読書と日々の記録2007.05上

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■読書記録: 15日『証言の心理学』 10日『なぜ教育論争は不毛なのか』 5日『多元化する「能力」と日本社会』
■日々記録:  10日思考力育成特論・3回目 8日教育心理学実験・3回目 4日物欲日記・プリンタ

■『証言の心理学─記憶を信じる、記憶を疑う』(高木光太郎 2006 中公新書 ISBN: 4121018478 \777)

2007/05/15(火)
〜心理学者の関わり方さまざま〜

 裁判において、心理学者として被告の証言の分析に携わっている人の本。証言の心理学的分析という意味では、もう浜田寿美男氏の本(『取調室の心理学』など)を読んできたしなあ、と思ってあまり期待せずに読んだのだが、これが予想に反して案外面白かった。

 本書で筆者がキーワードとしているのは、記憶の脆さ、ネットワークする記憶、正解のない世界、の3つである。「ネットワークする記憶」では、記憶が「外部に開き続ける心のシステム」であることが強調されている。そのことを筆者は、「消化管が消化液を分泌しながら食べ物(外部)と触れあい、それを取り込んでいくのと同じように、記憶も共同想起や外的記憶補助の参照といった行為を通して外部の情報を取り込み、自らを「熟成」させていく」(p.46)と述べている。人はよく自分の記憶と他人から聞いた記憶を混同してしまうが、それはネットワークという記憶本来の性質ということなのだ。

 さらにその前提にあるのは、日常において人は他人の記憶を「疑う」のではなく「信じる」、という信頼のコミュニケーションであることが挙げられる。このように、日常のあり方を誤謬としてではなくコミュニケーションの型として捉える姿勢は、とても好ましく思った(おそらくこのことは、記憶だけに限らず他者とのコミュニケーション一般に言えることだろう)。

 あと「証言の心理学」に関しては、1970年代のロフタス研究以来30年以上の蓄積や活躍があるのだから、そんなに難しいことだとは考えていなかったのだが、アメリカの裁判でロフタスが果たす役割(陪審員に科学的知識を伝授)と、筆者らが日本の裁判で果たす役割の違いが本書でわかった。またその違いには、記憶の真偽という「正解のない世界」に対する2つの視点が反映されている。一つは神の視点である。それは科学者が研究を通して明らかにした普遍的な知識を知っているものとして振舞う立ち位置である。しかし科学者は、一般論はいえても「この証言」が本当なのかウソなのかを断言はできない。そういう意味でこれは正解のない世界である。

 この問題に対して浜田氏は、被疑者と取調官のコミュニケーションに着目し、その語りを被疑者の視点で読み解いていくという方法を取る。フィールドワーカーの視線というか。それに対して筆者らは、科学の一般知識ではなく、裁判で問題になっている状況と同じ状況を作り、そこで人がどの程度間違うかを明らかにするフィールド実験を行ったり、あるいは被告の語りの一般的特徴をものさしとして、公判供述がそこからどのぐらい逸脱しているかを示す分析を編み出したりしている。これらはあくまでも科学者の立場を保持しつつ、現場に迫ろうとする工夫である。このあたりは、証言だけに留まらず、科学的研究一般を考えるうえでもヒントになりそうな考えだなと思った。ということで本書は、浜田氏以外のアプローチや、その背後にある考えを知る上で興味深い本だった。

思考力育成特論・3回目

2007/05/10(木)

 今日は大学院の授業「思考力育成特論」の3回目。受講生は8人である。前半40分は私が話題提供をするのだが、こういう形式の初回ということもあり、何にするか悩んだ。初回に書いてもらった受講生の自己紹介シートをみると、「考えるとはどのようなことなのか,考えることの意味を学習したい」なんて書いている人がいたので、まずはこのあたりから、と思い、「考えるとは何か」「思考力育成はなぜ必要なのか」というテーマについて軽く準備をして授業に臨んだ。

 でその人に、「どういう問いなの?」と聞くと、「考えることは必要なのか?」という問いだということだったので、各受講生にまずそれについて考えてもらい、一人一人に、理由も含めて答えてもらった。全員が「必要」という答だった。こういうのを聞いているとあっという間に時間が経ってしまい、私の持ち時間が少なくなったので、まず私の考えとして、「必要かという問いは大雑把過ぎると思う。「どんなときに必要なのか」「なんのための必要なのか」「どんな思考が必要なのか」を明確にすることが大事なのではないか」と述べた。そして、平成17年の中教審答申(新しい時代の義務教育)の抜粋を配布し、今日の教育で求められている思考が「どんなときの」「なんのための」思考なのかを確認して、私の話題提供は終わりとした。ぜんぜん話し足りてはいないが、まあしょうがない。

 後半は、現職の中学の数学の先生が「自分の数学の授業は思考力育成になっているか」というテーマで、連立方程式を例に、教科書がどのようになっており、自分はどのように教えているか、という話をされた。授業は基本的的に、子どもの思考に寄り添ってわかりやすく導入し、問題解決学習的に考えていく授業だった。工夫を凝らしている先生のようで、なかなかおもしろかった。こちらもほぼ時間いっぱい話されたので、最後に軽く受講生に感想などを言ってもらい、「学びの記録」(振り返りシート)に記入してもらって終わりとした。

 後半の話題提供を聞きながら私が「言いたい」と思った話題はいくつもあるのだが、とりあえず来週は、思考の領域固有性について話そうと思う。それに加えて、「教えて考えさせる授業」についても話をしたいのだが、来週の前半40分だけでは2つの話はできないと思うので、こちらはまた別の機会に、と思っている。

 それにしても、さまざまなバックグラウンドを持った受講生が、さまざまな(あるいは漠然とした)期待をもって受講しに来ている中で、何もなしでは、何の話をしていいかわからないのだが、このように受講生に話題提供してもらうと、話したい話がいくらでも出てきてしまう。こんなやり方では、体系的な話はまあできないわけだが、体系的な話を他人事として聞かれるよりは、ピンポイントで狙った話をするほうがはるかにいいのではないかと考え、今のところはこうしている。というか、今のところ、私にはこれ以外のやり方は考えられない。

■『なぜ教育論争は不毛なのか─学力論争を超えて』(苅谷剛彦 2003 中公新書ラクレ ISBN: 4121500881 \798)

2007/05/10(木)
〜不毛さを明らかにする戦略〜

 学力低下論争に関わってきた筆者が、この論争における自分のスタンスを振り返りながら、なぜ教育論争が不毛になるのかについて論じた本。振り返りは、中井浩一氏をインタビュアーにすえて行われ、1999年から2002年まで年を追いながら、そのときどきの筆者の認識した現状と、関わり方の戦略という内幕が語られており、とても興味深かった。

 ここでは、筆者が本書タイトルで提起している問題(なぜ教育論争は不毛なのか)を、私なりにまとめておこう。それは第一に、基本となる情報(データ)が少ないこと(実施された政策の評価を含む)。教育全体をシステムとして見る視点の欠如(一部を変えればほかのところに影響が出る、という観点など)。ジャーナリストの理解の枠組みの古さ。今の子どもたちが2、30年後の大人になったときにどのような社会をつくるのかという視点のなさ。こういうようなところが、「教育論争が不毛になる」原因として筆者が挙げているもののようである。

 そこで筆者は、データを元に、システム(制度)の問題も含めて、特に最初はジャーナリスト相手に丁寧に説明する、という戦略でこの論争に参加してきた。そして、最初はかなり悪役的な扱いであったものの、筆者の考えがそれなりに伝わったようで、筆者の主張するような社会階層の問題などが共通認識される問題として扱われるようになったようである。また上記に加え、人々の教育の論じ方そのものも対象にすえる作戦に出ている。このあたり、きわめて社会学者的である(あくまでも私のイメージであるが)。

 これまでに筆者の本はいくつか読んできたつもりだったが、本書で初めて、筆者の考え方や立ち位置、意図などがわかったように思う(たぶん私も、システムレベルと個別レベルの議論を混同していたのだろう)。それと同時に、筆者の戦略の巧みさに感心してしまった。

 以上の総括を通して筆者は「学力低下論争は終わった」と述べる。それは、学力低下を示すデータは間違いなく存在するからである。もはや低下かどうかを論じる段階ではない。ではこれからどうしていけばよいのか。筆者は、大学人も「政策評価」という立場で関わり、データに基づいて政策決定されるような仕組みをつくるべきだと主張する。その際に、ニーズや適切解は地域によってさまざまにありうるであろうから、地方に大きく分権化したうえで、多様な試みを促し、評価を通して共有可能なモデルに仕立て上げていくべきだと論じている。その通りだと思った。

教育心理学実験・3回目

2007/05/08(火)

 昨日は教育心理学実験(いわゆる基礎実験)の3回目。今日の狙いは,レポートの書き方を本格的に知ること。といっても,私が延々と説明したら学生の集中力は途切れてしまい,頭には入らないだろう。ということで数年前から,学生に発表させるようにしている。

 この授業は2コマ続きなので,時間は次のように使っている。2:40に私が簡単に説明し,3:50までがグループで調べタイム。今年は受講生が多いので5グループとして,それぞれに,目的,方法,結果,考察,文献を割り当て,テキストの該当箇所を見て最重要ポイント5点を他の人に説明する,という形である。調べるのはテキストのほかに,模範論文(教心研の論文で,今回の実験の先行研究になっているもの)と,サンプルレポートである。サンプルレポートは学生が今日提出したレポートから適当に4人分を抜粋し,目的,方法,結果,考察+文献のパートを一人分取り出して印刷配布するのである。学生が調べている間,私はこういう作業をしていた。

 3:50から10分休憩して4時から発表タイムとしていたのだが,4時になってもまだ話し合っているようなので,5分延ばして4時5分から発表タイム。今回はふと思いついて,発表後,フロアの各グループから1つずつ質問を出してもらうことにした。おかげで時間的には,定時の5時50分ちょっと前までかかったが,質疑の中で分かりなおしがあったり私がうまく補足することができたりで,まあそれなりに学んでもらえたのではないかと思う。

 一つ反省点があるとすれば,テキスト(翻訳もの)に書かれていることと,今の日本で論文を書く上で約束事になっていることに少し違いがある点にうまく対処できなかったことか。次年度は,テキストのどの記述が大事かは,模範レポートで確認をする(模範レポートで実現されていないものは,重要度は低い)ようにしたらよさそうだ。

■『多元化する「能力」と日本社会─ハイパー・メリトクラシー化のなかで』(本田由紀 2005 NTT出版 ISBN: 4757141041 \2,415)

2007/05/05(土)
〜測定法も育成法も明確でないものをどう扱うか〜

 今の日本でいわれている「生きる力」「人間力」などが「ポスト近代型能力」であることを論じ、このようなものを強調することの問題点を論じ、それに代わる考え方を提唱している本である。久々に異分野の専門書で面白いと思える本であった。特に、最初と最後が興味深かった(逆にいうならば、中間部分は今ひとつだったわけであるが)。

 「ポスト」のつかない「近代化能力」とは、従来的な学力テストで計られるような、標準化された知識内容の習得度に表される能力である。ではポスト近代型能力とは何か。筆者は次のように述べている(〔〕内は道田による補足)。

 具体的にいうならば、ポスト近代型能力としては、80年代半ばや90年代から経済界や教育界で必要と叫ばれてきた主体性、独創性、意欲、コミュニケーション能力(対人能力)、思考力などが挙げられる(そのほかにも筆者は、ポジティブ志向、開かれた努力などもポスト近代型能力として述べている)。たしかにこれらは、一般的な学力テストで計られる能力とは異なるものであり、しかし社会が今後発展していくためには必要な能力であり、しかしそれが具体的にどのようなものでどうやって育成し測定したらよいのかは、今ひとつ明確になっていないものである(もっともそれらを何らかの形で定義した上でそれを育成したり測定したりすることは可能であろう。しかしそれは私見では、「ポスト近代型能力」を「近代型能力」的に扱うことであり、その概念を矮小化し、本来求められているものとは異なる(小さな)ものにしてしまう危険性があるのではないだろうか、と本書を読んで思った)。

 近代型能力は、それを身につけることが社会の中でよりよく生きていくこととどうのようにつながるかは明確ではないものの、内容も育成の方法も明確だし測定の手続きも公正におこなうことができる。ということは、それが身についていないと宣告されることのダメージは比較的小さい。それに対してポスト近代型能力は違う。そのことを筆者は次のように述べている。

「ポスト近代型能力」の重要化とは、個々人の人格全体が社会に動員されるようになることに等しい。〔中略〕こうした身体や感情のレベルにまで深く根を下ろした「ポスト近代型能力」の高低に対しては、幼い頃からの生活環境の質的なあり方がきわめて大きく影響する。もはや手続き的な「公正さ」の審級は成立しない。結果だけが重要なのであり、「ポスト近代型能力」が劣っている者は、誹られるか憐憫の対象とされるかに終わり勝ちである。/このような状態が際限なく高進されてゆくことは、人々にとって決して望ましいことではないだろう。(pp.248-249)

 おそらく筆者は、対人能力や意欲あたりのことを指して「身体や感情のレベルにまで深く根を下ろした」と言っているのだろう。しかし私はこういう記述を、主に「思考力」のことを念頭に読むので、これには多少違和感がある。逆にいうならば、ポスト近代型能力の中身には複数のものが存在し、そのうちのあるものは筆者の危惧が強く該当するものの、あるものはさほど該当しないのではないだろうか。このあたりはもう少しきちんと考えてみなければいけないが。

 それはさておき筆者は、現状を分析し危惧を呈しているだけではない。このような現状に対してどうしたらよいのかについて、筆者なりの提案もおこなっている。それは「専門性」の枠内でポスト近代型能力について考える、という提案である。「「専門性」という「鎧」を身につけていれば、意欲や問題解決能力、創造性、対人能力などの「ポスト近代型能力」が要求されるとしても、あくまでもその「専門」的な領域に関わる範囲においてその要求に応えればよいことになる」(p.261)と筆者は述べている。思考力に関して言うならば、私はここまで「専門性」という観点で考えたことはなかったが、しかし基本的に思考力は領域固有性の高いものと考えており、いつでもどこでも通用するような思考力を育成したり測定したりすることは不可能だと考えていた。そういう意味で筆者の考えには深く同意するとともに、私がこれまで抱いていた考えを表現するのに「専門性の枠内(鎧)」という観点を用いるといいことに本書で気づかされた。

 なお筆者は、専門性は高校以上のことと考えているようだが、小中学校段階での教育についても言及している。それは、「小中学校段階は、高校以降の「専門性」の素地となりうるような共通の教育内容を提供する必要がある」(p.269)という意見である。それは具体的には、教育内容と社会との関連を明示することや、集団の中での協同作業や目標追求の場面を豊富につくる、ということのようである。後半の記述をみればまあわからないでもないが、しかし前半の「共通の教育内容」という指摘は、「専門性」(=領域固有性)という指摘とは相容れないのではないか、とちょっと思ってしまう。これについても今後の検討課題かもしれない。課題にせよ視点にせよ、示唆が得られたという点で、本書は私にとって興味深いものであった。

物欲日記・プリンタ

2007/05/04(金)

 おととい、自宅のプリンタの動作がおかしくなった。

 昨日、妻が電気屋にもって行って聞いたところ、修理に最低8000円はかかるという(見積もりだけでプラス千円)。このプリンタ、5年前に2万弱で買ったもので、修理に買値の半額もかかるのはいかがなものかと思い、新品を買うことにした。

 で昨日、私が病床の中、あちこち検索した結果、うちの使用状況からしてベストの選択と考えたのが、CANONのiP4300。ネット上の評判はやたらいいし、値段は前機種の2/3ということで、さっそく今日買ってきた。

 画質も5年前からすると格段に上がっているようだ(dpi値でみると横方向だけで4倍になっている)。まだ写真は1枚しか出していないのでわからないのだが、これからが楽しみだ。


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