読書と日々の記録2006.07下

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■読書記録: 31日短評5冊 25日『授業研究と談話分析』 20日『先生はえらい』
■日々記録: 28日答えを先に教える 23日かぜ 17日顎関節症とか研修とかバレエとか

■今月の読書生活

2006/07/31(月)

 今月も読書冊数が少ない。しょうがないけど。

 今月一番面白かったのは『先生はえらい』(なるほど学びの本質は誤解か)。次をあげるなら、『戦争広告代理店』(なるほど歴史はこう作られるのか)か。他の本も悪くはなかったのだが。

『フィンランド・メソッド5つの基本が学べるフィンランド国語教科書─小学4年生』(バレ・トッリネン・コスキバー編 2005/2005 経済界 ISBN: 4766783492 \2,100)

 『図解フィンランド・メソッド入門』で紹介されていた本。フィンランドの小学校4年生の国語の教科書を翻訳したものである。内容は、興味深いものもあれば、まあ普通かなと思うものもあった。フィンランドの国語では、発想力、論理力、表現力、批判的思考力、コミュニケーション力が育成されているそうだが、私には、批判的思考力を育成している部分がどこなのかは、よくはわからなかった。しいて言うならば、「物語を書いてみよう」というコーナーで、「書いた自分の文章を自分で読み直して、「よくないところ」をあげてみよう。ほかの人にも読んでもらって、「いいところ」と「よくないところ」をあげてもらう」(p.62)というようなところだろうか。ここで逆にきになるのは、たとえば日本の小学校4年生の国語の授業では、こういうことはどの程度行われている(あるいは行われていない)のか、ということである。

『食肉の帝王─同和と暴力で巨富を掴んだ男』(溝口敦 2003/2004 講談社+α文庫 ISBN: 406256890X \838)

 もう4年も前のことだが、私の読書記録を読んでメールをくれた方がおられた。そのメールでは、組織の犯罪や内部告発についての意見を述べられた後、「食肉関連業界」は魑魅魍魎(アンタッチャブル)な世界が残っている、ということが書かれていた。当時は、魑魅魍魎、アンタッチャブル、って何だろう、と思っていたのだが、本書はまさにそのことについて書かれている本であった。本書は、講談社ノンフィクション大賞を受賞している。主人公は、「同和と食肉、二つの行政の不備を上手に食い、途方もなく肥え太ったゴッドファーザー」(p.19)である浅田満氏である。同和と食肉だけでなく、氏は「「政・官・業・暴・同和」との強固なつながり」を力の根源としており、途方もない財を築いている。しかし、本書が引き金になったのか、2004年には詐欺容疑で逮捕されている。ちなみに本書の内容が週刊誌に連載されはじめたのが2002年9月。私が上記のメールをもらったのが2002年3月。今読み返してみると、メールには浅田氏関連の情報(鈴木宗男議員とかハンナンとか)についても書かれている。かなりこの業界に詳しい方のようだ。私も本書のおかげで、魑魅魍魎やアンタッチャブルの意味がわかったように思う。

『協同するからだとことば─幼児の相互交渉の質的分析』(無藤隆 1997 金子書房 ISBN: 4760892524 \2,100)

 「幼児はどのようにして互いにやり取りが可能になるのか」(p.iii)という問題にアプローチした本。アプローチ法は、「ルーチン」の分析を軸にしているという点では民俗学的であり、物や人に誘われて動くことに着目したという点では生態学的視覚論(アフォーダンス)的であり、言葉や身体のやり取りから検討しているという点では社会学(相互作用分析)的である。その論考を、出来上がったものとして読むと、子どもの相互作用はこのように分析しこのように結論づけるしかないだろうなあ、と後知恵的に受け取ってしまうが、実際は筆者は、さまざまな理論的枠組みを試行錯誤的に取り入れた末に、ルーチンやアフォーダンスにたどり着いたという。ここで検討の対象になっているのは幼児だが、しかしそこで考察されていることは、人がある文化に参入する際に共通におきそうなことであるかのように読め、興味深かった。たとえば、「ルーティンを核としながらも、それが現実の場面に対して開かれていて、他の要素を盛り込みつつ、ごっこ遊びが展開する」(p.79)なんていうのは、ごっこ遊びだけでなく、ある文化の中での人の振る舞い全般に言えるのではないだろうか。ここでいう「現実の場面に開かれている」というところで働いているのが、モノや人が提供するアフォーダンスということだろう。乱暴にまとめるなら「ルーティン+アフォーダンス=その場での行為」という感じだろうか。これは、文化の中での人の振る舞いを分析するのに、有効かもしれない、と思った。

『ピアジェ理論の展開―現代教育への視座』(滝沢武久 1992 国土社教育選書 ISBN: 4337661263 ¥1,631)

 再読。多忙なせいか、なかなか読み終われなかった。なかなか読み終われなかったもう一つの理由は、本書の前半部分の魅力がイマイチだからだろうか。しかし後半はやはり、前に読んだときに思ったのと同じぐらい魅力的だった。それは、「自然的思考」などの概念を導入してピアジェの思想を発展させるという話であったり、ピアジェの思想が、進歩主義的、子ども中心的教育の思想的裏づけのようなものを提供しているという話であったり。こういうところ、本当はちゃんと原典を読んで理解したいところなのだけれど。でもピアジェの本って、前に一度投げ出しているんだよなあ。

『「学ぶ」ということの意味』(佐伯胖 1995 岩波書店 ISBN: 4000039326 \1,575)

 再読。5年ぶりに読んだのだが、その間に私の知識が増えている部分もあり、前よりも理解できている部分も少なからずあるとは思うのだが、しかし基本的には前回と同じく、「全体として,これがわかった!的なはっきりしたものを読み取るのは,私にはむずかしかった」というような読後感であった。今回ちょっと目に付いた記述を抜書きしておく。「ここでの「教え」は、双方納得の上での「見えを変える」共同作業であり、一方的に「まねさせる」ことではない」(p.92)。これは、幼児がいろいろとまねをする時期のことを述べている。幼児はただ真似ているのではない。納得していることを真似る、というような話か。そのためには、教える側が相手の内側に入らなければならないという。「内側に入る」とか「納得」は、最近の私のテーマ(考えたいこと)のひとつかもしれない。また、これと対応したような話が後ろのほうに出てくる。それは、保育場面でちょっと気になる子を、保育者が気にせずに「ほうっておく」ようになることで、事態が好転した、という事例である。それは、ほうっておくことで、その子を(手出しせずに)よく見るようになり、反応を待つようになり、その子の内面について心をめぐらせるようになる。それはつまり、保育者がその子に「なる」ということであり、YOU(親密な他者)として振舞うようになり、お互いが相手のことを好きになり、周りの状況が変化した、というような話である(p.167-)。本書は、抽象的な話も多いのだが、それと結びつくような事例も載せられているようである、とこの読書記録を書きながら思った。テーマを持って全体を読み込むと、もっと見えてくるものがあるに違いない。時間があればだけど。

答えを先に教える

2006/07/28(金)

 「答えを先に教えてみた。」 アメリカの中学校で数学を教えている人のブログの記事である。。今はサマースクールで高校生を教えているらしいが,受講生は相当レベルが低いよう。

 簡単な問題なはずなのに,ちっとも理解されない。いろいろな教え方を試みた挙句,「答えを教えてから、じゃぁどうすればこの答えに行き着くと思う?と聞いた」ところ,うまく行ったらしい。なんだか面白い。

■『授業研究と談話分析』(秋田喜代美編 2006 日本放送出版協会 ISBN: 4595306180 \2,520)

2006/07/25(火)

 授業における生徒の学習と教師の学習(=授業研究)について概説された本。授業研究、談話分析、学習、学習意欲、協働学習、評価など、授業に関わる教育学と心理学の知見が、授業を軸に整理されまとめられた本である。引用、言及されている文献も興味深いものが多く、よい本だと思った。

 この本が私にとって興味深かったのは、私が授業に関わる研究をしたいと思っているからである。中でも、現在私が関心を持っているのは、学生が疑問を出す(質問をする)、ということについてである。それで、本書の各章から、疑問を出すことに関連した記述を拾ってみた(つまり、以下は自分用のメモである)。

 疑問を出すことに関連した記述は、いくつかの章で見られた。まず、「カリキュラム」に関する章では、「学習環境をデザインするために考えるべき視点」として、学習者中心、知識中心、評価中心、共同体中心が挙げられていた(『授業を変える』に紹介されていたヤツだ)。このうち「共同体中心」についての説明としては、「学校や教室のなかに「ともに学びあう仲間意識や規範」が成立するように互いの知識を説明や質問を介して共有したり、相互にヒントを与え協力して問題解決に取り組むなどの活動を授業のなかに積極的に取り入れていくという視点」(p.40-41)とあった。説明や質問を介して知識を共有し、協力して問題解決することが、クラスのなかに共同体を作る方策になる、ということのようである。「共有」がポイントだろう。

 「テキストからの学習」の章では、テキストを読む過程は問題解決過程と考え、その流れが図示されている。その流れは大まかに言うと、読む→疑問が生じる→検討する→答えを出す→解釈・評価・味わう(テキストの内容に疑問・意見・感想を述べる)、というものである。ここで注目すべきは、読みの最初の段階と最後の段階に「疑問」が位置づいていることである。いわれてみれば当然のことだが、これは私にとってはナルホドであった。

 「学習意欲」の章でも、「学びの共同体」について触れられている。そこでは、学びの共同体へと導く原理が5つ紹介されているが、そのなかの一つである「学びの主体としての生徒」という原理のなかでは、「生徒自らが積極的に方略を試したり使う学習を保障する」(p.130)ために、説明をしてみる、自分で予測を立てる、質問を作る、という3つの活動が挙げられている。それ以外にも、自分の理解を振り返り、相互にモニターする、という活動も挙げられており、そこでも質問は行われそうである。質問を作ることは、自発的で意欲的な学習につながる、ということか。

 「協働学習の過程」の章では、授業中の小グループ活動でのコミュニケーションを観察した研究が紹介されている。それによると、グループのなかで質問をしたとき、分かっている子が答えだけを教えるのではなく、質問した子が納得するまで説明を求めることが必要であることが示されている。質問をするだけでなく、その質問がどのように扱われるかが重要、ということだろうか。

 ・・・と、私の問題意識にそって、本書の目に付いたところから情報を拾っても、けっこうな情報を得ることができた。このように本書は、授業研究を考えているものにとって、有益な情報が豊富に含まれている本であると思う。

かぜ

2006/07/23(日)

 数日前からのどが痛くなっていた。朝晩うがいをして予防したが、かぜになってしまった。明日の授業は休めないので、薬を飲んで寝ることにする。本当は寝るときの冷房がよくないのだろうが、しかし冷房がないと寝られない。どうしたもんかなあ。

■『先生はえらい』(内田樹 2005 ちくまプリマー新書 ISBN: 4480687025 \798)

2006/07/20(木)
〜誤解から学ぶ〜

 この人の本は初めて読んだのだが、非常に面白かった。本書は要するに「先生はえらい」ということを論じているわけだが、この場合の先生とは、通常よく使われる「先生」の意味ではない。「出会う以前であれば「偶然」と思えた出会いが、出会った後になったら「運命的必然」としか思えなくなるような人」(p.11)のことである。尊敬できる先生(=師)であり、ほとんど「恋人」のようなものである。

 上の表現の中で重要なのは、「〜としか思えなくなる」という部分だろう。つまり誰を先生として尊敬し、師とみなし、恋人のように扱うかは、基本的に弟子の方の受け取り方の問題であって先生には関係のないことなのである(ちょっとこれは正確ではないか。先生と弟子の関係の問題かな。あるいはコミュニケーションの問題か)。これが「受け取る側の問題」であることについては、たとえば筆者は次のように表現している。

「先生の中には、私には決して到達できない境地がある」ということを実感するときにのみ、弟子たちは震える敬意を感じます。/そのためには、先生は実際に卓越した技術や知識を持っている必要はありません。(p.143)

 ここで、私にとって非常に納得できた事柄がある。先日読んだ『麻原彰晃の誕生』には、麻原氏がいかに尊大で残忍で俗物かについて、彼のライフヒストリーから、非常に説得的に論じていた。それはよくわかったのだが、しかし、『オウムはなぜ暴走したか。』に表現されていたような、師に対して弟子が感じでいる畏敬の念や思慕の気持ちまで含めて理解することは、『麻原彰晃の誕生』ではできなかった。

 しかしそれは、本書で、いとも容易に理解することができた(ように私には感じられた)。要するに、師はどんな俗物でもいいのである。弟子が師の言動に何か深遠なものを感じ、何かを伝えようとしているものとみなし、その意味を自分なりに読解しようとして師と対話をすることができれば、その人にとってその俗物は師=尊敬できる先生になるわけである。

 しかし本書は、そういう話だけで終わってはいない。このような受け取り方と対話の仕方に含まれるようなものを、筆者は「学びの主体性」と呼び、それがすべての学びの根源にあるものであることを論じている。筆者は「学びの主体性」を「ひとりひとりがその器に合わせて,それぞれ違うことを学び取ってゆくこと」(p.34)と表現しているが、先に述べた誤解とは、要するに一人一人が違うことを学び取ってゆくことを指しているのであろう。それは学びだけではない。すべてのコミュニケーション(対話)の根源にあるのが、このような「誤解」(一般的な言い方で言えば「解釈」か)であることを筆者は論じている。このような議論の進め方は、たまにおかしく感じる部分がないわけではなかったが、基本的には非常にスリリングなものであった。

 もう一つだけ、私にとって興味深かった点を述べておく。上に書いたように、学びの基本は、受け手の誤解=解釈であると筆者は論じている。しかし世の中には、誤解を許さず、唯一の正解を習得させるための学びがある。そこで受け手にできることは、自分なりに解釈することではなく、自分の受け取りが正しいか間違っているかを「査定」「検閲」されることである。それは受け手の主体性を殺してしまう、学びモドキでしかない。これは、自分が行っている授業を振り返り、考え直す上で、非常に重要な視点であると感じた。こういう風に本書は、私なりに豊かな受けとめを行うことの可能な、(私にとって)示唆深い本であった。筆者のほかの本も読まなければ。

顎関節症とか研修とかバレエとか

2006/07/17(月)

 土曜日、朝起きたら顎関節症(開口障害)になっていた。いつもは、長くても昼前には元に戻るのだが、今回は一向に戻らず。昼食も夕食も、苦労して食べた。夜、寝入りばなに戻ったからよかったものの。

 土曜日は1・3研修で、午後から恩納村へ。企画した3年生は、2年前の研修を参考に、さらに改良を加えた研修をしていた。なかなか悪くない研修だと思った。同行した先生とは、もう少し教育と関係した研修ができるといいね、なんて話はしていたのだが。日曜日の午前中にそこを出るまでは、久々にダラダラした時間をすごせた気がする。

 それから、O市市民会館へ。娘たちのバレエの発表会なのだ。こういうのは初めて見るので、よく分からない部分もあるのだが、けっこう面白かった。音楽も面白かったし。

 ということで帰宅したのは、夜9時半ぐらい。いろいろあって楽しかったけど、ああ疲れた。


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