読書と日々の記録2007.01上

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■読書記録: 15日『自ら学びを高める子を育てる教えて考えさせる授業』 10日『創造的認知』 5日『確かな国語力を身につけさせるための授業づくり』
■日々記録: 12日学びのピラミッド 7日お金を使いたがる6歳児 2日寝正月

■『自ら学びを高める子を育てる教えて考えさせる授業─横浜本町小の挑戦』(市川伸一(監) 2006 明治図書 ISBN: 4182138252 \1,848)

2007/01/15(月)
〜全ての授業は教えて考えさせている〜

 「教えて考えさせる授業」を研究のサブテーマとして掲げている横浜市立本町小学校による、実践事例集的な本。本書以外で教えて考えさせる授業の実践例に触れられる機会は、現在のところ非常に少ないと思う。、『学ぶ意欲とスキルを育てる』で市川先生が模擬授業例を挙げているほかには、市川先生がお持ちの理科の授業のビデオクリップ(約3分)、雑誌「楽しい理科授業」の2006年9月号に紹介されている鏑木先生の実践ぐらいしか、私は見たことがない。しかし本書では、11の教科・領域で行われた実践が紹介されている。

 その中で、私がなるほどと思った実践は、「すきなものをすきな色で」という小3の図画の実践である。この授業の狙いはタイトルどおり、好きなものを好きな色を使って好きな感じに表現する、というものである。教師は導入で、筆の使い方(点描、線の太さなど)を教えるのと同時に、色の濃淡や重色をやってみせ、さらには、見たままの色にしなくてもいいことを、次のように伝えている。

見たままの色にしなくてもいいんだよ。このリンゴや人の絵のように、同じ物でも色が違うと印象も変わるね。自分が好きな感じが表れるような色にしよう。先生のヘルメットは黒いけど、さわやかな感じにしたいから少し青っぽくしようかな。(青を筆でとり、水で溶く)こんな感じかな。もっと薄い方がいいかな。(悩みながら色を変えていく)色が決まったら色を付けるよ。(p.63)

 そういえば私は小6の図工の時間、先生に「見たとおりに色をつけなくてもいいんだよ」と言われたのを覚えている。しかしその先生は、どうすればいいかを言うこともなかったし、やって見せることもなかった。あとは本人の感性任せということだったのだろう。しかし私は見たとおりに色をつけないとしても、じゃあどんなふうに色をつけるかが分からず、結局見たとおりにしか色をつけられなかった記憶がある。

 そうではなく本書の先生のように、やって見せるところや、先生自身も悩んでいろいろやってみるところを見れば、私の絵も違っていたのかもしれない、と本書を見て思った。色つけにせよ、それ以外のこと(たとえば点描)にせよ、それは自然に感じてできることではなく、ある種の文化的なスタイルだということなのだろう。よほど身近にさまざまなものに接するのでなければ、結局は教えられなければ使えないし、自分なりの使いこなしもできない。このようにある種の文化を継承し発展させるに当たっては、「教える」ということはすごく大きな武器になると思った。

 なお、それ以外の実践については、本書の記述を見る限りでは、私の周りでよく見られる実践とさほど違うようには見えなかった(算数だけは、市川先生が本で紹介されている模擬授業のスタイルにとても似ていたが)。ただし本書では、指導案の中に「教える部分」と「考えさせる部分」明確に分けて書かれているし、また、その単元でつけさせたい力が明示されており、それを達成することを目的として、「教えること」と「考えさせること」が配置されている。それは実は、明示されていないとしても、一般的な指導案の中にも、含まれていたことなのだろうと思う。

 このことはつまり、「教えて考えさせる授業」というのは、いろいろなところですでに(それとは意識されずに)実践されているということではないだろうか。教えて考えさせるの「教える」がどういうものかについて、本書では、「知識」だけでなく、「学習の方法」「視点を与える」「話型を与える」「技法を教える」「学習の意味を教える」などがあげられている(p.18)。こう考えるならば、「教えて考えさせる授業ではない授業」を探すのがむしろ難しいかもしれない。

 こういうことではないだろうか。すべての授業は「教えて考えさせる」授業である。ただし、「教える」や「考えさせる」の内容が違うし、その割合が違う。「教える」部分が限りなく0%に近い授業もあるだろうし、限りなく100%に近い授業もあるだろう。後者は、大学の授業などがそうだろう(高校でも少なくないだろう)。前者は、市川先生が最近の授業の問題点として「単元の導入時にほとんど知識を与えないまま、考えたり討論したりすることを促す授業を多く見かけるようになった」(p.11)と述べているが、これがそれに当たるだろう(惜しいことに本書に紹介されている実践の中には、単元の導入で考えたり討論する授業は扱われていない。その点も「普通の授業とあまり変わらない」ように見えた一因かもしれない)。

 1時間でみると「教えないで考えさせる授業」であっても、単元全体を通して、まったく教えないで考えさせてばかりいるという授業はそうないであろう。どこかで、知識を教えたり技法を教えたり意味を教えたりヒントを与えたりしているはずである。そういう意味でも、すべての授業は「教えて考えさせる授業」のバリエーションといえるのではないだろうか。

 だからといって、「教えて考えさせる授業」と名づけ、それを研究・実践する意味がないわけではない。一般に「考えさせる授業」と思われている授業の中にも「教える」部分は少なからず含まれている。そのことを意識化させ、その上で、教えることと考えることのバランスなり、タイミングなり、内容なりを明確に捉えようとすることが、「教えて考えさせる授業」と呼ぶことの、最大の意義ではないのだろうか。

 たとえば、仮説実験授業は、「考えさせて教えて考えさせる授業」である。実験を通して考えるのがメインではあるが、間に、「〜の話」みたいなものが入ることが多いのだ。つまりこれは、教えて考えさせる授業のバリエーションと捉えることができるのである。  あるいは、「当日ブリーフレポート方式」による授業(『大学講義の改革』)は、やはり「考えさせて教えて考えさせる授業」と言える。最初の考えさせる部分で自分の知識不足を実感させると同時に、最後にレポートを書くことを要求することで、真ん中の「教える」部分が効果的になされることを狙った授業である。このように、仮説実験授業と当日ブリーフレポート方式とでは、形式(考えさせて教えて考えさせる)は同じでも、それらの位置づけというかバランスはかなり異なるのである。しかし基本的な形式が同じことを見通すためには、これらを「教えて考えさせる授業」のバリエーションとして捉えることが役に立つ。

 そういうことであるならば、次の段階としては、たとえば、指導書などに書かれている授業展開を取り上げ、それを「教えて考えさせる授業」のバリエーションとして捉えた上で、教える内容やタイミングやバランスの良し悪しを検討し、より効果的な「教えて考えさせる授業」に変身させるにはどうしたらいいか、なんていう本があるといいのではないかと思うのだがどうだろうか。できれば単元の導入時の話し合いの場面を取り上げて。

学びのピラミッド

2007/01/12(金)

 『日本の論点2007』を読んでいたら、「学びのピラミッド」という言葉が出ていた。学び方と理解度の関係は、講義が5%、視聴覚が20%、話し合いが50%、他人に教えたり試してみるのが90%、というようなものである。

 さもありなん、とも思う反面、何を根拠に出てきた数字なのだろう、というのが気になる。ちょっとぐぐってみた感じでは、数字の根拠に触れているページは見つからなかった。

 いちおう、アメリカの国立訓練研究所( National Training Laboratories, Bethel, Maine )というところが発表した、ということのようだが、それ以上はわからない(調べたけれども、提唱された時期や、それぞれの%の裏付けになった手続きなどはわからなかった、と書かれたページもあった)。

 こういう数字って、もっともらしくてあやしいものも少なくない(人は脳の10%しか使ってない、とか)。数字の根拠が知りたいなあ。

■『創造的認知─実験で探るクリエイティブな発想のメカニズム』(フィンク・ウォード・スミス 1992/1999 森北出版 ISBN: 4627251114 \3,570)

2007/01/10(水)
〜普通の認知から形作られる創造性〜

 創造的なアイディアがいかに生成されるかについて、実験的に明らかにし、モデルが提出されている。私は本書を、『認知科学への招待』』で知った。創造性なんて、心理学のパラダイムに載せにくい最たるものの一つだと思っていたので、興味深かった(ただし、思ったよりも実験の記述が少なかったのが残念ではあるが)(それに、訳文があまりこなれておらず、ちょっと読みにくかったのが難点なのだが)。

 筆者らの基本的な考えは、創造性が「普通の認知プロセス」からいかに生み出されるかを検討する、というものである。具体的に扱われているのは、視覚イメージ、概念の合成と説明、イマジネーション、スキーマやメンタルモデルなどである。

 これらの中で、特に興味深かったのは、概念の合成と説明に関する実験。いくつかの部品(球、立方体、円筒など)を組み合わせ、家具、輸送、工具など所定のカテゴリのどれかに使えるものを作らせる、という実験を行っている。実験条件として、部品とカテゴリを被験者に自由に選択させたり、強制的にランダムなものを割り当てたりしているが、ランダムに割り当てられる部分が多い(=課題の制約が大きくなる)ほど、創造的発明が増えるという。それは、「型にはまらないやり方で考えることを強いられると、創造的発明を生成する確率が増加する」(p.75)ということのようだ。さらには、生成物だけを先に作って、その後で与えられたカテゴリに使えるものとしてそれを被験者に解釈させる、という実験を行うと、創造的な発明がもっとも増えたという。創造が、生成だけでなく意味の探索を含んだ過程であるということのようである。

 ちょっと面白かったのが、Elbowのフリーライティングが2箇所で言及されていたこと。全体構成(アウトライン)を考えてから細部を書き始めるという伝統的な作文技法と違い、フリーライティングでは、アイディアを自由に出るままに出して書き留め、そこから主題を発見し文章としてまとめていく、という段階を踏む。本書で提出されているモデルである「生成+意味探索」は、まったく同じ形をしているわけで、本書にフリーライティングが引用されているのは、考えてみれば当然なのだが。しかし本書のおかげで、フリーライティングの手順が持つ意味を、創造的認知の一般形と関連づける形で理解することができた。これは本書の思わぬ余禄であった。

お金を使いたがる6歳児

2007/01/07(日)

 昨日、牛乳がなくなりそうだったので、私と子どもたちで買いに行った。下の娘(6歳4ヶ月)が「しーちゃん(仮名)がお金を出す」といって聞かなかった。上の娘が「もったいないよ」といっても耳を貸さず。レジでお金を払わせると、うれしそうだった。レシートを「もらってもいい?」と私に聞き、財布に大事そうに収めた。

 そのとき、おつりに百円玉を何枚かもらったからか、上の娘に「たまごっちカップ(ゲーム)をするときはしーちゃんが百円あげるよ」と言っていた。

 今日は教会に行ったとき、自分の財布から献金を出した(五円だけど)。

 久々に会ったお友達に、「あげる」といって50円玉をあげようとした(だめだよ、というと「しーちゃんのお金だからいいさ」と言っていた)。

 帰りにスーパーに寄ったときも、「しーちゃんがお金出す」といって駄々をこねていた。

 どうやら、自分がお金を払うということに、喜びを感じているようなのだ。「自分で使う」「自分が出す」のがうれしいんだろうか。ちなみに上の娘(8歳)は、横で見ながらそのつど、「もったいないよ」とか「お金なくなるよ」と言っていた。

 下の娘はまだ6歳で、金銭感覚がないということなのだろうか。それとも、こういうことに喜びを感じるというこの子なりの特性なのだろうか。

■『確かな国語力を身につけさせるための授業づくり』(科学的「読み」の授業研究会(編) 2006 学文社 ISBN: 476201589X \2,415)

2007/01/05(金)

 科学的「読み」の授業研究会というのがあるらしい。本書は、その研究会の流儀(考え方)をある程度知っていることを前提として、それを深化・発展させる授業作りや方法と技術、理論などについて論じられている本である。したがって、その会の考え方をぜんぜん知らなかった私には、分からない部分が多かった。それでも、得るところはあったのだが。

 得るところがあった第一は、柴田義松氏による、「学びの共同体」批判。具体的には『教師たちの挑戦』にみられる授業を通して批判が行われており、具体的である。またそこにみられる授業が、いかに声が柔らかでしっとりしていたか、というような次元で語られるのではなく、国語教育(あるいは教科教育)という観点から語られているので、門外漢の私にも興味深かった。そこでは、「授業の初めから終わりまで話の表面的な筋をただなぞっただけの読みで終わっている」(p.15)とか、「子どもたち同志の話し合いだけで、テキストの読みがどれほど深まるかが問題である」(p.20)などと評されている。それが妥当かどうかは私には判断はつかないが、しかしそういう観点からの評価も必要なことは確かだと思う。

 ただ、柴田氏や本書の他の筆者らの記述をみて思ったのは、彼らと佐藤氏が目指しているところは、大きい視点ではさほど違わないのではないか、ということである。いずれも、集団の中での学びが重視されている。しかしそれが具体的な授業のレベルになったときに、理想とする教師の関わりに違いが出ているし、子どもたちの様子を記述する仕方にも違いが出ているし、教育効果の評価の観点にも違いが出ている。この両論を見たことで、附属小学校などでの議論(意見が分かれている点)が少し見えるような気がした。

 あと、この会では「吟味読み」が重視されているらしく、私の研究テーマからして興味深かった。筆者の一人である加藤氏は、吟味読みを、「表現・事柄の吟味」と「論理の吟味」の2つに大きく分けて考えている。それを、具体的な教材の中で、どのように教師がことばかけをしてどのように吟味させるのかが具体的に論じられている。ここでの吟味のあり方と、批判的思考業界(?)での吟味のあり方の関係については、今後きちんと検討しておく必要がありそうだ。

 吟味に関しては、別の筆者である高橋氏は、吟味が子どもたちには大変なことであることを論じている。それでも、「教師がきちんと指標や方法を教えればできる」(p.90)と論じている。それが具体的にどのような方法なのか、それに対して子どもはどのように反応しているのか、それを通して子どもたちはどのように成長していくのかについて知りたいと思った。これも、この会の基本的な考えに近い文献を読む必要がありそうだ。

 ということで、「何か大事なことがありそうだ」「もっと知る必要がありそうだ」という印象を持った、というところで終わってしまった。そう思えたというだけでも悪くはないのだが、本書は、少なくとも一冊目に読むべき本ではないなと思った。

寝正月

2007/01/02(火)

 大晦日にカゼをひいたため、元旦は完全な寝正月。

 朝はおせちをいただいて横になり、夕方、みかんなどを食べて薬を飲み、晩御飯を食べて横になる。食べる時間以外はずっと寝ていた。

 今朝はようやく平熱に戻ったので、さっそくメールを書いたりしていた(年末は毎日ゲーム機(DS)で遊んでいたのだが、今はまだDSで遊ぶ元気はない)。


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