読書と日々の記録2006.05下

[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'06] [索引] [選書] // [ホーム] []
このページについて
■読書記録: 31日短評6冊 25日『インターネットの子どもたち』 20日『脳のなかの幽霊』
■日々記録: 30日引越し 23日家庭訪問 17日自主ゼミ

■今月の読書生活

2006/05/31(水)

 今月も思うようには本が読めなかった。後半は引越しをしたせいなのだが。最後の本を見てもらうとわかるが、読書記録をまだ書いていないのに発掘できていない本もある。記録は適当に書いたけど。

 今月よかった本は、『わかったつもり』(なるほどこれが批判的読みか)、『文化心理学入門』(なるほど文化的制約の中での知識構成か)、『脳のなかの幽霊』(なるほど実例実験はこんなに威力があるのか)、である。長評した残りの2冊も問題なく面白かったのだが、しいて半分挙げるならこんなところだろうか。

『意味への意志』(V. E. フランクル 1991/2002 春秋社 ISBN: 4393364201 \1,995)

 フランクルが1946年から1971年に行った講演を集めたもの。原書の後半は臨床実践が挙げられているそうだが、本書では前半の哲学的・理論的部分のみが訳されている。本当は後半を読みたかっただけにちょっと残念。講演としては、やや漠然として理解しにくいものが多かったような気がする。ただ、端々に興味深いフレーズが見られた。この場合の興味深さは、私が読んできた他の本との関連での興味深さである。たとえば「人間とは意味を求める存在」(p.2)というのは浜田寿美男的だし、「自己とは本来《存在する》ものではなく、つねに初めて《生成する》もの」(p.78)というのは、未来に関する野矢茂樹氏の考察に似ているし、「私の内なる生物学的なものである素質は、私の自由が対決しなければならない、私のうちなる運命の一部にすぎません」(p.148)というのは、規則と実践に関するエスノメソドロジストの意見に似ている気がする。あと、還元主義の行き過ぎを戒める論考も、まあまあ興味深かった。フェヒナーのいう、夜の科学と昼の科学だなこれは(←この言い方であっているかどうかはわからない。フェヒナーについては、石原岩太郎氏の本で知った)。もっともフランクルに言わせると、昼の科学は科学ではないのだろうけれども、たぶん(実はちゃんと理解していない)。

『医療事故がとまらない』(毎日新聞医療問題取材班 2003 集英社新書 ISBN: 4087202232 \660)

 医療事故を対象として書かれた本は、これまでに『医療事故自衛BOOK』『医療事故』を読んできた。4年前なので詳しい内容は覚えていないのだが、前者が患者の「自衛」に力点を置いた本、後者は心理学者の視点からの本であったように記憶している。そして本書は、新聞の取材班の記事を元に作られた本である。私はこういうのを読むと、どうも新聞の囲み記事臭がして、ときどき読みにくく感じることがあるのだが、まあしょうがない。内容は、東京女子医大病院事件、医療事故を繰り返す医師、替え玉証人事件など、いくつかの事件を元に、医療現場の現状、患者の声、行政や医師会の考えなどがまんべんなく紹介されている。これで見る限り、問題の所在は、医局制度、監督責任を果たしていない行政、医師会の政治力あたりにありそうである。最後のほうでは諸外国の医療事情が紹介されている。たとえばアメリカでは、病院内でのチーム医療、医療の質を保証したり問題を分析する機関や制度の存在、インフォームド・コンセント、などの工夫がされており、日本のようなお粗末なミスは起きにくい(再発しにくい)ようになっている(それでも『医療事故』によると,アメリカでは医療事故による死亡は死亡原因の第八位であり,交通事故や乳がんやエイズよりも多いそうだが)。これらを眺めると、基本は情報公開をすることにより、相互監視や相互批判とそれに基づく問題改善が起きやすいような仕組みといえそうである。ここでふと思ったのは、相互監視や相互批判だけなら、北朝鮮などと変わらないわけだが、それとの違いは何だろうということ。まあ答えはあの辺かな、という気はするのだが、一度きちんと考えてみる価値がある問題かもしれない。

『アメリカ過去と現在の間』(古矢旬 2004 岩波新書 ISBN: 4004309123 \777)

 アメリカの現在を、ユニラテラリズム、帝国、戦争、保守主義、原理主義の5つのキーワードで、アメリカの歴史を通して読み解いた本。これらのキーワードが、1章でひとつずつ取り上げて論じられている。最初のほうはやけに読みにくかった。おそらく、相当の知識を持っている読者を想定しているのだろうと思う。ただ、「戦争」のあたりから少し興味深くなり始め、「保守主義」のあたりは、けっこう面白かった。保守主義がいかに多層的で複雑な思想かを、歴史を通して明らかにし、その中の複数の思想がレーガン以降の保守主義の基盤になっている、というような話である。保守主義にしろ原理主義にしろ、いわゆる反知性主義的なものがアメリカには根強いことが、よくわかったような気がする。

『デボノ博士の[6色ハット]発想法』(E. デボノ 1985/1986 ダイアモンド社 ISBN: 4478760292 \1500)

 再読。前回はなかなか興味深く読んだ。その印象は基本的には変わらないが、しかし今回は読みながら、筆者は本当にこの思考法を試してみたことがあるんだろうか、とちょっと疑問に思った。というのは、基本的に本書では、6つの思考が列挙してあるだけで、思考間のダイナミクスはあまり扱われていないのだ。こういう思考って、発想自体は思いつきだけでも考えられはするが、それが実際どのように機能し、どのくらい有効なのかは、やはり何度も適用する中で見えてくるものだと思う。そういうものは本書からは感じられなかった。もっとも、この考えは、たとえば批判的思考やよりよい思考を考えるうえで、ヒントを提供してくれそうな気がするので、私としてはまあいいのだが。

『図解政府・国会・官公庁のしくみ─サクッとわかる』(中村昭雄(監) 2003 PHP文庫 ISBN: 4569579558 \619)

 政治、国会、行政について、基礎知識とマメ知識がわかるようになっている本。読みやすくできている。マメ知識としてはたとえば、日本は大きい政府か小さい政府か、ということで、外国といくつかの数字で比較されたりしている。あるいは、政府立法の9割前後が成立しているのに、議員立法は2割強しか成立していない、なんていうデータも載っている。今回は漠然と全体を読んだが、何か必要ができたときに読むと役に立つかもしれない。

『教師のための「話術」入門』(家本芳郎 1991 高文研 ¥1,470)

 読んだのだけど,引越し荷物にまぎれて,どこにあるのかわからないので,詳しくは書けない。きわめて元教師的なエッセイ風の部分も多かったが,実際的な話し方の話もあり,私にとっても参考になりそうな箇所も少なくなかった。

引越し

2006/05/30(火)

 土日に引越しをした。中古住宅を買ったのだ。引越しは,梱包,運送,開梱すべてを引越し会社にお願いするタイプのやつだったので,楽かなあと思ったのだが,日曜日はクタクタになってしまった。入ると思った場所にものが入らなかったりして,頭も身体も使ったので。1ヶ月ぐらいは収納と新居への適応で格闘するのではないかと思う(これを書く余裕も,今朝までなかった)。

 通勤は近くなった。今日計ったところ,急がず歩いて16分というところか。オマケに,一家揃って家を出る時間も早くなったので,私はいつもより,20分ぐらい早く出勤している。

■『インターネットの子どもたち』(三宅なほみ 1997 岩波書店 ISBN: 4000260588 \1200)

2006/05/25(木)

 インターネットによって学びがどう変わるかについて、実験中のプロジェクトも含めて紹介している本。内容的には、この筆者による『学習科学とテクノロジ』の方が具体的で詳しくてよかったのだが、しかし本書は本書で、平易かつ簡潔に、これからの学びのあり方が論じられており、悪くなかった。

 まず本書の基本にある知識観は、次のようなものである。

一人の頭の中に何がどれだけ詰め込まれているかでその質が決まるのではなくて、いつどんなときにどれだけ引き出せるか、引き出してきた結果がどれだけ他の人の知と相互作用を起こしてよりよく変われるか(p.39-40)

 これを筆者は、「知のネットワーク的な見方」と呼んでいる。「知」を、一人の人の頭の中に溜め込まれ、そこだけで完結するものとしてみるのではない、ということだろう。実際私たちは、日常生活で振舞うときに、すべてを一人で済ますわけではない。つまりこれは、学校に特有の「知」ではなく、日常に近い知のあり方、ということのようだ。同じようなことを筆者は別の箇所で、「その場に与えられた状況を最大限に利用するにはどうしたらいいかが苦労せずに分かる適応力」(p.35)とも述べている。

 このように、教室の中に限定された学びは教室の外で役に立たない、と考えたとき、インターネットを使うことで、教室の持つ不自然さを緩和することができる。インターネットはやり取りをするのに時間的な制約も空間的な制約も少ないので、より多くの他人が学びに参加(手助け)できる、ということのような感じで。しかもその「他人」としては、教師よりもその領域の専門知識を持った人も得られるし、子どもが学んだことを伝える他人も得られるし、情報をやり取りしたり議論したりできる他人も得られる。そこで得られることは、学ぶことの「真実性」であり、他人の手助け(=「足場かけ」)であり、それらに支えられて、自分のやり方や考え方を「再吟味」することであるという。

 これらは、まあ納得である。ただちょっと疑問もある。学びにインターネットが有効なのは、既存の教育制度を前提とするから生じてくるくることなのではないか、という。つまり、現行の制度のほつれを、インターネットで「応急処置」的に対処しているような感じがするのである。そうではなく、制度の変更も含め、多くの人を巻き込んだ学びが起こりやすい環境を作る、というのも必要な気はするのだが。それが筆者の守備範囲かどうかはさておき。

家庭訪問

2006/05/23(火)

 今日は朝から附属小学校で2時間授業見学。大学1年生と3年生が一緒だった。

 授業見学後は、家庭訪問と称して、うちの専修に今年入った県外生(男子)のアパートに、1年生たちと行った。

 おいてあるものを見ると、彼がどんな人間かなんとなく想像できるので面白い(それが合っているかどうかはわからないけど)。

■『脳のなかの幽霊』(V. S. ラマチャンドラン 1998/1999 角川書店 ISBN: 4047913200 \2,100)

2006/05/20(土)
〜幻肢を通して知る〜

 私がラマチャンドランの名前を初めて聞いたのは、多分15年ぐらい前だったと思う。私はてっきり、彼は知覚心理学者だと思っていた。本書を読んでわかったのだが、彼は、神経科学者であり、医者として患者も見ているようである。その経験や彼が行った実験を通して、人間の心の問題に迫ろうとした本が本書である。本書は2段組で300ページ以上もある本だが、非常に興味深かった。

 本書は、幻肢の話から始まる。幻肢とは、事故などで手や足を失った人が、失った手足をリアルに感じる現象である。話としては面白いが、なぜこんな話から始まるのだろうと最初は思ったが、読み進むうちに、その意味がわかったように思う。

 第一に幻肢は、彼が心の問題にどのように迫るかを示すよい例となっている。彼は、「(神経学や心理学のように)いまだ揺籃期にある科学分野においては、実例を示すスタイルの実験がとりわけ重要な役割を果たす」(p.19)と考えている。すなわち、多数の患者の結果を統計的に示すことを第一に目指しはしないのである。それは、この分野を揺籃期と考えているからである。少数の事例でも適切な実験が行われれば、非常に多くを知ることができるのである。

 この場合、扱うのは少数の患者なので、実験といっても、多数の被験者を対象に行う実験とは異なる部分が出てくる。それは、他の解釈可能性を排除する方法である。多数の被験者を対象にするのであれば、通常は統制条件を設け、結果を統計的に分析することで、他の解釈可能性を排除する。しかし少数事例であればそうはいかない。そこでラマチャンドランの実験は、たとえば実験結果が暗示の効果でも説明できるというのであれば、前の実験とは別に、暗示だけを行うタイプの実験を行うのである。つまり、個々の可能性に対応した実験を、そのつど行うのである。この場合、通常のような対象条件のある実験と違い、どんな解釈可能性があるかを個々のケースに即して考えなければならない。研究者の想像力が試される研究法であり、それだけに、少数の事例からいかに論理的な結論を導き出すかという部分が、とてもスリリングなのである。その結果として、幻肢が生じるのは、顔からの感覚入力が、失われた手足の感覚入力が投射される領域に投射されているからだということを、ラマチャンドランは明らかにしている。つまり、脳地図の「再配置」が行われているというわけである。

 第二に幻肢は、「単なる珍奇な症例ではなく、正常な心と脳の働きの根本原理を説明する事例」(p.31)なのである。というのは、何を自分の身体とみなすかという「身体イメージ」の問題であり、それは、何が「自己」を形作るか、という意識問題の核心と関わる問題だからである。

 第三に、幻肢に見られるのと同じような、神経接続の再配置は、幻肢以外にも生じており、そこから起きている問題があるのである。たとえば、サヴァンと呼ばれる、特異な才能を発揮する人たちがいる。彼らは得意な才能を発揮するだけではない。それ以外の知的、生活的能力に関しては、普通の人よりも低いことが多い。そこでラマチャンドランは、彼らが誕生の前後に脳の損傷を受けており、そのために幻肢患者と同じように脳が再配置されている可能性を指摘している。なるほど、この説明なら、低い能力と高い能力のアンバランスがうまく説明できる。ラマチャンドランは別の場所で、盲点部分が空白として知覚されないことについても考察している。それは、周りのテクスチャーを「書き込む」ことで空白部分を埋めているのである。ラマチャンドランがそう考察しているわけではないのだが、私はこれも、幻肢と同じようなことではないかと思った。つまり、盲点部分は感覚入力がないので、その部分を他の部分からの情報で補っている。「ない」部分を他の部分で補っているという点が同じというわけである(盲点の場合は「再配置」があるわけではないのだが)。

 というように、幻肢を始めとして、さまざまな障害の事例をラマチャンドランが実験的に扱い、それが意識の問題煮まで深まっていくさまが、とても興味深い本であった。

自主ゼミ

2006/05/17(水)

 今日は午後から,1年生と自主ゼミをやった。「自主」とは言っても,私が提案したし,基本的な方向性は私が与えているので,完全に自主ではないが,大学の単位とは関係ない,参加は強制しない,という意味の自主ゼミだ。

 やろうとしているのは,うちの専修を卒業した附属小の先生にインタビューをすること。『インタビュー調査への招待』(河西宏祐)を読んで思いついた。というかほとんどパクリだ。

 今日は,この本の一部をコピーして渡し,こういうことをやろうよ,という提案だけ私がして,質問項目を考えたりするところは学生に任せた。それがおよそ出来上がったので,先生に電話連絡し,代表者2名に行かせて,日程調整をさせてきた。

 インタビューは6月上旬。その後,1週間以内にインタビューレポート(記録+感想)を作成し,次の週の自主ゼミで,その内容を私がチェックし,場合によっては修正し,先生にお渡しする予定だ。

 ということで,実質3回の自主ゼミだ。もちろん目的は,河西先生と同じく職業意識教育の一環。うまく行けば,また後期か2年時にでもやりたいが,うまく行かなければ,それはそれでいいと思っている。どうせヒマな1年次。同じ学年のみんなと何か生産的なことをする体験をしてもらえれば。


[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'06] [索引] [選書] // [ホーム] []