読書と日々の記録2006.01上

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■読書記録: 15日『説得』 10日『裁判官はなぜ誤るのか』 5日『宿命』
■日々記録: 14日授業を見たりタコ揚げしたり 3日中学の部活の同窓会

■『説得―エホバの証人と輸血拒否事件』(大泉実成 1988/1992 講談社文庫 ISBN: 4061850660 \540)

2006/01/15(日)
〜信念と決定と〜

 1985年、少年が交通事故にあい、両親が輸血拒否をしたために亡くなった事件があった。両親は「エホバの証人」(「ものみの搭」信者)であった。本書はそのことをテーマに書かれたノンフィクションで、講談社ノンフィクション大賞を受賞している。筆者は当時、大学生だったが、この事件のことを詳しく知りたい、少年の親に会いたい、と強く思い、親が所属する教会(王国会館)に、研究生として9ヶ月通った。いわば潜入ルポである。宗教教団潜入ルポというと、森達也氏の『A』があるが、こちらは中立的な立場を保とうとしながら取材している。それに対して本書のほうは筆者が信者として活動しながら(しかも本来の目的は隠しながら)取材している。その意味では、『A』よりもはるかに密着度の強いルポといえる。

 本書はとても興味深い本だった。事件について知ることができ、事件がマスコミでいかに大雑把に報じられたかを知ることができ、エホバの証人がどんなもので信者がどんな人たちなのかを知ることができる。特にエホバの証人は「取材を拒否する教団」(p.55)なので、本書で得られる情報は貴重である。私も本書を読みながらいろいろなことを考えたのだが、ここではその中で2点だけ以下に論じておく。

 一つは、問題の所在はどこにあるかということである。一般には(そしても本書も)、これは「宗教的信念の問題」と考えられている。しかし私は本書を読む限りにおいては、これは宗教的信念の問題ではないと思われるのである。

 法律によって、未成年の患者の場合親に許可を得なければ輸血はできないことになっている。しかし両親は許可をしなかった。それについて、本書によると法律家は当時、「この事件は宗教的信念の問題なので、両親を有罪にすることは難しいだろうと述べていた」(p.23)という。このような法律がある理由は本書には述べられていなかったが、おそらく、何人も自分の意思に反した治療行為を受けることのないように、ということなのだろうと思う(未確認)。ここで思考実験をしてみる。宗教的信念なしに輸血を拒否した場合、親は有罪になるのだろうか。もしならないのであれば、宗教的信念があろうとなかろうと同じ結果(無罪)になるということで、これは宗教的信念の問題ではない、ということである。

 では、宗教的信念がないときにのみ有罪になるのであればどうか。実際にそうなのかどうかはわからないが、こういうことはありうるであろう(ありうるからこそ、上記の法律家のコメントが出てくるのであろう)。しかしここで疑問なのは、もし輸血しなければ死ぬことが確実なケースで拒否をすることが有罪になるような行為なのであれば(「未必の故意」というヤツか)、なぜそのような緊急のケースでも「許可」が必要とされているのであろうか。拒否することが有罪に繋がるのであれば、実質的に患者やその親には、選択肢はないということである。それなのに、選択し許可する形をとる、ということの意味は何なのか。形式的に選択するというかたちを取ったという形式的な意味以上の意味はないのではないだろうか。つまりこの事件のケースは、社会通念上選択肢がない状況であるにも関わらず、形式的に選択できる形をとっているために、その狭間で起きた事件ということができる。とするならばこれは、宗教的信念の問題というよりも、そういう狭間を作ってしまった法律のあり方の問題ではないかと思う。これが本書を読んで疑問に思ったことである(おそらくこんなことはすでにどこかで論じられてはいるだろうと思うのだが)。

 もう一点ここに書いておきたいのは、信念と決定の関係である。どんな信念を持っているかによって、どんな決定を下すかが違ってくる。あるいは他人のどんな決定を是とするかが違ってくる。輸血拒否を非難した人は、「人の命が何物にもかえがたい尊いものである」という信念を持っている人であろう。これは常識的には自然な考えである。しかしそうではない信念もある。もっとも対極にあるのは、仏教学者ひろさちや氏の言葉で、「宗教というものは、人間の生命なんかよりも、はるかに次元の高いもの」(p.51)という信念である。ここからは、エホバの証人寄りの決定が導き出されるだろうが、それはおそらくかなり常識的に受け入れがたい考えだろう。あるいは、「輸血して復活できなくなっちゃうのがイヤ」(p.32: 筆者の叔母(信者)の言葉)という考えもある。これは、「現世の命よりも、来世(というか最後の審判後)の命の方が大切」という信念であろう。そう考えるのであれば、輸血拒否は当然のこととなる。もちろんこれは、一般には受け入れられにくい考えである。

 では輸血拒否をした、少年の父親はどうだったのか。本書を見る限り、そのどちらでもないように見える。というのは、父親は事件当時、洗礼を受けた信者ではなかった(まだ「神の存在を実感」(p.120)するまでには至っていなかったようだ)。また、本書の記述によれば、父親は断固として拒否したわけではなく、悩み、妻や他の信者と相談しながら、苦渋の決断として拒否したようなのである。しかし今は洗礼を受け、非常に熱心な信者として活動している。その意味は明確である。「ここでくじけたらねえ、なんのためか、ということになりますからねえ。もう本当に、エホバを信じてやっていこう、っていう気持ちが、強いですねえ」(p.122)と父親も述べている。つまり「熱心な信者だから輸血拒否をした」というよりも、「輸血拒否をしたから(よりいっそう)熱心な信者になった」といえそうである。つまり父親の場合、信念が決定を導いたというよりは、決定が信念を導いた、ということである。それがいいとか悪いとかいいたいのではない。信念と決定の関係は、常識的に考えるよりは複雑だなあ、と思った次第である。

 なお、エホバの証人というと、聖書を忠実に解釈する原理主義なわけだが、その信念は、必ずしも無批判的なものではない。ある信者は、「聖書に対して疑いをもったなら、一つひとつ論証を重ねていけばいい、複合的な論証の積み重ねが、信仰を強めるのだ」(p.121)と述べている。もっとも、すべての人がそうではない。エホバの証人の主力は20代〜40代の主婦だそうだが、筆者は彼女らを、「エホバの証人にはまりきって生きている」(p.231)と表現している。それに対し、両親がエホバの証人で、その考えに幼少期から浸って生きてきた少年たちが思春期に入るとどうなるか。彼らは、「ハルマゲドンの夢」を見てうなされるのだそうである。この両者の対比について筆者は次のように書いている。

おばさん達はハルマゲドンの夢を見たことがない、という。/エホバの証人にはまりきって生きているおばさん達と違って、思春期の少年達には、物事を多角的に見る力と、自分と自分を取り巻く世界を客観的に見る力が育ってくる。それが、これまでの安定した自己と、自己を支えてきた"エホバの証人理論"に対する疑惑を、身の内に育て始める。/一度疑惑をもってしまった以上、エホバに対して彼らは百パーセント身を委ねることができなくなる。かつての価値体系から離れ、自立して歩き出そうとする。/だがそれは、傍で見ているよりはるかにしんどい作業なのだ。とりわけ、それまで依って立っていたエホバの証人の理論が、彼らを自分達のところに引き戻そうと働きかけてくる。"もしかしてハルマゲドンが来るのではないか"という恐怖が、ハルマゲドンの夢となって、自らを罰するのだ。(p.231-232)

 少年たちが夢を見る原因が視点の多角性、客観性(だけ)のせいなのかどうかは、まあわからないと思うし、この対比から、いろんなことが考えられそうである。私が一つ思ったのは、信じる者と疑う者のこの対比はエホバの証人に限らない、ごくありふれたものということである。少年たちもいずれは何かを信じるようになるだろう。そうしないと、幸福かつ円滑に日常を送ることは難しいだろう。そう考えると、この対比はライフサイクルの中に位置づけることもできそうである。

授業を見たりタコ揚げしたり

2006/01/14(土)

 ちょっと精神的余裕が復活してきた(かもしれない)ので日常雑記を再開。

2006/01/10(火)
 冬休み明け最初の授業。共通教育科目「人間関係論」で「役割の内面化」についての話。過去の授業ノートに沿ってやったら,内容もまあまあ,時間配分も問題なく終わった。久々だったのでちょっとほっとした。
2006/01/11(水)
 ゼミ。研究内容と関連させながらも,半分雑談的なゼミをした。
2006/01/12(木)
 大学院科目「思考力育成徳論演習」では,12月に行った東大大学院での集中講義で出されたレポートを,皆(4人)で検討した。一人に2つずつ割り当て,担当者なりの評価もしてもらいながら。これを通して,今学期の授業のふり返りや補足もできるし,他の人の視点も知ることができるので,なかなか悪くない授業になったのではないかと思う。あまり急ぐともったいないので,無理に今日で全部は終わらせなかった,続きは来週。
2006/01/13(金)
 小学校に授業見学に行った。見たのは小1の体育と国語。小1の体育に関しては,今年度,附属小で10時間見ているので,そのときの経験が役立ったように思う。気候的には,最高気温24度にもなり,春のような日だった。しばらくしたらまた寒くなるんだろうけど。
2006/01/14(土)
 1年前と同じように、こちらのページを参考に、ポリ袋ダコを作った。ポリ袋に油性マジックで絵を描くときに、上の娘(7歳7ヶ月)が上下さかさまに描いてしまった。娘はこのままじゃイヤだというし、だからといってもう一つ作る元気は私にはない。しばらく考えたが、ふと思いついて、シェーバーオイルを吹き付けてティッシュで拭いてみたら、きれいに落ちた。窮すれば通ずとはよく言ったものである。午後は公園で娘たちとタコ揚げをして遊んだ。

■『裁判官はなぜ誤るのか』(秋山賢三 2002 岩波新書 ISBN: 4004308097 \735)

2006/01/10(火)
〜官僚的だから?〜

 裁判官はなぜ誤るのか、すなわち冤罪について論じた本。非常に大きなインパクトのある本ではなかったのだが、筆者は裁判官と弁護士の両方を経験した人物で、両方の視点から語られている点などは興味深かった。筆者の基本的な視点は、「司法構造から必然的にうまれた「構造的冤罪」であると言わなければならない」(p.159)というものである。

 特に興味深かったのは、検察官と裁判官と弁護士の考え方の異同について。本書に紹介されていたある本では、検察官・裁判官・弁護士が同じテーマについて論じているのだそうだ。それによると、裁判官の立場と検察官の立場はきわめて似ているという(p.173)。どちらも官僚であり、心理的にも思考的にも距離が近いということなのだろう。それなら、日本での起訴有罪率がほぼ100パーセントというのもうなづける。しかし、裁判官と検察官の考えが似ているということは、裁判官は現実には、決して検察と被告(&弁護士)の間に「中立的」に立つ存在ではない、ということである。

 筆者は、裁判官は被疑者・被告人と接見してその訴えを直接に親身に聞くことは絶対不可欠、と述べている。これはその通りだろうと思う(そうでないと、「大文字」の理論に基づく神の視点での裁きになってしまう)。しかし上のくだりから言えることは、それはそう簡単なことではないし、そもそもそういう訴えを真剣に受け取る裁判官がどれほどいるかはわからない、ということになりそうである。こういう現実を知ると、現在進められている司法改革の必要性も見えてくるような気がする。

 もう一つ。筆者は、ある箇所では「我が国の裁判官は、論理的な解明力に優れている人たちが多」(p.6)い、と述べている。しかし別の箇所では、「「法律家は、文科系学部出身者がほとんどであり、もともと自然科学に関する専門的思考訓練に欠けている」(p.193)ので、自然科学的な事柄に関しては、鑑定に依存するしかない、と述べる。しかし、鑑定を実施しデータを出す部分はかなり専門性が高くても、それをどう合理的に解釈するかというのは、非自然科学的な事柄で必要な論理的解明力となんら変わりがないのではないだろうか。ということは、論理的解明力が高い、といっても、極めて応用範囲の狭いものだということだろうか。それに対応するような教育は、どのように、どの程度法曹教育の中でなされているのだろうか。知りたいものである。

■『宿命─「よど号」亡命者たちの秘密工作』(高沢皓司 1998/2000 新潮文庫 ISBN: 4101355312 \857)

2006/01/05(木)
〜批判を通して盲従する〜

 講談社ノンフィクション大賞受賞作ということで買ってみた。でも、700ページ近くあるし、「よど号」なんて思想がかった話だろうから、読むのに二の足を踏んでいた。でもとりあえず、と思って読んでみたら、とても面白かった。結構なスピードで読み終えたのではないかと思う。

 面白かった原因の一つは、よど号ハイジャック事件とその後の出来事が、単純な話ではなく、さまざまな偶然によって思わぬ方向に事件が展開している、という歴史的な面白さである。また本書は、よくわかりにくい北朝鮮についてもよど号をとおして知ることができる、という面白さもある。

 その中でも私が俄然興味を持って読み進め始めたのは、彼らが北朝鮮に入った直後からの話である。そもそも彼らは、北朝鮮のことについて何も知らないままに北朝鮮に向かった。そこで短期的に軍事訓練でも受け、半年ぐらいで日本に帰るつもりだったようだ。しかし彼らは1970年に亡命して以来、日本に(一時的にではなく)帰国することはできていない。

 入国後、彼らは招待所に入れられ、社会科学院の教授たちの講義を受けさせられた。内容は、北朝鮮の思想である主体(チュチェ)思想の理論学習である。それは彼らが期待していたものではなかった。そため彼らは最初のうちは、昼はその講義を受けながら、夜は夜で自分たちの学習を進めていた。しかし彼らはある時期からそれをやめ、主体思想を受け入れ、北朝鮮の工作員になっていくのである。

 私は最近、「人はなぜ、どのようにしてある方向に変わっていくのか」という問題に関心を持っている。よど号メンバーの場合、最初は主体学習に反発していただけに、何が変化をもたらしたんだろう、と思って読んだ。もちろんその変化の理由は一つではないだろうし、人によってさまざまであろう。本書に挙げられているものとしては、次のものがある:革命をやる理由が未熟だったため、それまでの革命がうまくいっていないため、北朝鮮がアメリカ帝国主義に対して闘っている姿が荘厳に見えたため、北朝鮮に破格の待遇を受けたという「義理」があるため、指導員が気に入るような答えをしても受け入れられないため、などなど。ここには、彼ら自身が語っているものもあれば、筆者が推測したものもある。前者は、日本向けの宣伝の言葉の意味合いが多分に含まれている場合もあるので、それをどう受け取るかは多少の注意が必要であろう。また後者は、あくまでも推測に過ぎないという点で、やはり注意が必要である。

 それらのなかで私にとって興味深かったのは、その中で「批判」が果たす役割である。それはよど号のリーダーである田宮氏の記述のなかにあるので注意が必要ではあるが、それに筆者の推測を重ねることで、その意味が見えてくるように思う。まずは田宮氏の記述である。

自分の思想を検討し鍛錬していく上で、いちばんよい方法は自己批判、相互批判である。私はまず自分自身の自己批判を用意し、同志たちの相互批判を受けるようにした。私は自分が主観的には人民のためといいながらも、結局は狭いセクト利害からだけものを考え、行動してきた自分の分派主義的傾向についてまず自己批判した。〔中略〕/このときの同志たちの私への批判は厳しいものではあったが、私にとっては実にありがたいものであった。同氏たちは私を率直に批判してくれた。〔中略〕/私はこうして、批判をつうじて自分自身をとらえかえしていく上で非常によい契機となった。(p.127-128)

 最後に書かれているように、田宮氏は「批判をつうじて自分自身をとらえかえしていく」と述べている。この記述を見る限り、自分をオープンにして批判を受け、自分の過去を捉えなおしてよりよく成長しようとしているように見える。しかし実際は、ここでは「正解」が決まっている。金日成主義である。それからはずれた考えは批判され、総括を求められる。そして「批判されている人間が、批判の内容を受け入れるまで、この批判はつづけられる」(p.235)という。その結果、自由な疑問は圧殺され、「大勢の意見の前に、懐疑的な意見を出したものもその疑問を引っ込めざるを得なかった」(p.295)というのである。「批判」といい「主体」といいつつも、「自ら考え判断していくことは禁じられた行為」(p.363)なのである。批判のあり方や方向性がこのようなものなのであれば、いくら「批判をつうじて自分自身をとらえかえして」いこうとも、それは批判的思考とは似て非なるものでしかないであろう。

 筆者は彼らの思想の変遷について、「赤軍派の理論を自己批判しつつ、チュチェ思想と金日成主義に無批判にのりうつったものに過ぎなかった」(p.367)と述べている。このように「批判」とは、「よりよい思考」も「無批判」も、その両方のどちらをも招く可能性があることは、十分知っておくべきだろうと思う。もう長くなるので詳しくは書かないが、本書には、そのような環境で「変わらなかった」人も数名出てくる(その結末は多くの場合不幸なものだが)。その対比は、この問題を考える上で役に立つかもしれない、と思う。なお本書に出てくるような「盲従させるために批判を使う」話は、『ワイルド・スワン』にもみられる。

中学の部活の同窓会に行ってきた

2006/01/03(火)

 昨日は、中学校時代の部活(吹奏楽部)の同窓会があったので行ってきた。正式に同窓会が開かれるのは初めてなので、28年ぶりに会う人も少なくない。

 前に会ったのが10代のときで、今は皆40代なので、皆それなりに変わってはいるのだが、変わり方も人それぞれにさまざまである。中学校時代のイメージとほとんど変わらないような人もいたし、変わってはいるものの、中学校時代のイメージに経年劣化(失礼)を加えればまあこうなるだろうな、という感じの人もいる。

 その一方で、最初に見たときは誰だか全然わからない人もいる。そういう人も、しばらく見つめていると、あ!という感じで昔の面影が見つかる人もいる。わかったときはちょっとした驚きとうれしさと不思議さが入り混じる、プチAha体験である。中には、名乗ってもらった後も、なんだか昔のイメージと違うなあという不思議感がいつまでも残ってしまう人もいたりするのだが。

 と、出会い方はさまざまなのだが、いったん話をし始めると、その間で生まれる関係とか距離感とか雰囲気は昔のままなのがおもしろい。もちろんすべてがそうだというわけではないのだが、そういう部分を見つけては楽しんでいるので、よけいにそう感じてしまうのだろう。

 ということで昨日は、午後2時から10時ごろまで、「28年前」の世界で楽しんできた。話をするなかで、28年前の自分の考えや振る舞いを思い出されることもあり、それは少し気恥ずかしかったりするのだけれど。


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