読書と日々の記録2005.12上

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■読書記録:  10日『他者の声実在の声』 5日『事件のなかの子どもたち 』
■日々記録: 15日【授業】集中講義・3日目 14日【授業】集中講義・2日目 13日【授業】集中講義・初日 12日認知カウンセリング・ゼミに参加

【授業】集中講義・3日目

2005/12/15(木)

 9時40分から。でも9時35分まで誰も来ない。すごい。

 1時間目は、「大学は学生に批判的思考力を育成しているか」という講義。レビュー的な話をし、私の研究を紹介した。もちろん後者に力点をおいて。それにしても、自分の研究を若い優秀な研究者(の卵)に提示し、全員を指名して(無理やり?)意見を言わせることができるなんて、幸せ以外の何者でもない。

 2時間目からは、批判的思考教育。まず、ミニ入り口分析として、現時点でイメージする批判的思考教育をあげてもらった。グループで話し合い、一つを全体に紹介してもらうという形で。続いて、スターンバーグの論文を紹介し、「どうしたら批判的思考教育に失敗するか」を考えてもらいつつお昼とした。昼食は、中国からの留学生さんと、京大の院生さんと、東大の学食へ。学食らしい学食だった。3時間目の直前に、10月から赴任してこられたという岡田猛さんが会いに来てくださった。ちょっとしかお話できなかったのは残念だが、受講生の中に岡田さんの授業をとっている学生がおり、後で、そちらのほうからちょっと話を聞いたりした。

 3時間目は、昼前の課題について考えたことをグループ内ですり合わせ、発表してもらった。続いて、批判的思考教育のいろいろの紹介。Ennisの分類を示して、いろいろな教育をみる視点を与えておいて、何個かの教育を紹介した。また他のレビューも2つ紹介することで、比較的幅広く教育の紹介はできたのではないかと思う。体系性はないのだけれど。

 そして4時間目。というか3時ごろから。自分の専門(近隣)分野から批判的思考について考える時間とした。明日の1時間目に発表してもらうのである。中には複数の専門領域の人が混在しているグループもあるのだが、一方の領域からヒントを得て自分たちの領域について考えていたりして、とてもよい学び合いが行われているようだった。明日は最初から発表に入るということで、今日は発表用の紙(A3用紙2枚)を仕上げたところから終わってもらった。1グループは4時半には終わっていたが、1グループは6時半までかかった。私は今朝、早く目が覚めたこともあり、また疲れも蓄積しているのか、かなり眠かったのだが、最後まで付き合った(口はほとんど挟まなかったのだけれど。というか居眠りしたりしていたのだけれど)。終了後、一人の学生は「1年分の頭を使ったようだ」と言っていた。それだけやってくれて感謝、である。

 今日の反省は、2時間目のミニ入り口分析。せっかくの入り口分析だったのに、この結果をあとあと使わなかったのは失敗だった。まあ意識を活性化する、という意味はあったのだろうけれども。また、3時間目の内容(批判的思考教育に失敗する方法)も、発表してもらうだけで終わってしまったのはちょっと失敗か。4時間目に各グループに渡して、一応意識できるようにはしたのだけれど、もう少し明示的に、自分たちが考える教育が、先にあげたような失敗に陥らないかどうかをチェックさせたほうがよかった。そのためには、3時間目のものは、全体で7つを選んで模造紙に大書して見えるところに掲げるなどすればよかったかもしれない。

 今日は疲れもあったので、近所で晩飯を食い、すぐにホテルに戻った。おかげで元気を取り戻すことができた。あと1日だ。

 4日目に続く。

【授業】集中講義・2日目

2005/12/14(水)

 午前中の予定は、1時間目が作業(論文内容を模造紙にまとめる)、2時間目が発表と討論となっている。作業は、10時ごろまでに終わるのであれば、今日何時ごろから始めるかは各グループで決めていいですよ、ということにしていたので、9時に来ていたのは、4グループ中2グループのみであった。あと1グループも、次第に集まり始めたのだが、1グループは誰も姿を見せない。どうなっているのかと思っていたら、よく見たら机の上にはもうすでに完成した模造紙が置かれている。どうやら、昨日の夜、残ってやっていたらしい。しかもちょっとした仕掛け(紙の一部が折り込んであって、後から開くようになっている)も用意されていたりして。すばらしい。

 2時間目は、10時から10時20分の間には始めましょう、ということにしていたのだが、前日完成グループのメンバーがそろったのが10時20分ぴったり。他のグループで、まだ模造紙が完成していないところがあったので、完成を待って10時半から発表がスタートした。時間配分は、最初は発表10分、討論10分と考えていたのだが、発表に時間をとりたそうなグループもあったので、20分の使い方は自由、ということにして始めた。前日に、今日の発表の目的をあまりきちんと話していなかったので、冒頭に簡単に、「今回の授業で扱う批判的思考の概念、測定、教育といった研究上の諸要素を、一つのまとまった論文の中で確認し、検討することが目的」であることを述べてスタートした。

 発表は、3つのグループが内容を4人で分担してリレー方式で発表していた。今回の受講生は、半分以上が心理学を専攻していない学生だったのだが、そこはさすが、どのグループのどのメンバーも、内容をちゃんと理解して発表しているようだった。ただ、論文内容を単に要約して紹介しているように見えるところもあったので、発表後は、「結局その論文で扱っている批判的思考はどんな批判的思考なのか」ということなどを質問し、この授業全体のテーマと結びつけるようにした。それ以外にも討論の時間は、フロアの受講生から質問を受けたり、発表者に論文に対する(批判的)コメントを述べてもらった。

 実はこの発表、授業全体の中でどれほどの位置づけになりうるのか、始める前はよく分からずにいた。場合によっては、単に論文を読んで理解した、というだけで終わるのではないか、という心配もあったのだが、実際にやってみると、そうではないかとがわかった。4つの研究を並べて見ることで、それぞれが扱っている批判的思考概念や測定法などの違いが一覧できる。こういうことは、単に「批判的思考概念や測定のいろいろ」を概説するだけでは見えにくい部分だと思うので、これを今回の講義の中で行うことには、かなりの意味があるように思った。それだけではない。今回発表してもらった論文は、2つが大学生の思考の実態を把握するための実験研究、2つが批判的な思考を育成するための介入を行った研究であった。とくに最後のグループが発表した論文は、思考力育成のまとまったプログラムを実践した研究だったので、学生に次のような問いを、思いつきで発してみた。「最後のグループが発表した論文にあるようなトレーニングを他の論文の被験者たちが受けたとしたら、その論文で測定している批判的思考の得点は上昇するだろうか?」 各グループで話し合って、考えを聞かせたもらった。もちろんこの問いに正解はない(よりもっともらしい答えはあるかもしれない)ので、これについては、各グループの考えを聞くだけにとどめたのだが、このように、複数の研究を関連させて考えることができるという点でも、今回論文を読んで発表してもらったことには、当初思っていた以上の意味があったなあ、と思いつつ、午前中が終わった。

 お昼は、秋田先生とランチをしながら、主に学校現場における授業研究について、とてもためになるお話をたくさん聞かせていただいた。

 午後は「批判的思考の測定」がテーマ。測定については、体系的に語るだけのものを私がもっているわけではないので、さまざまな批判的思考の測定を体験してもらうなかで測定について考えてもらうことにした。最初にやったのは、Watson-Glaser Critical Thinking Appraisal。5下位尺度の説明文と例題を私が訳したものを提示し、例題を解いてもらった。結構みんな悩みながら解いていた。できた人から順次私のところにもってきたら採点しますよ、と述べると、ちょっとしたブーイングというか、ええ?そんなことするのー?的な反応が比較的全体的に沸き起こって、ちょっとびっくりした。できなかったらどうしよう、という心配らしい(いや、それだけなのであれば、テストを受けること自体を拒否するはずなのだが、ブーイングは明らかに、私が個別に採点することに向けられていた。ということは正確には、「できないことが道田に知られること」に対するブーイングだろう)。しかしこの作業をやることの目的は、「テストができないことは、一方的に受験者の問題なのか?」(テスト製作者は常に正しいのか?)ということを考えることにある。だから、できない(=テスト製作者の意図とは違う答えを書く)ことは、実は意味があることなんだよ、と内心思いつつも、それは口に出さず、テストを強行した。テストは、みんなかなり悩んだようで、なかなかみんな持ってこなかったのだが、そのうちにポツリポツリと持ってくる人が出てきた。採点し、正解とは異なる解答は別紙に書き写し、半分の人の答えを私が見たところでこの作業は打ち切った。液晶プロジェクタで問題と解答を提示しつつ、テスト製作者の答えと違う答えを書いた理由を聞いていく。予想していたように、「自分は問題をこのように捉えたからこのように答えたのだ」という発言が多数でる。中には、「自分は正解したけれども、考え方のロジックは不適切だった」なんていうケースも明らかになる。世界で一番使われているテストでも、想定する前提(あるいは常識)が異なると、異なる答えがありうるのだ、ということを押さえ、多少の議論を行った。以上でWGCTAについては終わり、次に、研究者が自作した問題を2問考えてもらい、3時間目が終了。

 4時間目は3時間目の続きで、自作問題をはじめ、自己報告、態度尺度、専門家評定などの測定について、体験可能なものは体験してもらいつつ、それを用いてどんな研究がなされているかなどを概説し、受講生から測定についての意見を聞いたりした(評価を専門としている受講生がいたので、専門家としての意見や知識を教えてもらうことができた)。最後に、測定に関するEnnisとMcPeckの議論を紹介して、4時間目が終わった。測定にはさまざまな問題や考え方があるので、すっきりとした結論を提示することはできなかったが、それだけに「測定の諸問題」を実感し、悩み、考える時間が作れたのではないか、と自分では思っている(受講生がどう思っているかはさておき)。

 今日の授業の反省点を挙げるなら、午前中の発表と、午後の測定の話をあんまり関連付けられなかったこと。一案としては、午後の最初に、今日扱う測定の種類を提示し、その後、「自分たちが発表した論文は、どの種類の測定を行っていたか」を問いかけるなどするとよかったかもしれない。また、これは時間があればの話だが、測定の紹介が全部終わったところで、「どの測定が一番使えると思うか。その理由は何か。またそれを実施するときに留意すべき点(実施法、解釈法)は何か」を問うのも、測定の話を自分なりにまとめる上で有効だろう。その場合は、最初に「今日は最後にこれを検討してもらう」と述べる形で目標を明示してから測定の話に入るのがよさそうだ。

 夜は、霞ヶ関で働いている、中学校の先輩とお会いし、銀座でてんぷらを食べた。会ったのは25年ぶりぐらいか。官庁の話を聞いたり、昔の思い出話をしたりして、懐かしく楽しいひとときを過ごした。

 3日目に続く。

【授業】集中講義・初日

2005/12/13(火)

 今日からいよいよ集中講義。大学院生対象の科目で、タイトルは「批判的思考研究・教育の諸問題」である。琉大で批判的思考そのものをテーマとした講義は一度もしたことがないので、授業を組むのに苦労したし、概要ができてからも、本当にこれでいいのか、いつも悩んでいた。それでも、琉大の後期開講の院生対象科目(思考力育成得論演習)で、一部の授業については予行演習をかねた授業を行いつつ、なんとか今日に望むことができた。

 事前に送られてきた受講者名簿によると、登録人数は39人。予想外に多く、場合によっては授業を組み立てなおさないといけないか、と思うほどだった。20人前後を想定して、グループワークと発表中心の授業を考えていたので。しかし登録人数と受講者数は異なるという。どれほど減るかも予想がつかないのは、かなりの不安材料だった。

 しかも当日つかう教室を前日に見せてもらったところ、長机9個、椅子27個しかない。このままでは、机をあわせてグループ作業をやってもらおうにも、それもままならないのではないか、という不安が広がった。夜、ホテルに帰っていろいろ考えた挙句、朝一番に事務の人に言って、とりあえず机を3つほど追加してもらうことにした。これで、机2つをくっつけて6つのシマを作ることができる。1グループ6人として、36人までは対処可能である。それ以上来た時にどうするかは考えていないが、やや不安が解消された。

 で当日。9時開講なのだが、私は朝8時20分ぐらいに事務室に向かい、机を入れてもらった。しかし受講生の出足は遅く、9時5分前まで、東大の受講生は誰も来ず、え?どうなってんの?とまた不安になる。結局9時には9人が来た。遅れてくる人がいるのか、これで終わりなのか分からないので、とりあえず来ている人には自己紹介シートを各自記入してもらうことにして、しばし待ち、10分すぎたところで、正式に始めることにした(午後から参加した人もいて、最終的には16人になった)。自己紹介シートが埋め終わったのを確認し、全員がみんなに対して自己紹介してもらった。この時点では、受講生にあまり積極性は見られず、様子を伺っている感じだった。こんな状態で、これから先予定しているグループワークがうまくいくのかなあ、という心配がここで湧き上がってきた。

 最初の授業は、「あなたが考える批判的思考」をグループでまとめて模造紙に書く、という作業である。この作業が始まると、割とすぐに、みんなでワイワイいいながらやってくれたのでひと安心。しかもこの作業の中で、批判的思考に関する情報差をある程度埋めてくれたような気がする。これは一斉授業にはない、ワークショップスタイルの大きなメリットだと思った。

 グループごとに発表してもらい、11時前に最初のプログラムが終わった。次は、批判的思考概念について軽く概説した後、批判的思考概念について書いた文章を読んでもらい、疑問点を挙げてもらう。疑問点は、A4用紙に大書してもらい、午後以降に活用することにする。お昼になったので昼食休憩。

 午前中、結構な数の疑問が出たのだが、中にはこの後の授業の中で解消されるものもあるかと思い、いまは簡単な疑問を少しだけ取り上げるだけにとどめ、予定通り、批判的思考の第二波についての概説と、強い/弱い意味の批判的思考の概説をする。その後、強い意味の批判的思考に関する私の事例研究を、考察を除いて提示し、考察部分をグループで考えてもらい、発表してもらった。ここまでが、予定よりもちょっと延びて3時だった。

 3時からは、最後の予定である、批判的思考の論文読み。論文を4つ用意したので、各グループで一人一つずつ選んでもらい、それを元に新しいグループを作った。今日、論文の内容を把握し、明日はこれを模造紙にまとめ、発表してもらうのだ。みんな、黙々と読んでいた。4時15分ごろ、「明日の午前中の作業をめどをある程度グループ内でつけたら、解散していいですよ」と述べた。各グループ、早速話し合いに入り、グループごとに、話し合いが終わり次第解散ということになった。

 ということで、なんとか1日目が終了。今日の授業の反省点を挙げるなら、3時からの「論文読み」のところだろう。その意図をもっと明示し、また、意図に沿った作業となるよう、発表に入れるべき内容のチェックリストでも作って使わせるとよかったかもしれない。

 夜は、南風原先生と5時に待ち合わせをし、院生一人と3人でうなぎの店に連れて行ってもらった。とても楽しく、またおいしいひとときだった。

 2日目に続く。

認知カウンセリング・ゼミに参加

2005/12/12(月)

 集中講義のために、東京出張。特に何事もなく、無事に着いた(実は数日前、「飛行機に乗り忘れる」という夢を見たのだ)。沖縄との温度差が、13度ほどあるということで、かなりビビりながら来たのだが、日中は思ったほど寒くなく、ひと安心。

 まずは大学に直行。今回呼んでくださった市川先生の授業(認知カウンセリング・ゼミ)に参加した。今日は中間報告会ということで、2名の受講生が、自分が行った認知カウンセリングを報告していた。

 「A理論とB理論とは、どう違うんですかね」みたいな質問を報告者がし、市川先生が即座に答えを返してくれていた。とてもうらやましい、贅沢な環境である。身近に専門家がいない、私のような環境では、それを調べるだけで何日も何ヶ月もかかったりする(しかも答えが必ず得られるとは限らない)。

 もう一つ思ったこと。認知カウンセリングとは、認知心理学などの理論を応用しながらも、カウンセリング的に子どもの学習の援助をする、というものだと私は理解している。そこでは、教える者が答えを教え込むのではなく、自分で気づいたり、できなかった理由を振り返ったりすることが重視されている(あくまでも私の理解である)。その様子を学生は発表するわけだが、その学生の発表をゼミで市川先生が扱うやり方も、同じような構造を持っているように感じた。つまり、学習指導はどうしなければならない、と教える者が教え込むのではなく、学習者が自ら気づいたり、他の人が他の考えを提示したり、失敗の原因や対処法を自分で考えたり、という具合である。そういう入れ子構造が、授業の中に見られたような気がした。ということで、とても興味深い時間だった。

 集中講義・初日に続く。

■『他者の声実在の声』(野矢茂樹 2005 産業図書 ISBN: 4782801548 \2,310)

2005/12/10(土)
〜認識の枠組みとその変化〜

 前書きによると、本書は哲学を題材にしたエッセイ集で、内容はちょっと統一に欠ける、とある。しかしこれがなかなかどうして、エッセイというよりは哲学そのものだし、内容も、私によく理解できなかったものを除くと、テーマが似ているものが多く、で考えさせられる内容だと私は感じた。それは、筆者自身の興味関心の方向性のせいなのかもしれない。

 私が感じた本書の方向性は、一言で言うと、「認識の枠組みとその変化」というものだろうと思う。たとえば、2番目の文章(疑いと探求)には、次の記述がある。

一般的に言って、探求はその探求を可能にするような枠組みをもっている。そして、その探求を続けるということはその枠組みを黙って飲み込むということだから、探求の活動の中にあってなおその枠組みを疑うことはできない。でも、だからといって探求の枠組みをなしているものが疑いえない絶対確実なものだというわけでもない。われわれはその実践の外に出て、今度は今までの枠組みを疑う新たな実践へと踏み出すこともできるわけだ。もちろん、そのときには別のことがらが枠組みになっているのだけれどね。(p.25)

 ここで念頭に置かれているのは、主に「学問体系としての枠組み」である。続けて筆者が言うのは、学問において評価されるのは、より豊かな実践を拓くような新たな蝶番(=枠組み)を作り出した人であり、そういう人は、既存の枠組みではギクシャクしてしまう人なのだという。

 これは学問体系だけの話ではない。私は私の生活の中で私の枠組みを持っており、別の人はその人の生活の中でその人の枠組みを持っている。それゆえ、同じ事実を見ているはずのときでも、自分と他人とで事実認識がずれることがある。そのときにどうするのか。4章では、2つの方略が述べられている。一つは、「規則把握を固定して事実認識を探る」道で、「ゲーム・モデル」と名づけられている。どちらの認識がルールにのっとっているかを明らかにするということで、先の言い方で言うならば、枠組みを固定して事実を探ることになる。もう一つは、「事実認識を固定して相手の規則把握を探る」道で、「解釈モデル」と名づけられている。それは、自分の枠組みを出て、相手の枠組みを相手主観に沿って理解しようとする行為である(ゲーム・モデルと解釈モデルについては、『哲学・航海日誌』でも触れられている。もっともこちらでは、解釈モデルを超えたものとしてゲーム・モデルが捉えられているようだが)。

 別の章では、おそらくゲーム・モデルに相当することを、「相手の発話やものごとに対する見方を、自分の手持ちの論理空間に翻訳する形で理解」(p.114)することと述べている。しかしそれは、相手のこちらの土俵に引きずり込むことであって、そこに自分と違う他者は出てこない。「他者は、私自身が変化することによってのみ、他者でありうる」(p.114)という。解釈モデルでの他者理解、ということであろう。同じようなことは、別の章で「私の理解の基盤そのものが相手を理解することに向けて変化」(p.178)することが「わかる」ということなのだ、と述べられている。あるいはまた別の章では、「それらを理解し、語りだすために、私は私自身の手持ちの言葉を変え、私自身を変えていくだろう」(p.194)とも述べられている。この「私自身が変化する」ということは、最近私が気になっていたことだったので、考えを進めるきっかけを本書で得られたような気がする(まだ進めてはいないけれども)。

 このような考えは、複数の概念体系が存在するということで、認識的な概念相対主義といえる。ただし、それらを同時に見据え見比べることができるような、百花繚乱的な相対主義はありえない。見据え見比べられるということは、「一つの」概念体系の中に納まる、ということだからである。そうではなく、相対主義とは、「自分の言葉を新たなものに変えていくことができるという予感に賭ける、ひとつの態度、生き方にほかならない」(p.294)と筆者は述べる。自分を変えるということが、一つの態度であり一つの生き方というのは、とてもよくわかる表現である。学問研究で言うならば、枠組みを変えずに枠組みの中で学問を追究する「パズル解き」もあるし、パラダイムチェンジを積極的に求めるような生き方もある。それと同じであろう。

 なお本書でこのようなことが話題になっているのは全体の半分ぐらいか。しかし、残りの半分のうち、さらに半分ぐらいは、筆者自身がそのことを実践してみせているように思う(いや、本当は全部かもしれないが、私にはよく理解できなかった章もあるので...)。たとえばある章では、ゼノンのパラドックスに対する筆者の考えが述べられる。次の章では、筆者の考えとは異なる、他者の考えを示した上で、両者を、純度の異なる4つの世界の中に位置づけることで、全体を統一的に理解して見せている。ここで筆者が行っているのは、自分の当初の考えを拡張することで、他者の考えをもその中に位置づけられるようにするということで、自分を「変える」というよりも、「拡大」しているといったほうがよさそうな他者理解である(それもある意味「変える」ことには違いないのだが)。そのほかにも、「しかし」の論理構造を、古典的な論理学を拡張した枠組みで解釈して見せたりしている。このように本書では、「異なるものを理解する」ことを、理論も実践も通して考えることができるようになっている、とても興味深い本であった。といってもここに書いたのは、あくまでも私の理解の範囲内の話ではあるけれども。

■『事件のなかの子どもたち―「いじめ」を中心に―』(浜田寿美男・野田正人 1995 岩波書店 ISBN: 4000039423 ¥1,533)

2005/12/05(月)
〜日常として、背景としてのいじめ〜

 「いじめ」を取り上げながら、子どもたちの生きている場のありさまを浮かび上がらせようとした本。絶版なのでアマゾンのマケプレにて購入。とても興味深い本だった。

 第一に興味深かったのは、いじめを「心理学的な説明と操作」(何が原因、どうしたらどうなるのか)の観点から見るのではなく、「記述と理解」の観点から見る、という視点である。具体的には、筆者らはいじめを「事件」としてではなく、「当事者の日常」のなかで捉えようとしている。加害者にとっても被害者にとっても、当事者にはいじめは日常のことであって事件ではない。特にそれが長期化しているときは。一方、親や教師など、部外者がいじめを知ったとき、それは「事件」として捉えられる。そのギャップというか経緯について、筆者らは次のように書く。

自分たちの日常のなかで、その日常の営みとしていじめが起こる、そしてそのいじめが事件となるのは、自分たちの「外」にある何らかのきっかけのためであって、へたをすればいじめがばれたことに対して、加害者たちはある種の被害者意識をもつことすらある。〔中略〕子どもたちの日常のただなかに生じるいじめには、こうしたパラドックスがつねにつきまといます。(p.19)

 加害者が被害者意識をもつなんて理不尽な感じもするが、それはあくまでも「外」の視点でしかない。なかにいる人間にとっては、自分たちがいつものように日常を営んでいただけなのに、ある日突然、通報だのチクリだのといった何らかの理由で、突然事件にされ、加害者に仕立て上げられるのである。なるほど確かにその通りだ。そしてこの構図は、おそらく「子どものいじめ」だけに限った話ではないだろう。さまざまな組織の犯罪や失敗(失敗学関連本参照)も、まったく同じ構図をもっているはずである。失敗学的な本はたくさん読んできたはずなのに、それを今まで「日常」という視点で考えたことはなかったのは、私が今ひとつ当事者の視点を持ち損なっていた、ということだと反省をした。

 この点と関連してもう一つ、本書で重要と思える指摘があった。浜田氏は本書以外でも「図地知覚」で現象を説明することがよくあるのだが、本書でもそれが行われていた。いじめを事件として捉えた場合、いじめのターゲットが「図」(前景,注意の焦点が向けられる側)になっているように見える。しかし加害者にとってはそうではない、と筆者らはいう。

ターゲットを責め、苦しめること自体が「図」(前景)になっているというより、むしろ責め、いたぶることで互いが協働し、一緒に笑い合えることのほうに「図」があるのだと言わねばなりません。〔中略〕ここにはこいつをやっつけているんだということを見せつける集団の輪があって、この加害行為のアクセントはそこにこそ置かれているのです。(p.161)

 つまり、いじめることそのものが主目的というよりも、それを通して自分たちの共同性を確認し自分たちの居場所を確保することが目的だというわけである。これもとてもうなずける指摘であると同時に、組織の犯罪や失敗にも共通する点であろう。

 ところで私は、いじめのような事件を、「増えたというけど昔からあることじゃないの? 昔の人と今の人ってそんなに違わないんじゃないの?」と思っていた。しかし筆者らの考えは違う。そのことを筆者らは、「自然の壁」と「人の壁」という言葉で説明している。ここでうまく説明できるとは思えないが、簡単に書いておくと次のようになる。かつては「自然の壁」(避けられない、厳しい自然現象)に人間はさらされており、そこでは他者と共に苦しみ、悲しんで、そのことが、人の生きる形(生の輪郭)を確かめる機会となっていた。しかし文明が進むにつれ、自然の壁が後退し、それだけ人間の壁が厚くなった。「人間の壁」は、自分の前に立ちはだかる他者の壁であり、それは「だれそれのせい」という思いを引き起こし、怒りを引き起こす(それは原因を作った相手に直接向かうとは限らない)。簡単にいうとこんなところである。これにさらに、学校という場所で意味がよく見えないままに学ぶことの意味がからんできたりするのだが、そこは省略する。

 ここで、壁を2つに分けて考察している点も興味深い。ただ筆者らは、「壁を前にした悲しみ」という観点だけから考察していたが、壁を前にして生じるそれ以外の感情や行動も考察可能だろうし、また、2種類の壁も、物理的に存在するというよりは、壁に直面した人がその壁をどう捉えるか、という捉え方の問題もかなりあるように思われる。たとえば「いじめ」という壁に直面した被害者は、それを「人の壁」と捉えて「怒る」こともあるだろうし、「自然の壁」と捉えてなす術もなく悲しみながら立ちつくす、ということもあるだろう。これもこれぐらいにしておくが、実に今の私にとっては、示唆的な考えだった。絶版なのが惜しいくらいである。


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