読書と日々の記録2006.06上

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■読書記録: 15日『授業を変える』 10日『UFOとポストモダン』 5日『授業の世界(シリーズ授業)』
■日々記録: 15日3行日記 6日【授業】学習障害 1日理論を批判的に捉える

■『授業を変える─認知心理学のさらなる挑戦』(ブランスフォード・ブラウン・クッキング(編) 2000/2002 北大路書房 ISNB: 4762822752 \3800)

2006/06/15(木)
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 学習科学についての概説書。学習科学については、『学習科学とテクノロジ』ぐらいしか読んだことがなかった。『学習科学とテクノロジ』は、興味深い事例が多数収められていたが、本書は、認知心理学的な観点が強調された概説書である。

 たとえば「学習者と学習」のパートでは、熟達、転移、認知発達、神経科学の観点から、それぞれ1章ずつ論じられている。このパートのなかでは、特に「転移」が重要なテーマであると感じた。本書では、認知心理学的な研究の成果を元に、どのような場合に転移が起こるのかがまとめられている。転移が起こるのは、先行学習においてかなりの量の学習が行われているときであり、その中で学習内容を(記憶ではなく)理解されているときであり、複数の文脈で教えられているときである。また、転移は転移課題の成績のみならず、後続学習のスピードによって評価するのがよい。「理解」に関しては、実験の結果を検討した後に講義を受けると理解が深まっている、というような研究が紹介されている。これらのような知見は、すぐにどこかで役立てられそうなものである。

 「教師と授業」というパートでは、最近の学習研究でとくに重視されている視点として、学習者中心、知識中心、評価中心、共同体中心、という4つの観点が紹介されている。これらの観点は、最近よくきく「学び論」ととてもあい通じるものがある。ということは、これらの概念を使えば、いわゆる学び論を、認知心理学的、学習科学的な観点から見直すことができるということである。私はまだ一読しただけなので、そこまで深くは考えていないが、時間をおいて再考する必要がありそうである。

 その他にも、「今後の課題」の章では、学習者が持ち込む誤概念を同定し検討するための戦略(評価具の開発→先行研究の検討→教授法の開発→実験的検討)が整理されていたりして、今後の研究上でも役立ちそうである。全体的に、決して読みやすい本とはいえないが、しかし重要な考えが詰まっている本であると感じた。

3行日記

2006/06/15(木)
 なんか,日記書きパワーが落ちているので,久々に3行(?)日常雑記など。
2006/06/10(土) 病院
 また10日ほど前から胃が痛くなってきたので,近くの診療所に行った。処方された薬は,前の病院の1/3ぐらいだった。また来させる魂胆なのか,それとも前が過剰投与だったのか,あるいは今回の症状が軽いのか。
2006/06/11(日) 仕事
 気になる仕事のために朝から夕方まで大学へ。進み具合は可もなく不可もなく。雨にぬれたせいか,ちょっと風邪気味に。
2006/06/12(月) のどいた
 昨日の風邪のせいか,のどが痛くなってきた。幸い熱はないのだけれど。夜寒いせいかも,と思い,布団を1枚増やしてみた。
2006/06/13(火) 授業見学
 今日は,午前に1時間,午後に1時間,附属小に授業見学に行った。午前のは来週の研究授業の前々時,午後のは研究授業であった。どちらの授業でも,「子どもたちの『発言したい』パワーを授業にどう活かせるか」について考えながら見させてもらった(答えは出ないのだけれど)。
2006/06/15(木)朝 
風邪を引いたので,昨日は3行日記を書く気力がなかった。といっても昨日は,6限にある研究科共通の必修科目初回だったので,早く帰るわけには行かなかった。授業では,自己紹介をしてもらい,「よい授業」のイメージについて,グループでKJ法的にまとめてもらった。

■『UFOとポストモダン』(木原善彦 2006 平凡社新書 ISBN: 4582853099 \756)

2006/06/10(土)
〜UFOに時代を見る〜

 「空飛ぶ円盤や異星人について社会の中でどういうことが言われ、信じられてきたかを、歴史的変遷に沿って文化的側面から考察」(p.8)した本である。UFO関連の事件は、「輪郭のはっきりしないような、あやふやな危機感」(p.16)から来ている、という研究者がいるようだが、本書はそれを、時代の変化と対応させて論じているわけである。まずは、UFO関連事件の変遷を、大まかにまとめておこう。

 UFOが初めて話題になったのは、1947年のアメリカである。それから約25年の間、UFOについてどういうことが言われてきたかというと、彼らは高度な文明から来た異星人で、「人類を核の破壊から救うために来た」(p.23)というようなことだった。あるいは、特定の人(コンタクティ)が異星人とコンタクトをとっている、ということだった。これを筆者は「前期UFO神話」と呼んでいる。1973年からはUFOについての言説に変化が見られる。そこで語られているのは、異星人が家畜を虐殺しているとか、人間を誘拐して体に何かを埋め込んでいる、というものである。あるいは、政府とエイリアンが共謀しているという陰謀説である。筆者は「後期UFO神話」と呼んでいるが、これは筆者の見立てでは、管理社会、情報社会に由来する、「どこで何をやってもそれが誰かに見られているという感覚」(p.105)が背景にあるのである。さらに1990年代なかばからは、「UFO神話そのものが、空飛ぶ円盤やエイリアンという要素とともに完全に色あせて」(p.155)しまったという。その代わりに登場したのが、「聖書の暗号」的なものであったり、スカイフィッシュ、環境ホルモン、マイナスイオン、Y2K、テロなどである。これを筆者は「ポストUFO神話」と呼んでいる。

 筆者はこの変遷を、歴史の流れとして描いて見せている。たとえばこんな具合である。

前期UFO神話においては、コンタクティやUFO学者が「私たちの世界から遠く離れた向こうの世界にはこんなにすばらしい宇宙人のユートピアがある」と語っていましたが、いつまでたってもそんなユートピアが人々の目の前に現れることはありませんでした。〔中略〕後期UFO神話においては、陰謀論者が「私たちの世界の中ですぐ壁の向こう側でこんな恐ろしいことが仕組まれている」と語っていましたが、結局、地球上にすでにいるはずの不気味なエイリアンが私たちに姿を見せることはありませんでした。〔中略〕そして、「私たちの世界の中の、壁の向こうどころか、私たちのすぐそばのそこらじゅうに異質なもの(エイリアン)がいる」という新たな発見とともに、ポストUFO神話が始まりました。(p.180-181)

 これだけでなく本書では、これらの神話が、その当時の社会情勢や、映画や、他の都市伝説などとの関連の中で論じられている。その内容についてコメントするだけの知識はないが、UFOのみならず、さまざまな出来事を絡めながら、モダンとかポストモダンという概念で、実にうまく整理するものだと思った。実は本書を読もうと思ったのは、ひょっとして『アメリカの反知性主義』について理解が深められるかと思ったのだ(UFO神話はアメリカで始まり、アメリカがもっとも盛んである)。実際はそういうことはなかったのだが、しかし、アメリカの反知性主義的なものの一例を見たような感じはした。また、こういう言説を信じることにも、それなりの社会的、文化的、歴史的な意味があることも、多少なりともわかったように思う。こういう知識を得ることが、あるいは批判的思考という概念に触れることが、それに対する解毒剤になりうるかどうかはさておき。

【授業】学習障害

2006/06/06(火)

 昨日の教職科目「教育心理学」の授業は,学習障害がテーマだった。この授業,前半45分は学生に主導権を渡している。最初が前回の質問に対する回答(前回発表グループ担当),次に今回発表グループによるコンセプト・マップの説明,フロアの学生が質問を考える時間,出された質問に発表グループが答える時間,という具合である(後半45分は,道田による補足,関連ビデオ視聴+ワークシート記入,ワークシート記入内容発表,質問書記入)。

 昨年もそうだったのだが,「学習障害」については,障害児教育専修の学生たちが発表グループを担当してくれた。2年生ではあるけれども,彼らなりに多少の知識は持っているし,もちろん障害児教育に関心をもっている。

 そのためか,発表は,「皆に障害児のことを知ってほしい」という気持ちが伝わってくる発表だった。また質疑も,あるメンバーの答えが足りないと思ったときは,他のメンバーが補足説明をして補っていた。そのせいか,実に自然な質疑になっていた。もちろん障害児教育の学生だからというだけでなく,質問者に積極的にマイクを回したり,回答の順番を考えたりする工夫もあったのだけれど。

 私がこの授業の前半で,学生に主導権を渡してやってもらっているのは,こういう形を取りたかったからなんだよなあ,と見ながら思った。でもそのためには,今回の学生たちが障害児教育について持っている知識と関心などがないと難しいのだろうか。何とかできる可能性はあるんじゃないかとは思うのだが,具体的には思いつかない。

■『授業の世界―アメリカの授業と比較して(シリーズ授業)』(稲垣忠彦編 1993 岩波書店 \2400)

2006/06/05(月)
〜子ども中心の進歩主義教育〜

 このシリーズを読むのも『国語〈1〉─漢字の字源をさぐる』に続いて9冊目。絶版なので例によってマケプレにて購入。この巻では、アメリカで子ども中心主義の進歩主義的教育を行っている2つの私立小学校の実践が紹介されている。

 他の巻と違い、実践の発話記録が載っているわけでも、実践者の弁が載っているわけでもないので、アメリカの小学校の実践の内容が十分にわかったとは言えないのだが、参観者のコメントの端々から、その様子が多少はわかった。たとえばこんなコメントである。

  1. 今度アメリカの授業を見て、日本の授業の中で一番近かったのは愛育養護学校ですね。これを見ていて、「あ、これ愛育じゃないの」と思ったんですね。(p.14: 谷川俊太郎氏)
  2. 愛育養護学校と違う点は、教師のパーソナリティがあることですね。愛育の場合は、子どもが中心になると、教師の自我を消していくでしょう。あの感じとは、やはり違うと思うんです。(p.20: 河合隼雄氏)
  3. どの授業を見ても、文字や記号で知識を学ぶのではなくて、必ずモノがあり活動があるわけですね。知識が活動や経験と一体のものとして捉えられているわけです。歴史の授業だったら、資料があり読み物があるし、理科の学習だったら、モノがあり観察をし実験をするわけですね。まず、活動があり経験があって次に思考があるという考え方は、こういう子ども中心の学校だと徹底していると思いました。(p.28: 佐藤学氏)
  4. 日本だと、活動を自己目的にする活動主義になるのでしょうね。今日見た授業が活動主義にならないのは、その活動に創造性の発達とか知性的な意味の発展性を読み取る教師の目がちゃんとあるから、創造的な活動になっているのであって、日本だと、まじめに生き生きと取り組んでいるかどうかだけが、評価されるんじゃないかと思いますね。(p.61: 佐藤氏)

 ほかにも引用すべき箇所はあるだろうが、とりあえずこれぐらいにしておく。上の引用の3番目と4番目は、活動の重要性を確認しつつも、単なる活動主義に陥らないために重要な示唆であると思った。

 上の1番目、つまり愛育養護学校との共通性についてはどう捉えたらいいのだろう。もう一つ引用しておくと、佐伯氏が「正統的周辺参加論が示している「自分づくりを通した共同体への参加」を徹底的に押し進める教育がこういうものか、と実感したのは、本シリーズの第10巻で取り上げられている愛育養護学校の実践である」(p.192)と述べている。その例として佐伯氏は、ストローをまき散らすことに終日過ごす子ども、紙を切り刻むことに何時間も没頭する子ども、などの姿に言及している。こういう活動にたっぷりと浸り、その中から思考を立ち上げる。あるいは教師の読み取りに導かれて、活動以上のものに広がっていく。それができれば、本当にじっくりとした自分作りや仲間作りが可能だろう。しかしそれは、指導要領やその他の制度的制約に取り囲まれている今の日本の小学校で、どの程度可能なのだろう、と思った。愛育養護学校は学校法人ではないので、指導要領に縛られることはない。そこは大きな強みになっているであろう。

 ただし佐伯氏は、続けてこうも言っている。「愛育養護学校を見たあとの私は、それ以後に見るすぐれた授業実践の背後にある「愛育養護学校的」側面が見えるようになった」(p.193)。ということは、それは少なからず可能だということだろう。できれば佐伯氏には、それを具体的に示してほしかったが、まあしょうがない。愛育養護学校的なものを見つけることを、今後の授業観察の課題にしつつ、自分で考えていくしかないかなあと思う。

 なお本巻では、本シリーズ編集委員が、全巻を通した感想を書いている。それは上に引用した佐伯氏の感想のような有益なものもあったが、全体的には、感想レベルのものが多かった。それはかなり残念だった。

理論を批判的に捉える

2006/06/01(木)

 「学校の研究を考える その24」(前田康裕 授業研究空間)。興味深い記述なのでクリッピング。

 理論は「批判的に読んでいく必要がある」とあり,その通りなのだが,これは案外難しいことではないかと思う。それは,「理論の中の,利用しやすいところだけを我田引水的に利用する」ことと紙一重になるからだ。そうなりにくくするための一つの方策が,「別の教育学者の視点をも取り入れなくてはならない」ということか。


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