15日『もっとすごい!非常識な会議』 10日『らくだ学習法』 5日『フィリッピーナを愛した男たち』 | |
| 15日思考の型の訓練 5日昨日の会議を受けて(メモ) 3日大学生に読んでほしい本 |
大学でシステム移行があったようで,約3週間FTPができず,今日ようやく,約1か月分の読書・日々記録をアップできました(2007/04/11) |
「参加者を動かす」「人の話をよく聞く」という観点から語られた会議ファシリテーションの本。目指すは、原案を皆で批判する会議ではなく、「結論を皆で作り上げる」会議である(合意形成型会議)。「議論」ではなく「作業」をおこなうのである(作業内容は、グループでKJ法とか、意見を模造紙に書くとか)。それを筆者は「非常識な会議」と呼んでいる。きわめてワークショップ的である。
いかに参加者を動かすか(参加者が動く場作りをするか)という点では、参加型授業ともあい通じるものがあり、私にとってはとても興味深かった。書かれているのは、私がふだん授業でやろうとしているものもあれば、私の考えよりもさらに一工夫されているものもあり、なるほどと思える箇所が何箇所もあった。以下、自分のための抜書き(すべて、会議=授業として読み替え可能である)。
すでに私もやっているようなこともあるのだが、こういったものを、鉄則(黄金のコツ)として意識して明確に使うことはとても大事なことだと思う。ちなみに下から4番目の「評価」とは、「Aグループの進行は、全体的に遅れてますねえ。もう少し早くお願いします。Bグループはすごく元気がいいのですが、テーマからはずれたおしゃべりが多いみたいですよ(笑い)。」(p.139)というような感じである。
なお本書でとても好ましく思った部分として、このような会議を社内に導入していく方法について述べられている点が挙げられる。こういう本で、よさそうだなとか、こうできるときっといいだろうなと思うことは少なくない(会議にせよ、ワークショップにせよ、授業にせよ)。しかし、そこに出てくるさまざまなノウハウがあまりにも有機的に連携し一つのシステムを作っているように見える場合、簡単に導入はできないなと思ってしまうのである。それに対して筆者は、基本原則として「一気に導入しようとしない」(p.171)と述べたうえで、このあたりからなら導入可能ではないか、という提案をしている(たとえば「発言時間は1分というルールを作る」(p.173)とか)。痒いところに手が届くいい本である。
学生の質問や吟味、批判的思考を促す一つの方法は、考える型を与えることだろう。代表的なものとしては、質問語幹法がある。「…の強い点と弱い点は何か」のような問いのリストを与え、それに当てはめることで質問を作らせるのである。Kingらの授業研究では、学生はこのやり方をすぐにマスターでき、結果、学習も飛躍的に向上するという。
今のところ私はこのような方法は使っていない。この方法はおそらく効果はあるだろうが、他にはないのか?(これしかないのか?)と思うからである。また、副作用はないのか、誰でもできるのか(こういう方法に乗れない人はいないのか)、強制から自発に移行するのか、といった疑問もある(これらは型の訓練一般にいえそうな問いである)。さらには、思考力育成を主目的にした授業ではない場合、質問作りのトレーニングにそれほど時間がかけられないという事情もある。
ということで、こういう小細工(?)なしに昨年は授業をしてみたが、結果はあまりかんばしくなかった。今年度は少しこういうことも導入する必要があるかもしれない。
ちなみに、「おたずね」の奈良女子大学附属小学校に行った時に、小幡先生に質問語幹法的な方法について聞いてみたところ、そういうことは考えたことがなかったが、子どもの中から見つけたら使うかもしれない、という答えだった。なるほどと思った。
『セルフラーニング どの子にも学力がつく(新版)』に次いで、「らくだ」の本を読んでみた。本書には、らくだ教材の一部が、少なからぬ分量を割いて載せられているので、筆者の考えややっていることが、より具体的にわかるようになっている(そのままコピーして、子どもにやらせることも可能だろう)。 本書を読んで分かったことがいくつかある。たとえば前著を読んだとき、これは英語の多読に似ている、と思ったが、本書の中で筆者は、「日本にいれば誰でも日本語を話し、理解できるようになるのに、算数・数学に関してはなぜそうなっていかないのかが不思議でした」(p.82)と述べており、筆者の発想が酒井式多読に似ていることが確認できた。
また前著を読んだとき、この方式の利点は、繰り返す中で「わかる」「気づく」「考える」「工夫する」ことだと考えた。本書を読んでわかったのは、筆者が重視しているのは特に「気づく」(感じる?)部分であって、「考える」部分ではなさそうだと思った。たとえば、「約分教材を作る過程で、一番考えたのは、「約分のやり方」を教えることではなく、ある分数を見たときに、「これはもっと約分できる」「これ以上約分できない」という、とっさの判断ができるようにするためにはどうしたらいいかということでした」(p.120)とあり、それを「数感覚の養成」と呼んでいる。これ以外にも、「一瞬のうちに見つけられる」「一瞬で分かる」というような表現が何回か出てくる。あるいは筆者は、「確実な力がついている目安」として、時間(目安の時間以内に問題が解けること)を用いている。つまり筆者がめざしているのは、「感覚として分かる」ことであって、「じっくり考える」ことではないのだなあ、ということが本書でわかった。
もちろんそれでも、自ら学ぶことをサポートするシステム(自分で学ぶものを選び、自分でやっていくことに指導者が徹底的に寄り添う)は、とてもよいものだとは思うのだが。
昨日の会議を受けて思ったこと(夢想に近いか?)。今、第一に必要なのは、立派な総論を作ること*ではない*のではないだろうか。もちろんそれも必要ではあるのだが、それが第一というわけではないと思った。
むしろ第一に必要なのは、これからやろうとしている研究に沿った授業がどのようなものか、そのイメージをお互いに交流しあうことではないか。実際にこれまでにやってきた授業でもいいし、推進部の提案を受けてイメージした授業でもいい。こんな授業をやったよとか、こんな授業はどうかな、ということをできるだけ具体的に語り合う。それなしに、研究総論だけから教科総論を書こうとすると、行き詰ってしまうケースがでてくるのではないだろうか。
さらに夢想を広げてみる。もし私だったら、という話なのだが、私だったら、まず、どの程度授業のイメージができたかと、それに近い授業をやったことがあるかどうかを全員に質問する(5段階評価で紙に書いてもらって)。そして、それらの程度が高い人と中ぐらいの人と低い人の3人を組み合わせ、イメージができている人や実際の実践経験のある人の話を、中、低の人が聞く場を作る。中の人が聞き手、低の人が記録者となるといいかもしれない。向後千春さんのいうトライアドインタビューである(http://kogolab.jp/cgi/yukiwiki/wiki.cgi?TipsTriad)。トライアドインタビューでは、全員が話し手になることになっているが、この場合は、話せそうな人だけでいいだろう。聞いた内容はA4用紙1〜2枚にまとめ、全員で共有する。現在の人数なら、少なくとも10ケースぐらいは得られるはずである。
こうすることで、(多様な)授業や研究のイメージを全員がそれなりに持つことができるだろうし、また、これをもとにすれば教科総論も書きやすくなるのではないだろうか。これはあくまでも、仮に私が研究主任だったら、という話ではあるのだが(ふだんから、ワークショップスタイルに近い授業を考えていると、こういう夢想がときどき沸き起こる)。
大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。日本に出稼ぎに来るフィリピーナが1万人を越えたのが1979年。それから10年後の1989年には、日本人男性の正式に結婚したフィリピーナが1万人を越えたという。そのような状況下、「日本人男性とフィリッピーナの間には"ジャパゆき元年"の1979年には思いも及ばなかった多様な関係が生まれ、そこから、性を買うもの、売るもの、客とホステスといった枠の中におさまりきらないような様々な物語が紡ぎだされて」(p.308)おり、そのことを筆者が、1年半のフィールドワークの末にものにしたのが本書である。確かに関係は多様であり、興味深かった。
たとえば求婚にしても、日本人男性のほうから言い出す場合だけでなく、フィリピーナのほうから、というケースももちろんある。本書第一章にはそういう男性が出てくるのだが、その彼は筆者に次のように言っている。「僕、わかんないすよ。本当にわかんない。こいつ、こんなに若いでしょう、僕は38で年も違うし、全然金ないし、それで何で惚れてくれたかなあって。あなた、こいつに聞いてみてくださいよ」 若い彼女は21歳である。それに対して彼女は「アコ〔注:私〕ね、彼のすべて愛してるよ、アコ恋におちたようっ」(p.37)と答えている。
それに対して筆者自身が直接の考えを述べているわけではないのだが、本書でさまざまなフィリピーナのことを読む中で、こういうことなのかな?と思えるようなものは見えてくるような気はした(勝手な推測ではあるのだが)。考えられるのは、彼が独身のまじめな男性であること、寮から出て自由な暮らしができること、お金がないといってもフィリピンの経済状況からするとひどく悪いわけではないこと、日本人と結婚したらビザの心配なしに日本で稼げること。これらがすべてかどうかはわからないが、ここに挙げたことのいくつかは該当するのではないだろうか。これはほんの1ケースに過ぎないわけだが、これとは異なる「多様」な関係を知ることができるという点がとても面白く、300ページ超ある本なのだが、2日で読み終わってしまった。
なお2005年に入管法の改正され、現在はフィリピン人エンターテイナーの入国が以前よりはるかに難しくなっているらしい。そのあたりの事情は、フィリピーナはどこへ行ったというサイト(あるいはサイト管理者の本)を読むとわかるようだ。
この12ヵ月の間に読んだ本(短評を除き63冊)の中から、大学生でも読めそうな、そして専門外でも面白いであろうと思われる本を8冊選んだ。昨年は10冊選んだので今年もそうしようと思ったのだが、どうがんばっても8冊しかないので、今年は8冊とした。どうやらこの1年の読書に、教育関係書が増えたことと、絶版になっている古い(といっても10年ぐらい前)ノンフィクションが増えているせいのようである。なお、これまでの選書リストはこちらにある。
物事を軽々しく信じてはいけないというのが本当なら、同時にまた、これを軽々しく疑ってはいけません。信じるにしても疑うにしても、どちらを取るか正確に見分ける力がなければなりません。(p.183)
人々の血が流された戦いが「実」の戦いとすれば、ここで描かれる戦いは「虚」の戦いである。PRや情報戦が「実」の戦いの帰趨のすべてを決めるわけではない。しかし、「虚」の戦いが「実」の戦いの行方に大きな影響を与えることも事実だ。(p.17)
ひとまとめに「性犯罪の被害者」とくくられはしますが、彼女たちは、当然、ひとりひとり顔が違い、負ってきた人生が違い、考え方が違います。(p.11)
僕が小学校で英語を必修化するのに反対なのは、さっき言ったポジティブリストがすでに長くなっている中にさらに英語を入れたら、必ずはみ出すものがあるのに、はみ出すものを何にするかという議論をしないまま、英語を入れたほうがいいという、そういう議論の仕方に、反対しているんです。(p.46-47)
本書は、情報の「ジョ」の字のトレーニングも受けたことのない一軍人が、たまたま太平洋戦争中には大本営の情報参謀として、戦後は自衛隊の国外班長、アタッセ、統幕第二室(情報室)室長として情報の世界に放り込まれて、眼前に展開された戦場や、また平時の仕事の中で、情報の手法を盗み、あるいは手ほどきを受けながら、霧の中に包まれた情報をどのように入手し、分析解明して、情報の「職人的な勘」を獲得してきたかの実体験を、失敗や錯誤も包み隠さずに紹介しようとしたものである。(p.5)
リサーチ・リテラシーは、国や報道機関が公表したことならすべて事実に違いないと信じる「素朴な人」の段階をこえて、公表されているデータに対して疑いの目を向ける、つまりツッコミを入れられる人になること、そして最終的には、相対的に妥当な統計とそうでないものを区別できる「批判的な人」になることを目指している。(p.14)
人はしばしば、科学とはまじめなもので、つねに「理論で推進され」、すでにわかっていることを基礎にして卓越した推測を生みだし、それらの推測を検証するために特別に組み立てた実験を進めると思い込む。しかい実際の科学は、私の同業者の大半が認めたがるよりも、魚釣りに近い(p.133)
あまり入門書にふさわしくないこだわりを見せてるなあ、とわれながら思いますが、実は論理学をほんとに根本から考えていこうとするときには、最大と言ってよいくらい、だいじな問題なのです。(p.53)