読書と日々の記録2005.07下

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■読書記録: 31日短評10冊 25日『世界の大学危機』 20日『内なる目』
■日々記録: 31日試験とか人間ドックとか 25日【授業】教育心理学・レポート発表会 21日【授業】心の科学・まとめ

■今月の読書生活

2005/07/31(日)

 ああ、自転車操業の日々だった。ようやくそれも終わりそうだけど。

 今月良かった本は、『新・教育学のすすめ』(なるほど善くなろうとしている子どもね)、『新編教えるということ』(なるほど実践家の言葉には迫力がある)、『内なる目』(なるほど意識と他者理解ね)、というところか。

『「行政」を変える!』(村尾信尚 2004 講談社現代新書 ISBN: 4061497340 \735)

 元大蔵省官僚にして、三重県の行政改革に携わった人の本。改革のための方向性は『知事が日本を変える』にあるようなものと基本的には同じで、「情報の公開」「分かりやすい説明」「サービスの選択」と筆者は述べている(p.101)。本書はそれ以外にも、改革という観点から興味深い内容が多かった。たとえば「公務員文化を破壊するのは情報公開」(p.20)という筆者(と三重県)の経験の話、「改革をやるときは少人数で作戦を立て、あとは一気呵成に実行するのだ」(p.55)というニュージーランドの行革担当者のセリフ、納税者の見えるところで議論するということ、などである。あと、上の「サービスの選択」とは、要するに市場メカニズムを導入するということなのだが、市場メカニズムの問題点はよく指摘される。しかし筆者が市場メカニズムを重視するのは、単なる効率重視ではないそうである。「市場メカニズムとは、うまく機能すれば、消費者主権を実現するもの」(p.205)と筆者は考えており、なるほどと思った。

『発達心理学入門』(岡本夏木・浜田寿美男 1995 岩波書店 ISBN: 4000039334 \1900)

 再読。やっぱり浜田氏担当部分は興味深い。今回注目を引いたのは次の記述。「人は、自らの身体をとおして他者と共同の世界を生き、それぞれに意味の世界をふくらませて、それを他者と交わす。その日々の流れのなかで明日を展望し、何かを希望し、また何かに絶望する。そんな人間のありのままの姿を語るのが心理学であり、そうした心性の構造の成り立ちを追うのが発達心理学だと言えば、あまりにも荒唐無稽でしょうか。」(p.232) いや、荒唐無稽ではないと思う。もちろんそれは心理学の定義によるわけだが。私はこの記述にあるようなものが心理学だと思うし、そういう心理学を見てみたい(あるいはやってみたい)と思う。そのときそれがどういう意味で、どのような心理学といえるのかについては、まだよくわからないのだが。

『目撃証言の心理学』(厳島・仲・原 2003 北大路書房 ISBN: 4762823279 ¥2,310)

 目撃証言に関する基礎的かつ幅広に入門書。目撃証言に関することについて,かなり網羅的に知ることができる。目撃証言に影響を与える要因としては,知覚,注意,情動,ストレス,社会的要因,事後情報や質問,年齢,面接法などがあり,心理学の幅広い分野と関連していることがよくわかった。ひょっとしたら,心理学概論の授業で毎回触れることも可能かもしれない,なんて思ったりした。次は個々の研究をきちんと知る必要があるなあ,と思った。

『ころりん─楽知ん絵本』(島野・小出・宮地 2003 仮説社 ISBN: 4773501669 \1,890)

 岩瀬先生のページで紹介されていた本。というか岩瀬先生は、この授業を、授業はじめの定番にしているのだそうだ(2005.4.12)。内容は、ものが転がることについての仮説実験授業である。確かに楽しそうな内容だった。読み物としても面白く作られていたし。問題は7問で、チャレンジ問題とかオマケ問題が3問ついている。これならあまり時間がかからないので、大学でも授業の最初とかにちょっとできそうな気がした。

『平均順位偏差値―データに負けるな』(吉村功 1984 岩波ジュニア新書 ISBN: 400500072X ¥557)

 本書は、かつて2度ほど注文して品切れのために手に入らない本だったので、マケプレにて購入した。当時、どうしてこの本が欲しかったのか、実は理由は定かではないのだが(何かの本に参考文献として挙げられていたのだろうとは思うのだが)。内容は統計の話で、扱われている内容もタイトルどおり平均、順位、偏差値が主(確率なども扱われている)で、平易な内容ではある。しかし、「計量化によって数値で表せるのは、多くの場合、ものごとの一側面だけ」(p.23)とか、平均値は集団を代表しても、集団メンバー一人一人を代表するものではないとか、データの解釈は他の可能性を吟味してはじめて結論づけられる、なんてことが強調されている。このあたり、大学生やそれ以上でも十分理解していないことが少なくないように思う。そういう意味では、平易ながらもなかなか悪くない本であった。実際のところは、こういうことがちゃんと身につくためには、多数の例を畳み掛けるように示したり、それなりにトレーニングすることが必要な気はするのだが。

『「政治家」無用論』(橋本大二郎 1995 講談社 ISBN: 406207768X ¥1,529)

 高知県知事である筆者が,知事在職3年目に書いた本。橋本知事の本は『知事』『知事が日本を変える』を読んでいる。内容は必ずしも重なってはないものの、基本的なスタンスは変わらないので、取り立てて目新しい話があるわけではない(かといってつまらないわけではないのだけれど)。強いて言うならば本書では、他の政治家についての話題が随所に触れられており、そういう部分は興味深かった。

『風雲児 織田信長』(日本放送協会 (編) 1988 日本放送出版協会新書 ISBN: 4140180021 ¥714)

 NHK「歴史への招待」の織田信長関連を再編集した新書本。通常の歴史解説本と違い、歴史の新解釈的な部分もある。私は特に、信長の性格的な部分に注目してみた。戦略に関しては彼は、「あらかじめ周到な準備をして罠を設けおびきよせて叩くシナリオ戦法を重視」(p.35)したそうで、極めて計画的、統制的な戦略だったようだ。信長といえば極めて専制的な人物というイメージがあるが、「側近はいわゆる人間味のある人として慕っていた人たちもいる。つまり日常生活では必ずしも冷酷でも非常でもない」(p.69)なんていう話もある。また専制的になったのは信長の性格的な部分もあるのだろうが、それだけではなさそうである。たとえば上杉謙信の場合の兵隊は農民でもあるわけで、「自分の耕している土地があって、侍であると同時に農民でもあるわけですから、刈り入れ時になると、さっさと帰る」(p.124)。しかし信長の場合は兵農分離で、専門の武士団が城下に生活しており、信長がいやでも帰る土地がない。そのために専制的に振舞いうる状況があったようだ。あと、明智光秀が天下を取れなかったのは秀吉があまりにも早く中国から引き返してきたから、というのも面白い。主君を殺した光秀の評価には2つがありうる。「あの冷酷無残な魔王のような信長をよくぞころしてくれ〔中略〕、今までの恐怖感からわれわれを解放してくれた光秀は偉大な人物」(p.171)というものと、主君殺しの大悪人というものである。前者のイメージでコンセンサスを固める時間がなかったのが光秀の不幸、というわけである。上に書いた話はどれも、信長を(あるいは人間を)一面的に評価することはできない、という例として興味深いと思った。

『よくない治療、ダメな医者から逃れるヒント』(近藤誠 2003 講談社プラスアルファ文庫 ISBN: 4062567075 ¥882)

 近藤氏の著作(というか考え方)って賛否両論ある、という印象だったのだが、本書で初めて氏の考え方に接してみて、かなり論理的に丁寧に論を進める人である、という印象を得た。本書の内容はタイトルどおりで、とても興味深かったのだが、同時に医療や医療に関する情報の怖さを感じる本であった。「よくない治療、ダメな医者から逃れるヒント」として、「医者のあいだでの評判というものは、噂ないし風評と考えておいた方がいい」(p.49)とか、メディアの情報は当てにならない、と書かれている。結局は、証拠に基づいて、自分で考えて判断しなければいけない、ということのようである。しかし証拠となりうる事柄は、あちらこちらに転がっている。薬の使い方に着目する、というのも一つの観点であるし、患者の質問に対する「態度の悪い医者はたいてい腕も悪い」(p.132)として質問リストが本書には挙げられていたりする。態度や人柄は、特に慢性病の場合に重要な要素になってくるとか、素人でも医者に根拠論文を要求することから始めることで、EBMを実践することができるなど、なるほどと思えるようなヒントが多数書かれていた。

『交換の民族誌─あるいは犬好きのための人類学入門』(中川敏 1992 世界思想社 ISBN: 4790704297 \1,712)

 『異文化の語り方』の著者による文化人類学入門書。サブタイトルの「犬好き」とは、「民族誌的事実を好む類の人類学者」のことのようである。本書よりも私は、猫(理論)の話のほうが面白かった。本書の中の記述でも、ナルホドと思うような部分があるにはあったのだが、前著ほどの興奮はなかった。ナルホドと思った部分としては、「人類学への入門とは、決して専門用語や学説史を学ぶことにあるのではなく、人類学的に考えることを学ぶことにある」(p.3)とか、「それぞれの群にとっての正統性をあらわす文章が異なっている、お互いに両立しない文章群であるとき、この二つの文章群を二つの「文化」とよぶ」(p.84)とか。文化については、実に簡潔で明瞭な定義であると感じた。やっぱり私が着目するのは理論的な部分だな。

『逆想の小論文』(川崎雅美 ? ライオン社 ISBN: 4844035223 \945)

 「どのように」ではなく「何を」書くかに焦点を当てた小論文の本。発想は面白いのだが、筆者の考えには疑問を抱く箇所が少なからずあった。たとえば自我同一性の形成に関して、「ほとんどの日本人がこのプロセスを経験していない」(p.41)というような。かなりステレオタイプ的かつ欧米至上主義的というか。そういう点に気をつけて読むのであれば悪くない本なのかもしれないけれど。

試験とか人間ドックとか

2005/07/31(日)

 ちょっと余裕が出てきたので(←ホントか?)、久々の日常雑記。

2005/07/29(金)
 試験の採点をしていると、次の授業のアイディアが沸いてくる。今回考えたのは、授業と試験を対応させるというもの。試験で4つのポイントを要求するのであれば、毎時間の授業でもその4ポイントを明示的に扱ったらどうかと思う。しかも、それを私の口から言ってしまったら、どのぐらい理解され定着するかはわからない。そこにグループの話し合いを入れたらどうだろう。なんてことを考えた。
2005/07/30(土)
 1年ぶりの人間ドック。尿酸値が上がっていた(「医者へ行け」レベルではなかったが)。医者が言うには、尿酸値が上がる原因はだいたい2つ。アルコールか肉類だそうである。あと納豆もプリン体が多いそうだ。プチ飲食制限するか?
2005/07/31(日)
 昨日はバリウムが出なくて焦った。いつもは夕方ごろまでには出るのに。ネットで検索すると、コーヒーやお茶を飲むのはあまりよくない、なんて書いてあるし(牛乳がいいらしい)。暗い気持ちで床についた(こちら参照)。今朝は出たので一安心だったが。

■『世界の大学危機─新しい大学像を求めて』(潮木守一 2004 中公新書ISBN: 4121017641 \819)

2005/07/25(月)
〜一種類ではない大学〜

 この著者の本は、『アメリカの大学』『キャンパスの生態誌』に次いで3冊目だ。本書には、イギリス、ドイツ、フランス、アメリカの大学の歴史が扱われている。これまでに読んだ本にもアメリカとドイツの大学は扱われており、その点に関しては重複もあったが、イギリスとフランスについての話は初めてだったし、重複部分も、やっぱり興味深い。

 たとえばイギリスの大学でいうと、オックスフォードやケンブリッジは、「聖職者の養成機関であり、貴族階級、地主階級の後継者の養成機関」(p.8)であった。大学はそのようなごく一部の人々だけが利用する場所であり、農民や職人、商人、工場関係者にはまったく無縁の存在であった。それは、「イギリスの産業革命は、オックスフォードやケンブリッジとは無関係なところで発生し、発展を遂げた」(p.6)という事実にも表れている。そのほかにも、イギリスに存在する「反知的雰囲気」的「反大学感情」、なんていう話もあり、興味深かった。1960年代から1970年代、景気停滞し失業率上昇しているときに政府が大学にお金を出しており、しかも当の大学では学生が過激なデモをしていたりして、彼らを税金で養う筆世があるのか、と納税者が反感を抱くという話である(それが後のエージェンシー制につながるのであろう)。

 なぜ大学生はデモなんかをして騒ぐのか。これは私にとって長年の謎だったのだが、筆者は、「血気溢れる若者が、大量に一か所に集まる社会組織」(p.119)だから、と考察している(近代国家でそういう場所を提供しているのは、大学と軍隊だけである)。それは、「就職したくとも、それができなかった青年層のセカンド・チョイスの場」(p.119)であり、欲求不満を溜めているのと同時に、まとまって大きな力を持ちやすい、ということだろう。このような、「就職できなかったがためのセカンド・チョイスとしての大学」、「労働の代替物としての学習」は、現在の日本でも生まれている。そのために必要になってくるのが大学改革、カリキュラム改革といえる。こういう認識は必要だろう。

 筆者の本が興味深いのは、われわれ(というか私)が、「「大学は一種類」という思い込み」(p.220)をどこかに持っているからだろう。しかし筆者は、そのような思い込みは通用しない、と述べている。筆者の本を読めば、全ての大学が必ずしも、研究の場ではないこと、勉学の場でさえないこと、学位が品質保証されたものではないこと、開かれた場所ではないこと、行くことに意味がある場所ではないこと、などがよくわかる。このような思い込みを解毒するために、よその国を知り、過去を知ることができるのが、筆者の一連の著書であると思う。

■【授業】教育心理学・レポート発表会

2005/07/25(月)

 教職科目,教育心理学の最終回。例年は,学生にレポートを出してもらって終わりにしている(近畿大学の山口先生を真似て,「テストに代わるレポート」と題して,テストのように,この時間内にレポートを提出し終わることにしているのである)。

 しかし,2月に集中講義で早稲田大学の向後先生が来たときに,「最終回をテストやレポートにすると,黙々と書いて出して終わってしまう。そうじゃなくて,発表かなにかをしてもらって,パーッと終わりたい」というようなことをおっしゃっていた。それで,それをまねすることにして,「希望者は書いたレポートを皆の前で5分ぐらいで発表していいよ。発表によっては,1回分ぐらいの欠席を帳消しにするよ。メールで連絡してね」とあらかじめ言っておいた。レポート内容を皆の前でプレゼンしてもらおうというわけである。

 ところが,授業直前まで,希望者が現れない(様子見に来た学生は2名いたのだが)。かといって,その他の欠席代替レポート(別に2種類出しておいた)の提出者も5人と少なかった。この授業を複数回休んだ学生は15人いたというのに。これでは少ないし,何もなしで終わるのもなあと思ったので,その場で「誰か発表しない?」と募った。

 すると,女子学生が3名手を挙げてくれ,また,彼女らの発表が終わってからまた募ると,ポツリポツリとではあるが,結局,合計6名の学生が発表してくれた。レポートには,自分の体験を教育心理学のテーマと結び付けて発表してもらうことになっていたのだが,どの学生の体験も,興味深いものであった。

 もうそれ以上の発表希望者は出なかったので,ちょっと私がまとめてから,終業30分ぐらい前に授業を終了した。最後に発表してもらうというのは,授業の復習にもなるし,また他人の体験や分析を聞くことができるので,なかなか悪くない形式ではないかと思った。次年度はもう少し発表希望者が出るように工夫できるといいのだけれど。

 ちなみに今日の進行は以下の通り。

  1. 前回のコンセプトマップ発表会の高得点グループの紹介(立ってもらい,拍手を送った)
  2. オプションレポートの回収(これが5名しか出なかった)
  3. グループ毎に最終レポートをまとめて出してもらい,質問書を返却
  4. 授業のまとめ(この授業では深く狭くを狙ったので,あとは自分で疑問をもちながら考えたり調べたりしてほしい)
  5. レポート発表者募集
  6. 希望者によるレポート発表(一人6分以上かかっていた)
  7. 最後のまとめ(この授業は,自分の経験や授業を分析して見ることを主眼にした。来年以降,教育実習に行くと,それがぜんぜん通用しない体験をするかもしれない。しかしその前に,ある程度の目を養っておくことは大事なことだと思う)

 志ある学生に助けられて,なんとか形になったというところか。

【授業】心の科学・まとめ

2005/07/21(木)

 共通教育科目「心の科学」の講義としては最終回。ここまで,昨年同様,この授業全体を貫く縦糸として,心理学がデータ(実験,調査,事例など)にもとづく実証科学であること,「心の仕組み」が適応的なものであるものの時としてそれが裏目に出て不適応(錯覚,思い違いなど)を引き起こすことがあることの2点を意識して授業を行ってきた。

 ところが前回の授業(記憶の変容)に対する意見として,「経験したことをその通りに思い出せずに,その上,間違った記憶を作ってしまうのも適応的なのでしょうか?」というものが出されていた。そういえば「適応/不適応」に関しては,昨年のテストでも十分な理解を示している人はさほど多くなかった。そこで今日は,この点を重点的に授業することにした。

 まず,上記の問いに対する答えが「適応メカニズムの誤作動」であると軽く説明した。日常的な環境の中では適応的に働くものが,想定外の環境や状況に出会うとうまく働かなくなり,結果的に錯覚や錯誤などを引き起こす,ということである。また,この授業の主旨や達成目標も復習した。ここには当然「適応」ということが出てくる。そこで,学生たちに課題を出した。

 受講生は,半期の授業中1回は指名されてレポートを提出している。そこで,自分が指名されてレポートを提出した回のトピックに関して,「その回のトピックは,適応/不適応とどのような関係にありますか?」と問うたのだ。これを10分弱ほど考えて書いてもらったあと,どのぐらいうまくかけたかを5段階で自己評価させ,挙手して出来具合を見た。5(よく書けた)も1(ぜんぜん書けなかった)もいなかったが,学生たちはあまり自信なさそうである。そこで,グループワークを入れることにした。

 まず座席を移動して,トピックごとに固まって座ってもらい,他の人と考えを見せ合い,どう考えたらいいかを話し合ってもらったのだ。始動は遅かったが,多くの人はそれなりに話し合っているようだった。それでも動きが鈍い人がいる。それで,机間巡視をして,隣近所とあまり交流していなさそうな人を当て,考えをまとめて板書してもらうことにした。板書に至るまでもちょっと動きは鈍かったので,「指名された人は立って」というと,ゾロゾロと前に出てきて板書を始めた。今まであんまりやらなかった形態なので戸惑っていたんだろう。

 板書しているのを見ると,結構長く書いていたので,今度は各トピックごとに別の人を一人ずつ指名し,板書されている中で重要なポイントにアンダーラインを引いてもらった。それが出揃ってから,全トピックについて,私が内容を確認していった。どれもそれなりに,各トピックと適応/不適応の関係を把握しているようで,安心した。

 次週のテストでは,自分が指名されてレポートを書いた回以外から解答するよう指示しているので,ここで板書されたことを理解することは,テスト対策となる。そういう話をし,授業評価をしてもらって,授業を終了した。

 授業の最後の回に席を移動してグループワーク(というか隣近所との話し合い)をしようと思いついたときは,うまくいくかどうか心配だったのだが,それなりにやってくれて,悪くない結果も出してくれたので,授業としてはよかったのではないかと思っている。ちなみに大福帳に今日の内容について書いた人は2名いたが,1名は肯定的,1名は否定的な意見だった。否定的な意見の人がいることを想定して,こういうことをすることの意義をもう少し説明すべきだったかもしれない。また,次年度はこういう試みを学期途中にも何回か入れるといいかも,と思った。

■『内なる目─意識の進化論』(N. ハンフリー 1986/1993 紀伊国屋書店 ISBN: 4314006048 \1,835)

2005/07/20(水)
〜他者理解と不理解〜

 サブタイトルどおり、意識の進化について論じた本。『心の先史時代』に引用されていたので読んでみた。『心の先史時代』ほど壮大な話ではなかったが、なかなか興味深い本であった。

 筆者が考える意識の意味とは、「自分自身や他人の内側からの理解を可能にすること」(p.11)であり、本書の主張はそのことに尽きるといっても過言ではない。筆者はこのことを、ゴリラの生態を研究する中で思いついている。ゴリラは、非常に大きな脳を持っており、難しい概念パズルを解いたり、機械を記号によって使いこなすことができるなど、高い知能を持っている。しかし森の中のゴリラをいくら見ても、「頭がいいなという印象を受けるような行動をしているのを見たことは一度も」(p.44)ないのである。しかしゴリラが、「安定した社会集団を生み出し、維持する」(p.46)ためにその知能を使っていると考えれば、そのことは説明がつく。このことは、古い生活様式を現在も維持しているブッシュマンの観察から言えるようである。そのことを筆者は次のように書いている。

彼らは一見したところ何もせず、だらだらとお喋りをして時間をすごすことがある。しかし、社会への順応のために費やされるこの時間は、野外で狩や採集に費やされる時間と同じように、彼らの生存にとって決定的な役割を果たしている。なぜなら、ブッシュマン社会の基本的な骨組みが決定され、もし必要あれば修復されるのは、キャンプの火のまわりにおいてだからである。(p.54)

 このくだりは、「声の文化」における知性のことを言っているようで、私にはとても興味深く思えた。

 筆者は意識が「他人の内側からの理解を可能にする」であることを、中に入ったことのない家を外から理解することになぞらえている。たとえば煙突から煙が出ているのを見れば、自分の家での経験から、それが暖炉の火であることを推測できるのである。それと同じように、自分の内面における経験を通して、他人の内面を推測し理解する。それが意識なのであり、人間を他の動物とは異なるものにした原動力といえるのである。このたとえは,意識の意味や役目を説明する実にうまいたとえであると思った。

 このような意識(=内なる目)をもつことによって、人間は他の動物とは異なるものになっている。そのことを象徴的に表すこととして、筆者は次のように述べている。

意識は最初の人間の家族を、最初の友情をつくり、シェイクスピアやディケンズを生み、……そして海軍新兵訓練所(ブート・キャンプ)、マディソン街、ヴァチカン公会議、そしてKGBをつくったのだ。

 ここにはたくさんのことが書かれている。意識と芸術(シェイクスピアやディケンズ)についていうならば、他人の内面の理解は、基本的には「感情移入」によって行われる(そういえば浜田寿美男氏もそういうことを書いていたような気がする)。しかし感情移入が可能になるためには、自分にも同じ経験がなければならない。では自分で経験したことがないことはまったく理解できないかというとそうではない。それと関わるような代理経験があれば、理解は可能である。そのような理解を助けるものとして、筆者は、遊び、夢、書物、芝居、音楽、絵画、映画を挙げている。つまり芸術(これ自体も意識の産物なのだが)は、意識がうまく機能することを助けるものなのである。芸術だけでなく、夢も遊びもそうだという考えは興味深い。

 次に、上の引用の後半、特に海軍新兵訓練所についてである。今まで述べられてきた話とは違い、海軍新兵訓練所では他人の内面を理解しない兵隊がつくられる。どうしてそういうことが起きるかというと、それも意識のなせるわざなのである。そのことを筆者は、「私たちの他者理解がこの想像力による再構成という仲介的なはたらきを必要とするというまさにその事実が、誤りの余地をつくりだす」(p.181)と述べている。つまり、想像力によって、非道行為を「私」が「私の行為」として私と同じような「あなた」に対して行うのではない、ということにしてしまえば、相手を理解し感情移入することなく、機械的に他人に非道なことを行うことが可能になるのである。このように、我々の他者「不」理解も意識あるがゆえのことなのである。

 もちろんこれは戦争行為だけの話ではない。医者や弁護士やジャーナリストや警察などが、場合によっては他人をぞんざいに扱うことができるのも、まったく同じ理由によるということができる。それを考えると、「意識」問題は、「理解/不理解」であるとか、失敗学などにも通じる、重要な問題である。そのことを本書によって気づかされた。そういう点で興味深い本であった。


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