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ああ、自転車操業の日々だった。ようやくそれも終わりそうだけど。
今月良かった本は、『新・教育学のすすめ』(なるほど善くなろうとしている子どもね)、『新編教えるということ』(なるほど実践家の言葉には迫力がある)、『内なる目』(なるほど意識と他者理解ね)、というところか。
ちょっと余裕が出てきたので(←ホントか?)、久々の日常雑記。
この著者の本は、『アメリカの大学』、『キャンパスの生態誌』に次いで3冊目だ。本書には、イギリス、ドイツ、フランス、アメリカの大学の歴史が扱われている。これまでに読んだ本にもアメリカとドイツの大学は扱われており、その点に関しては重複もあったが、イギリスとフランスについての話は初めてだったし、重複部分も、やっぱり興味深い。
たとえばイギリスの大学でいうと、オックスフォードやケンブリッジは、「聖職者の養成機関であり、貴族階級、地主階級の後継者の養成機関」(p.8)であった。大学はそのようなごく一部の人々だけが利用する場所であり、農民や職人、商人、工場関係者にはまったく無縁の存在であった。それは、「イギリスの産業革命は、オックスフォードやケンブリッジとは無関係なところで発生し、発展を遂げた」(p.6)という事実にも表れている。そのほかにも、イギリスに存在する「反知的雰囲気」的「反大学感情」、なんていう話もあり、興味深かった。1960年代から1970年代、景気停滞し失業率上昇しているときに政府が大学にお金を出しており、しかも当の大学では学生が過激なデモをしていたりして、彼らを税金で養う筆世があるのか、と納税者が反感を抱くという話である(それが後のエージェンシー制につながるのであろう)。
なぜ大学生はデモなんかをして騒ぐのか。これは私にとって長年の謎だったのだが、筆者は、「血気溢れる若者が、大量に一か所に集まる社会組織」(p.119)だから、と考察している(近代国家でそういう場所を提供しているのは、大学と軍隊だけである)。それは、「就職したくとも、それができなかった青年層のセカンド・チョイスの場」(p.119)であり、欲求不満を溜めているのと同時に、まとまって大きな力を持ちやすい、ということだろう。このような、「就職できなかったがためのセカンド・チョイスとしての大学」、「労働の代替物としての学習」は、現在の日本でも生まれている。そのために必要になってくるのが大学改革、カリキュラム改革といえる。こういう認識は必要だろう。
筆者の本が興味深いのは、われわれ(というか私)が、「「大学は一種類」という思い込み」(p.220)をどこかに持っているからだろう。しかし筆者は、そのような思い込みは通用しない、と述べている。筆者の本を読めば、全ての大学が必ずしも、研究の場ではないこと、勉学の場でさえないこと、学位が品質保証されたものではないこと、開かれた場所ではないこと、行くことに意味がある場所ではないこと、などがよくわかる。このような思い込みを解毒するために、よその国を知り、過去を知ることができるのが、筆者の一連の著書であると思う。
教職科目,教育心理学の最終回。例年は,学生にレポートを出してもらって終わりにしている(近畿大学の山口先生を真似て,「テストに代わるレポート」と題して,テストのように,この時間内にレポートを提出し終わることにしているのである)。
しかし,2月に集中講義で早稲田大学の向後先生が来たときに,「最終回をテストやレポートにすると,黙々と書いて出して終わってしまう。そうじゃなくて,発表かなにかをしてもらって,パーッと終わりたい」というようなことをおっしゃっていた。それで,それをまねすることにして,「希望者は書いたレポートを皆の前で5分ぐらいで発表していいよ。発表によっては,1回分ぐらいの欠席を帳消しにするよ。メールで連絡してね」とあらかじめ言っておいた。レポート内容を皆の前でプレゼンしてもらおうというわけである。
ところが,授業直前まで,希望者が現れない(様子見に来た学生は2名いたのだが)。かといって,その他の欠席代替レポート(別に2種類出しておいた)の提出者も5人と少なかった。この授業を複数回休んだ学生は15人いたというのに。これでは少ないし,何もなしで終わるのもなあと思ったので,その場で「誰か発表しない?」と募った。
すると,女子学生が3名手を挙げてくれ,また,彼女らの発表が終わってからまた募ると,ポツリポツリとではあるが,結局,合計6名の学生が発表してくれた。レポートには,自分の体験を教育心理学のテーマと結び付けて発表してもらうことになっていたのだが,どの学生の体験も,興味深いものであった。
もうそれ以上の発表希望者は出なかったので,ちょっと私がまとめてから,終業30分ぐらい前に授業を終了した。最後に発表してもらうというのは,授業の復習にもなるし,また他人の体験や分析を聞くことができるので,なかなか悪くない形式ではないかと思った。次年度はもう少し発表希望者が出るように工夫できるといいのだけれど。
ちなみに今日の進行は以下の通り。
志ある学生に助けられて,なんとか形になったというところか。
共通教育科目「心の科学」の講義としては最終回。ここまで,昨年同様,この授業全体を貫く縦糸として,心理学がデータ(実験,調査,事例など)にもとづく実証科学であること,「心の仕組み」が適応的なものであるものの時としてそれが裏目に出て不適応(錯覚,思い違いなど)を引き起こすことがあることの2点を意識して授業を行ってきた。
ところが前回の授業(記憶の変容)に対する意見として,「経験したことをその通りに思い出せずに,その上,間違った記憶を作ってしまうのも適応的なのでしょうか?」というものが出されていた。そういえば「適応/不適応」に関しては,昨年のテストでも十分な理解を示している人はさほど多くなかった。そこで今日は,この点を重点的に授業することにした。
まず,上記の問いに対する答えが「適応メカニズムの誤作動」であると軽く説明した。日常的な環境の中では適応的に働くものが,想定外の環境や状況に出会うとうまく働かなくなり,結果的に錯覚や錯誤などを引き起こす,ということである。また,この授業の主旨や達成目標も復習した。ここには当然「適応」ということが出てくる。そこで,学生たちに課題を出した。
受講生は,半期の授業中1回は指名されてレポートを提出している。そこで,自分が指名されてレポートを提出した回のトピックに関して,「その回のトピックは,適応/不適応とどのような関係にありますか?」と問うたのだ。これを10分弱ほど考えて書いてもらったあと,どのぐらいうまくかけたかを5段階で自己評価させ,挙手して出来具合を見た。5(よく書けた)も1(ぜんぜん書けなかった)もいなかったが,学生たちはあまり自信なさそうである。そこで,グループワークを入れることにした。
まず座席を移動して,トピックごとに固まって座ってもらい,他の人と考えを見せ合い,どう考えたらいいかを話し合ってもらったのだ。始動は遅かったが,多くの人はそれなりに話し合っているようだった。それでも動きが鈍い人がいる。それで,机間巡視をして,隣近所とあまり交流していなさそうな人を当て,考えをまとめて板書してもらうことにした。板書に至るまでもちょっと動きは鈍かったので,「指名された人は立って」というと,ゾロゾロと前に出てきて板書を始めた。今まであんまりやらなかった形態なので戸惑っていたんだろう。
板書しているのを見ると,結構長く書いていたので,今度は各トピックごとに別の人を一人ずつ指名し,板書されている中で重要なポイントにアンダーラインを引いてもらった。それが出揃ってから,全トピックについて,私が内容を確認していった。どれもそれなりに,各トピックと適応/不適応の関係を把握しているようで,安心した。
次週のテストでは,自分が指名されてレポートを書いた回以外から解答するよう指示しているので,ここで板書されたことを理解することは,テスト対策となる。そういう話をし,授業評価をしてもらって,授業を終了した。
授業の最後の回に席を移動してグループワーク(というか隣近所との話し合い)をしようと思いついたときは,うまくいくかどうか心配だったのだが,それなりにやってくれて,悪くない結果も出してくれたので,授業としてはよかったのではないかと思っている。ちなみに大福帳に今日の内容について書いた人は2名いたが,1名は肯定的,1名は否定的な意見だった。否定的な意見の人がいることを想定して,こういうことをすることの意義をもう少し説明すべきだったかもしれない。また,次年度はこういう試みを学期途中にも何回か入れるといいかも,と思った。
サブタイトルどおり、意識の進化について論じた本。『心の先史時代』に引用されていたので読んでみた。『心の先史時代』ほど壮大な話ではなかったが、なかなか興味深い本であった。
筆者が考える意識の意味とは、「自分自身や他人の内側からの理解を可能にすること」(p.11)であり、本書の主張はそのことに尽きるといっても過言ではない。筆者はこのことを、ゴリラの生態を研究する中で思いついている。ゴリラは、非常に大きな脳を持っており、難しい概念パズルを解いたり、機械を記号によって使いこなすことができるなど、高い知能を持っている。しかし森の中のゴリラをいくら見ても、「頭がいいなという印象を受けるような行動をしているのを見たことは一度も」(p.44)ないのである。しかしゴリラが、「安定した社会集団を生み出し、維持する」(p.46)ためにその知能を使っていると考えれば、そのことは説明がつく。このことは、古い生活様式を現在も維持しているブッシュマンの観察から言えるようである。そのことを筆者は次のように書いている。
彼らは一見したところ何もせず、だらだらとお喋りをして時間をすごすことがある。しかし、社会への順応のために費やされるこの時間は、野外で狩や採集に費やされる時間と同じように、彼らの生存にとって決定的な役割を果たしている。なぜなら、ブッシュマン社会の基本的な骨組みが決定され、もし必要あれば修復されるのは、キャンプの火のまわりにおいてだからである。(p.54)
このくだりは、「声の文化」における知性のことを言っているようで、私にはとても興味深く思えた。
筆者は意識が「他人の内側からの理解を可能にする」であることを、中に入ったことのない家を外から理解することになぞらえている。たとえば煙突から煙が出ているのを見れば、自分の家での経験から、それが暖炉の火であることを推測できるのである。それと同じように、自分の内面における経験を通して、他人の内面を推測し理解する。それが意識なのであり、人間を他の動物とは異なるものにした原動力といえるのである。このたとえは,意識の意味や役目を説明する実にうまいたとえであると思った。
このような意識(=内なる目)をもつことによって、人間は他の動物とは異なるものになっている。そのことを象徴的に表すこととして、筆者は次のように述べている。
意識は最初の人間の家族を、最初の友情をつくり、シェイクスピアやディケンズを生み、……そして海軍新兵訓練所(ブート・キャンプ)、マディソン街、ヴァチカン公会議、そしてKGBをつくったのだ。
ここにはたくさんのことが書かれている。意識と芸術(シェイクスピアやディケンズ)についていうならば、他人の内面の理解は、基本的には「感情移入」によって行われる(そういえば浜田寿美男氏もそういうことを書いていたような気がする)。しかし感情移入が可能になるためには、自分にも同じ経験がなければならない。では自分で経験したことがないことはまったく理解できないかというとそうではない。それと関わるような代理経験があれば、理解は可能である。そのような理解を助けるものとして、筆者は、遊び、夢、書物、芝居、音楽、絵画、映画を挙げている。つまり芸術(これ自体も意識の産物なのだが)は、意識がうまく機能することを助けるものなのである。芸術だけでなく、夢も遊びもそうだという考えは興味深い。
次に、上の引用の後半、特に海軍新兵訓練所についてである。今まで述べられてきた話とは違い、海軍新兵訓練所では他人の内面を理解しない兵隊がつくられる。どうしてそういうことが起きるかというと、それも意識のなせるわざなのである。そのことを筆者は、「私たちの他者理解がこの想像力による再構成という仲介的なはたらきを必要とするというまさにその事実が、誤りの余地をつくりだす」(p.181)と述べている。つまり、想像力によって、非道行為を「私」が「私の行為」として私と同じような「あなた」に対して行うのではない、ということにしてしまえば、相手を理解し感情移入することなく、機械的に他人に非道なことを行うことが可能になるのである。このように、我々の他者「不」理解も意識あるがゆえのことなのである。
もちろんこれは戦争行為だけの話ではない。医者や弁護士やジャーナリストや警察などが、場合によっては他人をぞんざいに扱うことができるのも、まったく同じ理由によるということができる。それを考えると、「意識」問題は、「理解/不理解」であるとか、失敗学などにも通じる、重要な問題である。そのことを本書によって気づかされた。そういう点で興味深い本であった。