読書と日々の記録2006.09上

[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'06] [索引] [選書] // [ホーム] []
このページについて
■読書記録: 15日『弁護士が怖い!』 10日『綾戸智絵ジャズレッスン』 5日『授業の復権』
■日々記録: 11日繰り返しと振り返り 9日もう一回読みたい本 3日いよいよ

■『弁護士が怖い!―日本企業がはまった「米国式かつあげ」』(高山正之・立川珠里亜 1999 文春文庫 ISBN: 4167625016 \505)

2006/09/15(金)
〜アメリカの負の側面〜

 アメリカ人はよく、訴訟好きと言われる。その一例として、「ネコをオーブンで乾かそうとして殺した主婦がメーカーを訴えた」なんていう話を聞いたことがある。ウィキペディアによると、これは都市伝説だそうだが、しかし本書には、それに負けないぐらいにすごい訴訟例が多数出てくる。小型飛行機の酔っ払い操縦をし、ガス欠になって墜落した本人がセスナ社を訴えたとか、マクドナルドのコーヒーを自分の過失でこぼした人がマクドナルド社から64万ドルを得たとか。

 なぜこんなことが起きるのか。本書によるとそれは、「弁護士は長い年月をかけて一般市民に訴訟が儲かる、という印象を植え付けた」(p.125)からだという。なぜ弁護士がそんなことをするかというと、弁護士にとっては、訴訟がとても儲かるからである。儲かるのは第一に、アメリカの民事裁判では、原状回復だけでなく、懲罰的賠償金がつくので、額が大きくなること(コーヒー1杯64万ドル!)があげられる。勝てば弁護士はその3割をもらえるわけで,元の額が大きければ,「弁護士は一ヤマ当てればサラリーマンの一生分を稼いでしまう」(p.115)ケースもあるようである。

 これをある意味支えているのが、陪審員制度である。陪審員といっても、12人もいるのだから、それなりに賢明な判断がなされるのだろうと私は思っていた。しかし本書によると、どうやらどうではなさそうである。というのは、陪審員が仕事上まともに有給になるのは公務員ぐらいらしい。それに、社会的地位の高い人は免除されやすいようで、また弁護士による拒否もあるので、結局陪審員になるのは、「失業者や家庭の主婦ばかり」(p.173)だという。

 そうはいっても、どちらが勝つかはわからないではないか。そう思うのだが、企業に損害を与えられたと個人が主張するような裁判では、相手は儲かっている企業、原告は我々の仲間、というような意識が働き、よほど説得力のある証拠がない限り、かなり企業に不利な判決が出ることが多い(これは企業vs個人の場合だけではない。アメリカ人vs外国人の訴訟では、外国人不利の判決が出ることが多いようである)。

 と、こういう状況が作られてしまっているので、弁護士は、訴えるべき相手を訴えるのではなく,もっとも金がとれそうな相手を訴えることを原告に勧めるのである(本来訴えられるべき相手であっても、金を持っていないのであれば、弁護士にはうまみがない)。そこで企業に対して,言いがかりのような訴訟が多数起こされる。これがサブタイトルにある「米国式かつあげ」である。

 なお、この本の連載の元になった新聞記事を読んで、阿川尚之氏(『憲法で読むアメリカ史(上)』などの著者。アメリカの弁護士の資格を持つ)が筆者の姿勢を批判したという。アメリカのバイタリティの源は改良することにあり、これは過渡的な状況だからことさら言い立てる必要はないのだと。しかし私は、阿川氏よりも筆者の考えに賛成である。アメリカのバイタリティの源というならば、「改良」というよりは「改変」であろう。良くも悪くも。しかしそれを、改「良」の方向のみに向かわせる圧力はないと思う。良くも悪くもものごとを変えていき、その中で大きな利点も欠点も抱える。それがアメリカの姿だろう。その意味では本書は、欠点のみしか描かれてはいないが、アメリカのある側面をきわめてよく映し出した本であると私は感じた。

繰り返しと振り返り

2006/09/11(月)

 先日、ある人の日記へのレスとして、人が学ぶのは、繰り返しの中で振り返るときではないか、というようなことを書いた。それと同じようなことを今日も感じたのでメモ。

 今日は附属小学校で、教育実習生の授業を2時間みた。どちらも、必ずしもうまく行ったとは言えない授業であった(おそらく授業者は大失敗したと思っているであろう)。失敗はまあしょうがないことだろうと思う。実習生は経験が浅いわけだし、失敗から学ぶことは多いであろうから。

 しかし残念なのは、この失敗経験が、授業者にしか生かされないであろう点である。参観者は参観者なりにそこから学べるかもしれない。しかし学べる範囲はそこまでである。

 教育実習は、毎年毎年繰り返される行事である。おそらく、毎年同じような失敗も少なからず行われているであろう。その失敗から得られた教訓が、次年度にうまく伝えられれば、短い実習期間中に、実習生が得るものもより多くなると思うのだが。少なくとも今は、そういうシステムは構築されていない。これはとてももったいない気がする。

 私個人は、ゼミ生に教育実習での失敗談を書かせて、次年度に伝えようとは思っているのだが、そういうものがもう少しシステマティックに、教員養成教育の中に組み込まれるといいのに、と思う。具体的な案はないのだが。

■『綾戸智絵ジャズレッスン―課外授業ようこそ先輩・別冊』(NHK「課外授業ようこそ先輩」制作グループ  2000 KTC中央出版 ISBN: 4877581677 \1,470)

2006/09/10(日)
〜プリ−ポストデザインで〜

 マケプレに安く出ていたので買ってみたのだが、非常によく考えられたいい授業だと思った。

 授業の概要について、本書の中では「取材ビデオを見ると、それは、六時限まで目いっぱい長時間の「綾戸智絵ライブ」と言えるものである」(p.5)と書かれている。確かにそういう一面はあるのだが、しかしそれだけではない授業であったと思う。

 授業を受けた子どもたちは、5時間目の最後に体育館でLet It Beを歌う。ここが子どもたちにとってはメインである。この曲が選ばれたのは、歌詞がもつメッセージを伝えるという目的もあるが、それだけでなく、「芸術っていう日常が、英語だと表現しやすい」(p.178)、つまり、日本語じゃない歌だからこそ照れずに表現できる、ということを狙っているらしい。うまい選択である。

 また、歌詞を覚えるための方法もうまいと思った。歌詞を自分なりに聞き取ってカタカナで書かせる、というやり方である。そのために子どもたちはLet It Beを何十回も聞き、そして聞き取った内容をグループで話し合っている。その中で、「耳が知らない間に「Let It Be」を歌う人の耳になっちゃ」(p.87)うことを狙っているのである。このやり方には、とても感心した。

 そのほかにも、うまいなあと思えるような工夫や、軽妙な話術など、感心するところはいくつかあったのだが、一番感心したのは、最初と最後に「翼を下さい」を歌わせたところである。子どもたちは2時間目に、音楽の授業で習った曲として「翼を下さい」を歌った。それを6時間目、つまり体育館でLet It Beを歌った後に、もう一度歌ってもらったのである。そのとき彼女は、何かのついでのように「みなさん、「翼をください」をもう一度うたってくれる?」(p.157)といっている。しかしそれには明確な意図があったのである。そのことを彼女は、授業後のインタビューでインタビュアーにこう述べている。

今日わたしは、「Let It Be」を歌うのは、手段であると思ってきた。みんなと会うことが、いちばんの目的だったから。〔中略〕子どもたちの変化を見たかった。「Let It Be」の歌で彼らが徐々に変化していくのではなくって、それは変化じゃないよね。むしろ努力でしょ。そうじゃなくて、ぜんぜん触らなかった「翼」が、何かをやったことで変わったんなら、何か他の音楽以外のことでも、わたしがいっしょにいたことの意義が、ちょっとはあったんじゃないかなあ、と思った。二度目の歌を聞いてよかった。その変化を教えてくれたから。(p.186)

 翼〜Let It Be〜翼という構成は、心理学の実験で言うならば典型的なプリ−ポストデザインである。しかしそれが実に自然に、しかし計画的に、そして効果的に行われていた。実に魅力的な授業である(もっとも、子どもたちを乗せる部分は、彼女の軽妙な話術が駆使されており、その点は誰にでも真似できるというわけではないのだが)。

もう一回読みたい本

2006/09/09(土)

 この1年間のMIBを選んだ。全部で10冊。昨年同様、読み返してよかった、と思えるような本は実はあまり多くないのだが。

 過去の読書記録によると、再読してよかったのは、『ウィトゲンシュタインはこう考えた』と『心の先史時代』の2冊のようである。うーん、3割ヒットがあればいいほうなのか...

■『授業の復権』(森口朗 2004 新潮新書 ISBN: 4106100576 \714)

2006/09/05(火)

 「新学力観」「ゆとり教育」によって破壊された「授業」(教えること)を復権するべく、「ひたすら子供たちの学力向上を願い、授業スキルの開発と熟練に果敢に挑んできた教師たち」(p.15)の実践を紹介した本。本書で紹介されているのは、仮説実験授業、水道方式、野口芳宏氏の鍛える国語、教育技術法則化運動、百ます計算の蔭山英男氏、藤原和博氏の「よのなか」科である。類書としては『時代を拓いた教師たち』があるが、本書は「紹介」というより筆者なりの「評価」がかなり前面に押し出されている。本書がそういうつくりになっているのはよくも悪くもあるのだが、比較的独自の教育観を持つと思われる一人の筆者が下す明確な評価は、読んでいて面白くはあった。

 たとえば、蔭山氏の山口小時代の実践については、山村の小学校の奇跡というよりは、「山村の小学校だからできた奇跡ではないか」と筆者は考えている。というのは、都会では学校の社会的地位は低下しているが、山村だからこそ教師に対する敬意も高いだろうし、それゆえ、教師が家庭環境の整備を求めても応えてくれただろうというのだ。なるほどそれは一理あるかもしれない(というか、単純に都会の学校が真似しても無理かもしれない)。さらに蔭山実践については、学力向上の骨格は「公文式と寺子屋のハイブリッド」という評価を下した上で、このようなもののほうが立派な実践よりも実践・伝承が可能なので文科省も現場の教員も見習うべき、と論じる。

 また「よのなか」科(『世界でいちばん受けたい授業』)については、藤原氏は「よのなか」科を「正解のない授業」「失敗を許す授業」と述べていることについて異論をはさんでいる(正解・失敗についての記述は、たとえば藤原氏の『中学改造』にある)。筆者の異論というのは、この両者は論理的には両立しない、ということである。なぜなら「正解があるからこそ失敗がある」からである。実は「よのなか」科の授業には、隠された正解がある場合が少なくない。それは隠されているので、表面上は正解がない授業でありながら、失敗(=不正解)が可能であり、それが許されるというわけである。なかなか鋭い指摘である。

 実は本書は、たまたま古本屋でみつけた本であった。内容がいいかどうかはわからなかったが、教育評論家が「授業」という観点で注目しているのはどのような実践なのかという「ラインナップ」を見るだけでも面白いかと思って買ってみた。読んでみると本書は、6つの実践の紹介というよりも、これらの授業をネタに筆者の教育論を論じ筆者の考えを提示している側面がかなりあったが、上に挙げたような筆者の論じ方に独特な視点があり(ちょっと脱線しすぎかと思われるような箇所もあったが)、それなりに面白い本ではあった。

いよいよ

2006/09/03(日)

 明日から高知。ということで今日は最後の仕上げのために、朝から大学に行ってきた。で、夜7時になんとか、研修会の準備は終わった(と思う)。

 内容は、詰め込み過ぎないように気をつけはしたが、やってみないとわからない。いろいろ考えていると、ついいろいろと資料を準備したくなってしまいそうになる。そういうときは、私の基本的な仕事は「場作り」と肝に銘じ、less is more(より少なく学ぶことがより多く学ぶこと)という言葉を思い出しながら準備をした。やってみないとわからないが、昨年よりはましなプログラムになっているのではないかと思う。

 明日はもう観念して飛行機に乗り、かつおのタタキでも食べるか(高知ってほかは何がおいしいんだろう)。


[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'06] [索引] [選書] // [ホーム] []