読書と日々の記録2006.12上

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■読書記録: 15日『ためらいの倫理学』 10日『フリートークで読みを深める文学の授業』 5日『学校を考えるっておもしろい!!』
■日々記録: 14日【授業】注意と妨害 7日何を話し合うか 4日失敗(未遂)2件

■『ためらいの倫理学─戦争・性・物語』(内田樹 /2001/2003 角川文庫 ISBN: 4043707010 \660)

2006/12/15(金)
〜自己批判と他者批判/理解と信仰〜

 この筆者の本を読むのは、『態度が悪くてすみません』に次いで3冊目。この本は筆者初めての単著だそうだ(内容は、Web上に書いた文章をまとめたもの)。いつも思うのだが、この人の書くものには、激しく同意する部分と、目から鱗の部分と、納得いかない部分とが入り混じる。

 「激しく同意」するのは、次のような記述である(類似の記述が何箇所かにある)。

私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計量する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。(p.42)

 正確に言うと、この文章丸ごとに同意しているわけではないのだが、こういう部分は大事だろうなと思う。筆者は「ふつう」とか「呼んでいいことになっている」という表現を使っているが、こういう指摘は(少なくとも私の見る範囲では)あまり見かけないというか、ふつうではないような気はするのだが。

 「納得いかない」部分は、実はこれと関連している。本書では、さまざまな人やさまざまな考え方を、スッパリと批判している部分がたくさんある。しかし、上記引用のような考えと「スッパリ批判」は、どのように両立可能なのか。それが私には分からなかった。他者を批判しているときは、自己批判能力は発揮されていないように私には見えた。批判のためには、その批判を成り立たせる枠組みが必要なわけで、批判の最中にその枠組みを疑うことはできない(『他者の声実在の声』参照)。つまり、自己批判をしながら他者批判をすることはできないのである。筆者も、他者批判をしているときには自己批判能力は発揮していないだろうと思う。

 といっても私は、内田氏を批判したくてこんなことを書いているのではない。上記引用箇所に同意を感じたからこそ、じゃあそういう人の批判なり意見主張はどのような形でありうるのか、疑問に思ったし知りたくなったのだ。それが上記引用箇所に続いてほしいと思うわけである。それがなければ、上記引用のような主張は、弱い意味の批判的思考のようなもので、他者批判のためのレトリックになってしまうのではないだろうか。

 ひょっとしたら内田氏は、「そのことを自覚していること」が、自己批判をしつつ他者批判できるための条件と考えているのかもしれない(そう思われる節はあるような気がする)。そうであれば、それが単なる「本人が自覚している」というだけでなく、文章中にどのように現れうるのか、というのが私は知りたいのである。なおこの問題にかなりきちんと向き合っているのではないかと思われるのは、私の知る限り、ポパーぐらいである。それは、議論を反駁可能な形で開くことと、相手の論点の疑わしい点は相手に有利に解釈する、という形で行われているようである。これが最善の道なのか、あるいはそれ以外のやり方があるのかについて、私はとても知りたい、と思っている。

 それはさておき、本書の中で「目鱗」だったのは、今の若い人がなぜ字を読んだり書いたりできなくなったのか、という問いに対する筆者の考え。文字に接しなくなったからというのは違う。なぜなら彼らは、マンガやファッション雑誌はよく読むからである。そういう雑誌に載る文章は、意味の分からない、しかしノリのいい言葉がちりばめられている。そういう情報に接し、彼らは、「読み飛ばし」機能を発達させたのだと筆者は考える。すなわち、「意味の分からないことばがあっても気にしない」のである。そのことについて筆者は次のように書いている。

いまの若い人たちが目にし、耳にする日本語の文章は、あまりに多くの「意味不明のことば」を含んでいる。そして、読者視聴者に期待されているのは、その逐語的理解ではなく、文章の持つグルーヴ感やテンションに同調して「乗る」ことなのである。(p.270)

 質問をしない小学生、質問をしない大学生が心理学の研究になったりするが、その根底には、ひょっとしたらこういう状況があるのかもしれない。これは目鱗であった。

 なおこれは、今の若い人だけの現象ではない、と本書を読みながら私は思った。というのは本書中、筆者は少なくともあと2箇所で、同様のことを論じているのである。いずれも、「現代思想の分かりにくさに対して、わからないことは恥ずかしいことではないのだ、と論じている」文章である。たとえばある箇所では、「「ほんとうはそれどういう意味なの?」という問いをむやみに発しないこと、〔中略〕、それが「大人になること」である(p.243)と述べている。また別の箇所では、現代思想の難解な文章を、「分かってもらうために書かれたものではない文章」とみなし、「それを初心者が「分かろう」とするのが最初の「ボタンの掛け違い」なのである。先方に「分からせる気がない」文章を「分かろう」としたって無理である」(p.259)と論じている。分かろうと読解するのではなく、忠誠心と信仰心をもって接するのが大事だと筆者はいうのである。先の「読み飛ばし」ではないものの、「理解しない」という点では、前段落で書いた「いまの若い人」と大差ないように思う。分かる、理解する、理解できなければ質問する、というだけが唯一の生き方ではない、ということだろう。

【授業】注意と妨害

2006/12/14(木)

 共通教育科目「心の実験室」。実験や体験を通して心理学を学ぶ,1単位ものの授業である。今日のテーマは「注意と妨害」。4人グループを作り、ストループ課題をやってもらった。

 最初に受講生を一人前に出し、ストループ効果をみなの前でデモンストレーションした。1列だけ読んでもらったのだが、今日前に出てくれた学生は、あまり引っかからずに読んでいた。デモンストレーションは不要だろうか(昨年の受講生のレポートに載っている結果のグラフを見せるだけでもいいかもしれない)。

 今年は受講生がやや少ないこともあり、全グループ実験が終わったのは、授業開始50分ぐらいだった(例年だと、5人グループができたりするので、もう少しかかる)。実験後は、いつもだと、私がストループ効果の説明をするのだが、時間もあることだし、各グループで、なぜこんな結果になったのか、説明を考えてもらった。時間は3分というところだろうか。話合いが止まっていそうなグループには、「読んでるとき、どんな感じだった?」という問いかけから、説明になりそうな考えを引き出して見た。

 全グループから説明を出してもらうと、なかなかいいポイントをついている説明がいくつもあった。それを使いつつ、私なりに、「自動的処理」という観点から説明した。ここの部分は例年と同じなのだが、その前に話合いと発表をしてもらったことで、理解が例年よりもいいのではないかと思う。

 それでも5分ぐらい時間が余ったので、書字スリップも体験してもらった。「お」などの文字を急速反復書字させると、他の文字(あ、む、す、など)を書いてしまう、という現象である。こういうのも、自動的処理のなせる業だろうし、あるいは、別の用事で台所に行ったのについ冷蔵庫を開けてしまい、「あれ、何しにきたんだっけ?」みたいなこともあるでしょ、なんて話をして授業を終えた。

 受講生の感想を見ると「おもしろかった。おもしろいくらいにできなかった」なんて書いてあった。

■『フリートークで読みを深める文学の授業』(桂聖 2003 学事出版 ISBN: 4761908785 \1,470)

2006/12/10(日)
〜自然な対話を目指して〜

 筆者は筑波大学附属小学校の先生。藤井千春氏の「基調提案−検討方式」(『問題解決学習のストラテジー』)を国語の授業に応用しているのが本書である。筆者が目指しているのは、発問−応答中心の授業ではなく、子ども同士が作品について自由に語り合う授業である。だからこの実践を「フリートーク」と呼んでいるのだろう。この場合に行われる「基調提案」は、「みんなに尋ねたいこと、気になること、よく分からないこと」である。それをみんなに問い、みんなの答えを元に、提案者もその他の子どもも、自分なりの考えを作っていく。それが基調提案−検討としての「フリートーク」である。一つの提案について、10分程度行われるらしい。筆者は、e>日常的な話し合いのほとんどが基調提案−検討方式であると指摘する(「ほとんど」ではないとは思うけど)。本実践ではその中でも、「お悩み相談」的なものにかなり限定されてはいるものの、確かに、一般的な授業(発問−応答)よりもはるかに日常的で自然な話し合い(対話)になっている。

 「フリー」トークというと、教師は何もしないように聞こえるが、そうではない。フリートークが授業の中で生きるために、筆者はいくつかの手立てを打っている。一つは、朝の会でフリートークを行うことで、子どもたちに話し合う力をつけさせることである。基礎トレーニングというか。その上で授業においては、書き込みノート(たぶんワークシート的なものだろう)に書き込みながら一人読みをさせることで、各自の読みをあらかじめ深めておくという準備も行っている。また、話し合いたい話題をあらかじめ集めておき、似たものを集め、ラベルをつけて学習の方向性を示し、それらを読みが深まるような順序で配列している。その他、板書の工夫などもなされている。

 また筆者は、クラス全体でのフリートークだけでなく、グループ活動も活用している。ある話題を始める前に、あらかじめそれについて数分ペア対話をさせたり、ある発問に対して1分程度ペア対話してから答えさせたり、あるいはグループでフリートークをさせたりしている。筆者のフリートークは、このような多様な技が臨機応変に使われることで支えられているのだろう、と思った。

 なお、すぐに具体的にどうすればいいかは挙げられないが、このやり方は、たとえば大学で、質問書方式などと組み合わせて使うことも可能なのではないかと思った。うまく具体化できれば面白かもしれない。

何を話し合うか

2006/12/07(木)

 月曜日に「思考力育成論」という授業を開講している。基本的には実践のビデオを見せ,その実践に見られる思考力育成のポイントを話し合うのだが,先週は,「技を教える」作文の授業をめぐって,意見の対立があった。技術があって思考になるのか,技術を教えることが思考を狭めるのか(だから技能よりも活動を重視すべきなのか),というような対立である。

 これはちょうどいいと思い,今週の授業は,それを深めることを目的とした。こんないい題材があるのだから,その続きのような形で話し合ってもらったらいいかなと思った。「技術有用派」が優勢のようだったので,一応,佐伯ゆたか先生の『考えることの教育』から,「技能説の問題点」の節を印刷配布したのと,「相手の立場になって考えてみる」という教示ぐらいしかしなかった。

 結果的には,惨敗だった(ので,そのことを日記に書く元気すらなかった)。「何を話し合えばいいかよくわからなかった」という声が結構あったし。そうなる予感もしてはいたのだが,代替案を思いつかなかったので,半分やむを得ず,こういう授業を行った。

 あれから3日,ようやく,どうしたらよかったのかが見えてきたような気がしたので日記に書いておく。技能重視も活動重視も,それだけでは不十分である(うまく乗れない子どもがいる,その範囲で小さく収まってしまう子どもがいる,などなど)。その不十分さを踏まえた上で,技能説の人は技能説なりに,活動説の人は活動説なりに,いかにその不十分さに備え,補うかが大事である。その点を具体的に考えてもらえばよかったのになあ,と今日気づいた。

 こういう知恵って,授業前にはなかなかわかないんだよなあ。まあ,終わった後にせよ,気づけたわけだから良かったんだけど。

■『学校を考えるっておもしろい!!─教養としての教育学』(水原克敏編著 2006 東北大学出版会 ISBN: 4861630312 \1,890)

2006/12/05(火)

 東北大学で教育学を教えている著者の、2005年前期の授業の記録。授業は「教育学」。内容は、1870年から今日までを9つの時期に分け、毎回一つの時期について解説していく、という日本教育史である。科目の位置づけは一般教育で、このときはさまざまな学部から114名が受講していたようである。大人数の講義科目ではあるのだが、いくつかの仕掛けによって、単なる知識伝達的な講義とは異なっている。

 仕掛けの一つは、毎時間、後半に質疑応答の時間があることである。どういう形で行われているのか(挙手なのか、それ以外の方法なのか、など)は本書では明らかではないが、毎回、数名(2〜5名程度?)の受講生が質問をし、先生がそれに答えている。

 また、この授業は、著者の研究室の学生(4年生3名)が、毎時間の司会進行を行っている。司会は、前半の講義中に先生に質問したりコメントを発したりもしているし、後半の質疑応答の時間にも質問を行っている。そういう意味では司会は、司会進行というだけではなく、先生のアシスタントとして、また、どちらかというと消極的になりがちであろうフロアの受講生に近い者として、その声を代弁するような役割もしているのではないだろうか。その意味で、この仕掛けの意義はかなり大きそうである。先生自身にとっても、司会の存在は大きかったようで、「運営者・評価者・支援者などの役を担う司会陣が存在するだけで、私は現在進行中の授業は問題ないのか、授業を進めながら反省的思考をするという習慣がつくようになりました」(p.310)と述べている。

 仕掛けの3つ目は、おそらく授業の最後に書かせているのであろう、受講生のコメントである。本書には、司会の学生のコメントつきでそれらが紹介されている。本書では分からないのだが、受講生のコメントはおそらく、次の時間に、印刷して受講生に配布されるか、次の時間の冒頭に軽く紹介されるかしているのであろう。

 仕掛けの4つめは、授業の最後の2回をつかって行われる討論会である。全部で27班が作られているようなので、1班4人というところか。テーマと立場(賛否)が各班に与えられ、1時間かけてグループ討論を行って答申書を作り、次の時間は、各テーマの各立場、1〜2の班が選ばれ、全体討論が行われている。一般教養の大人数クラスでここまでできるんだなあと、これにはちょっと感心した。

 筆者はこの授業を、「教授による一方通行の講義ではなく、受講生の声を聞き、それを授業に還元することを通して、受講生が"参加・参画"する授業を目指してきました」(p.265)と述べている。それは大まかには成功しているように見えるが、ただしそこには、「受講生の参画」はあまりないように私には見えた。質疑応答を行い、コメントを提出することで、授業参加はあるようだが、参画しているのは、受講生ではなく、あくまでも先生とアシスタントだけなのではないだろうか。少なくとも本書を読む限りは、そのようにしか見えない。この人数だと参画は難しいのだろうか。できたら次はこの先生には、もっと受講生の参画があり、それが明確に見える授業をやってほしいなあ。

失敗(未遂)2件

2006/12/04(月)

 昨日,宮崎出張からの帰り,宮崎空港にギリギリ(というか,出発の30分前)についた。時間の余裕を持たせたつもりだったのだが,出発時刻を勘違いしていたのである。結果的に搭乗には何の問題もなかったのだが,あせった。なんであらかじめ,ちゃんとした出発時刻を確かめなかったんだろう。

 せっかく宮崎で買ったお土産(3つ)を,どこかに忘れてきてしまった。飛行機にはなかったようなので,到着ロビーで公衆電話をかけたとき,その脇にでも置いたのだろう。モノレールの終着駅を降りてから気づいた。出発前のバタバタが影響したのかもしれない。


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