読書と日々の記録2006.08上

[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'06] [索引] [選書] // [ホーム] []
このページについて
■読書記録: 15日『教育心理学の新しいかたち』 10日『遠いリング』 5日『「あたりまえ」を疑う社会学』
■日々記録: 12日独身日記 8日二千円札 1日居並ぶプレイヤー

■『教育心理学の新しいかたち』(鹿毛雅治編 2005 誠信書房 ISBN: 4414301580 \3,360)

2006/08/15(火)

 『心理学の新しいかたち』から生まれたシリーズ。このシリーズの中の本を読んだのは本書がはじめてである。他の巻を読んでいないのでなんともいえないのだが、教育心理学は、心理学の中でももっとも「新しいかたち」が求められている分野の一つではないだろうか。それは、教育心理学の対象である「教育実践」とどういう関係を築いていくか、という問題があるからである。それに対して本書は、大きく3つの回答が出されている。一つは「実践の主体になる」、つまり、研究者が実践の場を作る、ということである。認知カウンセリングがその好例である。二つ目は、「実践をともに創る」ことである。アクションリサーチがその好例である。三つ目は、「実践を探求する」ことである。たとえば、教育心理学的な理論的枠組みに依拠しつつ、実践を事例研究的に分析することが、その例にあたる。本書はこの3本柱で組まれており、それぞれについて、さまざまな研究者のさまざまなかかわり方や考え方が紹介されていた。

 その中で、私の興味を一番惹いたのは、臨床心理学者が「学級風土コンサルテーション」を行うことについて紹介していた第6章であった。これは上の分類で言うならば、「実践をともに創る」ことに入るが、しかし「創る」といっても、むしろ学級の現状を分析し、コンサルティングという形で支援をするようなかかわりである。

 筆者(伊藤氏)がコンサルテーションのツールとして使うのは、質問紙である。しかしその遣い方は、教育実践とのかかわりで質問紙を使うときの見本になるような使い方であった。それは第一に、質問紙の結果を、尺度レベルの平均値で見るのではなく、下位項目の布置からみるという使い方である。ある項目が高くても、それが他のどの項目と相関しているかによって、その意味は違ってくる。つまり、項目間の相関の出方の違いは、測定誤差なのではなく、学級の個性を表しているのである。もっとも、その相関の意味を、研究者が勝手に憶測するわけではない。具体的な学級状況についての知識を豊富に持つことで、結果の解釈が豊かになる。そのために、教師面接や、学級観察も行う。今後の課題の提案をしたあとは、その後どうだったかフォローアップ面接も行う。そうすることで、解釈の精度が高くなっていくわけである。

 このようなやり方は、臨床心理学で通常行われる技法であるし、質問紙を用いて適切に個性を記述するためには、当然なされるべき方法のように思われる。しかし、「普遍性を見出す」という、研究としての心理学的手法が念頭にあるせいであろうが、教育とかかわる心理学研究において、面接や観察と質問紙調査が併用されているものは、あまりないのではないだろうか。本来このようなことが必要なのは、(教育)実践とかかわる心理学だけではないはずである。現実のある側面を説明し、予測し、制御することが目的であるならば、それがいかに現実的に妥当なものかについて、何らかの形で確かめられなければならないのではないだろうか。しかしそれがない(見えない)研究は少なくない。それにはどういう意味があるのだろうか、現実から乖離したことを扱っていない、ということは何で保障されるのであろうか。この章で紹介されている、きわめてまっとうに見える方法論をみながら、そんなことを考えた。

独身日記

2006/08/12(土)

 木曜日に、妻子が一足先に帰省した。私は月曜日から学外で仕事が入っているので、まだ帰れない。ということで私は一週間ほど独身生活である。その間の出来事をメモ書き。

 木曜日。午後、妻子を首里のモノレールの駅まで送る。私は、月曜日から仕事のある場所を確認しに行った。10年ほど前に非常勤先に行くために使った裏道を通って。朝、道が込まなければいいのだけれど。夕食は残り物と温め物(冷凍食品)で。

 金曜日。会議が二つあった。二つ目の会議は、3時間半もやったが、少人数でじっくり課題を話し合うことができて、有意義な会だった。夕食は今日も残り物で。

 土曜日。9月にある別の仕事の準備をするために大学に行った。一応予定の範囲は終わったが、帰省先で続きをやるはめになりそうだ。夕食は定食屋でゴーヤーチャンプルーを食べた。

 なんだか仕事に追われる日々で、ゆっくり本が読めていないなあ。

■『遠いリング』(後藤正治 1989/1992 講談社文庫 ISBN : 4061853236 \673)

2006/08/10(木)

 ボクシングジムをフィールドにしたノンフィクション。最近ボクシングが世間をにぎわせているから、というわけではなく、講談社ノンフィクション賞受賞作なので、前に買ってあったのである。筆者の本はこれまでに、『スカウト』と『生体肝移植』を読んでいる。丁寧なよいノンフィクションを書く作家、という印象を持っている。

 本書では、8人のプロボクサーを中心に、ボクシングの世界が描かれている。その8人の選び方も、エリートと名トレイナー、雑草、新人、一度やめて戻ってきた人間、負け続けている選手、目立たない選手など多彩であり、それらを通して、ボクシング以外のものが浮かび上がらせられているように思った。それは、ちょっとありきたりの言い方になるが、若者の自分探しのようなものである。

 というのは、ボクシングをやるということはとても大変なことなのである。ファイトマネーは安いのでボクシングだけではメシは食えない、トレーニングの関係で残業はできないし、仕事を休まなければならないことも多いので職場では疎んじられがちになる、体へのダメージは大きい、酒タバコはご法度など、かなりの節制が強いられる、減量は苦しい、などなど、あげていったらきりがない。しかしボクシングは、一度やめてもまたやりたくなるものなのだそうである。それはなぜなのか、彼らはそこに何を見出すのか。本書を読んで、それがおぼろげながら見えるような気がした。それが何かははっきりとはいえないのだが。

 本書は全部で7章あるが、私が一番面白いなと思ったのは、6章の「B級パンチ」という話である。主人公は、まじめだがパンチ力に乏しい選手である。彼は途中で、選手兼トレーナーになるのだが、トレーナー経験が選手としてプラスに働いている。それは一つには、人のパンチを毎日受けることで、パンチが見えるようになったのである。パンチの間合いや出所がわかるようになったという。もう一つある。それは、1ラウンド3分を過ごすコツがわかったのである。それは、3分間の中で息を抜くコツである。そうなのであれば、ある種の選手にはトレーナー的な練習をさせるといいということになる。こういうことって、ボクシング以外にもあるんじゃないだろうか、と思った。

二千円札

2006/08/08(火)

 今日の昼,生協で買い物をしたら,二千円札でお釣りをくれた。

 たぶん私の人生で二度目の二千円札体験である。

 なんでこんなにも出回っていなんだろうか。

■『「あたりまえ」を疑う社会学─質的調査のセンス』 (好井裕明 2006 光文社新書 ISBN: 4334033431 ¥777)

2006/08/05(土)
〜あたりまえを疑う社会学を疑う〜

 社会学における質的調査を、いくつかのモノグラフを筆者なりに読み解きながら紹介した本。量的調査が「答える人々に対する想像力が確実に不足」(p.23)しがちなものであるのに対して、質的調査は、適切に行われた場合、「人々が自らの生きてきた経験を語る言葉や、その場で思わずあふれ出る情緒、あるいは抑制された感情、私に向かう語りの力」(p.35)と出会うことを可能にするものである。

 本書は、基本的な考えの中には疑問な点もあったが、断片的には非常に面白い部分があった。面白かったのは、大衆演劇の劇団に1年2ヶ月入って書かれたフィールドワークを紹介している部分である。その本自体は読んだことはなかったが、その筆者が書いたものは目にしたことがあったので、概要を多少は知っているつもりだったのだが、筆者の適切な紹介と読み解きで、その面白さは倍増したように思う。

 その本の筆者は劇団員として、最初は不適応を起こしつつも、しだいに適応していき、多少なりとも大衆演劇の世界でそれなりの過ごし方ができるようになっていっているのではあるが、しかし、役者になりきることはできなかった、と考えているらしい。それを受けて筆者は、普段の暮らしの中で我々も、何かになりきることはできておらず、だからこそ何者かになりきり続けようとしているのだ、と論じている。これはなるほどであった。私は大衆演劇の話を、「なりきれない」世界から「なりきる」世界の入り口に行った人のフィールドワークだと思っていた。そうだとすれば、それはそれだけの話である。しかし筆者は、「おそらく、大衆演劇の世界で役者を生きる人々も、「なりきった」瞬間などないだろう」(p.114)と論じている。そう考えるならば、私自身も、私の周りの人も、私が研究対象に選んだ人たちも、なりきる途上にいる人ということになる。それはとても納得のいく説明である、とこの章を読んで感じた。

 そういう部分はとてもよかったし、質的調査から見えてくるものの豊かさを感じることはできたのだが、しかし本書の基本的な語り口や、筆者の論の進め方というか考え方のなかには、ちょっと納得のできないところがいくつかあった。たとえば筆者は、本書の冒頭で、「例外的な他者をつくり、それを自らの暮らしから排除することで、私たちの気持ちや暮らしは安定するのだろうか。/おそらくそうではないだろう。」(p.11)と延べ、それを(質的に)読み解いていく必要性を説いている。あるいは最後のほうでは、「世の中に流布している、さまざまなカテゴリーや、それにはりついている実践的な処方を"鵜呑み"にして生きていくことは、気持ちのいいものだろうか」(p.202)というような問いかけを何箇所かでしている。要するに筆者にとっては「気持ちのよくない」ものであり、それを解き明かしてくれるのが質的調査、ということのようなのである。

 しかしこのような考えには大きな疑問がある。筆者は、例外的な他者を排除することは安定にはつながらないし、カテゴリーや実践的処方を鵜呑みにして生きていくことは気持ちのいいものではない、と論じる。少なくとも筆者はそうなのだろう。しかしそれはすべての人に当てはまることなのだろうか。筆者にしても、いつもそうなのだろうか。こういう風に無限定に断言してしまうということは、そういうことを気持ちのいいことだと感じる人に対する想像力が、筆者には不足してはいないだろうか。そもそも、何も鵜呑みにせずに生きていくことなど可能なのだろうか。『はじめて考えるときのように』で野矢氏が論じるように、「無数の見えない枠がなければ生活できない」のではないだろうか。このような、鵜呑みにすることの意味に関する筆者の考えは、質的調査のセンスが感じられないように私には感じられた。本書が私にとって「断片的には」興味深かったというのは、そういうことである。興味深い断片はとても興味深いだけに、それがとても残念であった。

居並ぶプレイヤー

2006/08/01(火)

  先週末,町立図書館でDVDを借りてきた。借りてきたのは「カラヤンの遺産」というタイトルで,ブラームスの交響曲1番と2番を,カラヤン指揮ベルリンフィルが演奏している。コンサートホールでのライブである。大学にこれをもってきて,昼食を食べながら見てみた。

 演奏はまあ悪くないのだが,映像が不気味なDVDだった。オケを引きで撮っているところや指揮者を中心に写しているところは問題ないのだが,数人のプレイヤーをアップで撮っているところが不気味なのである。

 必ず,4〜5人が並んで演奏しているところを,斜め横から写している。そのときのプレイヤーは,必ず姿勢が同じ,身体の角度も同じ,楽器の角度も,みんな同じなのである。まるでロボットか何かが演奏しているような絵なのである。これってかなり気持ち悪い。

 そういうシーンでは,プレイヤー以外には何も写っていない(背景は黒)ところを見ると,これはおそらく,ライブの映像ではないのだろう。そこのところだけ,音楽にあわせて,後から撮影したとしか考えられない。通常の演奏では,数名のプレイヤーの姿勢や楽器の角度が同じにあることは,まずありえないからだ。

 そういえばうろ覚えだが,カラヤンは,写真写りをとても気にする指揮者だったはずだ。事務所が許可する写真しか載せてはいけない,みたいな。それを考えると,こういう,見た目の美しさを優先した映像を撮りたくなる気持ちも分からないではないが(本当にそういう意図なのかどうかは分からないけど),しかしこれでは,静的すぎて,みていてちっとも面白くない。せっかく図書館には,カラヤンのDVD(「カラヤンの遺産」シリーズ)が何十枚もあるんだけど,他のを借りるかどうするか,ちょっと悩んでいる。


[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'06] [索引] [選書] // [ホーム] []