読書と日々の記録2006.02下

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■読書記録: 28日短評9冊25日『アメリカ外交』 20日『「日本文化論」の変容』
■日々記録: 25日附属小の勉強会ほか 17日日常雑記

■今月の読書生活

2006/02/28(火)

 今月は胃が痛い1ヶ月間だった。手持ちの市販の胃薬をとっかえひっかえ飲んだが効かず,前に聞いた市販の薬を飲んだがやはり効かず,保健管理センターでセルベックスを処方してもらったがやはり効かず。胃が痛くなるのが午前9時半ごろと午後4時ごろなので,知り合いのアドバイスで,その時間帯に間食をすることにしたところ,ここ数日は少し状況がいい。それでも夕食前にはやはり痛くなるのだが。なんだか忙しくて,病院に行く余裕もない。

 今月よかった本は,『オウムはなぜ暴走したか。』(なるほどそういう団体だったのか)と『「日本文化論」の変容』(なるほど文化のアイデンティティの変容ね)。しかし,長評した残りの3冊も悪くなかった。

『わが子に教える作文教室』(清水義範 2005 講談社現代新書 ISBN: 406149810X \756)

 小学生の子どもを持つ親に向けて書かれた、作文の指導法の本。これはいい本だった。そういう言葉は遣っていないが、筆者は「文化」としての作文を重視しているらしく、親が書いている姿を見せよう、とか、ほかの子(あるいは親)のうまい作文を読み聞かせよう、とか、子どもが何か要求したらそれを作文に書かせよう(読んでなるほどと思ったら要求を実現しよう)、という指導が並んでいる。特に筆者が重視しているのは、読んでほめてやることのようである。といっても子どもの稚拙な作文をほめるのはなかなか難しい。そこで本書では、実際の小学生の作文例が挙げられており、それを「私ならこうほめる」と、具体的なほめ方も提示されている。実にいい。ちょっと耳が痛かったのは、「一番面白かったことだけに絞って書くようにいう」という指導である。常道といえば常道の指導なのだが、私も読書記録を書きながら、ついつい思ったことをたくさん書いて長くなってしまう。本書は、自分の文章を振り返る意味でも有用なアドバイスを含んでいる。

『第五の権力アメリカのシンクタンク』(横江久美 2004 文春新書 ISBN:4166603973 \735)

 アメリカ(主にワシントン)におけるシンクタンクについて書かれた本。シンクタンクとは、「政策研究を行い、質量両面からアメリカ政治をサポートする、政党に所属しない非営利団体の総称」(p.5)だそうである。アメリカではシンクタンクは非営利団体でなければならないが、日本ではそういうタイプのシンクタンクは存在しないそうだ。それはアメリカのシンクタンクが、ビジネスモデルを確立しているからである。シンクタンクが、第五の権力としてアメリカの政治を支えていることは、本書でよくわかった。アメリカの民主主義は、こういうものにも支えられているんだなあ、という感想である。ただ内容は、非常に専門的な感じで、私にはちょっと難しめだった。

『プロジェクトX挑戦者たち〈6〉ジャパンパワー、飛翔』(NHK「プロジェクトX」製作班 2001 日本放送協会 ISBN: 4140805749 \1700)

 本書では、屋久杉、トランジスタラジオ、男女雇用機会均等法、女子登山隊、心臓手術、ゴジラの6つが収められている。私がテレビで見たのはトランジスタラジオとゴジラだけで、見ていない話が多かったので買ってみた。どの話も悪くはなかったが、すごく面白い、というわけではなかった。心臓手術の話なんかは、ちょっとホロッときたりはしたのだけれど。前に『プロジェクトX5 そして、風が吹いた』を読んだときは、すごく面白かったのに。単に私の体調のせいかもしれない。

『東京サイテー生活―家賃月2万円以下の人々』(大泉実成 1992/1994 講談社文庫 ISBN: 4061858122 \632)

 バブル崩壊前の東京で、家賃2万円以下で暮らしている人々にインタビューした本。雑誌の連載記事だったらしい。全部で22人が載せられており、一人あたりに割かれているページが少ないせいか、軽い内容だった。実は私は、『路上の夢─新宿ホームレス物語』のようなものを期待していたのだが、そうではなかった。まあこれはこれで面白い、という人も少なくはないのだろうけれども。

『教育の論点』(文芸春秋 (編) 2001 文藝春秋 ISBN: 4163576401 ¥1,450)

 2002年の指導要領の改訂を前に出された本。書き下ろしもあるが、文芸春秋誌に掲載された論考もあるようだ。また方向性がかわろうとしている今の視線で読むと、ちょっと興味深かったりもする。なにかでも物足りない気はするのだけれど。

『「超」納税法』(野口悠紀雄 2003/2004 新潮文庫 ISBN: 410125625X ¥540)

 筆者の他の「超」シリーズは、基本的にはワンアイディア(あるいは少数のアイディア)+雑学、という感じだが、本書は筆者の専門分野でもあるせいか、かなり詳しく論じられている。その内容も、節税の方法論的な話もあるが、それを切り口に、日本の税制の根本的な問題を論じ改善案を提起している。細かい話を十分に理解したとは言いがたいが、雑学的な意味でなかなか興味深い本であった。

『納得の構造─日米初等教育に見る思考表現のスタイル』(渡辺雅子 2004 東洋館出版社 ISBN: 4491020213 \2,835)

 再読。あまり集中して読めてはいないのだが。筆者は、日米の思考表現のスタイルを見出した上で、両者を使い分ける(「必要に応じてシステム間をスイッチしていく」(p.244))可能性を示唆している。ここのところはどうなのだろう、と思った。それがうまくいくのかどうか。結局それは、それぞれの思考法がどれほど普遍的なのか、あるいは文化特殊的なのか、ということに依存するのか、なんてことを『「日本文化論」の変容』 を読んだ人間としては思ったりした。

『ウィトゲンシュタイン─言語の限界』(飯田隆 1997/2005 講談社 ISBN: 4062743582 \1,500)

 今までウィトゲンシュタインものはいくつか読んできたが、その中ではめずらしく、本書はあまりインスパイアされるところがなかった。強いて言うならば、たとえば「読む」ことが、「読むことにかかわる実践に参入する」こと、という指摘ぐらいだろうか(p.244)。もうすでにどこかで読んだ話かもしれないのだけれど。

『ドキュメント弁護士─法と現実のはざまで』(読売新聞社会部 2000 中公新書 ISBN:4121015312 \693)

 うーん。『ドキュメント裁判官』と同じような本。『ドキュメント裁判官』と同じく、弁護士にもいろいろな人がいるのはわかったが、しかし、『ドキュメント裁判官』とは違い、その程度の感想だけで読み終わってしまった。あと、『ドキュメント裁判官』では「新聞のコラム記事」臭がときどき鼻についたが、本書はその頻度がもっと多かったように思う。要するに私にとってはイマイチの本であった、ということだ。

■『アメリカ外交─苦悩と希望』(村田晃嗣 2005 講談社現代新書 ISBN: 406149774X \740)

2006/02/25(土)

 アメリカの外交史について書かれた本。たとえば『デモクラシーの帝国』では、アメリカを圧倒的な軍事力を持つ「帝国」として描いている。しかし本書で筆者は、「アメリカを「帝国」と呼ぶことは、アメリカのパワーに対する過大評価であり、アメリカと国際社会双方の複雑性と多様性に対する過小評価」(p.8)と述べている。というのは、軍事力だけが「力」の源泉ではないからである。それに、世界が一極構造になっている、ということは、一極支配とイコールではないのである。

 本書ではパワーを、軍事力、経済力、価値(情報、文化、規範)の3つの観点から分析している。それだけでなく、分析のレベルを、国際システム、国内レベル、個人レベルの3つにわけるなどして、より丁寧に状況を記述し分析しようとしているのである。このような分析概念が提示した上で、本書ではアメリカの外交史を、建国から現在までを分析されている。それも、典型的な方向性として、ハミルトニアン(海洋国家)、ジェファソニアン(大陸国家)、ウィルソニアン(理念追求)、ジャクソニアン(国威高揚重視)の4つの方向性を提示し、それらの出方の違いとして各時代の外交を記述しているのである。

 ちなみにブッシュ政権は、ジャクソニアン(チェイニーとラムズフェルド)やジェファソニアン(パウエル)などの様々な勢力が合従連衡する混成チームだったのだが、9.11とアフガニスタン攻撃の頃から、自由や民主主義といった理念を強調するウィルソニアン敵色彩を強めていった、というように分析されているわけである。

 本書は、外交という観点から、ある程度の視点を持ってアメリカを捉えなおすことができるという点では、興味深い本であった。ただし、各時代にみられるそれぞれの傾向が基本的に記述されているだけである部分が多いのは、私としてはちょっと残念に思った。ここの部分が単なる記述だけでなく、大きな意味での「流れ」なり、変遷の背景にまで踏み込んでくれるといいのになあ、という感じである。もっともこれは、政治オンチの私の私見であって、そういうことが可能なのかどうかはわからないのだが。

附属小の勉強会ほか

2006/02/25(土)
2006/02/20(月) うぐいすのこと
まーちゃん(仮名)あのね,けさ,大学にいく と中で,うぐいすが 鳴(な)いているのが きこえたよ。「ほーほけきょ」って鳴いてたよ。ばしょは,大学の中の いけの ところだよ。ここで うぐいすの 鳴きごえを きいたのは はじめてだったから,びっくりしたよ。まーちゃんは,うぐいすの 鳴きごえを きいたことがある?
2006/02/22(水) そつろんはっぴょうかいのこと
まーちゃん(仮名)あのね,きょうは 「そつろんはっぴょうかい」を 聞(き)きに いったよ。「そつろん」っていうのは,大学生のおにいさん,おねえさんがやる,「なつ休み じゆう けんきゅう」みたいなものだよ。といっても,そつろんは,なつ休み だけじゃなくて,1年かけて やるんだよ。きょうは 二人しか 聞けなかったけど,しっかりした けんきゅうを していたよ。さすが 大学生 と パパは おもったよ。
2006/02/25(土) 附属小の勉強会
 昨日は、附属小の勉強会に参加してきた。講師は市川伸一先生。先生は午前中の3時間で6つの授業を参観されたのだが、私もそのうちの4つに同行した。私は今日は指導助言も何もないので、子どもたちの様子を楽しんで見た、という程度なのだけれど。
 午後は、2時から5時まで校内研。2時間ちょっと市川先生が話をされ、残り時間が質疑。十分な質疑時間がなかったので、私は発言しなかったのだが、附属小のこれまでの研究テーマ(対話で学びあう)や、その元となった佐藤学び論と、市川先生の考えの異同について、ずっと考えていた。私なりに一定の結論が得られたような気がするので、一応満足である。
 その後は、研究推進部の先生方と、空港までお見送りに同行。空港で軽く食事をして先生を送り、皆で大学まで戻ったので、今度は研究推進部の先生方の考えをいろいろと聞くことができた。これからの研究推進、がんばって欲しいものである。

■『「日本文化論」の変容─戦後日本の文化とアイデンティティ−』(青木保 1990/1999 中公文庫 ISBN: 4122033993 \619)

2006/02/20(月)
〜否定的結果からの回復〜

 『菊と刀』以降の日本文化論を整理した本。戦後、『菊と刀』以降、さまざまな日本文化論が日本人によって出されている。日本人が「日本文化論」の中でで日本をどのように位置づけるかは、サブタイトルにもあるように「アイデンティティ」とかかわる問題である。つまり日本文化論の変容を記述することは、日本人のアイデンティティの変容を記述することにもつながる、興味深い問題なのである。その上、戦後の日本というのは、敗戦という否定的結果からの再生(回復)過程であった。再生(回復)過程にこそ、アイデンティティが表れる。なるほどうまいところに目をつけたものである。なお筆者は、『異文化理解』を書いている文化人類学者である。

 戦後の日本文化論の概要を言うならば、戦後すぐは、日本の持つ特殊性が否定的に捉えられた時代だった(「否定的特殊性の認識」)。その代表例として、坂口安吾の「堕落論」などが挙げられているが、そこでは要するに、いかに日本が前近代的で封建的であるかが論じられている。しかし戦後10年もすると、「否定」が見直されるようになる。たとえば、「日本の文化は雑種であり、それはそれとしてまた結構なのではないか」(p.72)というような認識である。この時代のことを筆者は「歴史的相対性の認識」と呼んでいる。

 さらに10年もたち、高度成長期に入ると、むしろ日本の持つ特殊性が肯定的に捉えられるようになる(「肯定的特殊性の認識」)。その代表例には、タテ社会、間人主義などが挙げられている。これらは、「日本社会の構造を最も適切にはかり得るモノサシ」(p.94)として提示されているのである。それは、「和服」における鯨尺のようなものだ、というわけである。しかし、さらに20年もすると(1980年代半ば)、日本の国際的な成功にもかげりが見られるようになる。そこで求められるのは、日本の単純な肯定ではなく、日本的なものが「メリットも含めてはたして「国際的」に通用するものであるのか、あるいは日本に「特殊」なものであるのか」(p.139)という、普遍性に関する議論である。それはたとえば、日本的経営が日本ではうまく機能したことは認めるとしても、それが国際的に通用するのか、それとも日本に特殊なものであるのか、というような議論である。そして筆者は最後に、「「普遍性」と「個別性」のバランスこそ、いま世界では何を語るにせよ、主張するにせよ、強く求められること」(p.182)と論じているのである。

 この話、何が興味深いかというと、日本文化だけの話ではなく、人の場合でも、組織の場合でも、否定的な結果(日本で言うなら敗戦)から出発したときに、自分のアイデンティティを確認するやり方は、否定、相対、肯定、普遍と分類可能だろうし、またその変容のプロセスとして、否定→相対→肯定→普遍という流れをたどることは、大いにありうるのではないかと思うのである。たとえば、日本人は論理的思考力が弱いだの、議論がうまくない、という認識があるとする。これについても、上記のような認識の段階なりバリエーションを想定することが可能だろうし、最後は普遍性と個別性の議論に行き着くと思う。そういう発想が得られたという点で、本書のアイディアはとても興味深いものであった。

日常雑記

2006/02/17(金)
2006/02/15(水) さいてんとかいぎ
まーちゃんあのね,きょうも 大学生のおにいさん,おねえさんの さく文をよんで さいてんしていたよ。
きょうよんだ さく文は,げんこうようし10まい から 20まいもある,長(なが)い さく文だったよ。おもしろい さく文ばっかりだったから,よんでいて たのしかったよ。
でも,そのあと かいぎが 2つあったから,やっぱり きょうも つかれちゃったよ。
2006/02/16(木) さく文のこと
まーちゃんあのね,きょうパパは,ごぜん中は いろいろな しごとを したよ。おひるからは,さく文を書(か)いたよ。さく文を 書くのも パパのしごとなんだよ。きょうは すこししか 書けなかったよ。あしたは,もっと たくさん 書けると いいなあ。
2006/02/17(金) インタビューのこと
まーちゃんあのね,きょうはふぞく小学校の先生にインタビューしたよ。はなしが 長くなってしまったよ。いまからかえるからね。

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