読書と日々の記録2006.12下

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■読書記録: 31日短評7冊 25日『セルフラーニング どの子にも学力がつく(新版)』 20日『入門!論理学』
■日々記録: 30日この1年 21日公開授業 17日読書と私

■今月の読書生活

2006/12/31(日)

 ちょっと風邪気味なので、前口上は手短に。

 今月良かった本。まず、本の内容ではなく実践内容が興味深いものとして、『フリートークで読みを深める文学の授業』『セルフラーニング どの子にも学力がつく(新版)』が挙げられる。筆者の他の本も読んでみなければ。あとは、文句なしに『入門!論理学』だろう。さすが野矢氏である。ぜひこの続きも書いてほしいものである。

『日本のインテリジェンス機関』(大森義夫 2005 文春新書 ISBN: 4166604635 \714)

 筆者は、日本のインテリジェンス機関である内閣情報調査室(内調)で室長を勤めた人物。『大本営参謀の情報戦記』の堀氏と同じく、自分の仕事を振り返りつつ、日本で情報があまり重視されていないことの問題点を指摘している。インテリジェントな生き方がどういうものかについて筆者は、「疑う、他を窺う、比較する、逡巡する、誤りに気づく、変更する、内省する、といった人間的なプロセスを厭わない複線蛇行」(p.130)と述べている。これも堀氏と同じである。クリティカル・シンカー的というか。本書は、文体的にちょっと読みにくくはあったが、情報の重要性、そしてその扱い方の難しさについて考えさせられる本であった。そうそう、本書から得た情報で一つ興味深かったこと。イラクに大量破壊兵器があるというのが護身だったわけだが、それは、英国でも米国でも分析担当者が「あるに違いない」という集団思考に陥ったという指摘があるらしい。残念ながら本書にはそのソースは載っていなかったが、興味深い。詳しい情報が知りたいものである。

『介入授業の記録 (授業叢書) 上』(斎藤喜博 1977 一茎書房 \1,365)

 斎藤喜博氏が、人の授業の途中から「横口」をはさむ、という介入授業の記録が6本ほど収められている。授業者の授業展開と、斎藤氏の発問の違いがなかなかおもしろい。現場で見ているとそうとう面白いだろうなと思う。斎藤氏は、「一つの学校の教師が、授業という場で、お互いに横から口を出し合うことが必要」(p.6)と述べている。そういうのって、下手をするとぐちゃぐちゃになりそうだけど、うまくするととても面白いだろうなと思う。あるいは、教育実習で、指導教諭が段階的に口を出す時間を遅らせていくと、組織的、段階的な学生の指導ができるのではないかと思う。それにしても、誰かが横口を出す授業、一回見てみたいものである。

『心脳マーケティング─顧客の無意識を解き明かす』(G. ザルトマン 2003/2005 ダイアモンド社 ISBN: 4478502161 \2,940)

 基本的なアイディアはよくわかるのだが、全体的にはうーん、な本だった。基本的なアイディアとは、消費者の思考のほとんどは無意識に起こるので、効果的なマーケティングをするためには、消費者の意識的な回答を得る方法(アンケートやフォーカスグループインタビューなどのような直接的な問いかけ)ではなく、無意識に働きかける方法(メタファーを聞く、など)を用い、消費者が持っている「物語」を知るべき、ということだと思う。うーん、なのは、引用されている研究が適切なのかどうかが分かりにくい点とか、メタファーによって「心の奥底にある思考や感情が明らかにされる」というような考え方をしていたりとか、脳の話に持って行きたがっていたり、とかである。そういうものなしに、実際的なマーケティングの話を中心とした本にしても良かったんじゃないかなあ。少なくとも私にはそちらのほうが面白そうだけど。

『法廷―弁護士たちの孤独な闘い』(伊佐千尋 1986/1993 文春文庫 ISBN: 416739605X \408)

 不適切な取調べと裁判が行われた(と思われる)事例が4編載せられているノンフィクションである。本としては、私にはちょっと読みにくかった。各事例の突っ込んだ話が細かく書かれているからであろう。比較的短めの2番目と3番目の話は、読みやすく、それだけに扱われ方の不適切さが良く分かったように思う。筆者は本書の最後を、「有罪・無罪の決定を、裁判官たちだけに委ねておくのは、あまりにも国民にとって「危険」なのではなかろうか?」(p.271)と締めくくっている。それ以前の文章には、そういう記述はまったくないのだが、筆者は「陪審裁判を考える」活動もしているらしい。確かに本書のような事例を読むと、陪審裁判も一つの選択肢としてはありうるかなと思う。それがベストかどうかは分からないが。

『質問する力』(大前研一 2003/2005 文春文庫 ISBN: 4167679353 \499)

 タイトルに惹かれて買ってみたが、どのようにして質問する力をつけるか、という本ではなかった。「何事に対しても「本当かな」という疑問を持ち、自分の頭で考えてみる習慣を身につけることです」(p.175)と述べつつ、筆者自身が疑問に思ったことを列挙している本である。むしろ、筆者自身の考えを述べることが中心で、ときどき、それにひっかけて「質問」について論じている、という感じである。私は本書のあちこちで、「筆者が述べていることは本当かな?」と疑問を感じた。疑問を感じろ、と述べつつ自分自身の考えを述べるというのは、相当に難しいことだと思った。結局それは、「私が感じている疑問をなぜ君たちは感じないのか」という形にしかなりえないからである。こういうことは、類似他書を見ながら前々から思っていたことではあるのだが。

『ワークショップ型研修のすすめ─授業にいかす教師がいきる』(村川雅弘編著 2005 ぎょうせい ISBN: 4324076499 \1,890)

 再読。前回持った感想と同じく、やはり高志小学校のところにはいいことが書かれている。仮説検証で研究を行うと、「子どもの姿を見ずに、実践を語るようになる」(p.88)とか。ピラミッド型の組織では、頂点にいる力を持つ一部の存在と、底辺を支える歯車としての職員という位置づけになるとか。目標は一般的なものだけをかかげ、「計画することを必要最小限に限定し、あとは、創意ある実践の奨励・レポート作成・ワークショップの開催という方法を規定することで、計画したものの質的改善を絶えず図ろうとする」(p.89)とか。「相違ある実践は、教師を同質性から解き放ち、自律した専門家へと進める」(p.90)とか。月2回の集まり(ワークショップ)は、「結論を出す話し合いでなく、自分の実践に役立つ情報を集める場である」(p.91)とか。「共通理解という名のもとでまとめることをやめると、教師一人一人の主観的な受けとめが大切となってくることに気が付いた」(p.92)とか。実践−レポート執筆−ワークショップの「繰り返しの中で、お互いに意識し考える大切なことが似通ってくる」(p.93)とか。共通の成果を出すのではなく、「「ゆらぎ」から「共鳴」が生まれ、よりよいものへと進化する「自己組織化」を徹底する」(p.94)とか。従来的、一般的な組織研究に比べて、こちらの方がはるかに良いようにしか見えない。この高志スタイル、問題点があるとしたらどんなものなのだろうか。

『クリティカル・シンキング入門』(A. フィッシャー 2001/2005 ナカニシヤ出版 ISBN: 4888489726 \3,570)

 論理学的クリシンの本。著者はイギリス人。イギリスのクリシン本を私は初めて見た。が、きわめてEnnis(1996)的な本参だった。考文献として各章末にEnnisが挙げられているし。ということで、私にとってはあまり得るところはなかった。しいて言うならば、批判的思考という語は、イギリスでも否定的なニュアンスを持っていることがわかったことだろうか。それは、「「クリティカル・シンキング」という言葉が、ともすればかなり「否定的に」、つまり他の人々と議論と考えを敵対的に批判することにだけ関心があるかのように聞こえると考えられている」(p.18)という記述に現れている。あと、イギリスの大学入試センター試験的な試験で、クリティカル・シンキング的な問題が出されているらしいことも分かった。

この1年

2006/12/30(土)

 この1年を振り返るために、Web日記(読書と日々の記録、mixi)を見直してみた。それによると:

 今年は、引越しをした。それに伴って、ネットでいろいろと買い物をした(おかげで楽天ではプラチナ会員らしい)。

 今年は県外出張が多かった。京都、高知、岡山、福岡、宮崎と5回行った。

 例年にない授業として、栄養教諭のための認定講習と、放送大学の面接授業をした。どちらも、まあうまくいったようでよかった。授業は、夏以降、自分の研究テーマとの関連を考えながら行っている。まじめに考えると、それは案外難しいことがわかりつつある。そこから先は来年のテーマだ。あと、自分の授業以外の授業見学(小学校〜大学)を、4月から61時間行った。昨年の同時期より1割ぐらい多い。

 健康面では、2月からずっと胃が痛くなったり(治るのに10月ぐらいまでかかった)、7月から頻繁に顎関節症になったり(結局病院に行った。治るのに10月ぐらいまでかかった)、例年よりも大変だった。自分の健康問題ではないが、パソコンも壊れたりした。

 読書に関しては、今年は多分135冊。読書記録を始めてから、年間最低記録かもしれない。引っ越してから読書環境が整っていないのかも。あるいは気力の衰えか...

■『セルフラーニング どの子にも学力がつく(新版)』(平井雷太 2005 新曜社 ISBN: 4788509644 \1,890)

2006/12/25(月)
〜自分なりに知識を構成〜

 筆者は、「押しつけない・強制しない・命令しない」スタイルの塾を行っており、その教育の考え方を紹介している本である。そんな教育をどう実現するのか。誤解を恐れずに簡略化して書くなら、「公文式のプリントを、サマーヒル(自由学園)的な考え方で作り直し、自学自習のためのシステムを作り上げることによって」という感じだろうか。実際筆者は、これまでにその両方に関わった経験を持つ。それだけでなく、水道方式などを用いて「分かること」を目指した塾も開いており、それらの問題点を筆者なりに解決した到達点として、このセルフ・ラーニングは提唱されている。その是非の判断はまったく付かなかったが、興味深い考えであることには間違いない。

 筆者が作るプリントは、「一切教えなくてもこのプリントを学習しているだけで、まだ習っていない単元であっても、その計算法則を自然に身につけていけるように配慮」(p.102)して作られている。たとえば幼児向けの算数であれば、最初は、決められたとおりになぞれば0から9までが書けるようになっているプリントとなっている。それがステップアップしていき、0から130まで書かせるようになっており、最後には、0から130までを8分台で書けるように作られている。そうやって書くうちに、数を「量」として実感するとともに、ある数(たとえば39)の次の数(40)が自然と身に付く。それは、「+1」の足し算が身に付いたのと同じことになる。そうやって自然に学べるようになっているのである。

 そういえばこれに似た話が、『学習科学とテクノロジ』に載っていた。「月曜日+火曜日=木曜日」みたいな問題を何問もやらせていると、人は自然にルールを発見し、すばやく計算するための考え方を見出す、とかいう話だった。それは要するに、人は自分で知識を構成しているのだ、という話だった。自分なりに知識を構成するためには、同じような問題をいくつもやる必要がある。セルフラーニングの方式は、問題を意図的に配列することで、人が自分なりに知識を構成しやすくしている、ということができよう。

 「押しつけない・強制しない・命令しない」とあるが、筆者の塾では、塾に入るのも、塾に行くのも、どのプリントをやるかを選ぶのも、子ども自身にさせている(その意味では、「どの子にも学力がつく」というタイトルは不適切で、「このシステムに乗った子には」学力がつく、と言ったほうがいいのではないかと思うのだが)。計時も採点も子どもが自分で行うのである。また自宅で勉強するかどうかも、親が口を出さないように指導している。しかし多くの子どもは、喜んで塾に来、喜んでプリントをこなしているという。なぜか。それは、公文のように、難しくないレベルのプリントをやるからであり、やっていると自然に知識が身に付くからであろう。それに加え、それぞれのプリントには時間目標が書かれている。このプリントは3分を目標にやる、というように。だから子どもたちは、ストップウォッチを片手にプリントを解く。自分で採点をし、間違えたところは、答えをみて考え直し、分からなければ指導者に聞く(指導者はヒントを与えるだけである)。時間をオーバーしていれば、もう一度同じプリントをしてもいいし、前に戻ってもいいし、先に進んでもいい。それも自分で決められるのである。それはあたかも、ビデオゲームで面クリアするような感覚である。そういった点も、子どもが自発的に学ぶ一因のようである。

 これって何かに似ているなあと思ったら、英語の多読であった(たとえば『どうして英語が使えない?』)。自分のレベルに合った英語から始め、毎分150語以上のスピードをキープしながら段階的に難しいものに移行しつつ、たくさん(100万語)読むことで、ペーパーバックが読めるようになるというのが英語の多読である。それと同じように、大量に計算をこなし、一定のスピードで解けるようになることで、算数的な考え方が身に付くというのがセルフラーニングである。ある部分、とても似ているように思う。

 なお筆者は、「分かること」「考えること」を重視し、少人数で丁寧に教える塾もかつてやっている。しかしそこでは、子どもの質問に対して「私が親切に答えれば答えるほど、自分では決して考えない子どもが育って」(p.128)いったという。それは筆者のやり方が悪かったのかもしれない(考えない子が育つような教育は、決して「考えること」を重視した教育とは言えない)。しかしこれは、「理解」や「疑問」を重視した教育には、比較的共通に起きてくる問題ではないかという気もする。そういうやり方ではなく、多読的な方法で(それはつまり、われわれが母国語を身につけるような方法で)学習することで、自然に、自学自習の力もつき、また、教えられず分からないままでやることで考える力が育っているようなのである。ここには、何か考えるべきポイントがあるような気がした。それは、「繰り返しを通して学ぶこと」かもしれない。繰り返すことで「できる」、というだけではなく、繰り返す中で「わかる」「気づく」「考える」「工夫する」部分というか。

公開授業

2006/12/21(木)

 今日、公開授業をした。

 なんでも、昨年のうちの大学の共通教育の人文系科目のなかでは、私が開講している「心の実験室」が、総合評価が一番高かったらしいのだ。それで、多少の褒美をやるから公開授業をしろ、と言われ(もちろんもっと丁寧なことばで)、今日の授業でそれを実施したのだ。

 今日の授業のテーマは「ブレインストーミング」。4〜5人のグループを作り、こちらから与えたお題で40分間話し合ってもらうのだ。その前後で私が少し話をしたり、ウォーミングアップ的なことをしたりするのだが。

 公開授業ということで、例年使っている資料を少しリニューアルしたりして授業に望んだ。出だしではいつもよりも、少し多めに心理学色を出したりしながら。

 主催者の話では、参観者は多くても20人だろうということだったので、じゃあ来るのは10人ぐらいだろうと思っていたのだが、どうやら参観者は15人ぐらいいたようだ(大学教育センターの関係者を含めて20人ぐらいか)。

 授業の前盤はいつもどおりに進んだのだが、中盤、ブレインストーミングが始まってから、この題材を選んだのを激しく後悔した。学生たちはわいわいと話し合いをしているのだが、参観者の方々はじっと座っていたままだ。「どうぞ学生のところを覗きにいってください」とは言ったのだが、そういうことをする人はほとんどいなかったのだ。しょうがないので(?)、私はいつもの倍ぐらい熱心に机間指導を行い、教師の仕事ぶりをみてもらうことにした。話し合い後、各グループの出来高を聞き、拡散的思考と収束的思考の話をして授業は終了。

 授業後は、授業検討会があった。こちらの参加者は4〜5名だったのだが、二人は、教育学が専門の大学教育センターの専任教員だったので、いろいろと感想を聞き、質問され、意見を言ってもらった。その中で出てきた面白かった話としては、「今回の受賞者10人中7人が前期の授業をやっている人」とのことだった。他の参観者も、「共通教育は、前期と後期の学生のモチベーションはかなり違うようだ」と言っていた。私も思い当たる節がある。そんな話やあんな話を、皆で1時間ほどした。

 研究会が終わったら、どっと疲れが出て、研究室で1時間ほど眠ってしまった。公開授業+検討会って疲れるんだなあと思った。附属学校の先生方は、しょっちゅうこんなことをして、その上、終わったら夜遅くまで飲んだりして、スゴいなと改めて思った。

 #私が寝てしまったのは、昨日遅くまで(当社比)、たくさん(当社比)飲んでいたせいもあるかも...

■『入門!論理学』(野矢茂樹 2006 中公新書 ISBN: 4121018621 \777

2006/12/20(水)
〜論理学の哲学〜

 記号を使わず、縦書きで書かれた論理学の本。目指されているのは、技術としての論理学の「習得」ではなく、「論理学とはそもそも何なのか」という問いに答えるという、論理学の「哲学」である。あるいは「探求」ともいえようか。それを筆者は「おわりに」で、次のように述べている。

この本で私は、論理学という学問が、私たちが日常用いていることばに潜む論理を理論化し、体系化していく、その作業の実際の手触りを伝えようとした。だから、できあがった理論のみごとさよりも、むしろあれこれ迷いながら理論化を模索していくそのプロセスを、ぜひ味わい、楽しんでいただきたい。(p.245)

 似たような主旨の本に、『論理学をつくる』というのがあるが、実は私、こちらの本は読了せず、途中で投げ出した。それに対して本書は、とても興味深く最後まで読んだ。ではこの2冊は何が違うのか? もちろん厚さも違うし、私が読んだ時期も違うし、読了した本としなかった本では違いがありすぎるのだが、今回、私が本書を興味深く感じた理由を中心に考えてみた。

 それはおそらく、上の引用箇所でいうならば、「日常」「迷い」にポイントがあるように思う。本書は、単に既成の論理学を解説するのではなく、我々が日常的に使っている言葉との関連も論じている。たとえば、日常での否定の意味は、論理学での否定の意味以上の積極的な主張がされている、というように。こういうのがあると、論理学に対して感じる違和感がはるかに小さくなるように思った。

 また本書では、「迷い」も表現されている。それは、論理学を理論化する上で複数の道があることを示すことであり、標準的な論理学とは違う論理学が存在することを示すことである。おかげで、本書で最終的に提示される論理学(命題論理と述語論理)が、あくまでも「一つの」論理体系に過ぎないことがよくわかる。以前私は、論理学の授業をとったことがあるのだが、そこでは命題論理と述語論理のみが論じられており、受講生はその使い方を習熟するために、説明を聞いたらひたすら練習問題を解く、という授業だった。そこで私が思ったのは、「論理学ってもう完成されたものなのかな? じゃあ研究者は何を研究するのかな?」というものであった。その点本書では、標準的な論理学が、さまざまにある(ありうる)論理学の一つに過ぎないことが提示されるので、先の思いもすっきりと解消したのであった。

 新書サイズで200ページ強でこれだけのことを提示できるなんて、筆者はただ者ではない、と改めて思った。論理学を知りたい人が第一に読む本としては、とてもお勧めである。

読書と私

2006/12/17(日)

 なんとなく振り返ってみた。

 幼稚園のころは、月に1回、福音館の絵本をもらっていた。とても好きだった。『ラチとライオン』とか『ふしぎなえ』とか『スーホの白い馬』とか。

 小学生のころは、母に連れられて、県立図書館によく行っていた。母も読書好きなのだ。

 小学校高学年のころは、ご多分に漏れず、ポプラ社の明智小五郎の本にはまった。あるとき、早く先を読みたいので、布団を敷きながら明智小五郎を読んでいたら、母に怒られ、「怪人二十面相はもう読んだらだめ」といわれた。素直だった私はそのことばに従い、それ以降はルパンとホームズを中心に詠むことにした。

 中学のころは、吹奏楽部の合宿でも本を持っていって、空き時間に読んでいた気がする(そんなことばっかりしていたわけではないのだが)。

 高校1年のとき、ふと思い立ち、年間百冊読むことにした。たしか達成したはずだが、どんな本を読んでどう思ったのかは、ほとんど覚えていない。そのときは、冊数をこなすことを重視していた気がする。

 大学の時は、図書館をよく利用した。大岡昇平の『事件』が、えらく面白かった記憶がある。

 就職後は、あまり覚えていないのだが、読書冊数は年に50冊程度だったのではないかと思う。

 7年前(1999年)、Web上に読書記録を書くことを思い立ち、また、守一雄先生@信州大学のDOHC(年間百冊読書する会)のことを知り、意識的にたくさん読み始めた。それで今に至っている。この間、相当目が悪くなった。

 読書記録を始めてから、千冊読むのにたしか6年かかっているはずである。こんなペースで読むことはもうないだろうから、定年までに、多くても三千冊ぐらいしか読めないことになる。死ぬまでに読めるのも、どんなに運が良くても四千冊を超えることはないだろう。これから先、どんな読書人生になることやら。


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