31日短評5冊 25日『授業研究と談話分析』 20日『先生はえらい』 | |
| 28日答えを先に教える 23日かぜ 17日顎関節症とか研修とかバレエとか |
今月も読書冊数が少ない。しょうがないけど。
今月一番面白かったのは『先生はえらい』(なるほど学びの本質は誤解か)。次をあげるなら、『戦争広告代理店』(なるほど歴史はこう作られるのか)か。他の本も悪くはなかったのだが。
「答えを先に教えてみた。」 アメリカの中学校で数学を教えている人のブログの記事である。。今はサマースクールで高校生を教えているらしいが,受講生は相当レベルが低いよう。
簡単な問題なはずなのに,ちっとも理解されない。いろいろな教え方を試みた挙句,「答えを教えてから、じゃぁどうすればこの答えに行き着くと思う?と聞いた」ところ,うまく行ったらしい。なんだか面白い。
授業における生徒の学習と教師の学習(=授業研究)について概説された本。授業研究、談話分析、学習、学習意欲、協働学習、評価など、授業に関わる教育学と心理学の知見が、授業を軸に整理されまとめられた本である。引用、言及されている文献も興味深いものが多く、よい本だと思った。
この本が私にとって興味深かったのは、私が授業に関わる研究をしたいと思っているからである。中でも、現在私が関心を持っているのは、学生が疑問を出す(質問をする)、ということについてである。それで、本書の各章から、疑問を出すことに関連した記述を拾ってみた(つまり、以下は自分用のメモである)。
疑問を出すことに関連した記述は、いくつかの章で見られた。まず、「カリキュラム」に関する章では、「学習環境をデザインするために考えるべき視点」として、学習者中心、知識中心、評価中心、共同体中心が挙げられていた(『授業を変える』に紹介されていたヤツだ)。このうち「共同体中心」についての説明としては、「学校や教室のなかに「ともに学びあう仲間意識や規範」が成立するように互いの知識を説明や質問を介して共有したり、相互にヒントを与え協力して問題解決に取り組むなどの活動を授業のなかに積極的に取り入れていくという視点」(p.40-41)とあった。説明や質問を介して知識を共有し、協力して問題解決することが、クラスのなかに共同体を作る方策になる、ということのようである。「共有」がポイントだろう。
「テキストからの学習」の章では、テキストを読む過程は問題解決過程と考え、その流れが図示されている。その流れは大まかに言うと、読む→疑問が生じる→検討する→答えを出す→解釈・評価・味わう(テキストの内容に疑問・意見・感想を述べる)、というものである。ここで注目すべきは、読みの最初の段階と最後の段階に「疑問」が位置づいていることである。いわれてみれば当然のことだが、これは私にとってはナルホドであった。
「学習意欲」の章でも、「学びの共同体」について触れられている。そこでは、学びの共同体へと導く原理が5つ紹介されているが、そのなかの一つである「学びの主体としての生徒」という原理のなかでは、「生徒自らが積極的に方略を試したり使う学習を保障する」(p.130)ために、説明をしてみる、自分で予測を立てる、質問を作る、という3つの活動が挙げられている。それ以外にも、自分の理解を振り返り、相互にモニターする、という活動も挙げられており、そこでも質問は行われそうである。質問を作ることは、自発的で意欲的な学習につながる、ということか。
「協働学習の過程」の章では、授業中の小グループ活動でのコミュニケーションを観察した研究が紹介されている。それによると、グループのなかで質問をしたとき、分かっている子が答えだけを教えるのではなく、質問した子が納得するまで説明を求めることが必要であることが示されている。質問をするだけでなく、その質問がどのように扱われるかが重要、ということだろうか。
・・・と、私の問題意識にそって、本書の目に付いたところから情報を拾っても、けっこうな情報を得ることができた。このように本書は、授業研究を考えているものにとって、有益な情報が豊富に含まれている本であると思う。
数日前からのどが痛くなっていた。朝晩うがいをして予防したが、かぜになってしまった。明日の授業は休めないので、薬を飲んで寝ることにする。本当は寝るときの冷房がよくないのだろうが、しかし冷房がないと寝られない。どうしたもんかなあ。
この人の本は初めて読んだのだが、非常に面白かった。本書は要するに「先生はえらい」ということを論じているわけだが、この場合の先生とは、通常よく使われる「先生」の意味ではない。「出会う以前であれば「偶然」と思えた出会いが、出会った後になったら「運命的必然」としか思えなくなるような人」(p.11)のことである。尊敬できる先生(=師)であり、ほとんど「恋人」のようなものである。
上の表現の中で重要なのは、「〜としか思えなくなる」という部分だろう。つまり誰を先生として尊敬し、師とみなし、恋人のように扱うかは、基本的に弟子の方の受け取り方の問題であって先生には関係のないことなのである(ちょっとこれは正確ではないか。先生と弟子の関係の問題かな。あるいはコミュニケーションの問題か)。これが「受け取る側の問題」であることについては、たとえば筆者は次のように表現している。
「先生の中には、私には決して到達できない境地がある」ということを実感するときにのみ、弟子たちは震える敬意を感じます。/そのためには、先生は実際に卓越した技術や知識を持っている必要はありません。(p.143)
ここで、私にとって非常に納得できた事柄がある。先日読んだ『麻原彰晃の誕生』には、麻原氏がいかに尊大で残忍で俗物かについて、彼のライフヒストリーから、非常に説得的に論じていた。それはよくわかったのだが、しかし、『オウムはなぜ暴走したか。』に表現されていたような、師に対して弟子が感じでいる畏敬の念や思慕の気持ちまで含めて理解することは、『麻原彰晃の誕生』ではできなかった。
しかしそれは、本書で、いとも容易に理解することができた(ように私には感じられた)。要するに、師はどんな俗物でもいいのである。弟子が師の言動に何か深遠なものを感じ、何かを伝えようとしているものとみなし、その意味を自分なりに読解しようとして師と対話をすることができれば、その人にとってその俗物は師=尊敬できる先生になるわけである。
しかし本書は、そういう話だけで終わってはいない。このような受け取り方と対話の仕方に含まれるようなものを、筆者は「学びの主体性」と呼び、それがすべての学びの根源にあるものであることを論じている。筆者は「学びの主体性」を「ひとりひとりがその器に合わせて,それぞれ違うことを学び取ってゆくこと」(p.34)と表現しているが、先に述べた誤解とは、要するに一人一人が違うことを学び取ってゆくことを指しているのであろう。それは学びだけではない。すべてのコミュニケーション(対話)の根源にあるのが、このような「誤解」(一般的な言い方で言えば「解釈」か)であることを筆者は論じている。このような議論の進め方は、たまにおかしく感じる部分がないわけではなかったが、基本的には非常にスリリングなものであった。
もう一つだけ、私にとって興味深かった点を述べておく。上に書いたように、学びの基本は、受け手の誤解=解釈であると筆者は論じている。しかし世の中には、誤解を許さず、唯一の正解を習得させるための学びがある。そこで受け手にできることは、自分なりに解釈することではなく、自分の受け取りが正しいか間違っているかを「査定」「検閲」されることである。それは受け手の主体性を殺してしまう、学びモドキでしかない。これは、自分が行っている授業を振り返り、考え直す上で、非常に重要な視点であると感じた。こういう風に本書は、私なりに豊かな受けとめを行うことの可能な、(私にとって)示唆深い本であった。筆者のほかの本も読まなければ。
土曜日、朝起きたら顎関節症(開口障害)になっていた。いつもは、長くても昼前には元に戻るのだが、今回は一向に戻らず。昼食も夕食も、苦労して食べた。夜、寝入りばなに戻ったからよかったものの。
土曜日は1・3研修で、午後から恩納村へ。企画した3年生は、2年前の研修を参考に、さらに改良を加えた研修をしていた。なかなか悪くない研修だと思った。同行した先生とは、もう少し教育と関係した研修ができるといいね、なんて話はしていたのだが。日曜日の午前中にそこを出るまでは、久々にダラダラした時間をすごせた気がする。
それから、O市市民会館へ。娘たちのバレエの発表会なのだ。こういうのは初めて見るので、よく分からない部分もあるのだが、けっこう面白かった。音楽も面白かったし。
ということで帰宅したのは、夜9時半ぐらい。いろいろあって楽しかったけど、ああ疲れた。