読書と日々の記録2007.03上

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■読書記録: 15日『レーザー・メス 神の指先』 10日『23分間の奇跡』 5日『憲法の常識 常識の憲法』
■日々記録: 12日勉強会 7日本町 3日thinking about thinking

■『レーザー・メス 神の指先』(中野不二男 1989/1992 ISBN: 4101214123 新潮文庫 \489)

2007/03/15(木)
〜医師とエンジニアの協同〜

 レーザー光を用いた外科用メスを開発した人たちの話。大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。ときは1969年、アポロ11号月着陸のときから話は始まる。月までの距離を測るのに、レーザー光が使われていたのである。そこではじめてレーザーを知り、手術に使えないだろうかと考えた脳外科医が一人で研究を始め、いくつかの出会いを経てレーザー・メスを完成させるのである。ちょっと読んで、おお、これはまさしくプロジェクトXだ、と思った。検索してみると、このテーマは2001年に「レーザー・光のメスで命を救え」というタイトルでプロジェクトXで放映されている(残念ながら、私がこの番組を見始める前だったので、映像は見ていないのだが)。

 完成に至るまでには、もちろんさまざまなドラマがあるわけだが、私にとって一番興味深かったのは、レーザー・メスの開発という点では最初はアメリカに遅れをとっていたのに、開発を始めて4年後にできた3号機は、アメリカはおろか、イスラエル、フランスなど他国と比べても、はるかに使いやすい機械が出来上がっていた、というところである。なぜそうなったのか。1号機は実験データを取ることを主目的として作られたが、形も性能もあまりにも欠点が大きかった。そこでエンジニアが工夫をしてそれらの欠点を改良して2号機をつくったのだが、しかしそれは、医師としてはあまりにも使いにくいものだった。そこで医師は、次のように言うのである。

これからは、私がここで脳外科の手術をするとき、事前に連絡しますから、見学に来てください。そこでみなさんも、自分の目でたしかめて、手術とはどういうものかを学んでください。私もエンジニアリングを勉強します。そういうふうにすすめなければ、とても医師の希望にかなったレーザー・メスなどつくれませんよ。(p.135)

 それに対してアメリカでは、着手は早かったものの、レーザー・メスがどのようなものでなければならないかを医師がエンジニアに説明しても、なかなかわかってくれないなど、医師とエンジニアの連携がうまく行かなかったという。

 日本での開発で行われていたのは、いってみれば、医師とエンジニアとがお互いを理解し、対等な立場で対話し、協同して問題解決にあたろうとした姿である。もちろんそれがうまく、バランスよく行われるということは容易なことではないだろうが、そのあり方の一つの形が本書の中に示されているという点で実にプロジェクトX的で面白かった。

勉強会

2007/03/12(月)

 批判的思考の勉強会をするということで、附属小で話をしてきた。話をするといっても、批判的思考は不定形なものだと思っており、何を話せばいいんだろう、という感じで行ったので、出だしはちょっとうまく流れなかったが、企画の趣旨を聞いたり、フロアの雰囲気を見たり、何人かの意見を聞く中で、しゃべるべきことが見えてきたような気がした。

 少なくとも、今議論されている研究総論との関連が見える形で話をしないと意味ないなと思っていたので、その点は多少なりとも達成できたのではないだろうか(といっても、ダイレクトに総論につながるわけではないだろうし、フロアの受け取り方も現時点ではたぶんさまざまなのだろうとは思うのだが)。

 しかしこういう場合、終わったあとのほうが、こうすればよかったという案が浮かんでくる。今回も、批判的思考の勉強会をしたいといわれたときには、何を言えばいいのかわからなかったのだが、考えてみたら、前に集中講義をしたときに、最終日に受講生さんたちに書いてもらった図式があるので、それを使えばよかったんだと気がついた。それなら3枚あって3グループ3様の受け取り方があるので、批判的思考概念の幅を示しつつ、それでもなんとなく共通するものもみえてくるかもしれない。

 この手は、またの機会があったときに使ってみよう。

■『23分間の奇跡』(J.・クラベル 1981/1988 集英社文庫 ISBN: 4087493571 500円)

2007/03/10(土)
〜寄り添いながら誘導する〜

 ある国が戦争で敗れ、占領され、小学校に戦勝国から新しい教師が来る。その最初の23分間を描いた短編小説である。新しい先生は以前の先生とは違って、床に座って歌を歌い、ゲームをし、質問を受け付ける。一言でいうと子どもに寄り添う教師である。子どもに寄り添い、子どもと対話しながら、前の先生がやってきたことのおかしさを指摘し、そうではない考えに子どもたちを誘導する。

 たとえば、これまでは、朝、教室で、まず国旗に忠誠を誓っていた。それを聞いて、「ちかう……ってなんのこと」(p.26)、「ちゅうせい、……ってなんのこと?」(p.28)、「いままでの先生は、そのいみを教えてくれなかったの?」(p.31)と問い、「じぶんの国を好きになるのに、こっきがなければだめかしら」(p.37)と言い、子どもたちに国旗をはずさせる、というような具合である。子どもたちは最初はおびえていたが、先生とのやり取りの中で、先生のことが大好きになっていき、先生の言うとおりになっていくのである。

 本書を訳した青島幸男氏は、「子どもたちの集団心理というものが、教職に当たるものの手によって、いかにかんたんに誘導されてしまうか」(p.86)という問題提起の書だというあとがきを書いている。基本的にはそうだろうなと思う。しかし、著者あとがきで、本書のなりたちを見ると、そう単純ではない感じなのである。

 筆者は、イギリスからアメリカに移り住んでいるのだが、移り住んだ頃、子どもが学校で、「国旗に対する忠誠の誓い」を、意味もわからず覚えさせられたというのだ。それにびっくりして、あらゆる知り合いに聞いてみたところ、みなそれを、意味もわからずに暗誦しているというのである。その日にこの本は生まれたという。そのことについて筆者は、「その日、私は私の娘の心が、なんとすなおでどうにでもなるものだろうかと知らされたのであった。」(p.92)と述べている。

 ここで興味深いのは、筆者が経験したのは、本書でいうならば古いタイプの教育(子どもに寄り添わないで教え込む教育)なのである。しかし筆者は、教え込む教育の怖さを小説にしたのではない。いっけん、そういう教育とは正反対の、子どもに寄り添い、言葉の意味を教え、旧来のものに疑問を投げかけるような教育を新しい先生は行っているのである。そしてそれが、やり方によっては、人の心を自由に従わせる道具になる、ということを筆者は描いて見せた。両方のタイプの教育のどちらを通しても、人を誘導することができることを描いているという点で、この物語はより深く教育の問題について考える材料を提供しているように思われる(もちろん誘導することは容易でも、それを持続することは大変なことで、ここに描かれた以上の仕掛けが必要になってくるとは思うが)。

本町

2007/03/07(水)

 出張で横浜市立本町小学校に行き、授業を見せてもらい、お話を伺いました。本町小学校では、6年生を送る会の準備をしていたりなどで、授業らしい授業をしていたのは、1年の2クラスと5年の1クラスぐらいでした。

 授業はあまり見られませんでしたが、研究主任の方や副校長、校長先生の話をたくさん聞くことができました。同校の本には書かれていないような同校の歴史など、非常に興味深い、示唆的な話を聞くことができました。この時期は授業見学には不向きかもしれませんが、逆に丁寧に話を伺うことができました(先週は大学生も入って教えて考えさせる授業をけっこうやっていたそうですが)。

■『憲法の常識 常識の憲法』(百地章 2005 文春新書 ISBN: 4166604384 \735)

2007/03/05(月)
〜比較的丁寧な議論〜

 筆者は、「憲法学界の常識と世間の常識との間には大きなギャップが存在する」(p.4)と考えている。そこで本書では、憲法学界の常識を説明した上で、その問題を世間の常識なり史実なり他国の動向から考えたらどうなるかを論じている。ということはここで述べられていることが、学界的には少数意見ということなのだろう。しかし筆者が提供している情報の範囲で考える限りでは、ここで述べられていることは、うなずけることが多い気がした。

 それは、内容だけからの判断ではない。この問題に関しては、こういう説やああいう説がある、と複数提示した上で、それらの問題点を指摘し、だからといって特定の論点に協力に誘導しようという感じはさほどなく、筆者なりに現実的な結論が何かを、それなりの根拠をもとに論じているところは、とても好ましく見えた。そのせいで、いくつかの問題に関しては、非常に歯切れの悪い結論になっている。たとえば新憲法と明治憲法の連続性に関しては、「いずれの説に立つとしても、これを法理論として完璧な形で説明しつくすことは困難であろう」(p.70)という具合である(もっともそれで終わるのではなく、このように考えるのがもっとも現実的だろう、という筆者なりの考えは提示されているのだが)。

 ただ、一箇所ちょっとひっかかるところがあった。新憲法について、それを擁護する学者が挙げている根拠の一つに、「当時公表された民間の憲法草案や世論調査から判断すると、かなり多くの国民がマッカーサー草案の価値観に近い憲法意識をもっていたといえる」(p.47)ことがあげられている(根拠はあと4つある)。それに対して筆者は、憲法改正案を審議するために開かれる帝国議会の衆議院選挙で立候補した者の中で憲法問題に触れていたのは、候補者の1割から2割程度であったことに触れ、国民が憲法に無関心であったこと、それに「当時の国民の多くはその日その日の食料を確保することで精一杯であり、憲法はもちろん、とても日本の将来のことなど考える余裕はなかった」(p.57)と論じている。

 しかしこれはおかしい。というのは、憲法擁護論者が、新憲法は当時の国民の価値観に近い内容だったと論じているのは、「民間草案」と「世論調査」を根拠にしているのに、この2つにはまったく触れずに「無関心」と論じているからである。私がたまたま気がついたのはこの1箇所だけだったが、ひょっとしたらほかにもそのような論じ方をしている箇所があるかもしれない。そういう点に注意するならば、本書は、複数の議論が取り上げられており、史実的な情報も豊富で、憲法問題を考えるには悪くない本ではないかと思った。

thinking about thinking

2007/03/03(土)

 はてな日記をはじめました。過去日記も含め、記事が10個以上たまったのでお知らせします。

 内容は、はじめにに書いたように、私の研究テーマ(批判的思考)に関してこれまでにいただいた問い合わせに対して、私が書いた回答(私の考え)が中心です。ここ数日、過去メールを見ながら、載せるものを探していました(まだ終わっていないのですが)。

 実は開設の動機はもうひとつあります。はてな日記を使ってみたかったのです。うちの妻がはてな日記を書いているのをみて、なんだか簡単で面白そうだなあ、と前々から思っていました(私のメインサイトはHTMLタグを手打ちしていますが、そういう面倒はないし)。「はてな」は、アンテナを使うためにユーザー登録していたので、日記はいつでも使えたのですが、「読書と日々の記録」とmixiがあると、もう書くことないよなあ、と思っていたのです。

 そういうところに、久しぶりの問い合わせメールが来て、そろそろ批判的思考のFAQ集的なものをつくろうかなあ、と考えていたところで、はてな日記が使えるなあ、と思い立った次第です。

 それにしても、新しいサイトを作るというのは楽しいですね。ここ数日、このサイトのことばかり考えている気がします。


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