読書と日々の記録2006.03下

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■読書記録: 31日短評7冊 30日『図解フィンランド・メソッド入門』 25日『北朝鮮難民』 20日『国語〈1〉(シリーズ授業)』
■日々記録: 26日一点突破

■今月の読書生活

2006/03/31(金)

 胃の痛みは,病院で薬を2週間もらったせいか,今のところおさまっている。といっても薬が終わってまだ数日。まだ怖いので,コーヒーも酒も飲んではいない。昨日はちょっと暑かったので,アイスクリームは食べてしまったけど。いつから通常に戻したらいいものやら。

 今月良かった本は,『心は実験できるか』(なるほどそんな物語があったのか)と,『北朝鮮難民』(なるほどそんなことが起きていたのか)。

 なんだか忙しいままにもう4月だなんて...

『ことばの教育と学力─未来への学力と日本の教育』(秋田喜代美・石井順治(編) 2006 明石書店 ISBN: 4750322504 ¥2,520)

 編者さまに頂いた本。「ことばを子どもが確かに学び自ら使い表す様相とはどのような授業や学びのプロセスであるのか、どのような教育であるのか」(p.5)を、いくつかの角度から描いている。小学校、中学校の授業、障害児、在日外国人の子弟の学び、子どもの本屋、などについて書かれている。一番興味深かったのは、子どもの本屋さんの話だった。もちろん授業実践についても、興味深いものがいくつかあった。中学生が、絵本の分かち書きがどのようになされているかを、文法という観点から考える授業なんか、なるほどと思った。

『教育の方法(改訂版)』(佐藤学 2004 日本放送出版協会 ISBN: 4595237138 \1,995)

 多分私は佐藤氏の単著は、ほとんど全部読んでいるのではないかと思う。その上本書は、放送大学のテキストなので、きっとすでにどこかで読んだことのある話が中心なのだろうと思った。本書を買ったのは、誰かが引用していて、その記述を確認するためだったのだ(ちなみにその記述は見つけられなかった)。しかし本書を通して読んでみると、内容的には確かにどこかで読んだような記述が中心だったのだが、しかしそうではない部分もあるし、その上、一度呼んだような記述も、改めて新鮮に受け止められるような記述も少なくなく、それなりに得るものがあった。最近私が見ている授業を想起しながら読むせいだろうか。初めて呼んだ記述としては、たとえば次のくだりが目をひいた。「「省察」と「反省」は二つの対話によって成立します。一つは「状況との対話」であり、もう一つは「自己との対話です」(p.90) うーん、うまい、と思ってしまう記述である。

『ここにないもの─新哲学対話』(野矢茂樹 2004 大和書房 ISBN:4479391118 \1,890)

 サブタイトルにあるように、対話で哲学している本。哲学の対話本をうまくつくるのって、けっこう難しいような気がする。独話に相の手が入っているだけだったり、相手が物分りが良すぎたり。その点本書は、私にとっては比較的自然な対話に見えた。本書で扱われているのは、意味とか未来とか。未来に関する考察は、多分『他者の声実在の声』と同じだと思うのだが(出版は本書が先)。私にとって示唆的だったのは、意味に関する考察。「意味がある」とは、「全体との関係で、〔中略〕所を得ているときに、それは意味があるって言う」(p.16-17)と考察されており、納得である。そして他書で筆者が述べているように、「考える」とは全体の中で新しい結びつきを見出すということである。それはつまり意味を見出すということである。ということは、これから「意味」についても私は考えていかないといけないかな、と本書を読んで思った。

『ファシリテーション革命─参加型の場づくりの技法』(中野民夫 2003 岩波アクティブ新書 ISBN:4007000697 \777)

 ワークショップで必要なファシリテーションの技術と心得の基礎について書かれた本。非常に具体的でよかった。たとえば、最初のオリエンテーションでは、A4の紙にマーカーでキーワードを書き、それを紙芝居風に提示しはりながら説明していくとよい、なんて話がたくさんあった。授業や研修会で役立てられそうである。

『火花─北条民雄の生涯』(高山文彦 1999/2003 角川文庫 ISBN:4043708017 \899)

 講談社ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション章受賞作。ハンセン病で、病院に収容されながら小説を発表し、一世を風靡した北条民雄氏の伝記である。60年以上前の人で、当時のことを知る人も非常に少ない中、聞き取りや文書資料を元に書かれたよう。私にとっては、ノンフィクションとしては今ひとつだった。ほとんどが北条氏の視点で書かれており、筆者の視点が見えにくい部分が。これでは、ノンフィクションというよりも、小説という感じがする。あくまでも私の個人的好みなのだが。

『国家の品格』(藤原正彦 2005 新潮新書 ISBN: 4106101416 ¥714)

 知り合いの先生が貸してくれたので読んだ。「論理だけでは世界は破綻する」関連の箇所については,その根幹的な内容は筆者の『数学者の休憩時間』で読んでいた。筆者が論理に関して述べていることは,非常に重要な指摘であると思う。また本書は,日本文化論としてみたときには,『「日本文化論」の変容』で言うところの,「肯定的特殊性の認識」論の一つだ。本書の記述には突っ込みどころもいっぱいあるだろうが,そういう議論だと考えると,まあ言いたいことはわかる。

『道徳は教えられるか』(村井実 1967/1990 国土社(現代教育101選) ISBN: 4337659137 ¥1,680)

 再読。あまり深く理解することなく、なんとなーく読み終わってしまった。筆者の言う「期待される(過程としての)人間像」という概念は、わかりにくいのだが、その例として筆者は、「明晰に思考したいと思うものは、より明晰に思考する先輩や教師にならって思考することによって、明晰な思考力をもつ人間に育つことができる」(p.198)というものを挙げている。一種の徒弟制である。これが思考教育の一つの(あるいは唯一の?)形態なのだろう。

■『図解フィンランド・メソッド入門』(北川達夫 2005 経済界 ISBN: 4766783476 \1,500)

〜型を訓練する〜
2006/03/30(木)

 筆者は、フィンランド大使館に勤務したことのある、元外交官。現在は教育に携わる仕事をしているらしい。本書は、フィンランドの国語教育で行われている言語論理教育的なものを、5つのメソッド(発想力、論理力、表現力、批判的思考力、コミュニケーション力)で解説している。本書自体薄い本で、80ページ強しかないし、そのうちの20ページ強は、フィンランド自体の紹介に割かれているので、フィンランドの教育に関する箇所は、実質的には60ページである。なので、あまり詳しいことはわからないのだが、上記の5つのメソッドはおそらく、フィンランドの国語教育で使われている言葉そのものではなく、それを筆者なりに整理したものだと思う。それは本書全体にも言えることで、要するに本書は、フィンランドの国語教育そのものをまるごと紹介する本ではなく、フィンランドの国語教育を紹介しながら、それを通して、筆者なりに組み立てた5つのメソッドを説明する本と考えたほうがよさそうである。

 内容をごく簡単に書くと、「発想力」では、マインド・マップを使って発想するやり方が説明されている。これはフィンランドの小学校でもよく使われているようである。「論理力」は、意見に理由をつけることであり、ひとつの意見に理由を3つ考えましょう、なんていう活動が紹介されている。「表現力」では、先の「マインド・マップ」や「理由+意見」などのフォーマットを使って、文章を書くことが紹介されている。「批判的思考力」は「本当にそうかな?」と考えることで、たとえば他人が書いた文章のいいところ、悪いところを10個ずつ挙げる、なんていう活動が紹介されている。「コミュニケーション力」では、議論のルールを決め、班で議論する、などという活動が紹介されている。本書のところどころに紹介されている活動例は、なかなか悪くない。

 筆者もあとがきで指摘しているが、これらはどれも、一定の型を用いる訓練になっている。型を用いた訓練というと、『納得の構造』で紹介されていたアメリカの作文教育を思い出すが、本書で紹介されているものも、それにとても似ているように思えた。フィンランドの教育というと、ときどきNHKの番組に佐藤学氏が出てきて紹介していたりするが(あれ? スウェーデンだったかな?)、そこでの紹介のされ方は、あくまでも「グループ活動を中心とした、探究型の教育」というもので、型の訓練という話はなかったように思う。フィンランドの教育の全体像が知りたいものである。

一点突破

2006/03/26(日)

 今日は、うちの大学の心理学の先生の退職パーティに行ってきた。卒業生など、懐かしい人がたくさん来ていた。10年近く前に卒業した元学生に、先生(=私)は昔とちっとも変わらないだの、先生の授業は面白かった、今も役に立っているなどと言われた。こういうこと言われるのって、久しぶりでうれしい。

 今私は、先日とったインタビューデータをどうまとめようか、思案しているところなのだが、それについてアドバイスをもらうことも、実は今日の私の目的の一つだった。卒業生で、質的研究を中心にやっている人がいるのだ。

 今回アドバイスしてもらったのは、「一点突破」ということだった。知りたいことの全体を一気に明らかにすることはできないので、まずは一点から、ということだった。要するに何か一つでもわかればいいし、それが次へのステップに繋がる、ということだと私は受け取った。

 実は彼には1年前にもアドバイスをもらっている。私にとっては、年に一度のミニゼミみたいなものである。こういうことを聞ける人が身近にはいないので、しょうがない。

■『北朝鮮難民』(石丸次郎 2002 講談社現代新書 ISBN: 4061496212 \660)

2006/03/25(土)

 2002年に、中国の瀋陽にある日本大使館に、北朝鮮の難民が駆け込む、という事件があった。そのとき、なぜ「北朝鮮の人」が「中国」で「日本大使館」に?と思ったのだが、その謎も含め、北朝鮮関連のいろいろなことがわかる本であった。本書の著者は、北朝鮮と中国の国境地帯で、400人以上の北朝鮮難民にインタビューしている。それにより、北朝鮮国内の状況、なぜ、どのように脱出しているのか、見つかって強制送還されたらどうなるのか、中国に入った難民はどうしているのか、などを明らかにしている。

 越境の理由はほとんどが飢餓である。筆者の現地取材に基づく推測では、1995年から2002年までに中国に越境した北朝鮮人は、延べ百万人いるという。しかも、中国で逮捕・送還された人も、二度、三度と繰り返し渡ってきている。といってもこれは、越境が簡単という意味でもなければ、送還後の処遇が軽いという意味でもない。筆者によると、「実際に北朝鮮難民から聞く脱出行は、まさに一人一人にとって命をかけたドラマ」(p.64)なのである。脱出に至るまでもかなり難しいし、強制送還後の処遇も厳しいものである。殴打は頻繁、食事はわずか、仕事はきつく、「収監生活が六ヶ月にもなると、死亡する可能性が高く、釈放されても栄養失調と酷使で身体はボロボロになる」(p.87)のである。それでも越境するのは、現在の北朝鮮では、飢餓をはじめとする問題が大きく、生きる希望がないからである。

 越境する人の大半は、食料などの援助を受けると北朝鮮に戻るらしいが、中には、中国で潜伏し続ける者もいるし、第三国、特に韓国を目指す人もいる。しかし中国は、南北朝鮮と等距離外交を基本方針としているらしく、韓国への直接亡命を認めていない。だから他国の大使館に、ということで、瀋陽の事件が日本大使館で起きたわけである。このように、北朝鮮から中国に越境することがなぜ、どのように、何を考えて行われているのかを、かなり網羅的に知るという点で、本書は非常に興味深かった。

 本書では、私の研究上の興味との関連で興味深い記述があったので、書いておく。越境して中国に脱出した難民は、中国の現実に触れることで、北朝鮮で聞かされてきたことのウソに気づき、次第に覚醒していく。といっても、北朝鮮にいたときも、まったく気づいていないわけではない。「学校で習うことや、幹部たちが宣伝することが正しいのか、うすうす疑問は持っていたんですが、なんせ情報が少ないでしょう、よくわからなかった」(p.180)というのである。疑問を持つ=気づく、わかるではない、ということがよくわかる証言である。疑問を持つことは重要なことであるが、それだけでなく、それをさらに一歩進めるにはどうしたらいいのかについても、考える必要がありそうだ、と思った。

■『国語〈1〉─漢字の字源をさぐる(シリーズ授業 実践の批評と創造)』(稲垣忠彦(編) 1991 岩波書店 ISBN: 4000041215 ¥2,243)

2006/03/20(月)
〜正解のない問題をどう扱うか〜

 このシリーズを読むのも『国語〈2〉─詩と物語をあじわう』に続いて8冊目。絶版なので例によってマケプレにて購入。このシリーズの第一弾であるせいか、他の巻と違い、授業が一つしか載せられていない。その代わりかどうかはわからないが、この巻では、授業を受けた子どもたちの感想文がずらりと載せられている(たぶん全員分)。

 授業内容はサブタイトルにあるとおり、漢字の字源について考える授業である。対象は小学校5年生。教師が、集、鳩などの漢字を提示し、どうしてそれらの部首が組み合わさってその字になったのかを、子どもたちに考えさせたり、子どもたち自身が考えた文字の字源を発表させ、子どもたちに意見交換をさせ、先生がヒントをいったり、子どもたちの考えを評価したりしている(「違うんです」「鋭いなあ」「その通り」というように)。

 実は私、この授業は、前にビデオで見たことがあった。集中講義に来られた先生が受講生に見せたとき、私はたまたま授業を聴講させてもらっていたのだ。ビデオを紹介された先生は、文化実践への参加としての学習の例としてこの授業を見せられたと私は記憶している。しかし私はビデオを見たとき、そんな感じはしなかった。少なくとも漢字研究の文化実践への参加には見えなかった。なぜなら、先生が正解を持っていて、先生が子どもの答えを、合っているとか違っていると評価しているからである。文化実践という言い方で言うならば、本物の漢字研究の文化実践と子どもの間に先生が仁王立ちになって、本物の漢字研究の世界が見えないようになっている、としか思えなかった。本物の漢字研究であれば、正解はないはずである。とはいえ正解がないなりに、ある考えが他の考えよりも妥当に思われるには、それ相応の「根拠」があるはずである。しかしこの授業では、根拠を示されることなく、端的に「その通り」などというのは、本物の漢字研究とは似て非なるものとしか私には思えなかった。

 で、本書に参加した批評者がその点をどのように見ているのかに注目して読んでみた。稲垣氏は「この授業での学習は、研究なんだなと思った」(p.7)と肯定的に述べている。それに近いような発言はもう一つぐらいあったかもしれない。それに対して、私の考えに近いような発言はいくつかあった。以下にそれを抜書きしてみる。

 ということで、私の印象もまんざら悪くないものだったな、と思ったしだいである。もちろんこういう授業を、いかに研究的にやるか、あるいは正解があるものとしてやるかは、時間的な問題も、子どもたちの発達段階の問題も関係するだろうから、簡単にはいえないことだろうとは思う。しかし、少なくとも子どもたちの感想を見ると、子どもたちは、明らかに、正解があるものとしてこの学習を捉えている。たとえば、「早く本当のことを聞きたいな」(p.146)のような感想が散見されるのである。これは、漢字の字源には「本当のこと」があり、学者はそれを明らかにすることができる(何が本当で何が本当ではないかを見分けることができる)という考えだと思う。先生が先に述べたような対応をすれば、子どもがこう捉えるのは当然という気がする。そしてそれは、いわゆる研究において研究者がやっていることとは反対のことだと思うのである。


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