読書と日々の記録2007.02下

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■読書記録: 28日短評7冊 25日『欲ばり過ぎるニッポンの教育』 20日『批判的思考力を育てる』
■日々記録: 26日京都 22日toDo管理 18日奈良に行った

■今月の読書生活

2007/02/28(水)

 昨日、出張から戻ってきた。今月は県外に3回行ったが、思いのほか疲れはない。やせるために運動などしていたせいだろうか(あとからドッと疲れがきたりしたらいやだなあ)。

 今月よかった本は、『欲ばり過ぎるニッポンの教育』(さすが論じる際の視野が広い)か。ふと気がつけば,今月読書記録に書いた本(短評を除く)は,すべて教育関係書か。いいんだかわるいんだか。

『寝ながら学べる構造主義』(内田樹 2002 文春新書 ISBN: 4166602519 \724)

 うーん。構造主義について、その前史(マルクス、フロイト、ニーチェ)、始祖(ソシュール)、四銃士(フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカン)と、代表的な人物に焦点を当て、わかりやすく論じている本である。ワタシ的に興味深かったのは、レヴィ=ストロースである。次は彼の翻訳を読んでみるかなあ。なお本書は、わかりやすくするために大胆にその人の思想の核心を抉り出そうとしているようで、確かにわかりやすい感じはしたのだが、ちょっと首をかしげる記述がところどころにあった。たとえばソシュールのところでいうと、「もの」があらかじめあるのではなく、ことばとものは同時に誕生する、とあるところでは言っているのに、次のページでは、「ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです」(p.67)と、「もの」の話がいつのまにか「観念」の話にすりかわっているのである。

『逃(Tao)─異端の画家・曹勇の中国大脱出』(合田彩 1995 文藝春秋 ISBN: 4163500405 \1,937)

 講談社ノンフィクション賞受賞作。絶版なのでマケプレで購入。主人公は中国人の画家。私と同い年で、本書で扱われているのは、1989年の天安門事件の前後である(それまでの彼の来歴の話はもちろんあるのだが)。彼はその事件には直接の関係はないのだが、異端の絵を書くということで、公安に目をつけられ、さまざまな苦労をしている。中国というと私は、『ワイルド・スワン』ぐらいでしかしらない。これを読んだときの印象では、中国は文化大革命(1960年代後半から1970年代前半)が終わってから、まとも(?)になったと思っていた。ところが本書を読む限り、どうやらそうではなさそうだ。絵を発表するのも命がけとか、ニュースでは事実とはまったく異なる情報が流されている(特に天安門事件)とか、法律が存在せず気分次第でつかまったりする、なんていう話がたくさん出てくる。私と同世代の人がこんな目にあっているなんて、とかなりびっくりした。

『行動経済学─経済は「感情」で動いている』(友野典男 2006 光文社新書 ISBN: 4334033547 \997)

 行動経済学の本ということ、これまで、『賢いはずのあなたが、なぜお金で失敗するのか』と『行動ファイナンス』(ここの6冊目)を読んできた。それゆえ本書からは、何かとても目新しい知見が得られたわけではないが、しかしこの分野について、良くも悪くも網羅的に述べられており、この領域を一通り知るための教科書となりうるのではないかと思った(教科書の常として、謎解き的面白さはなかったのだが)。本書によると、サイモンは「人間の合理性に関する完全な理論を得るためには、感情が果たす役割について理解しなければならない」(サイモン, 1983, 29頁)」(p.326)と述べているそうである。このことは、批判的思考研究も含め、確かにそうだろうなと思う。

『日本の論点2007』(文藝春秋 (編) 2006 文藝春秋 ISBN: 4165030600 \2,800)

 毎日昼休みにちょっとずつ読み始め、ようやく読み終わった。出生率を上げた村の話、地デジ、外来生物の問題、医療裁判の問題、反復指導法の是非、オシムジャパンのことなど、知らなかったこと、よくわかっていなかったこと、なんとなく疑問に思っていたこと、両論のガチンコ勝負を見たいと思っていたものなどを知ることができた。この年刊誌も7冊目なので、すごい感動と興奮があるわけではないが、年に一度はこうやって知識を更新しておくのは悪くないと思った。

『家族と財産を守る完全防犯マニュアル』(中西崇 2002 平凡社新書 ISBN: 4582851576 \798)

 知識を得るために買ってみた。空き巣が狙っていくものがどんなものかとか、所要時間はどのくらいとか、クレジットカードはどういう点で注意をしたほうがいいとか、通常暮らしているとなかなか得られない情報が書かれていてよかった。完全にやろうとすると相当に手間とお金がかかりそうではあるが。

『他者の声実在の声』(野矢茂樹 2005 産業図書 ISBN: 4782801548 \2,310)

 再読。やはり興味深い内容をたくさん含む本だった。前回の読書記録に書かなかったことを書いておこう。本書の中には、「意味の他者」という言葉が出てくる。哲学における他者というと、他我問題というのがある。他人の意識は存在するのか、どうやって知ることができるのか、というような問題である。筆者は他我問題は解消した、と考えている。しかしなお残る他者問題がある。それを筆者は「意味の他者」と名づけている。「理解しきれない、しかしまったく理解を拒むわけでもない、「さあ、理解してごらん」という誘惑のざわめき、それが意味の他者なのだ」(p.194)と表現されている。ただしこれは、意見の違う他人、という意味ではない。「そもそも意味が、言葉の意味が共有されていない他者のこと」(p.283)だという。このあたりのことは、私の研究上の関心ともつながることなので、機会があれば考えていきたい(いけるといいなあ)と思っている。

『震える岩─霊験お初捕物控』(宮部みゆき 1993/1997 講談社文庫 ISBN: 4062635909 \730)

 久しぶりに小説を読んだ。時代小説である。宮部みゆきというと、あっというまにぐいぐい引き込まれる、というイメージがあったのだが、本書はスロースタートというか、はじめはちょっと難しい感じで、なかなか引き込まれなかった。しかし脇役の右京之介がキラリとした推理を見せ始める頃から面白くなり始め、最後は眠い目をこすりながら、なかなかやめられずに読んでしまった。

京都

2007/02/26(月)

 京都に来ている。来るまでにいろいろあったのでメモ。

・自宅近所のバス停からバスに乗った。半年ほど前に時刻表を写していたのだが、時刻表が変わっていた。乗ろうと思うバスが5分早くなっていた。早めにバス停に着いたので問題はなかったのだが、ちょっとあせった。

・飛行機の出発が遅れた。離陸許可を待っているとのことだった。私たちの前に、少なくとも3台の旅客機が待っていた。それを尻目に(?)、自衛隊の戦闘機が2台着陸してきた。軍民共用空港の不便さがはじめてわかった。

・結局飛行機は15分遅れて到着した。京都まで最速のルートで行けるよう、Googleの路線検索を打ち出してきていたのだが、それには乗れそうもなかった。ただ幸いなことに、もう1本、10分遅いバージョンも打ち出してきており、それには乗ることができた。それは4回乗り換えるプランである。何もなしでは、ぜったいにこんなことはできない。念のために2つ打ち出してきてよかった...

・飛行機の到着時刻というのは、車輪が接地する時間を言うらしいことがわかった(というか今日はそうだった)。

・今日の京都は、最高気温16度、最低気温5度ということで、どうしようかと思ったのだが、思い切ってコートはなしにして、冬のジャケットにウィンドブーレーカーだけ持ってきた。これで寒かったらイヤだなあ、と思っていたが、ホテルに着くまではこれで十分だった。ああよかった(9時時点の気温は10度)。

 これから妻子とスカイプして、風呂にはいってビール飲んで寝る予定。

■『欲ばり過ぎるニッポンの教育』(苅谷剛彦+増田ユリヤ 2006 講談社現代新書 ISBN: 4061498665 \777)

2007/02/25(日)
〜良さまで失ってしまう可能性が〜

 対談本。苅谷は、タイトルにあるように、「日本の教育(改革)は欲ばり過ぎている」ことを論じている。その論じ方は巧みであり、確かにその通りだなあと思った。。

 たとえば第一章では、小学校の英語教育の是非や問題点が論じられている。小学校英語については、『日本の論点』で何度か取り上げられているので、およその論点については知っており、自分なりに考えているつもりであった。しかし苅谷氏が本書でやっているのは、単純に小学校英語だけの問題を論じているのではないのである。「今の教育を論ずるときのいろいろな問題の根っこに共通する問題が、英語教育を考えていくと集約的に出てくる」(p.14-15)と考え、小学校英語の問題を通して、今の教育の問題に気づくように対談しているのである。それはたとえば、公教育に対する親の不安の問題であり、何かを必修化することで何かが犠牲になる(はみ出す)ことを考えずに良さだけを見て必修化しようとするという問題であり、人も金もない状態で義務化し、すべての教師にいっせいにやれと要求する問題である。

 あるいは、英語の何がどのように必要かを具体化しないままになんとなく英語を導入することの問題もある。この点に関しては、総合的学習でいうならば、「これからの時代、考える力が必要だというところはわかっているんだけど、その中身はわかっていない。考える力の中身や、そこに至る具体的な方法を詰めていない」(p.68)という問題と同型なのである。英語教育に関しても総合的学習に関しても考える力の教育に関しても、きわめてごもっともであると思う。このように、はっきりわかっていないものを、他のものを犠牲にすることに無自覚に次々に導入しようとしている点は、確かに「欲ばり過ぎ」と苅谷氏が言うとおりであろう。

 あるいは、中学校の内容を理解していなくても卒業できて高校に行くことができ、「高校三年間くらいで、まあ何とか、中学校プラスアルファくらいのレベルまで、知らないうちに追いついて」(p.193)くれるぐらいの指導を高校で行う。これも、落第という方式をとらず、進学先の学校(あるいは進級先の学級)の先生が負担を引き受けることで、子どもを傷つける可能性を小さく抑えていると考えることができる。それは逆に言うならば、前段階の学校・学年での問題を次段階の学校・学年が「欲ばり過ぎ」に抱え込んでいる、ともいえる。

 これは教科指導に限った話ではない。高校という場所で9割もの子どもを引き受けることで、反社会的(非行など)や非社会的問題(引きこもりなど)を学校の問題として引き受けることで、社会(警察、司法、医療など)の負担を減らしているのが日本の学校と言える。このことは高校だけでなく、中学校にも小学校にも言えることである。これも言うならば「欲ばり過ぎ」の一つと考えられる。

 このような日本の教育の現象を、よい点も悪い点も冷静に広い視野で見直している点が、本書の魅力であると思う。筆者の2名は、フィンランドなどの教育・社会事情にも詳しく、そういう比較も交えながら、日本の教育がさほど悪くはないこと、しかしこれ以上のものを考えなしに抱え込もうとすると良さまで失ってしまう可能性があることが論じられている。そういう意味で、とても興味深い本であった。

toDo管理

2007/02/22(木)

 後期授業も先週で終わり,比較的自由な時間が取れる日々がやってきた(昨日は授業見学と会議で,あまり自分のことはできなかったけど)。

 こういうとき,仕事がはかどるかどうかは,いかにやるべきこと(todo)を的確に管理できるかにかかっていると思う。っていうか私はこういうの,とても苦手だ。

 以前はパソコン上の付箋紙ソフトにやることを列挙していた。しかし年末にパソコンがおかしくなってから,やるべきことが何だったか分からなくなった。

 それで年明けからは,野口由紀雄先生の『超整理法(時間編?)』にあった,toDoボードを使うことにした。といっても,A3サイズの厚紙に,やることを書いた付箋紙を貼る,というだけのものだ。

 原始的なものだけに,いつでもどこでも使えて便利だなあと思って1ヶ月ほど使っていたのだけれど,一つ不便なことに気づいた。貼ったりはがしたりしているうちに,付箋紙がはがれやすくなるのである。

 それでもしばらくは使い続けていたのだが,どうもやっぱり都合が悪い,ということで,エクセルのワークシートで,同じような感じのものを作った(要するにセルにやるべきことを書く,ということだけなのだけれど)。今のところ不具合もなく使っている。これならファイルさえもっていれば,いつでもどこでも見ることができる。

 ということで今日は,これを使いながら,そこそこ仕事がはかどった1日であった。

■『批判的思考力を育てる─授業と学習集団の実践』(柴田義松 2006 日本標準 ISBN: 4820802763 \2,100)

2007/02/20(火)
〜というよりは大西学習集団論〜

 タイトルに「批判的思考」という語がついてはいるが、批判的思考を正面から論じているのは、はじめにと第一章、終章だけで、残りの部分では、大西忠治氏の学習集団論やその関連の理論と実践が、批判的思考という語をほとんど使わずに論じられている(各章のタイトルには、批判的思考という語が入ってはいるが)。そういう意味では、思ったのとはかなり異なる内容だった。

 もっとも大西氏の考えは、知りたいと思っていた「読み研」(『確かな国語力を身につけさせるための授業づくり』)の中心をなす考えのようなので、そういう意味ではまあ悪くはなかったのだが。筆者によると、「批判的読みないし批判的リテラシーのことを「読み研」では、「吟味読み」と呼び、その方法について実践的研究を積み重ねてきている」(p.171)そうで、それなら、吟味読みについて具体的に論じている阿部氏の本(発注中)を読んだほうがよかったのかも、と思った。

 筆者が大西氏を買っている理由については、「「師問児答から児問児答へ」の転換が必要であることを主張してきたのだが、その考え方に大西の授業はぴったり当てはまるように思ったから」(p.204)と述べられている。本書には大西氏の実践記録も載せられているが、それを見る限り、私には「児問児答」ではなく「師問児答」の授業にしか見えなかった。載せられていたのは全体討論の時間なので、グループ討論の時間だったら違っていたのかもしれないが。

 あと、一つ本書でとてもがっかりしたこと。本書中、7ページほどは、先日読んだ『確かな国語力を身につけさせるための授業づくり』に載せられている筆者の原稿とほとんど同じだった。佐藤学び論批判のくだりだが。概要は同じでもいいから、せめて「批判的思考力を育てる」という観点から論じなおしてほしかった。

 

奈良に行った

2007/02/18(日)

 木・金と、奈良女子大学附属小学校の公開研に行ってきた。

 初日、受付の10分ほど前に着いたので、受付前でしばし待った。考えてみたら、他県の附属に来たのは初めてだし、小学校の授業を見るために出張するなんて、1年前は考えもしなかったことだ。とうとうこんなところまで来てしまった、という想いがちょっとよぎった。いろいろな意味で。

 その思いはどこから来たのだろう。最初は、学会や研究会ではない出張ははじめて、という「まともな心理学者の道から外れたという感じ」かと思ったのだが、考えてみたら、今回は科研費できているわけだし,そこの研究と密接につながるという大義名分はあるわけだし、実際、今回の体験も取り入れて紀要論文を書こうと思っているので、今回が「研究」に関係ないということはない。

 それよりもむしろ、研究という大義名分を持ってきているのに、それにも関わらず、それとは関係ない次元で、授業を見るのが楽しみで、先生に会うのが楽しみで、子どもたちの様子をみることのほうが楽しみだったりする点が、ちょっとした感慨(良くも悪くも)を引き起こしたということだろうか。それは結局、「外れた感じ」に近いわけだが。


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