31日短評7冊 29日『スティーブン・キング 小説作法』 25日『判断力はどうすれば身につくのか』 20日『授業を変えるために』 | |
| 30日この1年 19日東京日記をまとめてアップ 17日認知カウンセリング研究会に参加 16日【授業】集中講義・4日目 |
結局年内は風邪を引いたり病気をすることなく、乗り切ることができた。数年前には毎月風邪を引いていた私としては、よくやったと自分を自分でほめてあげたい。
今月良かった本は、『事件のなかの子どもたち』(なるほど2つの壁ね)、『他者の声実在の声』(なるほど意味の他者ね)、『判断力はどうすれば身につくのか』(なるほど争点学習ね)が挙げられる。『スティーブン・キング 小説作法』(なるほどドアね)も悪くなかった。ということで、割といい本にめぐり合えたひと月だった。来年も良い本にめぐり合えますように。
この1年は、イベント的に大きかったのは、夏の研修会と冬の集中講義。夏の研修会は、初めての2日間開催だったし、冬の集中講義は、初めての集中講義であり、かつ初めて批判的思考のみについて扱った授業だったし。まあともあれ、無事に終わってよかった。研修会は来年もやる予定なので、今年の経験を活かしてバージョンアップできればいいなと思う。
この2つのイヴェントは、どちらも、自分なりにワークショップスタイルでやってみた。ワークショップスタイルは、2月に向後さんの授業を見せてもらってから試してみているのだが、この2つのイヴェント以外にも、いくつかの授業で導入してみてみる。それはうまくいったりいかなかったりだが、これをさらに洗練させるのも来年の課題だな。
その他に今年やったことは授業見学。数えてみたら、4月から11月までで、54時間の授業を見学している(12月は集中講義準備のために1時間もできていない)。ほとんどが附属小学校だが、それ以外にも、私立小学校、附属中学校、大学の授業も含まれている。とはいえ、この経験で授業を見る目が飛躍的に成長したような気はしていない。来年は、「人と一緒に授業を見る」のがいいかもしれない、と思っている。できればいいのだけれど。
ということで、私なりには充実した1年だったと言えそうな気がする。
あ、そうそう。1999年9月に読書記録を始めてから6年3ヶ月経ったが、この間に、ここに記録した書籍数が1000冊を超えた。多分今年分が156冊で、読書記録開始からのトータルが1077冊である(今読んでいる本を年内に読み終えなければ)。これからの人生、あと何冊読めるのだろう。3千冊は読めたとしても、6千冊は無理そうな気がする。こう考えると、効率よくいい本に出会いたいものである。
作家のスティーブン・キングが、自分の来歴を通して小説作法について語っている本。来歴としては、幼少のころから本書執筆途中のことまでを語る中で、筆者の考える小説作法が語られている。とはいえ、筆者の考える小説作法の要点は簡潔である。「よく読み、よく書くこと」(p.146)が大原則であり、それに尽きるといっても過言ではないようである。そのため、来歴といっても、筆者自身がいかによく読み、よく書いてきたかが中心である。そのつもりで読まなくても興味深い内容ではあるのだが。
とはいっても、もちろんその大原則だけで終わりではない。小説作法というからには、いかに「よく書く」かが特に問題となるわけだが、筆者のデビュー前の執筆経験の中で、とても貴重なアドバイスを高校時代に関わった新聞社の編集長からもらっている。それは、「ドアを閉じて書け。ドアを開けて書き直せ」(p.62-63)というものである。つまり、最初に書くときは、他人に見せたり相談したりすることなく、邪魔の入らぬ状態で自分ひとりで書かなくてはいけない。しかしいったん書き終わったら、人に見せ、他人の批評を受けて書き直さなければならない、ということである。他人の批評を受ける必要があることは、ちょっと考えれば誰でも思いつきそうなことであるが、しかしその前の段階として、完全にドアを閉じた段階を設けるということは、良い作品を作るうえでは重要なことだろう、と本書を読んで思った。それはもちろん、「小説」を書くときにだけ有効な話ではない。論文その他の文章を書くに際しても同じであろう。
筆者自身が作家になってからは、この2段階も少し手が込んだものになっている。ドアを閉じて書く第一稿が書きあがったら、6週間ほど寝かせるという。6週間というのは筆者の目安だが、要は一度その内容を忘れるぐらいの時間をとることが重要なのである。しかるのちに、まず自分が読み、主題が何なのかを確認し、構成や人物造形に問題がないかどうかをチェックし、書き直す。さらにその後に「ドアを開く」のである。それも数人の親しい読み手に。読み手は選ぶ必要がある。たとえば大学の創作演習や研究会で、多くの人からあいまいな批評を始終受けることは、筆者の経験から言うとほとんど意味がない。それどころか害になるという。このようなドアの開閉に関する筆者の考えは、創作活動における批判の意味やあり方について考えるヒントがあるように思った。
他にも本書には興味深い点がいくつかあった。たとえば、筆者は構想を立ててから書くのではなく、結末も見えないまま、「地中に埋もれた化石を発掘する」(p.188)ように、筆者が設定した情況の中での登場人物の行動を掘り出すのだという。あるいはおそらく演劇か何かを見るかのように登場人物の行動を見守り、そしてそれを記録するのだという。私自身、データに基づかない論文を書くときには、いくつかの材料のほかには結末を考えないままに書き進めることが多いのだが、それも一つのやり方であることを、本書で確認できたのと同時に、そうするためのよりよいやり方を知ることができたような気がする。
というように本書は、小説以外の文章を書く人間にとっても、示唆の多い本であった。それに加えて、もちろんスティーブン・キングファンにとっては、創作の舞台裏や作者の人柄をしることができるという点でも楽しさ倍増だろう。私はこの作者に関しては、『ミザリー』ぐらいしか読んだことがないし、痛(いた)気持ち悪い作家だなあ、という印象しかないのだが。それとは無関係に興味深い本であることは確かである。
サブタイトルどおり、アメリカにおける有権者教育についてレポートしている本。アメリカ型民主主義では、有権者が賢い判断をすることが前提となっている。そのためにアメリカでは、「徹底的に自分の意見を決める判断力の訓練が行われている」(p.5)という。別の箇所には、「アメリカの強さは、地道な有権者教育の上に成り立っている」(p.7)という記述もある。そして本書では、いろいろなタイプの有権者教育が紹介されている。もっとも、ここに引用した記述には疑問もあるのだが、それはまた後ほど述べる。
本書に紹介されている有権者教育としては、たとえば「セサミ・ストリート」のような番組にいろいろな人が出てくる、というものも挙げられている。それはさまざまな人種だったり、HIV保有者という設定のキャラクターであったりするわけだが、それを通して、世の中にはいろいろな人がいることを理解するのも、ある種の有権者教育であると筆者は述べる。これには、なるほどと思う反面、それを有権者教育と言っていいのか?という疑問もあるのだが、もちろん本書で紹介されているのはそういうものだけでなく、投票率を上げるための教育、現実のさまざまな争点を理解する教育、合理的な意思決定を行う技能の教育、模擬投票、模擬議会、模擬裁判を用いた教育など、さまざまなものがある。
中でも、実際の争点を教材とした教育があり、それはかなり力が入れられているようである。争点学習では、候補者が主張するすべての争点の情報を集め「一つひとつの争点に関して、一つの視点で書かれた情報だけではなく、プラス面とマイナス面など、さまざまな角度からの情報を集める」(p.85)ことが重視されたり、情報の信憑性や事実性の確認がなされていたりする。これは批判的思考教育といってもいいものではないかと思った。もちろんこれは、与えられた情報だけで行うのではない。争点について子どもでも理解できるような情報が、インターネットなどのリソースから容易に入手できる。そのようなサポート体制が豊富に整っているからこそ可能な教育なのだろう。
有権者教育は、目指されるものが時代によって変化しているという。それをコンパクトにまとめた記述が以下のものである。
伝統的意味で良い有権者とは、法に従い、問題を起こさない有権者のことである。そして、ベトナム戦争以降、投票だけで民主社会に参加するのではなく、批判すべきことは政府を批判し、そして、必要があれば、組織を創立するなどして、政治参加に積極的になる有権者が良い有権者となった。さらに、1980年代には、良い有権者とは、個人的なボランティアや、組織に所属することによって、社会の問題の解決にあたる前向きな有権者が良い有権者となった。(p.195)
大まかにまとめると、従順な有権者→批判的な有権者→行動的な有権者、ということになろうか。このように変遷した大きな理由として、「伝統的な有権者教育は、「ベトナム戦争」や「公民権運動」といった現代の争点を目の前にすると、なんらの回答も見出せなかった」(p.53)という反省から来ているらしい。それで「争点学習」の形で提供されるプログラムに魅力的なものが多いのかもしれない。
と、非常に魅力的な教育が多数紹介された本ではあったのだが、冒頭の疑問に戻る。このような教育がアメリカ型民主主義の前提であり、国の強さの秘訣、というような書き方がされていたが、しかし一方では、投票率の低下に悩んでいるとか、「民主主義や市民権について理解している大人が少ないのが現状」(p.110)とも書かれている。「民主主義について理解している大人が少ない」のであれば、アメリカ型民主主義が賢い市民から成り立っている、とか国の強さの秘訣がそこにある、とはいえないのではないかと思う。とはいえこれはおそらく、どちらか一方が本当で他方がうそ、というよりは、アメリカという国の両面をあらわしているのだろうと思う(それにしても「理解している大人が少ない」というのは気になる記述ではあるが)。もう少しこの両面の兼ね合いが統合的に見えるとよかったのになあ、とは思うものの、しかし興味深い本であったことには間違いはない。
筆者が、5年来行っている、「ビデオを用いた授業研究」について書かれた本。佐藤学氏が推進している授業研究(『授業研究入門』など)の、おそらく原点になっているものだろう。『算数(シリーズ授業)』などの「シリーズ授業」における実践の検討会で、参加者が実にさまざまな視点から授業や教科や教育を語っているが、それが、10年以上の蓄積を元にしていることが、本書でわかった。
本書で中心的に語られている授業研究のスタイルは、同一学年、同一教科、同一教材で二人の人が行った授業を、ビデオで視聴し、検討するというものである。こういう形の比較は、筆者やその近辺の人が行っている授業研究では、私の知る限り見たことはない。たとえば「シリーズ授業」ではどの巻でも、2つの実践が取り上げられているが、それらは同一教科である以外は、同一教材ではないし、同一学年でもない場合が多い。まあそれにはいろいろな意図があるのだろうが、確かに本書で提唱されているように、いろいろな要素を同一にすればするほど、その他の違い(主に教師の違いや子どもの違い)が見えやすくなるだろうし、それを通して、授業を見る目はかなり養われるだろうと思った。
ここで行われている授業研究会は具体的には、20人くらいのメンバーなら、2つのビデオを見て、全ての参観者が批評したり感想を述べたりして、授業者がコメントをすることが、3時間半前後で可能だそうである。ただしその場合、参観者のコメントは、強く印象に残ったことや、重要と思われる点にしぼって3分から5分くらいでまとめてもらうのが良いという。20人ならそれだけで1時間から1時間半である。ビデオの視聴が1時間半として、残りの時間は、解釈が異なる点や問題が出てきた部分に関して、ビデオを見返す時間、それに、授業者がコメントする時間のようである。
筆者はこれを、授業研究会として行うだけでなく、大学の演習科目(「授業研究」)でも行っている。またそれ以外にも、教師養成においても、指導主事や管理職の研修においても、行政関係者や父母を対象としても行いうる、と述べている。私も一度是非体験したい、と強く思った。
そのほかにも本書では、教師のライフコース研究についても触れられていた。筆者の研究によると、教師としての意味ある出会い(学校、先輩、指導者など)は、教師になって10年から15年の間に集中している。まあそういう一般論が大事なのではないと思うが、そこでどのような出会いがあるのかを知ることは、教師養成を考える上でも重要な気がした。教師のライフコースということでいうならば、先ほどの「ビデオによる比較授業研究」のバリエーションだろうと思うが、一人の教師の1年目、2年目、3年目、4年目の授業のビデオを比較することで、教師の成長を検討したりしている。これも面白そうだ。
ということで、20年前の本ながら、授業研究について、いくつかの示唆を得ることができた本であった。
先週,月曜日から土曜日まで東京に行っていた。そのときに書き溜めていた日記を一気にアップした。月曜日が認知カウンセリング・ゼミに参加,火〜金が集中講義の授業記録,土曜日が認知カウンセリング研究会に参加である。月曜日から順次リンクでつながっているので,お暇な方はどうぞ。最初のほうは特に,記録と思って書きすぎたせいか,長くなってしまっているのだが。
それにしても,東京の10度はあまり寒くないが,沖縄の17度は寒い。今こうして研究室でパソコンに向かっていても,足元がしんしんと冷える感じである。こんなこと,東京で言っても誰も信じてくれないのだけれど。
日曜日は,1週間の疲れが出たせいか,朝に二度寝し,夕方にも昼寝し,夜も早く寝たにも関わらず,まだ眠い。日常業務に支障がでなくなる程度に体が回復するのには,まだ数日かかりそうである。明日も授業があるのに〜(しかもまだ準備していないのに〜)。
ようやく,初集中講義も終わり,久々に心安らかな朝を迎えた(ちょっと大げさ)。朝はゆっくり朝食をとり,日記をつけたりして10時半まで過ごし,チェックアウト。
それからは,せっかくなのでと,観光案内をもらってこのあたりを散歩。まず地下鉄の駅に大きいバッグは置き,お寺(名前を忘れた),湯島天神,不忍池と歩き,竹久夢二美術館に着いたところでお昼。昼食後,弥生美術館と竹久夢二美術館を1時半ごろまで眺める。夢二ってなんか変なイメージしかなかったのだが,ウチの子どもが喜びそうな子どもの本や絵が飾ってあり,結構楽しめた。
2時からは認知カウンセリング研究会なので東大教育学部へ向かう。今日は,市川先生が,「教えて考えさせる」授業について静岡の指導主事の先生方と懇談会を持ったようすと,小学校の校長先生が高校で授業を行われた様子についての報告があった。飛行機の時間があったので,後者の授業ビデオを途中までみて退出。
ところが空港についてみると,到着便の遅れにより,出発は40分ほど遅れるとのこと。このことが分かっていればもっと研究会に参加できたのに,と残念に思ったが,まあしょうがない。空港で食事をし,本を読みながら飛行機を待ち,11時半に沖縄についた。疲れたけど充実した6日間だった。たくさん勉強させてもらったし,インフォーマルにもたくさんの話が聞けたし。呼んでくださった市川先生には大感謝である。
今日も9時40分開始ながら、5分前まで誰も来ない。うーん。
1時間目は、昨日まとめてもらったものを発表。1グループ20分見当で、5〜10分程度発表し、残り時間を討論とした。討論の中で、批判的思考教育を考える上でかなり本質的な問題が出てきたように思う(あとで整理しなければ)。
2時間目は出口分析。初日に作った批判的思考の概念図を、4日間の講義を元に精緻化(広げたり深めたり変更したり)してもらった。これをすることで、4日間を振り返り、自分の理解を、他人の理解とすり合わせながら整理してもらうことが目的である。午前中いっぱいこの作業をしてもらい、お昼休みとした。
午後からは批判的思考概念の発表。どのグループも、初日よりも認識が深まっており、安心をした。またここでも、討論を通して、批判的思考の本質に関わる議論がなされたように思う(あとで整理しなければ)。
そして最後の時間は、グループによる授業評価。この授業のよかった点、改善すべき点をグループで話し合ってもらった。時間は30分とし、私は教室外に出ることにした(意見が言いやすいように)。その間は、授業をした建物(赤門総合研究棟)をうろうろしたり、構内を少し歩き回ったりした。三四郎池というところにはじめて行った。なんというか「日本」という感じの世界だった(沖縄と比べると)。20分後ぐらいに教室に戻り、全グループが発表準備ができたところで発表。これについては、特に意見は挟まないこととし、最後に簡単にまとめの言葉を述べ、終わりとした。昨日の夜、よく休んだせいか、さほど疲れはなかった。朝と夜、腰痛体操をきちんとしたせいか、腰が痛くなることもなかったし。
今日の反省点は、最後の時間におこなった授業評価部分か。出てきた意見をみると、グループ内で意見をすり合わせたり吟味したりすることなく、出た意見を単に羅列的に紹介しただけではないか、と思われるものがあった。そうだとすればそれは、この授業の趣旨からすればかなりまずいことであるように思われる。考えられる対処法はいくつかあるが、たとえば、この授業に対する批判を、グループで一つに絞るといいかもしれない。絞るための観点としては、一言で言えば「重要度」であるが、具体的にいうならば、今ここでそのことを指摘することが意味があること、具体的な改善につながること、その改善を行うことで、他のメリットが減少しないかどうか、減少する場合はそれでも価値のある改善となるかどうか、などがあげられるだろう。そうして初めて、批判が単なる批判ではなく、他の受講生や教える側の視点までも考慮に入れた多面的な思考に基づく批判になるはずである。そのことはこの授業の主張としては重要なことだし、受講生自身も理念レベルでは理解しているはずのことなので、これはぜひやるべきであった。というか自分の大学の授業でもやるべきだろう。
夜は、教育心理学コースの先生3人と学生2名と居酒屋へ。6時半から11時まで、4時間半もいたのだが、いろいろな話をたくさんしたのであっという間に過ぎてしまった。
認知カウンセリング研究会に参加に続く。