31日短評5冊 30日『自分を知り、自分を変える』 25日『読解力と表現力をのばす授業』 20日『学問のすすめ』 | |
| 22日シンポ 16日小腹 |
先月から今月頭にかけて、何度か出張に行ったのが影響したのか、今月前半は、ぜんぜん本が読めなかった。気分的なものだとは思うのだが。後半はいつものペースが取り戻せたのでなんとか帳尻が合っている。
今月興味深かった本は、『読解力と表現力をのばす授業』(なるほど問いを授業にこのように生かすのか)と『自分を知り、自分を変える』(なるほど適応的無意識のことを意識はこんなに知らないのか)であった。
タイトルはなんだか自己啓発書みたいだが、社会心理学者が書いた学術書である。本書は、『サブリミナル・マインド』(下條信輔著 中公新書)のように、人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかってはいないことを指摘する内容であるが、 私にとって非常に示唆的であったのと同時に、こわい?ものでもあった。
本書の内容は、タイトルにあるように、「自分を知る」ことと「自分を変える」ことの2つが論じられている。ただし、「自分を変える」ことが触れられているのは全10章中最後の1章のみであり、残りは「自分を知る」ことに当てられている。それはすなわち、今までいかに自分が自分を知らなかったかを知るということである。なぜ自分が自分を知らないのか。それは私の思う「自分」とは、意識によって把握されている自分であるのに対して、私の行動の多くを決定しているのは、無意識的な自分だからである。それを筆者は「適応的無意識」と呼んでいる。適応的無意識とは、非意識的な思考であり、「環境を即座にそして非意識的に評価し、明確化し、解釈し、行動を開始させる」(p.32)ものであり、進化による適応の産物である。
本書が私にとって示唆的だったのは、われわれの傾性(行動傾向)や特性が適応的無意識の産物であるという点である。それがどのように思考や行動を決定するかというと、アクセス可能性(利用可能性)が高いものを選択し、過去に繰り返し使われたものを選択するというのである。ということは、人の傾性を変えるためには、何はともあれ頻繁に接し、利用可能性を高めることだということになる。それに加え、「私を気分よくするように情報を選択し、解釈し、評価」(p.53)するという基準もある。われわれがしばしば行う、過度の合理化はここから来るのだ。
さらにそれに加え、われわれの意識は、自分の行動を観察したり、自分に対する他人の反応をみることで、自分のことを理解しているという(意識は無意識に直接アクセスできないので、そうするしかしょうがないのだ)。ということは、自分の行動を変えれば、それを直接間接に観察することで、自己概念が変容することになる(そのことは、変容した自己概念に沿った行動を出やすくする、という循環を生むだろう)。これらのことは、人の行動傾向を変えるにはどうしたらいいか、すなわち教育のヒントになるであろう。この点は、私にとってとても示唆的だった。
われわれの意識は適応的無意識に直接的にアクセスすることができない。したがって、意識的になされる言語報告と、適応的無意識の産物として行われる行動は、しばしば無関係となる。それどころか、意思決定に際して、複数の選択肢のよい点と悪い点を列挙し、それらを重み付けて総合することで答えを出す、という意識的なやり方は、しばしば満足を生まない。むしろ直感に任せて答えを出すことのほうが良い結果を生むようである。これも意識が無意識を知ることができないことから来ている。選択肢の意識的評価による意思決定というのは、『クリティカル・シンキング(実践篇)』にも取り上げられている、クリシン的意思決定の一つである。それが有効ではないというのは、私には衝撃的であったのと同時に、さもありなんとも思った。私も以前、このような意識的・組織的な意思決定を試みて、どうもうまくいった感じがしなかったからである。
また、本書では思考が自動的であることが論じられている。「人間の判断、情動、思考、行動の多くは、適応的無意識によって生じる」(p.138)という具合である。うまくいえないが、このあたりがコワいと感じた部分である。野矢茂樹氏が論じるように、思考とは本来的に意識的なものだと私は理解していた。しかしそうではないというのである。もちろんかなり意識的な思考は存在する。しかし、上に挙げた「意識的な選択」の例のように、意識的な思考はしばしば間違う(自分のことを捕らえそこね、不適切な選択をしてしまったり、合理化して自分の一面しかみなくなってしまう)。これだけをみるかぎり、意識的な思考は無用の長物のようである。いや、無用ではない。筆者は意識的な内観を、「推論し物語を作り上げるプロセス」(p.222)であると論じている。しかもそれは往々にして、不適切な物語なのである。いや、それは必ずしも不適切ではないかもしれない。たとえば「書くこと」や「話すこと」の意味というか効果を、筆者は論じていたりするので。あるいは、適応的な物語、というような言葉も出てくる。しかしそういうことは、本書では少ししか触れられていない。では意識的な思考の働きや意味はどこにあるのか。今後考えていくべき課題である。
京都の明徳小学校が、第一筆者の武田氏の協力を得て、「問い」を中心とした授業作りに挑んだ、その成果がまとめられた本である。武田氏については、『学ぶ力をうばう教育』を読んでいたので、その考えからどのような実践が作り出されるか、とても興味があった。
この学校では、国語科を中心に、問い作りによる授業が行われたようである。具体的には、「子どもたちが文章に即して「問い」を作り、その「問い」をもとに、「自分の考え」を作って、それを相互に吟味しあい、できるだけ確かな根拠を見つけ出して文章理解を進めていく」(p.40)という形で行われているようである。それは、それ以前に同校で日常的に行われていたような、「教科書の記述の確認に中心をおいた、安易で表面的な教材理解」(p.26)を超えるための方法として、当時の校長によって導入されたのである。
しかし残念なことに、本書は、少なくとも私にとっては、実践のイメージが十分にわく内容ではなかった。具体的な先生の発問や子どもへの対応の言葉が書かれているわけでもないし。結局ここで行われた実践の基本的(あるいは典型的)な形がどういうものなのか、わかったようなわからないような感じでしかなかった。しいて言うならば、次の記述が、およそのイメージに当たるであろうか。
子どもたちに、一文ずつを取り上げて、一切限定をしないで、まずどんな「問い」が作ることができるかを問いかけてみる。子どもたちの作った「問い」は、すぐに教師主導でその適否を判断してしまうのではなく、子どもたち全員で、それが文章の理解にとって必要不可欠なものか、その適否、要不要を検討、吟味しあうようにしたい。その検討、吟味に取り組みやすくするためには、子どもたちが提出した「問い」を、子どもたちが「吟味」しあい、より適切なものに修正したり、並べ換えたり、取捨選択したりできるように、短冊などに書いて黒板に提示することが効果的である。/一定のまとまりのある文章について、子どもたちとの検討、吟味が一通り終わったところで、子どもたちから提出された全体の「問い」を確認し、それらをどんな順序で解決していったらいいかを話し合う時間を取りたい。文章全体の内容を、個別に捉えるのではなく、「全体的・構造的」に捉える視点を、子どもたちにぜひもってほしいからである。(p.135)
ただここで、一文ずつ取り上げるというが、それを文章全体にするのか(それでは膨大な時間がかかってしまうだろう)、一部をピックアップするとしたらどう選ぶのか、その他の部分はどう扱うのか、などの疑問が生じる。その後の吟味にしてもそうである。「「問い」から「私の考え」を作っていくことをめざす学習では、〔中略〕その適否を検討するための「吟味」の学習過程の設定に、その授業の成否がかかっている」(p.132)という記述はあるものの、時間内で、どのような問いかけのもとにどのように吟味を行うのか、吟味がうまくいくケースとうまくいかないケースでは何が違ってくるのか。そんなことがはっきりとはわからなかったので、本書は、「なんとなく問いの授業はよさそう」というぐらいの情報しかえられなかった。
もっとも、「よさそう」に関しては、本書によると相当の効果があるようで、子どもたちが授業に積極的に取り組むようになり、学級の雰囲気が明るくなり、挨拶の声もあかるくなり、私語の多かった朝会も落ち着いてきたという。誇大広告では?という気がしないでもないが、それまで同校で行われていた授業が、「教科書に書かれていることをもとに、教師が何が書かれているかを問い、子どもたちは教師の問いかけにしたがって、教科書からその答えを探して答える」(p.23)というような授業だったそうで、それから考えるなら、子どもたちが変化してもおかしくないかも、という気もしないでもない(ただし、国語以外の授業がどうだったかは気にあるところではあるが)。
あと面白かった記述として、同校では研究の1年目、教師たちの反応は悪かったという。それは、「参加しようにも、提案されている新しい授業の意味がどこにあるのか、理解できなかったというのが正直なところ」(p.28)とある。あるいは武田氏が何回も提案授業を行っているのだが、それも「はじめは大学の講義形式と感じた」(p.235)という感想もあり、そうするとますます、子どもたちや先生たちが、どこにどのような意味を見出し、変化していったのか、その詳細が知りたい。ぜひ次は、そういった具体イメージのわかるものを書いてほしいと思う次第である。
今日は学内で、プロフェッサー・オブ・ザ・イヤーシンポジウムなるものが開かれ、シンポジストとして参加してきました。自分の授業について15分話しただけなのですが。
私は、「活動的、協同的、反省的に学ぶ」「(前年度受講生から擬似的に)文化伝達を行う」「学びの質を落とさない」の3つを話しました。ただ私の場合は、「心理学」の「実験科目」なので、楽しく学べるのは当たり前だと思っています。そうではなく、講義課目で高い評価を得ている先生はどうされているのか、それを聞くのを楽しみにしていました。
シンポジストのお一人、教育学部・家政教育のH先生は、できるだけ双方向のやり取りをする、ということで、先生のほうからも学生に質問するし、学生の質問も受け付ける、そのために、質問しやすい雰囲気を作る、ということをおっしゃっていました。それ以外にも学生に発表をさせているそうです。一度ぜひ授業を見せてほしいなと思いました。
今日は、時期のせいか内容のせいか、はたまたそれ以外の要因があるのか、参加者は12名と淋しい会でした(シンポジスト、企画者を除く)。しかし人の授業の工夫を聞いて学べることは少なからずあるので、こういう企画、またあるといいなあと思いました。
学問のすすめを現代語訳した本である。非常に平易な文章になっており、読みやすい。内容はぜんぜん知らなかったのだが、自立した個人になること、国と国とが平等であること、自立した個人が国家を作ること、などが論じられている。たとえば、旧幕府時代にはあった悪制度、悪習に対しては、次のように述べている。
今日では、もはや日本国内にこのようなばかばかしい制度・風俗はなくなったはずですから、人々は安心して、もしも政府に対して不平を抱くことがあったら、陰で恨んでいないで正々堂々と訴え出て遠慮なく議論すべきです」(p.16-17)
今までは政府の言うことにおとなしくしたがうだけだったが、それではだめだ、なんていうことも書かれている。批判的思考を基礎とした民主主義的な個人になることのすすめ、とでもいおうか。
批判的思考的な内容としては、第15編が「信義を見分け物事を取捨できる力を養おう」と題されており、疑いを持つことの大切さが論じられている。疑いによって人間社会が進歩していく、なんていうくだりもあり、ポパー的である。たとえば次のような文章である。
人間社会が進歩して真理に達する道はただ一つ、異説との論争のうちに成長していく方法だけです。そして、その議論が生じる源は、「疑」の一点にあるのです。「偽の世界に真理多し」というのは、こうしたことを言っているのです。(p.183)
論争すること、疑うことの重要性を直接述べているのは第15編だけだが、しかし考え方としては、そういう考え方がかなり基底にあるのではないかと思う。「学問の要点は、こうした力を養うところにある」(p.183)ということなので、そうであるならば、学問のすすめとは批判的思考のすすめでもあるようだ(といっても、必ずしも全編がそういう話というわけではないが)。機会があったら原文も見てみるかな。
パーティから帰って,なんだか小腹がすいたような気がしたので,うちにあったチーズケーキを1切れ半食べた。パーティがバイキングだったので,取った量が少なかったのだろうと思ったのだ。
今朝見たら,体重が増えていた。そうか,アルコールを摂ると必要以上に食欲が亢進するというのはこのことだったのか。今後気をつけねば。
#これに対して某先生から「小腹が空く、のはダイエットの成功の証」とのコメントをいただいた。小腹がすいたときには,とりあえずこう唱えて更なる飲食をストップすべきだな。