読書と日々の記録2007.02上

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■読書記録: 15日『「総合学習」の可能性を問う』 10日『教育改革』 5日『数学の学び方・教え方』
■日々記録: 13日当日ブリーフレポート方式・まとめ 5日隠す8歳児 4日首里城とか

■『「総合学習」の可能性を問う―奈良女子大学文学部附属小学校の「しごと」実践に学ぶ』(田中耕治(編著) 1999 ミネルヴァ書房 ISBN: 4623031314 \2,940)

2007/02/15(木)

 総合学習が始まる前である1999年に出された本。総合学習的な学習の先進校としての奈良女子大学附属小学校のしごと学習の理論と実践を分析している。本書には、2名の教師のしごと実践が、それぞれ1時間の授業記録付きで載せられており、今までわかるようでわからなかったしごと実践がどのようなものか、本書でだいぶよくわかるようになったと思う。

 本書で取り上げられている教師の一人、小幡先生の場合は、しごと実践とは、「対話活動を通して「学び方を学ぶ」という、いわゆる方法知の獲得をめざす」(p.76)ものであるという。その概要は、発表者へのおたずねと応答、発表者の気になること発表、それについての対話、気になることを書いて発表、というような流れとなっている。この中の対話活動の部分は、本書で見た感じでは、「基調提案−検討方式」(フリートーク)に似ているように感じた。発表者が問題提起(気になること=みんなに聞きたいこと)を行い、それに対してフロアの子どもたちが自分の考えを述べる、というであるとまとめてしまうならば、これらはほぼ同型なのではないだろうか。ちなみに、教師の役目の一つは、事前に子どもたちの気になることを知り、誰がどのような内容をいつ発表するか、それを戦略的に配置することのようである。この点に関しても、フリートーク方式とかなり類似しているように思った(どちらの実践も見たことがないのでなんとも言えないが)。

 なお、発表者の気になることに対してどのような対話がなされるかというと、「なんでこうなの?」というような疑問に対して「たぶんこうだろう」という意見が出、さらに「でもこうじゃないの」「でもこうかもしれない」と反対意見がでる。それらの上に、両者を統合するような形で「きっとこうなのだろう」という納得が得られる、というのが基本的な道筋のようである。このプロセスを執筆者の一人は、「弁証法的批判的思考」(p.197)と呼んでいる。弁証法的思考というと、批判的思考研究者のPaulが批判的思考のことをそう呼ぶことがある。ちょっと興味深い。と同時に、教室の中で、どのような弁証法が、どのように批判的な形で見られるのか(あるいは見られないことがあるのか)についても、詳しく知りたいと思った。

 本書は、主にしごと実践のよさが中心に論じられている。実際には、しごと実践がうまく進むためには、いくつもの失敗があっただろうし、こうするとうまくいかない、みたいなノウハウもあるのではないかと思う。それは、総合学習が走り出す前の時期の本として、総合学習のヒントを得ることが主眼になっているであろうから、本書はこれはこれでいいのだが、総合学習がある程度走りだした今となっては、もっとそういう苦労とその乗り越え、みたいな話があるといいのになあと思ったりする(と思って前に読んだ『やれば出来る!子どもによる授業』をパラパラとめくっていたら、そういうことも多少書かれているようだった。それに、これを読んだ2年前よりはしごと実践が理解できるようになっているみたいだし。もう一度この本を読み返すべきかもしれない)。

 #今日はこれから、奈良女子大学附属小学校の公開研(学習研究発表会)に参加してくる。とても楽しみである。

当日ブリーフレポート方式・まとめ

2007/02/13(火)

 共通教育の大講義も今日で終わり、後期の授業がほぼすべて終わった(ゼミはあるけど)。

 今日の授業「人間関係論」は、当日ブリーフレポート方式でやってみた。この方式のよい点や考えるべき点が見えてきたのでメモ。

 ・よい点として、一番にあげられるのは、私の話が受講生にいかに理解されていないかを毎時間身をもって知ることができたことだろう。今までだと、期末テストを見るまでそういうことはわからなかったわけだが、これまでは「学生の勉強不足だろう」と思っていた。どうやらそれは、半分以上は違ったようだ。

 ・テストの場合、全体の出来が悪くても、もうどうしようもない。しかしこの方式だと、毎時間、レポート作成指導的なことをすることができる(毎回5分でも)。おかげで、ましなレポートが増えてきたようだ。

 ・単なる講義に比べ、自分で配布資料を読み、考え、あるいは隣近所と話し合う必然性が生まれやすい。

 ・考案者の宇田さんも述べているのだが、授業が分節化され、ダラダラと90分しゃべるということがなくなる。

 ・授業が分節化されるということは、遅刻者に厳しくできる(ビデオを見ていないのでもう参加できないよ、ということができる)

 ・こちらがしゃべる時間が半分以下なので、講義後の疲れが少ない。

 ・当日ブリーフレポートを採点するのであれば、講義最終日まで講義ができる(今日もやった)。

 一方、今後考えるべき点は以下のようなものか。

 ・講義の後半は、毎回、テストのような重苦しい雰囲気になる。

 ・どうやら学生はまとめる力が弱いようで、レポート執筆開始から10分以上経っているのに白紙で考えあぐねている学生が少しいた。

 ・書くのが苦手な学生にとっては不利かもしれない(もっともそれは、通常の論述式テスト全般に言えるが)。

 ・テーマにもよるかもしれないが、受講生はなかなか話し合ったり質問したりしない。特に質問に関しては一工夫必要かもしれない。

 ・教科書や配布資料と授業とレポートテーマ(問い)をうまくマッチングさせる必要がある。それに失敗すると、「何を書いていいのかわからない」という反応を学生からもらってしまう。

 ・したがって、これまで使ってきた講義資料がそのまま使えず、かなりのものはつくり直す羽目になった(説明することを前提とした資料から、読むだけで完結できる資料へ)。次からは楽になるだろうけど。

 ・私が授業のまとめとして述べたつもりのことが、学生に伝わっていないことがままあったようだ。ある研究から何が言えるかは、学生自身に考えさせるべきかもしれない。

 どうやら、「書く」よりも前のステップとして、「心理学の研究を理解し、そこから何が言えるか自分なりの結論を出す。そのために人と話し合う」ということのような気がする。来年度前期の授業ではそのために、当日ブリーフレポートを書かせないで、しかしこのやり方のエッセンスをm自分なりに生かした授業をやってみようと思っている。

■『教育改革―共生時代の学校づくり』(藤田英典 1997 岩波新書 ISBN 400430511 \819)

2007/02/10(土)
〜調整問題としての教育問題〜

 10年前の出版ではあるが、1980年代中ごろから現在に至るまで教育改革の基本的な方向性である規制緩和と個性主義について、その問題点が検討されている。今日でも十分通用する議論である。似たような改革がすでに英米で行われており、それとの関連で論じられているので、英米の戦後教育の入門書としても読める。

 筆者の議論の特徴は、丁寧な論理展開である。ある現象や主張を、一つのものとしてみるのではなく、タイプ分けし、あるいは複数の根拠を挙げ、それを一つずつ検討している。あるいは歴史や社会状況の中で読み解き、あるいは日本だけでなく他国との比較の中で検討している。そのため、ともすれば分かりにくく、必要以上に単純に理解されがちな教育(改革)問題を、丁寧に考えることができたように思う。

 なお本書の中で私が一番目ウロコだったのは、「問題」には4つのタイプがある、という指摘。真理問題、調整問題、当為問題、計画問題である。そして、教育問題の多くには調整問題と当為問題と計画問題の三つの要素がある(p.185)にも関わらず、それはしばしば、当為問題(こうあるべき)という形でのみ論じられ、調整問題(「多様な、しばしば相矛盾する理想像を調整する」(p.186)こと)として扱われることは少ない。しかし筆者は、教育問題の多くは、調整問題なのだと論じる。「根底に調整問題を含んでいることを見落とすと問題のとらえ方が一面的になり、問題の解決や弊害の緩和を促進するどころか、かえって問題を複雑化・深刻化することになりかねない」(p.187)のである。

 それは、本書で扱われているような教育改革のような問題のみならず、学校現場などで論じられているさまざまな問題に関しても同じであろう。理念で語るのではなく、複数の理念をいかに調整するか。この視点を忘れないことは、教育のみならず、さまざまな問題を考える上で重要であると本書を読んで思った。

隠す8歳児

2007/02/05(月)

 夕食後、じいじ(私の父)に誕生日おめでとうのファックスを送るために、二人の娘が紙に字や絵を書いていた。

 上の娘(8歳7ヶ月)は、私と紙の間にティッシュの箱を立てて、何を書いているか、見られないようにしていた。

 下の娘(6歳5ヶ月)は、最初は姉のまねをして隠したりしていたが、それは単にまねだったらしく、、見られてもぜんぜん平気のようだった。

 一方、上の娘は、書き終わるまでは、決して見られないよう、細心の注意を払っているようだった。

 2歳違うとこんなに違うのか、と不思議な光景だった(ちなみに上の娘は、書き終わったもの自体は、見られても平気なようだった。書いているところが見られたくないのか。なんでなんだろう)

■『数学の学び方・教え方』(遠山啓 1972 岩波新書 ISBN: 4004160073 \735)

2007/02/05(月)
〜主に算数の教え方〜

 題は「数学の」となっているが、本書の半分以上は、「算数」を教えるための基礎の話である。本書の内容について筆者は、「ここでは私がいままでいろいろ研究してその結果、いちばん子どもにとってやさしくて発展性のある考え方は、こういうものであろうと、結論のように出してきたことを、お話してみようと思います」(p.2)と述べている。やさしくて、というのは、子どもの思考に寄り添った形で算数の概念をどのよう導入していくか、ということであり、発展性とは、その考え方でどこまで統一的に物事が捉えられるか、ということである。

 たとえば、数の教え方には「数え主義」と「量主義」(という表現はなかったと思うが、数を「量」として捉えること)がある。数え主義(あるいは掛け算でいうなら累加)では、分数の掛け算や0の掛け算で行き詰ってしまう(上の言い方で言うならば、発展性がない)。だから量主義がいいんだ、なんていうことが書かれている(量主義で分数をどう教えるかは、『子どものつまずきと授業づくり』に具体的に書かれている)。本書は特に小学生に、算数の諸概念をどのように導入していくのがいいのかが書かれているので、その意味で本書は、小学校の先生が読むのがいいのではないか、と読みながら思った。本書の中には,たとえば2年生あたりでやる3ケタの足し算はどういう順序で教えるのがいいのか,なんて具体的に書かれているのである。

 そういえば私は、1/2倍、なんていう言い方がいまだによく理解できていなくて、内心ちょっと恥ずかしく思っていた(小学校高学年の授業を参観すると、小学生でもそういう言葉をちゃんと使っているのに...)。しかし筆者はこのことについて、「倍という言葉の本来の意味からいうと、これは大変無理な拡張です。倍というのは増えるべきものなのです」(p.102-103)と述べている。これを読んで、ああやっぱり自分の素朴な感覚は間違っていなかったんだ、と安心した。しかし1/3倍なんていう言葉を今でも小学校の授業で聞くということは、30年以上前に筆者が行った主張がいまだに十分には理解されていない、ということなのだろうか(筆者の提唱する「タイル」に関しては、いまや現場では当たり前になった、というようなことが『授業の復権』に書かれていたと思うが)。次はこの点に注意をして算数の授業を見てみたい。

首里城とか

2007/02/04(日)

 首里城に行った。私が旅行先から午前中に戻ったのだが、妻子にモノレール首里駅に迎えに来てもらったので、ついでと思い、行ったのだ。妻子は首里城に行ったことがないというし(私は4〜5回ある)。

 首里城では、ちょうど「首里花まつり」が開催されていた。時間になると国王(に扮した人々)が正殿から出てくるなど、いつもにない企画を楽しむことができた。それに、私は数年ぶりに来たのだが、復元された施設が増えているようだった。さらには、「首里城スタンプラリー」なるものがあり、子どもたちもスタンプ目当てに、楽しんで回ってくれた。おかげで首里城公園内では、2時間ほど過ごしたのではないかと思う(以前は、「ちょっと見たら終わり」という印象の場所だったのに)。

 まつりが行われているせいか、日曜日なせいか、首里城公園内には、あちこちに、案内係的な人(多くはおじいさん)がいた。その一人に、「寺尾さんじゃないですか?」と声をかけられた。相撲取りの寺尾である(公式ページのプロフィールはこちら)。そういえば20年ほど前に後輩に言われたことはあったが、今回は「本人だと思った」と言われたのである。「ドキッとしました。本当に本人じゃないんですか?」なんて言われた。以前、本人に会ったことがある人らしい。その人とは、「京の内」という眺めのいい場所の下ですれ違ったのだが、本人かどうかを確かめに、わざわざ上に上がってこられたようである。妻(鹿児島出身)は横でずっと笑ってたけど。

 しばらくして、そこから下に降りて別のところに行こうとしたら、再びその人に「寺尾さんのそっくりさーん」とまた声をかけられた。「めずらしいものを見つけたので、あげますよ」とのこと。四葉のクローバだった。


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