30日短評8冊 25日『教師たちの挑戦』 20日『学習科学とテクノロジ』 | |
| 28日ゆっくり歩く 24日怒る5歳児 |
先月ほどではないが,やや少な目の読書量。今月後半ごろからは,就寝前の読書時間が取れているからまあいいのだが。
今月良かったのは,『臓器は「商品」か』(なるほど商品vs記号ね),『学習科学とテクノロジ』(なるほど協調学習で知識定着ね),『教師たちの挑戦』(なるほどこういう授業なわけね)あたりか。『文化と思考』も,再読しないにしても今後の研究で引用していくべき一冊か。
先日,ある理学療法士に腰を見てもらった。非常に的確な診断と治療をされたようで,かなり腰が軽くなった。そのときに言われたことのメモ。
これを改善するには,1に食事,2に睡眠,3に運動。食事は基本的には妻に協力してもらうしかないし,睡眠は時間を確保すればいいわけだが,運動に関しては,有酸素運動で遅筋を鍛える必要があるらしい。一番いいのはプールに入ってウォーキングしたりすることらしい。陸上のウォーキングだったら,心拍が120bpmを超えないようにゆっくりダラダラ歩くのがいいという。それでも陸上だと水泳と違って,効果が出るのに1年とか長い時間がかかるらしい。
しかし私の身近には,手軽に入れるプールもないし,そこまで行く足もない。そこで,通勤ウォーキングで,いつもよりゆっくり歩くことにした。具体的には,今までは大股早足で20分で歩いていたところを,25分ぐらいかけて,ときどき心拍を計りながら,ゆっくり歩いている。
もちろんすぐに効果は出ないだろうが,これだと,今までとちがい,ダラダラ汗をかくこともないので,なかなか快適である。これまではできるだけ大股早足で歩くようにしていた。それは私が,そうやって歩くことで減量したからだ。速く歩けば歩くほど運動量が多いような気がして,常に早足(かつ大股)で歩いていた。だから,何かの理由でゆっくりしか歩けないときは,運動にならないような気がしてイライラしていた。
しかし理学療法士さんの話では,どうやらそうではなさそうである。むしろ,あんまり心拍の上がる歩き方だと,すぐに乳酸が出てしまい,有酸素運動にならないのだそうだ。ということで,今はゆっくり歩くことを楽しもうと思っている。
佐藤学氏のいう「学び」(活動的で協同的で反省的な学び)のある教室の風景を,20以上も収録した本。これまで佐藤氏の本は何冊も読んできたが,いつもわかったような分からないような感じであった。理念はわかるし,ある程度の理想的な形態も分かるような気はするのだが,実際はどうなんだろう,という気持ちがいつも付きまとっていた。
たとえば本書でも,抽象的な話としては,「授業の中で学び合いが成立するか否かは,その7割近くが,子ども一人ひとりの尊厳を尊重するかどうかにかかっているのではないだろうか」(p.15-16)とか,「学び合う授業を創造する教師は,教室の中でマージナルな(周縁の)位置にある子どもをコミュニケーションの中心に設定する方略をとっている」(p.52)とか,「どの子どもの思考やつまずきも素晴らしいと受け止めること,そして,一人ひとりのつぶやきや沈黙に耳を傾けることこそが,授業の立脚点である」(p.140)なんていう記述がある。それは具体的にどんな方略であり,どのような耳の傾け方であり,あるいはそれはどのように見つけるのか,それをした後はどうするのか,なんてことが分からないでいた。もう最後のところは,佐藤氏と同じ授業を見て彼の意見をその場で聞く,というような徒弟制的なことをしなければ,ある程度以上のことは分からないのではないか,とずっと思ってきた。
本書は,そのような状況を少し打破してくれる本だった。先に述べたように,20以上の教室の事例が載っているし,授業場面で何が起き,先生がどう対応し,それを佐藤氏がどう見たか,ということがいくつも書かれているからである。
その具体例は本書を読んでいただくとして,以下,個人的なメモ。まず,学習する雰囲気のないクラスで,ある教師が心がけたことが,いくつか書かれていた。
第一に,「優れたこと」を発言するよりも「すてきなこと」を発言するほうを大切にしたい。「おもしろいね」「すてきだね」「すごいね」という応答が自然に出てくる対応が鍵だと思う。第二にいつも子どもにとって無理のない必然的な展開になっているかどうかを吟味しながら授業を進めたい。第三に,子どもの発言を聴くときは,その発言がその子の内面の何とつながっているのか,誰のどの発言に触発されて出てきたのか,学んでいる内容のどこにつながるのかに着目して聴きたい。そして第四に,子どもたちが自分たちで発言をつないで理解できるようになるまでは,教師のほうがつなぐ役割に徹して対応する。第五に,子ども全員の理解の水準をあげるよりも,まずは一人ひとりが他の子の意見を聴いて「なるほど」と思い,自分なりのわかり方を生み出すことに取り組みたい。それと並行して,第六に,特に理解が遅れている5人の子どもには,昼休みや放課後に個別指導を行うこととした。(p.38-39)
なるほど,私の見たところ,2はとても重要であり,それがあってこそ,1をはじめとしたその他の部分も生きてくるのではないだろうか。それに,6もやはり必要なのだな,と思った。
それから,よく教育心理学の講義をしていると学生から質問が出るのだが,個々の生徒の能力差はどうするのか,という問題がある。これはいつも答えに苦労する問なのだが,しかし佐藤氏の考える学びの中では,むしろそれは必要なことだという。「協同作業とコミュニケーションによって学びが成立するためには,子ども相互の中に文化と能力の差がなければならない」(p.195)と。もっとも差が大きすぎるとダメなのだそうだが,しかし差がないと,同じ作業と意見が反復されるだけで学びにはならないのである。これは示唆的な意見だと思った(もっとも,単にグループを作ればいいわけではなく,どのようなメンバーで,どのような課題を与え,そこにどのように教師が介入するかというのは,とても重要な点だと思うが)。
もう一つ。佐藤氏の学びは「対話」(モノ,他者,自己との)と表現されるが,そのことについて少し分かった。そもそもどんな授業にも自己も他者もおり,教材も存在する。では対話と対話ではないものはどこが違うのか。そのことが,本書VI章に書かれていた。まず,対話ではない「モノローグの言語」では,意見を述べても認識の変化はなく,最初に発言した内容と最後に発言した内容に質的な違いはない。教材があったり調べ学習をしていても,その経験が意見の中に反映されていない。これがモノとも他者とも自己とも対話が欠落している状態である。その反対が「ダイアローグの言語」なのだが,中でも私が興味深かったのは,「自己内対話」の言葉として佐藤氏が挙げていた事柄である。それは,「たどたどしい語りがその証左であり,一つひとつの言葉によって思考が発展していることが自己内対話の言葉であることを物語っている」(p.228)と表現されている。まあこれだけですべてが分かったわけではないが,今後,自分が授業を行ったり見たりする際の,観点の一つになりそうである。
最近、下の娘(5歳0ヵ月)は怒りやすい。
今日も、さきほど上の娘(7歳3ヶ月)と3人でトランプ(七並べ)をしようとして、順番を決めるジャンケンをしたところ、下の娘が勝てなかったので怒りながら泣いて隣の部屋に行ってしまった。
「おいで」といっても怒るし、「トランプやめようか」といっても怒る。しょうがないので、七並べはそのままにしておいて、別のトランプを出して上の娘と二人で別の遊びをしていた。
そのうちに下の娘がフラフラと出てきたので、七並べをやろうと誘うと、気分が落ち着いたのか、素直に乗ってきた(上の娘はババを下の娘に譲ってあげたし、私も順番を下の娘に譲ってあげたからか)。1回ゲームが終わり、もう一回やろうとして、カードを配り、またジャンケンで下の娘が負けたところ、また怒りながら泣いて隣の部屋に行って、今度はそのまま眠ってしまった。
こういうことって今日だけの話ではない。週に何回かは必ずあるような気がする。そういうえば下の娘は、0歳のときも1歳のときも2歳のときも怒ったら大変だった。ここ2年ほどはそれほどなかったのだが、ここ数ヶ月、また激しく怒りながら泣くことが多くなったような気がする。
小さい頃は、頃合いを見計らって気分を変えてあげる作戦が一番有効だった。それは今も同じなのだろうが、なかなかその頃合いが難しくなっている。上の娘が5歳のころは、こういうことで苦労した記憶はあんまりない。当たり前だが、子ども一人ひとりの違いを前に、その場その場で苦労し、工夫していかないといけないんだなあと改めて思う。
放送大学のテキストなので、内容はあまり期待していなかったのだが、これが予想外に面白かった。それは「学習科学」(learning science)なるものについて、豊富な実践例を通して語られていたからだろう。実は本書では「学習科学」が何なのかは明確にはわからなかったのだが、非常に興味深い実践研究が本書には多数紹介されていた。心理学の実験にありがちな、実験者が短期的・直接的に介入するような実験室的な学習ではなく、数週間かけて長期的に、仲間との協調的な取り組みの中で学べるように工夫された学習がである。
本書で紹介されている実践の特徴はそれだけではない。現実的なセッティングで学べるような場面設定がされていたり、同じタイプの活動をちょっとずつ違った問題に対して何度も繰り返せるようになっていたり、答える価値があると思えるような問いが用意されていたり、他人の考えが見えるようにテクノロジ(電子掲示板など)がうまく使われていたりする(詳細はここでは書かないが、こちらのインタビューを見ると概要がわかる)。
このような学びは、テクノロジが使われている部分を除くならば、今、学校現場でも重要視されているもの(活動的で協調的で反省的な学び)にとても近いように見える。とはいってその実践にはピンからキリまであるわけだが、たとえば『中学校を創る』の福井大学附属中学校などは、とてもうまくいっている実践例であるように見える。しかし私には、うまくいっているものとそれほどでもないものとには、どこに違いがあるのか、何がポイントなのか、これまではよくわからなかった。しかしそれが、本書で少し見えてきたような気がする。あくまでも私の印象でしかないのだが。
一つには、「同じ活動を何度も繰り返す」ということではないかと、私は本書を読んで思った。たとえば科学的な実験を行う場合、「比較のためには調べたい要因以外は統制する」必要がある。活動が一回しかできない場合は、こういったことは、教師が口頭で言うか、学習者に考えさせたり話し合わせたりすることになる。これは、かなり「頭」を通した学習ということになり、本当にいつでも使える形で身につくのはかなり難しいだろう。しかし実験が何回も繰り返せるのであれば、他のグループや他の人から学んだり、うまくいかないときにその原因を考えたりできるだろう。そこで失敗しながら気づいたことは、経験則として蓄積していけば、身体に染みてわかるように学ぶことができる。実験にせよ作業にせよ。教師が主導しすぎてしまうのは、繰り返しが少なく経験を通して学ぶことができないためにそうせざるをえなくなってしまうのだろう。それは教師にとっても学習者にとっても不幸なことになる場合が少なくないだろう。
もう一つ。私がもっとも重要ではないかと思ったのは、「中心的な問い」である。本書に紹介されている実践で言うならば、「なるべく遠くまでまっすぐ走る車を作れ」とか、「ガラパゴス諸島の干ばつでフィンチの一部だけが生き残ったのはなぜか」とか、「自分たちの飲んでいる水は安全か」とか、「ローラーブレイドに乗る時、ヘルメットやひじあてをつけなければいけないのはなぜだろう」という問いが出され、問いに答えるために必要な材料が提供される。これらは、答えは出せるけども、一回答えを出したら終わりではなく、生活や現実世界に根付いており、答える価値がある問いである。このような問い(特に先にあげたうちの後ろ3つのようなもの)を「駆動質問」(driving questions)というらしい。プロジェクトの間中、生徒の探究活動を駆動し続けるのがよい駆動質問なのである。協同的な学びや、実験や活動を繰り返すということは、比較的容易に導入可能かもしれないが、最後はやっぱり、適切な駆動質問がないと、プロジェクトがうまくまわっていかないのではないかと思った。
あと、こういう学習をどう評価するかについても書かれていた。このような学習でえられるような深い理解は、知識の有無をテストするだけでは評価できない。そこで学習のプロセスを評価するといいのだが、その一例として、学生がどのようなレベルの質問をするかに焦点を当てる、というやり方があるらしい。質問のレベルの中に内容理解のレベルが表れるというわけである。これは使えるかもしれない、と思った。こういうところも含め、もう少し学習科学について勉強する必要がありそうだ(適切な本があればいいのだけれど)。