読書と日々の記録2006.01下

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■読書記録: 31日短評8冊 30日『いま、女として〈上〉』 25日『考えあう技術』 20日『国語〈2〉(シリーズ授業)』
■日々記録: 31日日常雑記 29日MP3プレーヤー 24日日常雑記 19日秘密基地に行ったり教育について考えたり

■今月の読書生活

2006/01/31(火)

 年末まで体重は低値安定だったのだが,結局正月太りしてしまった。それがなかなか減ってくれず,今一番の懸案事項である。といってもほとんど何の努力もしてはないのだけれど。

 今月良かった本は,まず何と言っても『考えあう技術』(なるほど社会から考えるわけね)。それ以外には,ノンフィクションを3冊読んでおり,どれもそれなりに興味深かったのだが,強いて一冊挙げるなら『説得』(なるほどそんな事件だったのか)か。

『経済探検―未来への指針 資本主義を超えて我々はどこへ行くのか』(レスター・C. サロー 1998 たちばな出版 ISBN: 4886928498 \1,680)

 話の内容は、『資本主義の未来』と半分ぐらいは重なっていたので、新鮮味はなかったが、まあしかし相変わらず興味深い話が少なくなかった。本書ではじめて出た来た話としては、たとえば「現代の日本の状況は、1930年代のアメリカの大恐慌に類似したところがある」(p.43)なんていうのがある。そしてアメリカの場合、ニューディールとか何とかが行われたが、状況を脱したのは、第二次世界大戦が勃発したからだそうだ。戦争が期待できない今、日本はいつどういうきっかけで状況を脱するのだろうか、と思った。少なくとも旧来的な方法は通用しない、とサローはいうのだが。私の研究テーマとの関連で言うと、「今日の成功は、知識、知力、創造性のみによってもたらされる」(p.99)というのもある(これは前著にもあったとは思うが)。それがどのようにしたら教育によって育成することが可能なのか、知りたいものである。ほかには、『日本の論点』に論じられているような事柄もあった。たとえば、団塊の世代の大量退職については、一般的にはその負の側面が主に語られているように思うが、『日本の論点2006』では、彼らがこれまで、ずっと予想を裏切ってきたこと、購買力のある彼らがこれからの消費を支えるであろうという正の側面が語られている。サローもそれと同じように、人口の高齢化には負の側面ばかりでなく、「大きな購買力をもっている」(p.135)という民間経済にもたらすであろう正の側面について語られている。こういうこと、サローがいうとなんだか説得力があるように私は感じてしまう。

『学習の輪─アメリカの協同学習入門』(ジョンソン, ジョンソン, & ホルベック 1993/1998 二瓶社 ISBN: 4931199542 \1,680)

 協同学習のやり方について書かれた本。本書によると、「学習目標がきわめて重要な時、課題が複雑であったり概念的であったりする時、問題解決が要求される時、拡散的思考や創造性が求められる時、質の高い成果が期待される時、高いレベルの推論や批判的思考が要求される時、学習内容を長期間保持させる必要のある時、あるいは生徒の社会性の発達が重要な指導目標の一つとされる時、……こうした時には協同学習がきわめて有効」(p.59)という。というか、「協同学習が適さないような課題は存在しない」(p.58)ともいう。こういうところを読むと、とても期待が高まるのだが、しかし、私は本書では、協同学習ができそうな気はしなかった。協同学習をやるための工夫のいくつかは分かったが。本書では170ページほどで協同学習について理論から技法までが述べてあるが、しかし本書によると、協同学習の手続きをマスターするのは難しく、「ほとんどの教師は2〜3週間どころか2〜3ヶ月かかってもできるようにはならない」(p.148)という。そうなのであれば、本書の目指すところは何なのだろう、と思う。協同学習をやるにはこういうやり方もあるとか、こうはしないほうがいい、という一般論ではなく、実際にあるクラスをゼロから協同学習ができるクラスに仕上げていくドキュメンタリーみたいなものを読みたいものである。あるいは、協同学習をやったことがない教師がちょっとずつ段階的に導入する方法であるとか。その意味では、最後のほうで紹介されていた、講義の前後に焦点づけ討議を配置するというやり方は、悪くなかった気がする。それ以外は、あまり使えそうな(できそうな)気がしなかったというのが私の感想。

『「コメント力」を鍛える』(有田芳生 2002 NHK生活人新書 ISBN: 4140880473 \640)

 「相手に自分の気持ちをきちんと伝えるための実戦的ノウハウ」(本書の宣伝より)、なんてことが書かれているわけではなく、筆者の知識と来歴を披露したエッセイ、としか私には感じられなかった。端的に言えば、筆者の言葉は私には届かなかった。その理由はいくつかあると思うが、たとえば、筆者はそもそも、コメント力は相手との信頼関係が基礎となっていると考えている。とするならば、それにはノウハウとして語れるものなどあるはずがない。筆者がコメントを、ノウハウとして語れないものと考えていることが、本書が私につまらなかった一つの理由だろう。そのほかにも、相手の思いを汲み取ることが大事といいながらも、相手の思いを汲み取っているようには見えない言葉があったりすると興ざめである。以上が本書に対する私のコメントの一部であるが、このコメントは果たして筆者に届くであろうか。

『確率的発想法─数学を日常に活かす』(小島寛之 2004 NHKブックス ISBN: 4140019913 \966)

 確率的事象を理論的に考察している本。筆者が日常生活を「確率」という目で眺めているということはよくわかった。内容は,基礎から高度なものまで扱われている印象。すごく悪いわけでもないが,すごく示唆的な本,というわけでもなかった。数学的な理論が主なので,心理学でメシを食っている私には物足りない感じがした。フィッシャー流の確率の考え方が規範的なもの,ベイズ流の確率の考え方が記述的なもの,という説明には大納得だった。言われてみれば当然のことながら,今までこういう記述に出会ったことが,私はなかった。これらはそれぞれ,「大文字」「小文字」とも置き換えられるかもしれない。

『国語教育・カウンセリングと一般意味論』(井上尚美・福沢周亮 1996 明治図書 ISBN: 4183060168 \2,314)

 タイトルとは異なり、扱われている内容は、一般意味論が第一、国語教育が第二、カウンセリングが第三という感じである。考えてみたら、一般意味論なるものが何なのか、私は本書ではじめてちゃんと読んだように思う。論理学の世界にも「非形式的論理」(informal logic)というものがあるが、これに非常に似ているように見える。もっとも、本書に書かれている一般意味論の発展の歴史の中には、非形式的論理の語は出てこないのだが。私が本書の中で一番「買い」だと思ったのは、一般意味論や論理的な考えについて、筆者らが国語の教科書に書いた教材文が収録されている点。小学校4年生用から高校生用まで、8点が収録されている。この点だけに関しては、本書の存在をもっと早い時期に知りたかった、と思った。

『授業』(斎藤喜博 1963/1990 国土社 ISBN: 4337659013 \1,680)

 斎藤喜博氏の文章をはじめて読んだ。斎藤氏は、授業とは教師と生徒が「それぞれの思考や論理を出し合い、はげしく衝突し合っていくものでなければならない」(p. 20)という。それは具体的には、「はじめ子どもの出した考えを否定し、ちがうものへと持っていき、それをまた否定して、さらに高い解釈を出すようにする」(p. 50)ことを繰り返すのだという。この文章の主語となるのは、主に「教師」のようである。本書でそのことは、「子どもと対決する」「子どもを追いつめる」とか「ぶちこみ」と表現されている。うーんこれは相当の腕と見通しがなければ、難しかったり、不適切な批判になったりするのではないだろうか。ちょっと評価の難しい本だと思った。子どもの行動の解釈や、他校の先生の言動の解釈には、ちょっと首を傾げたくなるようなものもあるし。

『日本の論点2006』(文藝春秋 (編) (2005  文藝春秋 ISBN: 4165030503 ¥2,800)

 昨年11月に購入し,昼休みにちょっとずつ読み進めてようやく読み終わった。年刊誌『日本の論点』を読むのはこれで6冊目だが,やっぱりステキな本だ。今年は,巻末のデータ部分もちゃんと目を通した。これもこれで面白い。今年は,各論点末に紹介されている「筆者が推薦する基本図書」のうち,新書や文庫になっているもので,面白そうなものをいくつか読んでみようと思っている。これもこれで楽しみだ。

『フランクル心理学入門─どんな時も人生には意味がある』(諸富祥彦 1997 コスモス・ライブラリー ISBN: 4795223637 \2,520)

 再読。相変わらず興味深くはあったのだが、しかし、前回読んだときからさほど読みが深まったとはいえない。次は原典を読むべきか。

日常雑記

2006/01/31(火)
2006/01/26(木) 幼稚園で保育参観
 今年からウチの大学では,センター試験で出勤の場合は,手当てが原則として出なくなり,振り替えで他の日に休みを取ることになったようなので,今日をそれに宛て,下の娘(5歳4ヶ月)の保育参観に行ってきた。
 娘は幼稚園ではまあまあ楽しく過ごしているようすで,先生が集合をかけるといつも一番先頭に陣取っている。単に物見高い(←うちの妻似?)だけなのかもしれないけど。
 年休とはいうものの,午後からは授業があるので出勤。少人数の大学院の演習なので,楽しく批判的思考について語り合う。
2006/01/27(金) ゆったりした一日
 今日は久々に、時間のきまった予定が何もない日だったので、やろうと思っていたことを順にこなせる一日だった。特に午前はけっこういろんなことができた。午後からはちょっと息切れしたのか、ペースが落ちてしまったが。
 こういうときに、結果的に効率が最大になるように動くのって、けっこう難しい。そういえば先日、大学院の授業(思考力育成特論演習)で、ある受講生が、手帳の活用術について発表してくれた。手帳はうまく使えば、タイムマネジメントにも発想支援にも情報管理にも使える。このあたり、うまくやれば、私の研究上の興味とも繋がってくるかも、という感じがした。
 ちなみにその院生、もうかれこれ2年も、さまざまな手帳を使いながらさまざまな手帳術の本を参考にさまざまな手帳術を試しているようだ。ちょっと調べてみると、たしかに手帳術の本もサイトもいくつもある。こういう世界があったとわ、とプチ驚いてしまった。いや、面白そうではあるんだけど。
2006/01/28(土) 公園で読書
 今日の午後、上の娘(7歳7ヶ月)が、ちょっと離れたところにあるちょっと大きな公園に行きたい、といった。妻は発達臨床の勉強会だったので、私が娘二人を公園に連れて行った。今日は二人とも私の手を煩わせることはいっさいなく、ずーっと二人で滑り台などで遊んでいたので、私は心置きなく読書ができた。結局遊んだのは、2時半から4時半までの2時間。私はときどき娘たちの様子を見ていたので、一冊は読み終わらなかったが、半分以上読むことができた。最後は少し寒くなったが、それまでは陽のあたるところなら十分に暖かく、快適だった。こういうのなら、また付き合ってあげてもいいかも、と思った。
2006/01/30(月) 一斉授業で思考力育成
 授業(思考力育成論)は,半ば思い付きみたいな形で,「一斉授業で思考力が育成できるか」について,学生たちに話し合ってもらった。結果的にはそういう授業に少なくとも2タイプあることが分かり,私にとってはとても有意義な授業となった。
2006/01/31(火) 期末試験の予行演習
 共通教育科目「人間関係論」は,テスト前最終回ということで,昨年のテストを1問やってもらった。予行演習ということで。30分かけて解答してもらい,昨年一番良かった答案を配布し,出題の意図や,どんな答案を書いてほしいかを説明した。というのは,毎年採点するとき,答案が読みにくくてとても苦労するのだ。今日の経験を元に,適切に試験の準備をしてきてくれるといいのだけれど。

■『いま、女として―金賢姫全告白〈上〉』(金賢姫 1991/1994 文春文庫 ISBN: 4167565013 ¥650)

2006/01/30(月)
〜本名を名乗って自分に戻る〜

 大韓航空機爆破事件犯人である,元北朝鮮工作員の手記。上巻は,逮捕後,取調べを受け,自供し,死刑囚になるところまでであり,自供の中で,作戦遂行のことについても語られている。

 本書を読んで思うのは,『オウムと私』の林郁夫氏との類似点の多さ。違うところは,年齢,性別のほかには,彼(女)が命を懸けたものが,自分で選び取ったもの(宗教)か,選び取っていないもの(祖国)か,というところぐらいではないだろうか。両者とも,大義名分が与えられ,それを懸命に遂行している。任務の遂行に当たって,被害者のことにまったく思いが至っていないというのも同じである。彼女は,取り調べで相手の術中にはまらないよう「革命歌」を心の中で歌っているが,林氏も確か,取調べ中,マントラかなにかを唱えていたと記憶している。彼(女)らは,最後には自供を行うのだが,取り調べ側が彼(女)らをきわめて人道的なに扱ったことがそのきっかけをつくっている点も,とてもよく似ている。

 ちなみに筆者の場合は,ほとんど負けを覚悟しつつもすぐには自供できず,しかし最後に一押しをしたのが,「まず名前だけでも教えてくれたらどうかな」(p.199)と言われ,工作員として長い間名乗っていなかった本名を告げたところにあるようである。名乗ることによって自分を取り戻すというのは,きわめて象徴的な感じがする。

 あと本書では,『宿命』で出てきたような「相互批判」について,もう少しだけ知ることができた。『宿命』では,よど号メンバーたちの思想を北朝鮮のものに変えていく一つの手段として「相互批判」が使われていた。本書によると,相互批判が使われるのはそれだけではない。工作員同士でも,「相手の工作員が三大革命規律(生活規律・組織規律・事業規律)をちゃんと守ったか,〔中略〕任務を単に形式にすぎないものとして"自由主義"をしたのではないか,などを相互批判する」(p.69)ようである。それだけではない。筆者の父は外交部の仕事でキューバにいたのだが,キューバにいる北朝鮮の外交官婦人たちは,「週一回くらいは定期的に生活点検をし合うなど,個人行動にはたくさんの制約がともなった」(p.312)のだという。これらから推測すると,北朝鮮とは,相互批判の網の目によって維持されている社会なのかもしれない。

 そしてそのことは,一つの価値観で動く社会をつくるのに,かなり有効に機能しているようである。一つの価値観というと宗教も同じである。エホバの証人についての潜入ルポである『説得』によると,親がエホバの証人の場合,子どもはその価値観だけを耳にしながら育つわけで,その点では北朝鮮に似ている。しかしエホバの場合は,子どもたちが思春期になるとその価値観に疑問を持ち始めたりする。それは他の価値観と接触する経験などから来るのだろう。それに対して北朝鮮の場合は,「判断力がつく年頃になると,ただ他人の視線が恐ろしくて真心を尽くす振りをすることが多かった。そうしないと,あとの罰がこわいからだった」(p.60)と本書には書かれている。そういう思考の延長から来るのだろうか,筆者は逮捕されたとき,毒薬を飲んだり舌を噛んだりと,自殺を試みている。相互批判が人びとの価値観を一定方向に向けさせる上で,いかにうまく機能しているかということがわかる。恐ろしいことだけれども。

MP3プレーヤー

2006/01/29(日)

 1週間ほど前に、MP3プレイヤーを買った。これで3台目である。2台目のHD内蔵型を買ったのが約2年前。それは通勤時ウォーキングのお伴として欠かさず使っていたし、特に不満はないのだが、正月の帰省帰りの飛行機の中で機内誌を見ていて、久々に物欲が喚起されたのだ。

 買ったのはTalkMasterII。これを買ったのは語学学習用である。AM/FMラジオチューナーを搭載しており、ラジオ番組をMP3形式でタイマー録音できる。これでNHKラジオの英語講座を聞こう、という魂胆だ。自分の英語力のなさを痛感する出来事が昨年末にあったからなのだが。

 とりあえず基礎英語1からはじめて、今は基礎英語2と英会話入門を、通勤時に歩きながら聞いている。今のところテキストは買わないで、自分でスキットをディクテーションしている。英会話入門だと知らない単語がいくつか出てくるし、会話のスピードは速いものの大意は分かる(ような気がする)ので、レベル的には悪くない。しかし基礎英語2も、役割練習の時間があったりして実践的な感じがするのでこちらも悪くないと感じている。知らない単語がほとんどないというのも、逆に考えれば、知っている単語だけでそれなりのことをいう練習にもなるわけだし。

 なお今回買ったのは通販なのだが、BeMasterという小さなMP3プレイヤーとセットで、TalkMasterII単体よりも2000円高いだけというお得なセットであった(しかも送料無料)。ちょうどいいので、こちらは妻に誕生日プレゼントとしてあげることにした。一石二鳥の買い物ができて満足である。

■『考えあう技術─教育と社会を哲学する』(苅谷剛彦・西研 2005 ちくま新書 ISBN: 448006222X \819)

2006/01/25(水)
〜選びなおしによる追体験〜

 教育社会学者と哲学者が、「学ぶことの意味」(と学校の意義)について対談している本。教育を論じるに際して、「教育の中だけ」で論じるのではなく、まずどういう社会をつくろうとするかを考え、そのためにどういう条件(知識、能力、考える力など)が必要かを考える、という具合に、「教育の外」から論じられている。非常に興味深い内容だった。特に、批判的思考の位置づけ、という観点から見たときに。

 たとえば苅谷氏は、自由な社会を実現し維持し拡大するために個人に必要な力能として、経済的自立、政治的自立、社会・文化的な自立の3つを挙げている。このうち、経済的自立のために必要なのは、新しい知識や技能を身につける「訓練可能性」の高さで、批判的思考とはあまり関係がないが、後の二つは関係がとてもあるように思う。

 政治的自立とは、複雑な問題を理解し、公正で良識的な判断が下せることである。これは『判断力はどうすれば身につくのか』に論じられていた有権者教育そのものであり、政治的な争点を理解し賢く判断する、という批判的思考的な力がまさに必要な部分である。社会・文化的自立のためには、他者の思想・信条を理解し、それが犯されていないかを判断する力が必要になる。ここでも必要なのは理解と判断の能力であり、その内容はおそらくきわめて批判的思考的なものになるだろう。このくだりのおかげで、批判的思考教育を社会的要請の観点から区分しながら理解する手助けになったように思う。

 本書の中では、批判的思考という語そのものも用いられている。それは西氏の論考で、常識通念の思い込みがあることによって解決が難しくなっている問題があったときに、了解の形を検証しなおし、動かし、新たに作り直す必要が出てくる。そのような通念を問い直すのが批判的思考、ということのようである。

 そのことと関係しているのだろうと思うが、苅谷氏が教育のあり方として提唱しているのが「選びなおしによる追体験」である。たとえば社会について学ぶさいに、既存のものを自明として受け取るのではなく、「擬似的に、自分たちがもう一度国家をつくり直す、あるいは選び直してみるという追体験の機会を与えることで、生徒たちは、なぜ自分たちが国家を必要としているのかを理解できるようになる」(p.120)というような教育である。私も、これとまったく同じではないが、学問などの概念を「動かせる、自分で作り出せる」ものとして学ぶことが必要ではないか、と考えていたところだったので、苅谷氏の「選びなおし」のアイディアは、そのことについてさらに考えるためのヒントになりそうだと思った。

 ちょっとうまくまとめられないのでこれぐらいにしておくが、要するに示唆的な本だったということである。

日常雑記

2006/01/24(火)
2006/01/20(金) 授業を見た
 午前中は授業見学。新任教員なのだが、この1年の成長には目を見張るものがある、と思うような授業だった。
 夕方からは会議。半年から1年は継続されそうな会議で、その分仕事時間は確実に取られるのは痛いが、しかし、学部改革のある部分について、根本的なところから考え、議論できそうなので、その点はちょっとありがたいかもしれない。
2006/01/21(土) 歯医者に行った
 今日は、年に一回の歯の掃除に行った。今日は下の歯だけしてもらった。今日、2箇所ほど、掃除をしてもらいながら染みるところがあったりした。虫歯ではないそうだが要注意だ。前歯の裏の歯茎との境目に歯石がついているのを見せてもらった。うまく磨けていないようだ。前歯の裏は、歯ブラシの「カカト」を使って磨くといいらしい(小臼歯から外は歯ブラシの「つま先」で)。「プラウト」という小さな歯ブラシがあり、よさそうだったので手に入れたし、これから1年、次の掃除のときまで、歯を大事にしなければ、と思った(毎年掃除の直後はそう思うんだけど...)
2006/01/22(日) センター試験の警備で凍える
 今日は朝からセンター試験の警備。昨日は最高気温21度で過ごしやすい日だったのだが、今日は4度下がって最高気温17度。でも朝はそんなに寒い気がしなかったので「ちょっと厚着」ぐらいで出たらこれが大失敗。寒さに凍えながら警備をする羽目になった(午後からは妻にコートを持ってきてもらった)。
 考えてみたらほんのひと月前の表の日記に「沖縄の17度は寒い」と書いたばかりだったのに、すっかり失念してしまっていた。今日は暖まって寝なければ。
2006/01/23(月) 今日の「思考力育成論」
 今日の授業では,冬休みレポートとして出されたものを配布し,それに対して各グループにコメントをつけてもらった。
 冬休みレポート課題は,最終レポート課題の下書きを書く(途中まででも可)というもので,出しても出さなくてもいい任意課題とした。授業では,各グループに2つのレポートを配布し,それぞれについて,良い点(参考にできる点)と,改善した方がいい点をグループで考え,発表してもらった。改善点については,あまりたくさん挙げてもしょうがないし,重要度の軽重があると思ったので,一つに絞ってもらった。
 授業中は,学生は比較的静かに話し合っていた(というか沈黙している場面も少なくなかった)ので,課題として難しかったのかなあと思ったのだが,授業後の感想を見ると,他人のレポートを見ながら,自分のレポートについてヒントを得たりしていろいろ考えたり学んだりしていたようで,さほど悪くはなかったらしい。それにしては,どうして話があまり盛り上がってい(るように見え)なかったんだろう。
2006/01/24(火) 今日の「人間関係論」
 今日は対人認知の話。アッシュの実験を実際にやったり、偽患者実験の紹介をしたりして、人が枠組みを通して人を見ていることはうまく示せたのではないかと思う。ワタシ的にはとてもうまく授業が進んだと思っている。
 今週も先週も、昨年の講義ノートとOHPシートを元に授業を進めたのだが、先週は全然だめで、今週は悪くない授業だった。同じような条件なのに、何が違ったんだろう。

■『国語〈2〉─詩と物語をあじわう(シリーズ授業 実践の批評と創造)』(稲垣忠彦(編) 1992 ISBN: 4000041223 岩波書店 ¥2,447)

2006/01/20(金)
〜鑑賞と吟味〜

 このシリーズを読むのも『算数(シリーズ授業)』に続いて7冊目。絶版なので例によってマケプレにて購入。本書には、小学校1年の詩の授業と、小学校6年の物語の授業が収められている。本書では、「鑑賞すること」と「吟味すること」の関係について考えさせられた。

 1年の授業については河合氏が、「今日の授業は、解釈がなくて、みんなで読み合っていたのが非常によかったのではないですか」(p.46)と評している。確かに授業は、何人かが詩を音読し、教師は「聞いててどうだった?」とか「どこが好きですか?」などと子どもに聞いているだけである。しいて指導しているといえば、「それぞれ、みんな好きなところが違うでしょ。自分が好きなところを大事にして読んでみて」(p.128)と子どもに指示している程度である。このように、いい文章に出会い、解釈せずに読むようなことを佐藤氏は、「音楽の鑑賞と一緒だと思うんですよ」(p.45)と述べている。なるほど音楽鑑賞では、吟味したり話し合ったりせず、自分がいいと思うところを味わうことが中心となっている。

 一方、6年の物語の授業では、どうすべきかについて、論者の意見は分かれていた。授業では、いくつかの場面を取り上げて、主人公の心(何を思っているか、どんな気持ちだったか、など)を話し合っている。それに対して佐藤氏は、それぞれの発言が「吟味」されず、言いっぱなしに終わっているのが問題だと考え、「子どもたちが自分の解釈を持つまではいいのですが、これが話し合いの授業ではなく、文学の授業であるならば、それは、もう一度テキストにもどして吟味される必要があると思いました」(p.68)と述べている。これは私もそのとおりだと思ったし、授業を見ていて、そう思う場面は少なからずある。

 しかしこのような考えに対して、大村氏は、「今回のあの場は、吟味する話し合いではなかったのである」(p.194)と、吟味の必要がないことを主張している。「時間の終わりに、みんながそれぞれに力を出して読み終え、書き終え、ほっとして、余韻を楽しんでいるような感じになれば、満足」(p.192)であり、それで鑑賞はすんだのであり、話し合いは必要ない、ということである。こういうことを大村はま氏に言われると、なるほどそうなのかもなあ、という気もする。

 この2つの考え、どぢらがどうなのかは、もちろん国語教育素人の私には分からない。しいて言うならば、話し合いの目的によって異なってくるのかもしれないし、あるいは、子どもの鑑賞の質によって変えるべきなのかなあとも思う。この点については継続検討課題である。

 もう一つ。6年の授業について、批評参加者が口々に、討論が形式化しているとか、ことばづらだけになっているとか、発言が不自然と述べている。話し合いの授業では私もそう感じることが少なくない。ではそうならないためにはどうしたらよいのか。それについて大村氏は、次のように述べている。

こういうとき、子どもたちが本物のことばを言うようにするのは、先生の話し合いへの入り方なんです。だれも用意してなくてだれも考えていないことが先生からばっと出て、びっくりしてみんな本物になってしまうんですね。〔中略〕その発言の種をどうやって探すのかは、作品が適切であった場合は作品研究ですね。(p.73-74)

 要するに教師の関わりが重要だ、という意見である。ざっと見たところ、他の人も「話し合いが形式的にならないための教師の役割」について述べている箇所があったので以下に記す(これがすべてではないかもしれない)。

 これについても、上記のような意見を念頭におきつつ継続検討するとしかいいようがないが、教師というのは大変だ、という感じがする。大村氏などは、こういう真剣勝負を何十年も続けてきたのだろうけれども。

 あ、ここで一つ思ったのだが、大村氏はこういうこと(作品研究など)をやっているからこそ、吟味せずに鑑賞に没頭させることができる、ということなのだろうか。これはあくまでも一つの解釈だが。

秘密基地に行ったり教育について考えたり

2006/01/19(木)
2006/01/15(日)
 午後から娘たちと近所の公園に行くと、近所に住んでいる1年生2人と5歳児が遊んでいたので、ずっと一緒に遊んだ。うちの娘たちは学校以外で遊ぶときは、たいていの場合、「親の目の届くところ」で、「おもちゃ」を使って遊ぶのだが、この子たちはまったくそうではないようで面白かった。おもちゃや遊具はほとんど使わず、フェンスを乗り越えたり、コンクリートの斜面をよじ登ったり、自転車置き場の屋根に上がったり(「秘密基地」と称していた)、ゴミ捨て場からダンボールを拾ってきて斜面を滑り降りたり。擦り傷ぐらい作るのが当たり前という遊び方だった。うちの子たちに欠けていた遊び方だったので、私としてはうれしかった。夕方前には下の娘(5歳4ヶ月)が帰りたがったので私はうちに帰って昼寝をしたのだが、上の娘は引き続き外で遊んだようだ。私が知らない間におにぎりを作り、水筒とビニールシートを「秘密基地」に持っていってビクニックごっこ的なこともしたらしい。頼もしい。
2006/01/16(月)
 通勤路上でサクラが咲いていた。もうそういう季節か。
 授業は,「思考力育成論」年明け最初の回。「課外授業ようこそ先輩」のビデオを見て、思考力育成の観点から分析してもらった。今回は、前に見たビデオとの異動を比較しながら見る、というやり方でやってもらった。私が考えていたのとはかなり違う視点がでて面白かった。発表後の討論の時間が取れないのが相変わらずの悩みなのだけれど。
2006/01/17(火)
 共通教育科目「人間関係論」。今日のテーマは傍観者介在効果。町田の事件を導入にしたのはいいが、その後の展開(ラタネらの実験の紹介)が、統一感のないものになってしまった。授業中に思い出したのだが、ラタネらの煙実験と同じような実験は、以前、TV番組「世界で一番受けたい授業」でやっていたのであった。録画もしてあったのに、すっかりそのことを忘れてしまっていた。くっそー。
2006/01/18(水)
 午前中はゼミ。午後は入試関係の会議。代理出席だったのだが、議題についていろいろと考えることがあったので、いくつか発言した。つくづく、入試って入試だけの問題ではない、と思った。ある種の入試を行うということは、その入試に適した学生が入学するということである。ということは、そのようなタイプの学生が在学することを前提に、その長所を伸ばし短所を補うような教育をする覚悟があるかどうか、という問題とセットで考える必要があるのだろうと思う。
2006/01/19(木)
 FDの一環で公開された授業(公民科教育法)に出席した。授業中,地図についての話があった。地図は地図製作者の価値観で現実世界を切り取ったものである。同じことは授業についてもいえると思った。授業は地図である。そこには,授業者の価値観に基づく情報の選別が行われている。そのことをきちんと示すことが,考える授業につながるのではないかと思った(そうでなければ,先生のいうことは正しい,と受け取るしかなくなる)。

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