読書と日々の記録2006.09下

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■読書記録: 30日短評5冊 25日『海峡を越えたホームラン』 20日『マインド・タイム』
■日々記録: 25日肥満注意報 24日児童生徒科学作品展 16日学会初日

■今月の読書生活

2006/09/30(土)

 8月の認定講習、9月の研修会と学会が終わって、ようやく私の夏休みが来た。ときどき会議が入るぐらいで、あとはほとんどが自由な時間だ。おかげで多少仕事ができたが、もう10日もすると後期の授業が始まってしまう。あと少しか...

 今月良かった本は、うーん...『弁護士が怖い!』(アメリカって、そんな社会だったのかあ)か。この本、品切れのようなので、人には進められないのだが(アマゾンのマケプレでは安く出ているようだ)。

『生き方の人類学─実践とは何か』(田辺繁治 2003 講談社現代新書 ISBN: 4061496557 \756)

 再読。面白かった。面白かった理由の半分は、学会発表に向かう飛行機の中で読んだせいだろう。その発表で、この本を引用ているのだ。そのため、自分の発表内容と改めて照らし合わせながら読めたのだ。今回わかったこと。「ハビトゥス」という概念は、なんだかわかりにくいなあと思っていたが、本書ではバートレットの「図式」の説明の後、「歴史の中で形成されてきた知覚や行為の図式としてのハビトゥス」(p.93)と表現されている。ということはハビトゥスは、社会や集団が強調されてはいるものの、基本的にはスキーマと同じと考えてよさそうだ。それから、今回注目したこと。「生き方の人類学は人々の間のミクロの権力関係が凝集するコミュニティのなかの人々の参加、協働、あるいは対立、交渉を記述するとともに、彼らの実践の差異化の過程、すなわちかれらの<自由>を描かなければならないだろう」(p.250)と筆者は述べる。ということは私はこれから、私の研究対象とする集団において、参加だけでなく非参加を描き、権力ゲームを描き、多様なアイデンティティのあり方を描かなければならない、ということだろう。おかげで今後の方向がみそう、と思うのと同時に、それらの描き方の具体的な例があるといいんだけど、とも思う。

『行動分析学入門─ヒトの行動の思いがけない理由』(杉山尚子 2005 集英社新書 ISBN: 4087203077 \693)

 タイトルどおり、行動分析学の入門書。こういう内容が新書で読めるのはありがたいことだと思うが、内容は、大学の講義的という感じで、人の行動の理由の思いがけなさにハッとする、みたいなことはあまりなかった。そういう意味では、『パフォーマンス・マネジメント』のほうが、種々の行動を制御するための攻め方が具体的に載っており、私には興味深かった。この本が行動のマネジメントを学ぶ本であるのに対して、本書は行動分析的な見方を少し学ぶ本、という感じである。本書では行動分析学の特長がさまざまに述べられているが、「数ある心理学の中で、行動分析学ほど「節約の原理」に徹しているものはない」(p.144)と述べられており、これはそのとおりだと思った。行動分析学で遣われるのは、強化、弱化、好子、嫌子、消去、復帰、強化スケジュールなどで、基本的に随伴性(=結果?)との関連ですべてが分析される。それ以外の心理学では、同語反復的な概念が少なからず使われているのとは極めて対照的である。

『「考える力」はこうしてつける』(ウィルソン&ジャン 1993・2004 新評論 ISBN: 4794806280 \1,995)

 小学校の授業で、「振り返り能力」と「自らの学びについて自ら考える能力」(メタ認知能力)を育成するにはどうしたらよいかを論じた本。さまざまな活動が紹介されてはいるのだが、この手の本を読むと、いつも思うことがある。それは、こんな活動がある、こんなやり方もある、と、カタログ的に羅列されるのは、実際の授業を組むに当たって、少なくとも私にとってはあまり役に立たない、ということである。複数の選択肢があるときに、なぜ、どのような理由で、どの活動を選択するのかがわからないので。こういうスタイルよりは、ある教師が1時間なり1単元なり1学期なり1年の授業の中で、どのような活動をどのような言葉で導入し、それに対してどのような反応があり、またその最中に生じた問題にどのように対処したか、というようなひとまとまりの例を私は知りたい。その上で、バリエーションなり他の可能性を紹介してくれるといいのに。本書はそういうタイプではなく羅列型の本だったので、自分なりのスタイルを確立している人が視野を広げるにはいいかもしれないが、そこまで行っていない人には、直接役立たせるのは難しいのではないか、と私は思った(少なくとも私にとってはそうである)。

『山内一豊と千代―戦国武士の家族像』(田端泰子 2005 岩波新書 ISBN: 4004309743 \780)

 タイトルは「山内一豊と千代」なのだが、彼らの話は半分ぐらいではないかと思う。残りは、彼らの先祖探しだったり、ほかの戦国武士の話だったり。そういう意味では、タイトルとサブタイトルは逆にしたほうが実情にあっている。もっとも、大河ドラマに乗じて売りたいのだろうからこうするのはわかるのだが。なお、山内一豊と千代、とくに千代の話が少ないことについては、筆者があとがきに、「千代はさまざまな伝説・逸話に彩られているものの、千代に関する確実な史料は大へん少ない」(p.243)と書いている。なるほど。ちなみにこの記述からもわかるように、筆者は史料を元に正確に書くことを旨としているようで、史料で明らかなことと、根拠に基づいて推測したことは、明確に書き分けている。例の馬の逸話も、こんな可能性やこんな説もあるけれども、こんな理由でおそらくこうだろう、というような感じである。というわけで本書は、伝説や逸話よりも歴史学的な話が知りたい人にお勧めという感じの本である。

『海辺のカフカ(上・下)』(村上春樹 2002/2005 新潮文庫 \740+\743)

 【上巻】15歳の少年を主人公にした小説。まだ上巻しか読んでいないのだが。これまでに読んだ村上春樹本の中では読みやすいなあと思ったら、作者は文体を変えているようだ。そういうインタビューが新潮社のサイト─載っているのだが、「15歳の少年はそんなに華麗な比喩を使ったりはしない」し、「凝ったレトリックも必要ではなくなってくる」という。なるほど、それで読みやすかったのかあ(逆に今までに読んだ村上本は、華麗な比喩や凝ったレトリックのせいで読みにくかったのかあ)と思った。ネット上で見る限り、非常に評判がよい本なので、早く続きを読みたいものである。ちなみに本書は私にとっては、夏休みのお楽しみ読書として、1年ぶりぐらいに買った小説である。
【下巻】うーん、なんだかよくわからないままに終わってしまった。いつもの村上作品のように、現実の世界に生きている人とそうじゃない人がいるなあとか、要するにどっかへ行って帰ってくる話なのかあと思ったぐらいで。なんで評判がよいのか、もう一度ネット書評を見てみなければ。

肥満注意報

2006/09/25(月)

 最近、もらい物のお菓子があったり、賞味期限が切れそうな最中が実家から送ってきたりしていた。まじめな私は、何とか捨てずに消費しようと、毎日せっせと食べていた。それがたたったのか、体重が1kgほど増えてしまった。

 たかが1kgではあるが、ここ数ヶ月、何をしてもまったく増えなかった体重が、いっきに増えたのである。ちょっとマズい、と思い、今朝から昨日から肥満注意報モードに入った。いつもより長めに歩いたり、間食をやめたり、筋トレもどきを(ちょっとだけ)したり。

 おかげで今日の夕方は、血糖値が下がったせいか、手がちょっとゲナゲナしてしまった。これでは仕事が手につかないので、飴玉をなめたりしたのだけど。1週間ぐらいで、元に戻ってくれるといいなあ(逆に、肥満警報ゾーンに入ったらいやだなあ)。

■『海峡を越えたホームラン』(関川夏央 1984/1997 双葉文庫 ISBN: 4575710962 693円)

2006/09/25(月)
〜異文化としての祖国〜

 1982年、韓国でプロ野球が始まり、1983年には在日コリアンの5人が日本のプロ野球をやめ、韓国でプレイするために海峡を渡った。本書はその彼らを中心としたノンフィクションであり、講談社ノンフィクション賞を受賞している。

 彼らは、「現役野球選手としては日本では先が見えた、あるいは命数が尽きた」(p.278)選手である。しかしプロ野球が始まったばかりということもあり、かなりの活躍をする。たとえばあるキャッチャーは、日本では在籍10年間で一軍の試合に15試合しか出ていないが、韓国では正捕手として大活躍し、チームは優勝し、彼自身もベストナインにも選ばれる、という具合である。しかしそれは平坦な道ではなかった。正捕手といっても最初は、エースに投げたくないと言われたり、サインと違う球を投げられたり、といったことなどがあった。チームメイトに同じ在日コリアンがいなければ、ノイローゼになっていただろうと本人は述べる。本書のこういう部分は、要するに異文化適応の話である。

 しかしそれだけではない。彼らは、日本のプロで身に着けた技術や考え方を韓国で示し、韓国の選手にカルチャーショックを与えた。この時点での韓国の野球は、速い球を投げ、それを遠くに飛ばすという比較的単純なものであったが、そこで、タイミングをはずすとか、「ハナの差でも勝ちは価値、同時に、どう負け、どう明日につなぐかもプロの仕事だという新しい「思想」を韓国野球にもちこんだ」(p.53)のである。そういう意味ではこれは、異文化接触の話である。もっとも、公私に渡り、彼らが韓国から受けたカルチャーショックのほうがはるかに大きくはあるのだが。

 彼らが韓国に行った理由は、いろいろあるのだろうが、少なくとも金だけではないし、祖国に帰るという気持ちがある選手も少ないようだ。そうではなく、「日本のプロの技術とか経験とかを教えたい」(p.114)という気持ちがあり、実際に機会があれば教えているようである。そういう意味ではこれは、文化伝達の話でもある。

 もっとも、それが素直に、また完全に相手に伝わるわけではない。一つには、レベルの差があるため、高い技術をそのまま教え、無理に引っ張りあげようとすると、反発される、ということがあるようである。しかしそれだけではない。レベルの差に見えるものが、見方を変えれば、文化差ともいえるのだ。日本の野球からみれば、韓国の野球は大味かもしれないが、しかし韓国の野球はそれでいいのかもしれない、とある人がいう。そもそも日本と韓国の野球は、べつの野球、べつのスポーツなのだ、というわけである。では日本の技術や考え方を伝え、韓国プロ野球の水準を日本プロ野球に近づけようとするのは徒労なのか。その問いに対して、ある人が次のように答えている。

野球の資質を変えようという努力なら徒労かもしれない。韓国には韓国人にあった野球がある。それはどうしようもなく変えようもないことかも知れない。だが、野球を職業として生きる、技術ひとつで生きる、そういう練習を入れる容器や環境の点ではまだいくらも改良の余地はあるんじゃないか。(p.309)

 そういう意味ではこれは、異文化理解の話である。異文化を理解した上で、お互いにどう変え、どう変わっていくかの話である。ある選手は、悪役的な選手として扱われながらも、一定の評価も得られるようになっている。その理由として、韓国人が彼のスタイルになじんだこと、彼の言うことにも一理あることに気づき始めたこと、彼自身が多少言葉が上手になったこと、などが挙げられている。お互いが変わりながら、理解を深め、関係が変わっていく。そういう意味ではこれは、お互いの状況的学習の話といってもいいかもしれない。そしてもちろんこれは、在日コリアンの選手たちにとって、アイデンティティの模索の話でもある。このように、いくつもの側面を見ることができるという点で、「在日コリアンの日本プロ野球の選手が、韓国という祖国でも異国でもある地でプロ野球選手になる」という題材は、非常にいい題材だったんだなあと思った。

児童生徒科学作品展

2006/09/24(日)

 地区の「児童生徒科学作品展」が開かれており、上の娘(8歳3ヶ月)の作品が出品されているというので見に行った。うちの学校では、夏休みの自由研究の中から、各クラス2名を担任が選び、出品しているようだ。

 会場には、学年別に、結構な数の自由研究が展示されていた。こういう作品、夏休み前に子どもたちに(あるいは親にも)見せてくれたらいいのに、と思う。うちの娘は2年生なわけだが、昨年(1年生のとき)は、いきなり「夏休みの自由研究をやれ」的なお達しがあり、何をしていいか分からないままに、子どもが妻と相談してそれらしいものに仕上げた。今年もまあ似たような状況だ。

 自由研究だから「自由」にやればいいのかもしれないが、子どもはほっておいても自由に研究したいものがあるわけではないし、どの程度のことをやってどの程度にまとめれば自由研究になるのかがわからないし、そもそも研究ってどんなものをさすのかもわからない。テーマ作りの指導やヒントが学校で与えられているわけでもない(その割には、出品作品には「指導教諭」という欄があり、担任の名前が書かれている)。

 こういう作品展を見ることで、その疑問に明確な答えが得られるわけではないが、こういうテーマがあるのかとか、これぐらいがんばっているんだなとか、これ面白そう、などといった思いが、人の研究をみることで見えてくる。大人(専門家)の研究だって何もないところからスタートするわけではないのに、子どもの研究に何のサンプルもないなんて、と不満に思っていたのが、少し解消された気がした。

 過去の作品を子どもにあらかじめ見せるのは、単にサンプルとか目安というだけではなく、文化伝達(文化実践への参加?)という意味でも大事だと思うんだけどなあ。

■『マインド・タイム─脳と意識の時間』(B.リベット 2004/2005 岩波書店 ISBN: 400002163X \2,835)

2006/09/20(水)

 心身問題というか、意識(自由意志)と無意識の問題、実験的に迫ろうとした本。具体的に扱われている問題は、「脳内の神経細胞の物質的活動がいかにして、外界についての感覚的な気づき(アウェアネス)、考え、美的感覚、ひらめき、精神性、情熱といった、非物質的な現象である主観的な意識経験を引き起こすことができるのか」(p.3)という問題である。筆者の代表的な研究の一つは、刺激が0.5秒間持続して初めて意識を伴う経験が起こる、というものである。しかもその気づきは、すでに0.5秒たった刺激に途中から気づく、というものではなく、その刺激が発生したときに気づいているように感じられているのである。筆者はこの現象から「タイム−オン理論」をつくり、そこから次のような見解を導き出している。

 私が最初にこのような話を聞いたとき(10年ぐらい前だろうか)は、そんなばかな、と思ったものだが、しかし今この話を聞くと、いい線いってるかもしれないな、という感じに変わっている(←ちょっとエラソーだが)。というのはまず、無意識から行動が始まるとういのは、アフォーダンスという観点から考えてみると、とてもしっくりいく考えである(筆者がアフォーダンスとの関連を述べているわけではないが)。それに、視覚的注意にしても運動行動にしても、無意識的・並列的処理から意識的・系列的処理へと移行していることは、実験心理学ではよく言われる(というか検証されている)ことである。また、このような考え方であれば、無意識(決定論的?)と意識(自由意志)との関係が、うまく位置づけられるかもしれないような感じを抱くことができるような気がする。筆者は、「意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行動を起動してはない」が、「意思によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否する」(p.162)ことができる、すなわち制御は自由意志によって行われている、と論じている。十分に腑に落ちる説明というわけではないが、しか決定論と自由意志の関係は、(これそのものが適切かどうかは別にして)方向性としてはこういう感じになるのだろうな、という気はする。

 なお筆者は、直接研究しているのは、感覚的な気づきや運動の意図の気づきであるが、それ以外のもの、たとえば思考などについても、そこからの敷衍で論じている。たとえば、次のような具合である。

さまざまな思考、創造、態度、創造的なアイデア、問題の解決などは、初めは無意識に発達します。このような無意識の思考は、適切な脳の活動が十分な長さの時間継続したときにだけ意識的なアウェアネスに到達するのです。(p.125)

 無意識的に開始された思考が、そののちに意識され、さらに思考を進めたり抑制したり、という制御を行う。これも、十分に腑に落ちはしないものの、思考の無意識(自動思考など)と意識的制御について、何らかの示唆なり、具体的に考えるヒントになりそうではある。といっても、そんな気がするだけなので、誰かがこの考えをさらに発展、整理してくれるといいんだけどなあ。

学会初日

2006/09/16(土)

 教育心理学会は、出たいシンポジウムがたくさんあるので困る。かならず同じ時間に、出たいものが複数開かれているのだ。今回はちょっと考え、最初の30分ぐらいは、2番目に出たいものにでて、資料をもらい、残りの時間を一番出たいものにでることにした。まあ悪くない作戦かも。聞きたいポスター発表は、発表者には申し訳ないが、開始時間前にお願いをして話を聞かせてもらったり。

 いつも思うのだが、学会に出ると、普段使っていない部分の脳みそが活性化されて、アイディアがいくつも湧き出る気がする。思いつき程度のものではあるが。学会会場での刺激によって思考がアフォードされるという感じだ(使い方が適切かどうかはわからないが)。

 ということで、たくさん勉強してたくさんいろんなことを考えた一日だった。


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