31日短評7冊 30日『図解フィンランド・メソッド入門』 25日『北朝鮮難民』 20日『国語〈1〉(シリーズ授業)』 | |
| 26日一点突破 |
胃の痛みは,病院で薬を2週間もらったせいか,今のところおさまっている。といっても薬が終わってまだ数日。まだ怖いので,コーヒーも酒も飲んではいない。昨日はちょっと暑かったので,アイスクリームは食べてしまったけど。いつから通常に戻したらいいものやら。
今月良かった本は,『心は実験できるか』(なるほどそんな物語があったのか)と,『北朝鮮難民』(なるほどそんなことが起きていたのか)。
なんだか忙しいままにもう4月だなんて...
筆者は、フィンランド大使館に勤務したことのある、元外交官。現在は教育に携わる仕事をしているらしい。本書は、フィンランドの国語教育で行われている言語論理教育的なものを、5つのメソッド(発想力、論理力、表現力、批判的思考力、コミュニケーション力)で解説している。本書自体薄い本で、80ページ強しかないし、そのうちの20ページ強は、フィンランド自体の紹介に割かれているので、フィンランドの教育に関する箇所は、実質的には60ページである。なので、あまり詳しいことはわからないのだが、上記の5つのメソッドはおそらく、フィンランドの国語教育で使われている言葉そのものではなく、それを筆者なりに整理したものだと思う。それは本書全体にも言えることで、要するに本書は、フィンランドの国語教育そのものをまるごと紹介する本ではなく、フィンランドの国語教育を紹介しながら、それを通して、筆者なりに組み立てた5つのメソッドを説明する本と考えたほうがよさそうである。
内容をごく簡単に書くと、「発想力」では、マインド・マップを使って発想するやり方が説明されている。これはフィンランドの小学校でもよく使われているようである。「論理力」は、意見に理由をつけることであり、ひとつの意見に理由を3つ考えましょう、なんていう活動が紹介されている。「表現力」では、先の「マインド・マップ」や「理由+意見」などのフォーマットを使って、文章を書くことが紹介されている。「批判的思考力」は「本当にそうかな?」と考えることで、たとえば他人が書いた文章のいいところ、悪いところを10個ずつ挙げる、なんていう活動が紹介されている。「コミュニケーション力」では、議論のルールを決め、班で議論する、などという活動が紹介されている。本書のところどころに紹介されている活動例は、なかなか悪くない。
筆者もあとがきで指摘しているが、これらはどれも、一定の型を用いる訓練になっている。型を用いた訓練というと、『納得の構造』で紹介されていたアメリカの作文教育を思い出すが、本書で紹介されているものも、それにとても似ているように思えた。フィンランドの教育というと、ときどきNHKの番組に佐藤学氏が出てきて紹介していたりするが(あれ? スウェーデンだったかな?)、そこでの紹介のされ方は、あくまでも「グループ活動を中心とした、探究型の教育」というもので、型の訓練という話はなかったように思う。フィンランドの教育の全体像が知りたいものである。
今日は、うちの大学の心理学の先生の退職パーティに行ってきた。卒業生など、懐かしい人がたくさん来ていた。10年近く前に卒業した元学生に、先生(=私)は昔とちっとも変わらないだの、先生の授業は面白かった、今も役に立っているなどと言われた。こういうこと言われるのって、久しぶりでうれしい。
今私は、先日とったインタビューデータをどうまとめようか、思案しているところなのだが、それについてアドバイスをもらうことも、実は今日の私の目的の一つだった。卒業生で、質的研究を中心にやっている人がいるのだ。
今回アドバイスしてもらったのは、「一点突破」ということだった。知りたいことの全体を一気に明らかにすることはできないので、まずは一点から、ということだった。要するに何か一つでもわかればいいし、それが次へのステップに繋がる、ということだと私は受け取った。
実は彼には1年前にもアドバイスをもらっている。私にとっては、年に一度のミニゼミみたいなものである。こういうことを聞ける人が身近にはいないので、しょうがない。
2002年に、中国の瀋陽にある日本大使館に、北朝鮮の難民が駆け込む、という事件があった。そのとき、なぜ「北朝鮮の人」が「中国」で「日本大使館」に?と思ったのだが、その謎も含め、北朝鮮関連のいろいろなことがわかる本であった。本書の著者は、北朝鮮と中国の国境地帯で、400人以上の北朝鮮難民にインタビューしている。それにより、北朝鮮国内の状況、なぜ、どのように脱出しているのか、見つかって強制送還されたらどうなるのか、中国に入った難民はどうしているのか、などを明らかにしている。
越境の理由はほとんどが飢餓である。筆者の現地取材に基づく推測では、1995年から2002年までに中国に越境した北朝鮮人は、延べ百万人いるという。しかも、中国で逮捕・送還された人も、二度、三度と繰り返し渡ってきている。といってもこれは、越境が簡単という意味でもなければ、送還後の処遇が軽いという意味でもない。筆者によると、「実際に北朝鮮難民から聞く脱出行は、まさに一人一人にとって命をかけたドラマ」(p.64)なのである。脱出に至るまでもかなり難しいし、強制送還後の処遇も厳しいものである。殴打は頻繁、食事はわずか、仕事はきつく、「収監生活が六ヶ月にもなると、死亡する可能性が高く、釈放されても栄養失調と酷使で身体はボロボロになる」(p.87)のである。それでも越境するのは、現在の北朝鮮では、飢餓をはじめとする問題が大きく、生きる希望がないからである。
越境する人の大半は、食料などの援助を受けると北朝鮮に戻るらしいが、中には、中国で潜伏し続ける者もいるし、第三国、特に韓国を目指す人もいる。しかし中国は、南北朝鮮と等距離外交を基本方針としているらしく、韓国への直接亡命を認めていない。だから他国の大使館に、ということで、瀋陽の事件が日本大使館で起きたわけである。このように、北朝鮮から中国に越境することがなぜ、どのように、何を考えて行われているのかを、かなり網羅的に知るという点で、本書は非常に興味深かった。
本書では、私の研究上の興味との関連で興味深い記述があったので、書いておく。越境して中国に脱出した難民は、中国の現実に触れることで、北朝鮮で聞かされてきたことのウソに気づき、次第に覚醒していく。といっても、北朝鮮にいたときも、まったく気づいていないわけではない。「学校で習うことや、幹部たちが宣伝することが正しいのか、うすうす疑問は持っていたんですが、なんせ情報が少ないでしょう、よくわからなかった」(p.180)というのである。疑問を持つ=気づく、わかるではない、ということがよくわかる証言である。疑問を持つことは重要なことであるが、それだけでなく、それをさらに一歩進めるにはどうしたらいいのかについても、考える必要がありそうだ、と思った。
このシリーズを読むのも『国語〈2〉─詩と物語をあじわう』に続いて8冊目。絶版なので例によってマケプレにて購入。このシリーズの第一弾であるせいか、他の巻と違い、授業が一つしか載せられていない。その代わりかどうかはわからないが、この巻では、授業を受けた子どもたちの感想文がずらりと載せられている(たぶん全員分)。
授業内容はサブタイトルにあるとおり、漢字の字源について考える授業である。対象は小学校5年生。教師が、集、鳩などの漢字を提示し、どうしてそれらの部首が組み合わさってその字になったのかを、子どもたちに考えさせたり、子どもたち自身が考えた文字の字源を発表させ、子どもたちに意見交換をさせ、先生がヒントをいったり、子どもたちの考えを評価したりしている(「違うんです」「鋭いなあ」「その通り」というように)。
実は私、この授業は、前にビデオで見たことがあった。集中講義に来られた先生が受講生に見せたとき、私はたまたま授業を聴講させてもらっていたのだ。ビデオを紹介された先生は、文化実践への参加としての学習の例としてこの授業を見せられたと私は記憶している。しかし私はビデオを見たとき、そんな感じはしなかった。少なくとも漢字研究の文化実践への参加には見えなかった。なぜなら、先生が正解を持っていて、先生が子どもの答えを、合っているとか違っていると評価しているからである。文化実践という言い方で言うならば、本物の漢字研究の文化実践と子どもの間に先生が仁王立ちになって、本物の漢字研究の世界が見えないようになっている、としか思えなかった。本物の漢字研究であれば、正解はないはずである。とはいえ正解がないなりに、ある考えが他の考えよりも妥当に思われるには、それ相応の「根拠」があるはずである。しかしこの授業では、根拠を示されることなく、端的に「その通り」などというのは、本物の漢字研究とは似て非なるものとしか私には思えなかった。
で、本書に参加した批評者がその点をどのように見ているのかに注目して読んでみた。稲垣氏は「この授業での学習は、研究なんだなと思った」(p.7)と肯定的に述べている。それに近いような発言はもう一つぐらいあったかもしれない。それに対して、私の考えに近いような発言はいくつかあった。以下にそれを抜書きしてみる。
ということで、私の印象もまんざら悪くないものだったな、と思ったしだいである。もちろんこういう授業を、いかに研究的にやるか、あるいは正解があるものとしてやるかは、時間的な問題も、子どもたちの発達段階の問題も関係するだろうから、簡単にはいえないことだろうとは思う。しかし、少なくとも子どもたちの感想を見ると、子どもたちは、明らかに、正解があるものとしてこの学習を捉えている。たとえば、「早く本当のことを聞きたいな」(p.146)のような感想が散見されるのである。これは、漢字の字源には「本当のこと」があり、学者はそれを明らかにすることができる(何が本当で何が本当ではないかを見分けることができる)という考えだと思う。先生が先に述べたような対応をすれば、子どもがこう捉えるのは当然という気がする。そしてそれは、いわゆる研究において研究者がやっていることとは反対のことだと思うのである。