読書と日々の記録2006.10上

[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'06] [索引] [選書] // [ホーム] []
このページについて
■読書記録: 15日『リコウの壁とバカの壁』 10日『小蓮の恋人』 5日『義務教育を問いなおす』
■日々記録: 14日ピア・レスポンス 6日幼稚園見学 4日新学期の気配

■『リコウの壁とバカの壁』(ローヤー木村 2004 本の雑誌社 ISBN: 4860110315 \840)

2006/10/15(日)
〜受け取り方と心構えの問題か〜

 本書の前半は、養老猛司氏の『バカの壁』の読み解き方指南書である。筆者は養老氏の分かりにくい論理を丁寧に解きほぐし、非常に分かりやすく解説してくれる。しかし本書は単なる指南ではない。養老氏の考えを批判的に解説し、本書の後半では、その考えをさらに発展させているのである。

 本書の冒頭で筆者は、啓蒙書を読むときのコツは、「最初に本文の一番後ろの部分をペラペラッと見てみること」(p.12)だと述べている。そこに著者の言いたいことがまとめられているからである。本書では、『バカの壁』の結論部分にあたる4行を抜粋し、そこから解説が始められている。その伝でいくならば、本書の結論部分は、おそらく次の箇所になるであろう。

僕は、世の中の壁には、養老さんが指摘した「バカの壁」の周りに、たくさんの「リコウの壁」が横たわっていることを皆さんとの共通了解としたい、と願ってこの本を作りました。そして、「バカの壁」を崩すより、「リコウの壁」を崩すほうが容易だということを訴えたかったのです。(p.186)

 養老氏はバカの壁のことを、「われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない」とか、自分が知りたくない情報を遮断する、と表現している。その極端なものが、原理主義的な(あるいは一元論的な)発想である。それに対して筆者は、「絶対の真実がある」という一元論はまさにバカの壁と呼んでよいものだが、その穏やかな形(と筆者は述べていないが)である、「話せば分かる」と安易に考えてしまうことは、同じではないと考える。それは、一見分かり合えないかに見える二者間に、何らかの共通了解があれば、そこから「話して分かる」ことは可能だからである。「「話せばわかる」と考える人」(p.16)のことを筆者は、「リコウ」と呼ぶ。したがってリコウの壁とは、共通了解がないために乗り越えられていない、しかし共通了解ができれば乗り越えられる壁のことである。「話せば分かる」はずなのに話してないから分かり合えていない壁、とでも言おうか。

 本書の後半は、筆者が考えるリコウの壁の具体例として、男女の壁、人権主義の壁、官僚の壁、刑務所の壁、憲法9条の壁、アメリカの壁(ブッシュの壁)を挙げ、その乗り越え方について論じている(唯一、「北朝鮮の壁」のみが、一元論の「バカの壁」として論じられている)。バカの壁は容易に乗り越えられない。養老氏の本はそういう側面だけがクローズアップされている悲観的な本であるが、本書では、そうではない壁もあることを指摘しようとした本だといえるだろうか。養老氏のアイディアの批判的継承というか。複数の考えに折り合いをつけようとしたり、現状の問題に、共通了解を持ち込むことをで問題を解消しようとしている点は、発想が(ある種の)弁護士的といえるかもしれない。

 ちなみに、たとえば「官僚の壁」をどう乗り越えるかというと、官僚の下にある情報を徹底的に公開し、情報隠しには厳しい制裁を加え、内部告発者を守る法律を作り、天下りを禁ずる法律を作る、という4か条を国民の中で共通了解できれば、乗り越えることができるはず、と筆者は述べる。

 情報公開なんかは、草の根的無党派知事が県職員の意識改革として推進する筆頭の項目に挙がったりしており(『知事が日本を変える』参照)、それなりの効果はあるだろうなという感じはする。しかしここで疑問なのだが、果たしてこれは、「話せば分かる」の例なのだろうか。筆者の方策は、官僚と誰か(国民?)が話す、というようなものではなく、官僚が不正をできない環境作りを、官僚の外の世界でやろうとしているようにみえる。それは結局、官僚そのものは「バカの壁」とみなし、それを外堀からなし崩しに崩していく方策にみえるのだが(筆者が「北朝鮮の壁」に対して提案しているように)。

 これは、こういうことなのだろうと思う。上にブロック引用した文章のうち、最後の一文(「バカの壁」を崩すより、「リコウの壁」を崩すほうが容易)は逆転した話で、さまざまな「壁」のうち、もっとも崩すのが難しいものを「バカの壁」と呼び、それ以外のものを「リコウの壁」と呼びましょう、というのが筆者の主張である。この2つは別物ではなく、崩す難易度順に並べられるものである。もっとも容易なものは、話せば分かる。もっとも難しいもの(バカの壁)は、話しても分からない。それ以外のものは、比較的容易なものもあれば、かなり難しいものもあり、官僚の壁は、話すだけではおそらく解決しない、バカ寄りの壁ということなのだろう。

 そしてその難易度の評定は、おそらく人によって変わってくる。「話せば分かる」と考えがちな人にとっては、容易に崩せる壁(リコウの壁)がたくさんあるように思えるだろう。しかし私は、『日本の論点』などをみていると、筋の通ったことを言うことが、そう容易に「わかる」ことにはつながらないと思うのだ。筋にもさまざまなものがあるわけで、両論とも、それなりに筋の通ったことをいうことは可能なのだ(そして往々にして、「自分の言い分にはこんなに筋が通っているのに、どうして相手はそれがわからないのだ。それは相手がバカの壁に陥っているからに違いない」と考えることになりがちではないだろうか)。

 実際筆者も『日本の論点2006』に寄稿しており、その中で、人権擁護団体に物申したけれども、相手にされなかった、という経験を紹介している(本書にも似たような経験は紹介されている)。筆者のいう「共通了解」を広げることは、筆者が思うほど容易なことではないのではないかと私は思う。そう考えるということは結局、世の中はバカの壁だらけと考えることになるわけだが。

 あ、そうか、こういうことか。筆者は本書の最後に、「本当はよく話し合ってみればわかりあえるのに、「話してもわからない相手だ」、「こいつは一元主義だ」と勘違いして、かえって相手を本当の擬似「バカの壁」のほうに押し込めてしこともあります」(p.186)と述べている。「本当はわかりあえる」はずだというのがミソで、この記述は、それがバカの壁かどうかは、その人の受け取り方しだいということのようだ。とするとこの記述は、実際にはどうかは別にして、目の前の壁をリコウ(=乗り越えられる)壁と「信じて」、根気強く話し合い続けましょう、相手を簡単に切り捨てたりしないようにしましょう、という心構えの話なのだろうな。そうであれば、まあ納得のいく話である(と同時に、筆者が直面しているいくつかの壁のその後の顛末が知りたいものである)。

ピア・レスポンス

2006/10/14(土)

 昨日は,月曜日の授業の準備のために,昨年度受講生が出したレポートを読んでいた。読み込むつもりはなかったのだが,あまりにも面白かったので,つい,午後いっぱいかけてじっくり読み込んでしまった。

 授業の名前は「思考力育成論」。レポート課題は,「複数の授業を比較することで、思考力育成教育のポイントについて、具体的に論じる」。18名の受講生中,半数以上の学生が,質量共に充実したレポートを書いていた。提出されたときにももちろん読んだのだが,最近,研究上でもこのテーマについて考えているところだったので,改めて,内容の面白さに興味を惹かれたのだ。

 実はこの授業では,よい作文(小論文)を書かせることが思考力育成への道だ,と思って,数年前にはそのあたりに焦点を置いて授業を組んでみたのだが,そのときはあまりうまくいかなかったという経験がある。そのアイディアは,日本語教育の人たちと知り合って,プロセス・ライティングなる考えを知って,やってみようと思ったのだ。

 今回は特に,作文教育的なことはしていない。では今回はなぜ,(少なくとも数年前よりは)うまくいったのだろう。

 今回新たにやってみたことは,次の二つなので,これらが原因なのだろうと思うのだが。ひとつは,冬休みにレポートの草稿的なものを任意課題として課し,出されたもの(3作品)のよい点と改善すべき点を,1回の授業を使って検討したのだ。検討結果は提出者にフィードバックするのと同時に,他の受講生も,そこで出した良い点/改善点を,自分がレポートを書くときの基準にしてもらったのだ。自分なりの基準を持ってレポートを書くことは,とても重要なポイントなのだろう。

 もう一つは,授業最終日に,各自が持ってきたレポートを,グループ内で発表して,他の人からコメントをしてもらった。コメントに対しては,その場で鉛筆書きで付け足してレポートを出してもいいし,3日後の〆切までに書き直してきてもいいよ,ということにした。レポートを教員だけが読むのはもったいない話で,人のレポートを読んだり(聞いたり),自分のレポートに他の人からコメントをしてもらったりするのは,きっといい経験になるだろうと思ったのだ。中には,このときのコメントを受けて,レポートを一から書きなおした人もいるようだ。

 ここでやっていることは要するに,ピア・レスポンスと言われるものだ(日本語教育の人に,それを研究している人が何人かいる)。今回は半期で2回しかやっていないわけだが,やり方によってはすごく効果があるということが分かった。それと同時に,良いレポートがどんなものかは,こちらが教えなくても,学生がすでに知っているということだ。ただしその知識は,自分がレポートを書くときにはあまり使われていないようだ。それをうまく活性化し,自分のレポートを書く際に活用してもらえれば,学生はいいレポートを書くことができる。

 今年度の授業が楽しみになってきた。

■『小蓮の恋人─新日本人としての残留孤児二世』(井田真木子 1992 文芸春秋 ISBN: 4163466207 1,427円)

2006/10/10(火)
〜矜持と共生〜

 中国残留孤児とその家族が日本に渡ってきてから、いかに生きてきたかについて書かれたノンフィクション。一つの家族を追っており、その中でも、残留孤児の子ども(二世)が日本に渡ってきてからの10年間が中心となっている。

 中国残留孤児という言葉はもちろん聞いたことがあったが(正確には、別離当時13歳未満で現地に置いてこられた人だそうだ)、彼らが日本に戻るということは、元の家族と一緒に暮らすものだとばかり思っていた。少なくともこの家族にとってはそうではなかったらしい(多分そうではないケースが多数なのだろう)。彼らは中国東北部の寒村の出身で、極貧の生活に、「これと違うことができるんなら、どこへでも行く」(p.45)という思いの中で、村から脱出する手段として日本に来ており、日本では生活保護をもらって暮らし始めている。

 本書の主人公である二世の小蓮は、来日10年目に中国に旅立つ。それは、自分の中にいる中国人と日本人の、言葉と文化のアンバランスを解消するためにである。ここで、彼女が考えている「二つの文化のバランスを保つ努力とは、具体的には何をさすのだろう」(p.27)という、一種のリサーチクエスチョンをもって筆者はその旅に同行した。その旅の物語と、来日前後から10年の上村家の物語が交互に語られるノンフィクションであった。ありきたりな言い方をするならば、ルーツ探しというか、アイディンティティを明確にする旅とでも言えるであろうか。それは彼女にとっては、とても切実であると同時に、不安なたびであった。また、自分探しをするのと同時に、中国人の恋人を受け入れる旅でもあった(彼は同行したわけではないのだが)。

 本書の最後に、当のリサーチクエスションの答えがはっきり書かれているわけではない。しかし、おそらくそれは「オリジナルの文化に対する矜持と異文化との共生という二律背反しがちな課題」(p.132)の両方に、その人なりの答えを出すということなのだろうと思った。それに加えて言うならば、日中ハーフの彼らが、日本も中国も大事にし、ハーフという立場も受け入れた上で自分なりのアイデンティティを持ち、日本で生きていくことを改めて受け入れるということだろう。それはもちろん簡単なことではないが、今回の旅をはじめとして、さまざまな出来事の中で、それは答えを得ていく(もちろんそれは、そのときどき、その時点での答えなのだろうが)。そういうプロセスをつぶさに見ることのできるという意味で、とても興味深い本であった。

幼稚園見学

2006/10/06(金)

 今日の午前中は、モンテッソーリ教育をやっている幼稚園に見学に行った。今書いている紀要論文で、ちょっとモンテッソーリ教育に触れるのだが(というか、モンテッソーリ教育について言及している本に触れるのだが)、実物を一度も見たことがないのに論文に書くのはどうかと思ったので、お願いをして見せてもらうことにした。というか、せっかくの機会だから、ぜひ見てみたいなあと思ったのだ。うちから車で20分ぐらいのところにある、カトリック幼稚園である。

 午前中の保育を1時間半ほど見学したのだが、非常に面白かった。一斉保育とはぜんぜん違う、自由で応答的で援助的な環境で,ときには子ども同士も教えあったり手助けしあったりしながら,自分がやりたいことをやりながら自分なりに学んでいく姿は,うちの大学の附属小・中をはじめとする学校が学びが目指している姿だろうなと思った。まあ一度見ただけなので、いいところだけが目に付いたのかもしれないけれども。

 このような学びを支えているものは何か、考えてみた。縦割り保育,豊富なスタッフ(先生が一度に見るのは20人以下),カリキュラムの制約がないこと(学びの履歴としてのカリキュラムはあっても,あらかじめ定めされ,到達を要求されるようなカリキュラムはない),教員の質を保証するディプロマ制度や、先生同士で行っている大小さまざまな研修,などだろうか。

■『義務教育を問いなおす』(藤田英典 2005 ちくま新書 ISBN: 4480062432 \945)

2006/10/05(木)

 本書は300ページ超とやや分厚いし、筆者の文章は濃厚で難し目ではあるのだが、義務教育がおかれている現状を知るには悪くない本。筆者の基本的な考えは、社会民主主義的というか、「第三の道」的か。その基本的な考えは、たとえば次のように表現されている。

競争原理・能力主義も自己責任の原則も、資本制的な市場経済や仕事の世界では、けっして否定されるものではない。しかし、教育は、自己責任能力のある自律的な個人として市場経済や市民社会に参加していけるように、準備する営みである。その準備をする前から、あるいは、その準備の早い段階から、競争原理・能力主義や自己責任論を振りかざし、個々の子どもに、教育機会の差別化の責任をとらせるわけにはいかない。(p.14)

 なお筆者は、「共生」的なもののみをよしとしているのではない。競争原理と共生原理の「両方を適切なものとして組み込んだ教育・社会のヴィジョンを構想し、それを制度設計と生活実践・教育実践の指導理念としていく」(p.16)と述べている。もっとも、現在の政策が競争原理的なものに寄っている以上、筆者の論は、共生原理的なものをいかに導入するか、という部分に力点が置かれている。それは具体的には、「当事者主義による開かれた学校づくり」と述べている。すなわち、教師、生徒、保護者、地域住民や地域の企業、同窓生など、さまざまな立場の当事者が、意見表明を行い、学校を形成的に評価し、改革・改善していくべき、という考えである。それは、現状に問題があるときに、そこから「脱出」しようとするのではなく(学校選択制のように)、そこに踏みとどまり、「意見表明」することで現状を変えていこうという道をとるべきということである。

 筆者は教育社会学者で、他国の実情や国際テストの結果なども交えながら論じられており、その点はとてもよかった。たとえばフィンランドがどうしてPISA調査で高順位をマークしたかについて書かれていた。フィンランドでは後期中等教育や高等教育で職業教育を受けている者が多いそうである。大学も、就職後に入学しやすいように開放的になっている。すなわちフィンランドの15歳はかなり職業を意識して暮らしているわけで、だから、実社会で生きる力となるような、強化横断的、実践的な力が身につきやすいし、教育上も力を入れやすい、ということのようである。このあたりはもう少し詳しく知りたいところだ。

 本稿1〜3段落目に述べた、競争原理・能力主義・自己責任 vs 共生原理・当事者参加という対比をみて、一つ思ったことがある。この対立って、『デモクラシーの論じ方』に出てきた、デモクラシーの2つの立場に近いのではないだろうか。前者が多数決的民主主義、後者が議論重視の民主主義という感じで。あるいは、トリアンディスの『個人主義と集団主義』でいうならば、前者が垂直的個人主義、後者が水平的個人主義に近いようにも思える。あっているかどうかは分からないが。しかしこういった感じの対立軸は、教育も含め、いろいろなところで重要な位置を占めているように思う。

新学期の気配

2006/10/04(水)

 うちの大学は、10月1日からが後学期で、今は登録期間(多分)。間に大学祭なんかも挟んで、初授業は12日で、まだ夏(秋?)休み気分なのだが。

 今日は、会議が2つ、同僚の集まりが一つあった。昨日は、3人の学生からメールが来た。明日は2名の学生が来室予定である。

 新学期が、ひたひたと近づいてくる感じである。


[←1年前]  [←まえ]  [つぎ→] /  [目次'06] [索引] [選書] // [ホーム] []

FastCounter by LinkExchange