31日短評7冊 25日『ゴーンが挑む7つの病』 20日『子どもの姿に学ぶ教師』 | |
| 30日死ぬのが怖くて泣く6歳児 23日ボールペンの頭 17日【授業】記憶の特徴 |
少しからだが授業リズムに慣れてきたせいか,講義後の疲れがさほどでもない,幸いなことに。といってもこれから1ヶ月ほど,小学校での授業見学が増えるので,そちらの疲れは心配ではあるが。
今月良かった本は,『なぜ教育論争は不毛なのか』(なるほどこういう戦略で論争するのか),『子どもの姿に学ぶ教師』(なるほど教育的瞬間ね),『ゴーンが挑む7つの病』(なるほどこうやって組織変革するのか)あたりか。『多元化する「能力」と日本社会』も,ポスト近代型能力という観点で捉えることで見えてくることがたくさんあり,悪くなかった。
さきほど妻が呼ぶので下に降りていったら、妻に歯磨きされながら、下の娘(6歳8ヶ月)が泣いていた。なんでも「死ぬのが怖い」といって泣いたのだそうだ。詳細は分からないのだが、下の娘は空想癖的なところがある。そういうことを言ってもおかしくない感じの子ではある(ちなみに、妻が夜に仕事に出かけたりすると、上の娘は泣くが、下の娘は平気にしている)。
なんとかしてくれ、と妻がいうので、さして案もなく、とりあえずおんぶして2階に行き、窓から外を見ると、満月に近い月が出ていた。2階には月齢カレンダーがあるので見てみると、明日かあさってが満月のようだった。「あさっては6月。まーちゃん(上の娘。仮名)の誕生日が来るよ」なんて話をして、廊下においてある鏡を見て二人で変な顔をして、玄関の鏡でもやって、1階に戻って妻と上の娘に変な顔をしてみせていることには、下の娘も落ち着いたようだった。
こういうとき、娘が何を考えているのか、学校で誰かが何かを言ったのか、読んでいる本か何かにそんな感じのことが出てくるのか、本当は聞きたかったのだけれど、根掘り葉掘り聞いても、こちらは満足できるかもしれないけれど、娘は落ち着かないだろうなと思い、何も聞かずじまいだった。まあ今日はとりあえず落ち着いたからいいけど、こういうときにどんなことを考えているのか、いつか聞けるといいなあ。
日産の改革には、クロスファンクショナルチームというものが活躍したという。文字通り、部門横断的に作られたチームである。この話が、ワークショップの本のどれかでちょっと紹介してあったので、詳しく知りたくて読んでみた。
読んでみたら、クロスファンクショナルチームも興味深かったが、改革の指揮をとったゴーン氏自身もとても興味深かった。それはたとえていうならば、フィールドワーカーであり、クリティカルシンカーであり、ファシリテーターとしての姿であった。
ゴーン氏が「来日してまず最初に実行したのは、正確に日産の現状を捉えるため、それまでもっていたあらゆる情報をいったんすべて忘れ去ること」(p.258)であり、それから、さまざまなところに出向いて現場の社員に質問することで現状を理解し、問題を明確にしていったのである。これはまさにフィールドワーカーの姿だと思った。
といってもそれは単なるフィールドワーカーではない。自動車業界のことをよく知っている人間として、現状を正確に分析しているのである。たとえば工場に見学にいくと、工場の人は、そこの設備や技術のよさをPRする。しかしゴーン氏は、そういう話にはぜんぜん乗ってこず、「代わりに、『設備能力はどのぐらいで、工場全体でのパフォーマンスはどうなんですか』『原価についてはどんな推移をしているんですか』と、非常に大きいところから質問を投げかけてくる」(p.148)のだそうである。適切な質問を通して現状を理解し分析しようとする姿は、クリティカルシンカーといっていいのではないかと思った。
それから彼は、日産が再生するために必要と考えた9つのテーマ(事業の発展、購買、生産、など)のそれぞれについて、部門横断のチーム(クロスファンクショナルチーム)をつくり、再生のための原案作りをさせるのである。そのチームでのルールは、「議論の内容に聖域、タブー、制約は一切設けてはならない。いまの日産に必要なのはアンビシャス(野心的)かつリアリスティック(現実的)な再建案だ」(p.42)と述べ、斬新かつ建設的な議論を行わせるのである。
これらのやり方の根底にある考えは、「ソリューション(解決策)は必ず内部にある」(p.248)というものである。そのことについて、ゴーン氏はインタビューで次のように答えている。
何がまずくて、何が良いのか、可能性はどこにあり、チャンスはどこにあるのか、社員はちゃんと分かっていたのです。時間をかけて相手の話を聞けば、業績回復の材料は実質的にすべて揃うんです。謙虚に、かつ熱心に相手の言うことを聞き、それから会社に対する自分なりの分析と知識を駆使すれば何かが生まれます。そしてここがポイントですが、それを見れば、社員は自分の意見が反映されていることが分かるでしょう。それがうまくいけば、非常に強力な改革プランを作ることができます。(p.249)
ここがファシリテータ的と思う部分である。それと同時に、「聞く」といっても単に聞けばよいわけではないことがこの事例からわかる。というのは、声を聞くだけであれば、ゴーン氏は第一段階(フィールドワーカーの段階)ですでに行っているからである。それだけを行うのではなく、鋭い質問を発することで、社員もゴーン氏も本当のところ、大事な問題に接近することができる。それを踏まえたうえで、さらに社員の声が自由に、かつ(部門レベルではなく)全社的な視野の元に発せられ議論される場を作ることがとても大事なのであろう。そこまでの段階も含め、またクロスファンクショナルチームという場作りも含め、かなり強いリーダーシップを発揮しつつもファシリテータの役をこなす姿は、実に魅力的であった。ここで行われた発想は、さまざまな改革に役立てることができるに違いない。
多機能メカが好きである。録音もできるデジカメみたいな,「〜もできる……」というやつである。
ペンも,2色ボールペンとシャープペンシルが一体になっているやつを何本か持っている。でも実はあまり使っていない。
こういうやつは,頭のところがはずせるようになっていて,その中に消しゴムが入っている。ところがいつのまにか,そのキャップをなくしてしまう。消しゴムがむき出しのボールペンなんてあんまりかっこいいものではないので,ついつい使わなくなってしまう。
どこかにキャップの部分だけ売ってないかなあ。でも買っても,またすぐに失くしそうだしなあ。
#...なんてことを,附属小で授業見学をしながら考えていたのであった。
教育心理学者である筆者が、いろいろなところで発表した小文(雑文?)をまとめたもの。筆者は、学習意欲、教育評価、授業研究の専門家なのだが、本書はそれに対応して3部で構成されている。第一部が「学び編」で、学習意欲を中心に論じている。第二部は「評価編」、第三部は「授業編」となっている。
雑文をまとめた本は雑然とした印象の本になりやすいが、本書はまったくそういうことはなく、読みやすかった。それは筆者の考えが一貫していることや、練られた構成をとられていることもあるだろう。しかしそれだけでなく、筆者が借り物の言葉で専門的知識を説明するのではなく、日常の問題から始まり、それを日常に近い言葉で、しかし上手に図式的に説明をし、そして本当に必要なところだけ、スパイス的に専門的知識を書いているからだろうと思う。あるいは、専門的知識を単に右から左に垂れ流すのではなく、その日常的、教育的意味を筆者なりにきちんと考え咀嚼した上で、日常的な教育実践にとって本当に必要なことを適切な形で論じているからだろうと思った。日常的な話題が多いものの、紹介されているスパイス的専門知識は、私も知らなかったものが少なくなく、勉強になった。
本書のサブタイトルとなっている「教育的瞬間」とは、「子どものために何らかの教育的働きかけをしなければならない一瞬」(p.iii)のことである。最初にこれを見たときには、わかるようなわからないような、という感じがしていたのだが、本書を読みすすめるにつれて、それがどういうものかがわかり、それがいかに大事なものかがわかり、また筆者が教育的瞬間をいかに重視しているかがわかった。以下に、教育的瞬間についての記述を抜書きしておく(〔〕内は道田による補足など)。
ほかにもあるかもしれないが、とりあえずこれぐらいで。上記1は、よくわかる説明である。2は、教育的瞬間という語が使われてはないが、「そのチャンスを見逃さず」という表現からして、そうに違いないと私は判断した。
それに対して3はよくわからない。というのは私は、良くも悪くも平凡な教育実践のところどころ、ふとしたときにそのようなチャンスが瞬間的に訪れる、というイメージで捉えていたからだ。2番目のピザの例でいうならば、報酬を与えようとするという、あまり適切とはいえない手立てがあっても、それをプラスに活かす瞬間がある。そういうタイミングのことだと思うのだ。しかし筆者は上記3では「教育実践の場は教育的瞬間の連続」と述べている。そのような言い方をしてしまったら、そのような瞬間のチャンス的なニュアンスがなくなってしまうと思うのだが。
それに加えて4もわからない。3と4をつなげるなら、「教育的瞬間は連続して存在するが、教師は授業中、そのことにほとんど気づかない」ということになるからだ。それは要するに、ほとんどの教師は教育に失敗している、と言っていることと同義に聞こえるのだが。私のイメージでは、少なくとも中堅以上の先生は、教育的瞬間(と私が思っているもの)を的確に捕まえ、的確に教育行為を行っている。もちろんその教師が捕まえた瞬間以外の瞬間も多数存在するかもしれない。しかしそのような可能性のことをいってしまうということは、教師がやらなかった事実を指摘し、もしそれをやったらもっとよかったのにという後知恵的議論になってしまったりしないのだろうか。こういったことに対する筆者の考えを知りたいものである。
今年度から,共通教育科目「心の科学」の進め方を変えているので,記録しておこう。基本的な方針は,当日ブリーフレポート方式風なのだが,レポートを書くのではなくグループで結論を考えるというやり方をやっている。ただし考える時間は,私のレクチャーの前に配置している。あるテーマに対して,まずは自分なりの考えを,他人の知恵を借りながら作ってみるというところまでに重点を置いてみたのだ。
今日は,授業の最初に,2週間後の中間テストの予告をしたり,前回出された一言カードに簡単にコメントをしたりした。また,今日のテーマ人間の記憶の最も重要な特徴は?(理由も)」を板書した。これが10分ぐらいである。
続いて,デモンストレーションタイムである。数唱を5桁,7桁,9桁,11桁と行い,7桁を越えるをとたんに難しくなることを確認した(6,8,10のほうがよかったかも)。次に,自由再生実験。16個の単語を言い,覚えてもらうというものである。こちらは有意味な単語なので,2回ぐらいで覚える人が少なからず出る。数唱では7が限度だったのに,今度は16でも覚えられるのはなんでかなー,なんていいつつ次の実験へ。次の実験は,15桁の数字列を,ある事実を知ることで1度(5秒ぐらい?)で覚えられる,というデモンストレーション。数唱で7桁が覚えられなかった学生に協力してもらい,彼に脅威の記憶力を披露してもらった(受講前の学生が知ってしまうと面白くないので,あまり詳しくは書かない)。以上のデモンストレーションが15分。
ここで5分間個人で考える時間をとり,それからグループでの話し合い時間とした。グループは,3人がけの机2列でグループになってもらう。初回は「この列とこの列が1グループだよ」と具体的に指示したのだが,2回目からはやっていないが,特に混乱はしていないようである(登録人数は125人。出席者は110人強だろうか)。2列のうち,前の列は3人がけに2人で座ると後が向きやすくていいのだが,この話も初回しかしていない。まあ各自で考えてもらえばいいだろうということで。ただ,2列で3人以下のところを見つけたら,別々に他のグループに合流してもらうほうがいいかなと思っている(3人だったので,あまりいろいろな意見が出なかった,という意見があった)。
グループの話し合い開始から10分経ったところで,そろそろ自分(たち)の結論を作ってね,と言う。結論は50字以内で簡潔に書かせている。この後,板書してもらうためだ。結論生成の間に黒板を12等分しておき,5分経ったところで,11〜12名の学生を指名する。指名は受講生に打っている通し番号で行っている。指名されてもなかなか出てこないので,個別に呼んで板書を促したりする。板書が終わるまでに8分ぐらいかかるだろうか(理想は5分なのだが)。
板書が出揃ったら,それを見ながら私が解説を行う。今回は,記憶に関するテレビ番組を用意してきたので,それを見せ(15分ぐらい?),間に解説を挟み,終了後,教科書の関連箇所をみながら,また板書にも触れながら,私の考えを述べる。最後の5〜10分で「一言カード」を書かせ,話し合いのためのワークシートと一緒に提出させて終了である。今日は,私の解説はあっちこっちに飛んでしまったが,話し合い中に教科書をよく読んでくれたせいか,またビデオ内容がよかったせいか,解説の不適切さを指摘している一言カードはなかった。ほっと一安心である。