読書と日々の記録2007.06上

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■読書記録: 15日『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』 10日『ファシリテ−ション・グラフィック』 5日『Mind hacks』
■日々記録: 11日手紙を書く6歳児 5日ダジャレスケッチ 4日学び合いに関する補足

■『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(米原万里 2001/2004 角川文庫 ISBN: 9784043756018 \579)

2007/06/15(金)
〜エッセイ的ノンフィクション〜

 大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。ノンフィクション作品はこれまでに、講談社ノンフィクション賞受賞作を中心にけっこう読んできたのだが、本書はノンフィクションとしては、かなり異色作だと感じた。というのは本書は、きわめてエッセイ的なのである。

 筆者は、9歳から14歳までのあいだ、チェコスロバキアの在プラハ・ソビエト学校に通っていた。1960年から1964年のことである。本書は3つの短編からなっているが、それぞれ、当時の同級生との思い出話が書かれ、1990年前後になって、再びその同級生に会い、当時のことや、筆者がプラハを離れた後のこと、今のことについて語り合う、という内容なのである。この要約をみても分かるとおり、きわめてエッセイ的なのである。

 しかし本書を最後まで読み、(さらには解説に目を通し)、読書記録を書くために改めて本書全体を眺めなおして思うことは、やはり本書はすぐれてノンフィクション的だということである。それは、プラハ時代にしても、その後にしても、現在にしても、筆者やその他の同級生が、その時代・その地域における極めて歴史的な状況の中ですごし、その状況が個人的なことにきわめて影響していることが読み取れるからである。

 そもそも筆者が、この学校を離れてから20年以上経ってからかつての同級生に会いに行ったのは、1980年代後半になり、東欧の共産党政権が軒並み倒れ、同級生たちの出身国が日本のニュースで報道されるようになったからなのである。そして実際に同級生に会ってみると、そのような社会情勢が彼女らのその後の生き方を大きく規定していることが、話の端々から伝わってくるのである。ある同級生の父親は、1960年代のソ連軍の侵入に対して異議を申し立てた結果、チェコを追われるはめとなった。別の同級生は父親がルーマニアのチャウシェスク政権の幹部であり、そのための特権を享受して暮らしていた。別の同級生はボスニア最後の大統領になっていた。

 ボスニアといえば、1990年代前半に起きたボスニア紛争について私は、『戦争広告代理店』で読んで知っていた。本書で筆者は、まさにそのボスニア紛争のさなかに、同級生に会いにベオグラードに行っているが、本書で書かれているそのときの状況は、当然のことながら『戦争広告代理店』に描かれているのとはかなり視点の異なる、生活の中での、そこに生きている人にとってのボスニア紛争である。このように、日常の中に潜んでいる「歴史的なもの」をほんのりと描いているという点で、本書はすぐれてノンフィクション的だと思うわけである。なお筆者は、とある同級生に対して、次のように語っている。

どの人にも、まるで大海の一滴の水のように、母なる文化と言語が息づいている。母国の歴史が背後霊のように絡みついている。それから完全に自由になることは不可能よ。(p.188)

 本書はまさに、人に背後霊のように絡みついている歴史を描いたノンフィクションである。おそらく同様のことは、あらゆる人の生活史の中に見出すことが可能であろう。ただ筆者の場合、1960年代の東欧におり、1990年代に同級生に再会したことで、そのような歴史的状況が現れやすく、見えやすかったために、ノンフィクションになりやすかったのだろう。もちろん、筆者の筆力や取材力(かつての同級生を探し出そうとする意欲が努力)も大きいわけだが。

手紙を書く6歳児

2007/06/11(月)

 最近,下の娘(6歳9ヶ月)が,クラスメートにせっせとお手紙を書いている。今日も4通ぐらいもっていったはずだ。土曜日にも一緒に遊んだお友達に挙げていた。「あと誰に書けばいい?」なんて聞いていた。「なんでお手紙書きたいの?」と聞くと,お手紙を集めるため,と言っていた。もらいたいから書くのかあ。意外な答でびっくりした。

 そういえば上の娘が幼稚園のころ,同級生からよくお手紙をもらってきていた。上の娘は面倒くさがりなのか,ほとんど返事を出さなかったはずだ。それにしても毎日顔をつき合わせているのに,どうしてお手紙のやりとりをするんだろうと不思議に思っていたのだが,もらう楽しみがあったとは(ほかの子がどうかわからないけど)。

『ファシリテ−ション・グラフィック─議論を「見える化」する技法』(堀公俊・加藤彰 2006 日本経済新聞社 ISBN: 4532312884 \2,100)

2007/06/10(日)

 会議などにおけるファシリテータに焦点を当てた本は多いが、本書はそうではなく、グラフィッカー(ホワイトボードや模造紙などに議事録を書く人)に焦点を当てている。ちょっと変わった趣向の本である。

 といっても最初の2章は、レイアウトや道具、描き方の話で、技術論的でおもしろくないなーと思っていたが、3章からが実践編で、とたんに面白くなってきた。ここでは、会議の種類別に、どのような点に注意してどのように描き、それにもとづいて会議をどのように発展させていけばいいかが書かれている。取り上げられている会議の種類は、以下の9種類である。定例の話し合い、思いや問題意識をすり合わせる場、網羅的な検討が必要な場、自由に意見を述べ合うワークショップ、自由奔放にアイディアを出し合う場、実行計画に落とし込む場、意思統一が必要な場、ちょっとした打ち合わせの場、進め方のレベル合わせの場。なかなか網羅的で、いつでもどこでも応用できそうでいい感じである。

 たとえば「自由奔放にアイデアを出し合う場」では、付箋をつかってグルーピングするのがいいと書かれている部分はまあ普通なのだが、それに加えて、付箋を使って整理した後が勝負で、「整理したものを踏み台にして、さらに深い議論をして、問題の本質をつかみとってください」(p.146)なんて書いてある。付箋を使うのはワークショップ型授業でもやるのだが、そのあとの議論が勝負だとは考えたことがなかった。ここの記述を元に、学生にグラフィッカーをやらせながら、授業をもう一歩深めることができるかも、なんて読みながら思った。

 さらに4章では、具体的な会議4つを取り上げて、その中でグラフィッカーが何を考えて何をどのように描き会議をどのようにファシリテートしていくかがシナリオ風に書かれており、興味深かった。この2つの章を最初にもってきたらよかったのに、なんて思いながら読んだ。よいグラフィックを描くことの重要性が、本書で少しわかったかもしれない。

ダジャレスケッチ

2007/06/05(火)

 朝の定期巡回の中で,はてなブックマーク の注目エントリーというページをツラツラと眺めています。

 そこに,1歳児のとんでもないブログを発見というエントリーがありました。

 その中を見ていたら,ダジャレスケッチというページが紹介されていました。とってもステキなページでした。「ムリ」感のあるダジャレも,絵がつくと生きるんだなあということがわかりました。

■『Mind hacks─実験で知る脳と心のシステム』(T. スタフォード・M. ウェブ 2004/2005 オライリージャパン ISBN: 9784873112718 \2,940)

2007/06/05(火)
〜完全といえないが有効かつ簡単に対処〜

 脳、知覚、注意など、心理学の基礎的なテーマ100について、実験を中心に3〜5ページほどで紹介している本。400ページ近くもあって分厚いし、テーマは細切れっぽいので、果たして面白いのかなあ、と思ってずっと読まずにおいていたのだが、これが予想に反して、ひっじょーに面白い本だった。

 その面白さにはいろいろな要素があるわけだが、一つには、どのテーマにも「やってみよう」という項があり、そこで扱われているテーマが手軽に体験できるようになっている点がある。それは、記されているWebページ上で体験できるものもあるが、本当に手軽にできるものもある。たとえば「脳の活動と血流」というテーマでは、人に脈拍を測ってもらいながら、動物の名前をできるだけ多く言ってみよう、なんて書かれている。脳の活動が活発になると、ブドウ糖と酸素が必要になるため、脈拍があがる可能性が高いというのである。脳の活動なんて、PETか何かを使わなければ分からないものと思っていたので、この本に書かれている原始的な方法には、意表をつかれた。これが本書が面白かった第一の点である。

 第二に、簡潔ながらも現象がかなり専門的に説明されている。たとえば立命館大学の北岡氏がつくった「蛇の回転」の錯視がどうい原理で動いて見えるのか、前にどこかで読んでちっとも理解できなかった記憶があるのだが、本書の説明では私はよく理解することができた。本書で扱われている諸テーマに対して筆者の造詣が深い証拠だろう。それだけではない。本書は単に、短編読みきり的に心理学的諸現象を説明している本ではない。100のテーマすべてを通して、人間がいかによくできているかがわかるのである。その賢さは、万能の賢さではない。「完全といえないが一応有効で、しかも簡単な対応策」(p.xix)をとる賢さである。現実的な賢さとでもいえようか。そのような対応策をコンピュータ用語で「ハッキング」というらしい。本書のタイトルはここから来ている。本書は、心理学的な諸現象を通して、人間の人間なりの賢さを知ることができる。これが本書が面白かった第二の点である。

 本書で扱われているのは、ほとんどが知覚心理学で、おそらく7割ぐらいがそうである(注意や運動も含む)。知覚心理学では、さまざまな刺激に対してどう反応するかを見ることで、人間の知覚システムの性能を明らかにする。知覚心理学の良くできた研究はとても面白く、簡単な刺激でも、さまざまに条件分析(どんなときは錯覚が起きるが、どんなときは起きない、など)をすることで、相当程度に人間の知覚システムの性能を明らかにしている。そのやり方を本書では、「検索エンジンの性能を調べる人」にたとえられている。いくつかの検索語を、さまざまな組み合わせや順序で入力し、出力された結果を比較することで、たとえばgoogleのような検索エンジンに使われているアルゴリズムを推定することができる。それと同じで、人間にさまざまな条件の刺激を与え、それに対してどう反応するかをみるという単純な発想でも、刺激の組み合わせが巧みであれば、相当のことが分かるのである。そのような研究の妙を知ることができるのが、本書の面白かった第三の点である。

 しかも本書では、かなり新しい(多くがここ10年ぐらいの)研究が取り上げられている。したがって、研究のかなり最先端を知ることができるし、この分野ではまだこんなことが最近まで分かっていなかったのか、こんな研究がされているのか、ということがわかる。そう思った一つに、「故障エスカレータ現象」がある。止まっているエスカレータを歩いて上ると、なんだかめまいのような感覚を感じる。そのこと自体は私も20代のころから経験して知っていたのだが、それに「故障エスカレータ現象」と名づけて研究されたのが、2003年(しかも脳研究の雑誌)だというのである。研究者は研究室に動く歩道を作って研究したらしい。そう考えると、人間の知覚性能を知るための切り口は身近にいくらでもありそうである。身近な現象でありながら新しい切り口で研究されているのをみるのは、とても興味深い。

 ただ惜しむらくは、本書で扱われている研究の分野が、かなり基礎よりに限られている。もちろん知覚研究は脳研究にも結びつきやすい興味深い分野であることには間違いない。しかし同じようなコンセプトで、人間の別の機能(思考とか、対人関係とか、発達とか)に焦点を当てることも可能であるに違いない。次にはそういう本が出ればいいのに、と思った。

学び合いに関する補足

2007/06/04(月)

 先日、『「勉強しなさい!」を言わない授業』の読書記録を書いたところ、筆者の西川先生(ブログはこちら)からメールをいただいた。内容は、、私の疑問に対する説明であった。私の疑問は簡単にいうと、「授業の達成目標がどのようなものにするのがいいか」というものであった。ご本人の許可をいただいたので、メールの該当箇所をここに転載する(強調は引用者)。

「学力上位者でも自力では解けないような課題」とは「学力上位者でも手も足も出ない課題」という意味ではありません。「学力上位者でも自力では完全に出来るわけではない、また、完全に自信を持てない」という意味です。何となく分かるような、分からないようなレベル。分かるんだけど、ちょっと自信がないレベル、です。こうなると前者だと誰かと協働で解決しようと思います。後者だと、誰かに自分の考えを語って、チェックを求めるようになります。この場合、必ずしも教師から見て自分と同等の学力(または同等以上)である必要はありません。極端に言えば、ただ、聞いてくれる存在であっても、意味があります。

しかし、このレベルがどれほどなのか、これを見極めるのはなかなか難しい。それを、常にやらねばならないというのは、かなり大変です。が、簡単にできる方法があります。それは「みんなが出来る」です。自分が出来ることは簡単であっても、周りの人に説明するのはかなり高度な課題になります(教師だったら身をもって経験していますよね)。

本当に「みんな」というのは、予定調和すぎるほど「うまい」のです。でも、それはしょうがありません。我々の『学び合い』はホモサピエンスが数百万年の生存競争の中で洗練された戦略に則っているのですから、「うまい」のは当たり前です。

 なるほど。これで学び合いについての理解が少し進んだような気がする。集団としての目標達成することを重視すると、できる子もできない子もその子なりにレベルのあった課題が生まれるということのようだ。これがうまくいくのは、集団としての目標を各個人が各個人なりにきちんと引き受けるような学級作り(あるいは仕組み作り)ができており、クラス全体を高めるという目標が共有されているときなのかなあと思った(でないと、成績上位者が立ち歩きもせず他者とも相談せず自席で課題を解く、という光景しか生まれないだろう)。

 と、一応考えてはみたが、私の理解はあくまでも机上の論なわけで、これ以上のことは、実際に自分が学び合いを体験するか、直接見るしかないだろうなと思っている。


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