観」の表れとして筆者が指摘するのが、「症状主義」である。症状主義とは、「風邪を引かせる」という例でいうならば、風邪の諸症状(熱、頭痛、ダルサ)を個別に引き起こすことにやっきになるようなことである(この「風邪ひかせのヤブ医者」の話は、『「学び」の構造』(佐伯胖)に出てくる話である。同じ佐伯氏の『考えることの教育』に出てくる「結果マネと原因マネ」の話もおそらく同じことであろう)。しかし風邪の諸症状は、その根本にある風邪のビールス(風邪キン)の働きから来るものである。教育に関していうならば、人が本来「善くなろうとする」という性質(「善さキン」)を持っていることを無視して、それとは無関係に「善さ」の諸症状(指導要領に列挙されているような事柄)を引き起こそうとしているのが、現在の教育であるという。筆者の説明のお陰で、以前はよく理解できていなかった佐伯氏の話が理解できたような気がする。と同時に、いかに教育において、症状主義が蔓延しているかについて、改めて考えさせられた。

 そして上記3番目(学校が当然どうあるべきか)についてである。これについて筆者が最も簡潔に述べているのは、「学校というところは、子どもの"善くなろう"としている構造を確かに把えておいて、その成長にいちばんふさわしい文化をぶっつけ、それに出会わせてやるところだ」(p.186)というところのようである。要はそういうことのようであるが、もう少し詳しく述べている箇所を引用しておこう。

その「善さ」はけっしてはじめから子どもの中にあるわけではありません。〔中略〕子どもはただ「善く」なろうとしているだけです。それを「善さ」に変えるために「教科」が使われます。「文化」というのは、「善く」なろうとする人間がつくり出したものであり、その意味で「善いもの」といえます。子どもたちもいずれこの「文化」をつくり出していくのですが、まず過去に作られた文化を手がかりにする必要があります。だから、それを「教科」として、それをもって先生が子どもに働きかけることになるのです。(p.156)

 これについて私がとやかく言うほど理解しているとはいえないが、「文化に出会わせる」「文化をつくり出す」というあたりが重要なのではないかという気がする。このほかにも筆者は、よい授業について、「子どもたちがすべて「もっと善くなりたい」と思って時間が終わったのでしたら、やはりそれがいい授業」(p.192)と述べていていたり、教材については、「あらゆる教科の教材というものが、こうして「善くなろう」とする子どもたちとの「出会い」の材料として選ばれ、整えられる」(p.219)と述べている。

 本書に書かれているのは、けっして具体的な話ではないのだが(かといってけっして読みにくい本ではないのだが)、学校や教育について、あるいは人間について、大局的に考えていく上で、重要なヒントが含まれているような気がする。


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