読書と日々の記録2007.06下

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■読書記録: 30日短評5冊 25日『フォーカシングで身につけるカウンセリングの基本』 20日『危険学のすすめ』
■日々記録: 30日はしか 23日お別れの歌を歌う6歳児 16日子どもなりの結論

■今月の読書生活

2007/06/30(土)

 ここ1ヶ月強、毎週2回ほど附属小学校の校内研に参加した。それ以外にも授業見学もさせてもらっており、6月は21時間授業を見たことになる(それ以外にも、附属中の研究授業も1時間見学した)。附属に行くと他の仕事は進まないが、授業を見ながら考えることは大事なことだと思いながらやってきた。

 今月よかった本は、『Mind hacks』(なるほどこんな研究が行われているのか)。ほかには、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(なるほどそんな時代状況でそんな日々を送ってきたのか)もまあまあ面白かったかもしれない。

『自ら考える授業への変革─「四つの問い」が学ぶ力をつける』(武田忠 2001 学陽書房 ISBN: 9784313630505 \1,995)

 『読解力と表現力をのばす授業』の第一筆者の本。『読解力と表現力をのばす授業』が実践編、本書が理論編(基礎編)という感じの位置づけだろうか。とても目新しいことはなかったが、いくつか学べることはあった。まず、筆者の授業を受けた大学生の感想がいくつか載せられているが、それをみると大学生には、「おぼえることとわかることの区別が、自分の中になかった」(p.30)という人が少なくないようだ。授業の中に問いを導入しようと思ったら、このことを念頭に置く必要がありそうである。筆者は大学の授業では、80人ぐらい受講生がいても、たとえば俳句一つを取り上げ、宿題として各自50個の問いを作ってくることを要求するようだ(実際に作ってこれるのは、多くても30個ぐらいのようだが)。それを一通り出させたところからが、本格的な問いの授業なのだという。まあこれぐらいやらないといけないのだろうな、と改めて思った。

『ベネッセ発 小学生からの「考えて書く力」』(ベネッセ教育研究開発センター 2006 日経BP社 ISBN: 9784822245061 \1,365)

 ベネッセが作文講座を始めたらしい。そのスタッフが書いた本。ワタシ的にはイマイチだった。よかった点は、子どもの作文に対する小学生の親の意見が書かれていた点、子どもにありがちな作文例が載せられていた点、ルイジアナ州の国語の指導要領の中の、批判的思考に関する評価基準表が載せられていた点、ぐらいだろうか。イマイチだったのは、作文はコミュニケーションだ、的な記述はあちことにあるものの、筆者らの基本的な志向が、対話的というよりは独白的なものであることが感じられた点である。たとえば作文はコミュニケーションだ、論理はコミュニケーションだ、というようなことが書かれつつも、コミュニケーションの具体的な相手のことはまったくでて来ないのである。ちなみに私のイメージでは、対話的な作文を志向している本は『わが子に教える作文教室』である。本書と比べるなら、作文観の違いは一目瞭然だと思う。

『先生はえらい』(内田樹 2005 ちくまプリマー新書 ISBN: 4480687025 \798)

 再読。やっぱり面白い。というか示唆的である。今回注目したのは「私たちが口にする「自分が思っていること」は、相手によって変わります」(p.45)という言葉。これは要するに、自分というものが社会的に構築されるという考えだと思う(社会構成主義)。ちょうどそういうことを考えていたので、そのことを筆者の平易な言葉で理解しなおすことができた。

『ニッポン貧困最前線─ケースワーカーと呼ばれる人々』(久田恵 1994/1999 文春文庫 ISBN: 9784167529031 \579 \)

 福祉事務所にいるケースワーカーについてのルポ。ケースワーカー(社会福祉主事)とは、生活保護に携わる人のことである。そういう、私がまったく知らなかった世界について知ることができたという点では、とても興味深かった。しかし本書の筆者の文体は、非常に読みにくく(特に前半)、その点ではイマイチだった(何度も読むのをやめようかと思ったぐらいである)。本書によると、マスコミは何かあるとすぐに福祉事務所叩きをするという。しかもそれは、不十分な理解や検証に基づく、「悪意に満ちた」(p.266)報道であることが多いようである。本書を読む限り、日本のマスコミは、福祉行政にも福祉の現場にも何の知識も理解もなくイデオロギー的な報道を繰り返す機関のように見える。そういう部分は確かにあるのだろうが、それがすべてなのだろうか、という疑問は感じた。

『ウィトゲンシュタイン・セレクション』(黒田亘編 2000 平凡社ライブラリー ISBN: 4582763243 \1,365)

 ウィトゲンシュタインの主著から抜粋して作られたアンソロジー。一応目を通したという感じだ。それは、ふだんは美術作品を美術評論家の解説のついた画集で見ている人間が、美術館に行って解説なしに原画をみたという感じだ。あるいは、ふだんは野球をテレビで野球評論家の解説つきで見ている人間が、球場でホンモノを解説なしに見たという感じだ。ホンモノだからといってちっとも理解はできていない。せいぜい雰囲気に触れたという程度だ。むしろ、野矢茂樹氏流に噛み砕かれた本の方がはるかに理解はできている(あくまでも相対的な話である)。しかしそれでも、一応はホンモノに触れることができたよね、よかった、という読後感(読中感も)である。

はしか

2007/06/30(土)

 どうやら、4日ほど前に某所で麻疹患者(たぶん潜伏期間中)と同じ空間にいたらしい。これからしばらくは、健康状況を某所に報告しなければならなくなった。

 具体的には、朝夕に体温を測り、体温を報告すること。もし、鼻水、目の充血、せきなどのかぜ症状がでたら、仕事は即休み、指定された医療機関に行って検査をしてもらうこと。移動に際しては、公共交通機関は使わないこと、などを言われた。

 なんとまあ面倒くさいことか。潜伏期間は8〜12日なのだそうで、その間はかぜを引かないように気をつけなければいけない(本当のかぜだったとしても、上記の面倒な手続きを踏まねばならない)。

 ただし、感染歴があるのであればほぼ大丈夫だという(予防接種歴があればかかる可能性は低いが、それでもかからないとは限らない)。

 さっそく、実家の母に電話して聞いてみた。母いわく「かかったような気もするけどねー、でもはしかで大変だった記憶はあんまりないねー、かかったとしたら軽かったのかもねー。他の病気は覚えてるんだけどねー。予防接種も、当時やれと言われたのは全部受けたけど、はしかはその中にあったかねー」という返事だった。感染歴に期待してかけただけに、ちょっとガックシきた。

 #ちなみに、これで私が感染したら、発症日までに私と同じ空間にいた人はすべて上記のような観察対象になるわけか。

■『フォーカシングで身につけるカウンセリングの基本─クライエント中心療法を本当に役立てるために』(近田輝行 2002 コスモライブラリー ISBN: 9784434026409 \1,680)

2007/06/25(月)

 フォーカシングを中心に、クライエント中心療法のエッセンスを語ろうとした本。フォーカシングについての本は『心のメッセージを聴く』に次いで2冊目なのだが、8年も前なので中身はちっとも覚えていない。そこで本書で、少し概要をまとめてみた。

 まず「フォーカシング」とは何かというと、「体験過程に注意を向ける方法」(p.69)とある。それがうまくできていればカウンセリングが成功する可能性が高いのだそうだ。では「体験過程」とは何かというと、experiencingという語の訳語で、「まだことばにならなくても注意を向ければ感じられる経験」(p.39)なのだそうである。ほかにも本書では、「はっきりしない何か」(p.38)、「今ここで感じられる概念化以前の感情の流れ」(p.60)、「自分の内側に注意を向ける」(p.130)などと書かれている。また本書では、フォーカシング・セッションのごく一部のやり取りが逐語的に書かれているのだが、そこでは、「なるべく問題全体をまるごとイメージしてみて、からだではどんな感じになるか待ってみましょうか」(p.104)というような問いかけられ方をしている。まあなんとなく分かるようなわからないような、である。

 他の心理療法との異同を書いている部分もあり、そこには「からだの感じから入るフォーカシングの導入部分は、一見自律訓練法にも似ています」(p.76)とあるので、そこのところは少しイメージできたかもしれない。

 あと本書では、カウンセリングそのものについても(フォーカシングとの関連の中で)述べられており、カウンセリング(クライエント中心療法)について何度本で読んでも分かったような分からないような感じのする私にって、ちょうどよい復習になった。大事かと思った記述をいかにまとめておく。

 まずカウンセリングがどのようなものかというと、「話し手は、心配や恐怖や悲しさ、いろいろな思いを語り、それを受けとめてもらうことで、そういう問題をもっている自分という存在自体が肯定されたと感じ、支えられるので、問題でいっぱいだった自分の中に少し余裕ができ、そのことで問題を抱えていられるようになり、新たなエネルギーも生まれてくる」(p.26)と説明されている。問題を(解決できなくても)抱えていられるようになるというのはおそらく大事な点なのだろうと思った。

 「無条件の積極的関心」(受容)に関しては、「問題自体ではなく、問題や困難を抱えてそれと格闘している「人間」そのものに対する受容的な関心」(p.46)と述べられている。受容というと問題行動そのものを容認するのか、というような意見が学生から聞かれる。それに対する一つの返答のあり方がこれだろう。「共感的理解」に対しても同様の疑問は聞かれるのだが、それに対して本書では、「相手の体験の仕方を正確に理解しようと努めること」(p.47)と述べられている。「正確に」というのもポイントかもしれない。「一致」は私にとっては一番難しい概念なのだが、「カウンセラーの言動が体験過程をともなったものなのかどうか、ということです。口先ではなく実感をともなったことばになっているかどうかが問われるのです」(p.48)とある。これを理解するには、先に述べた「体験過程」についての理解が重要のようである。

 本書を読んで、十分に理解できたとは言いがたいが、比較的平易な文章で、140ページ程度で語られているので、理解のとっかかりや確認の書としてはまあ悪くない感じがした。

お別れの歌を歌う6歳児

2007/06/23(土)

 今日は出張なので、今朝、妻子にモノレールの駅まで送ってもらった。うちを出る前は子どもたちは寂しそうにしていたのに、車の中では、お絵かきに熱中していて、さきほどの寂しげな様子がウソのようだった。

 それを見て妻が、「パパにお別れの歌でも歌ったら?」なんて子どもたちに声をかけていた。なんだそりゃ、と思っていたら、ちょっとして下の娘(6歳9ヶ月)が、「あ、そうだ」と言って歌い始めた。

 ♪さンよーなーらーさンよーならー

 都はるみの「好きになった人」である。軽くこぶし(?)も聞かせている。そういえば昔、お別れの歌として教えたことがある。でも彼女が歌うのは半年ぶりぐらいじゃないだろうか(私も最近は歌ってない)。よく思いついたなー、と感心してしまった。

 #笑っていたら、今度は、「♪オラーはしんじまっただー」と歌い始めた。パパに習った歌ということで連想したのだろうか..(前に一緒に遊んでいたら疲れてしまったので、ついこれを何度も歌っていたら、覚えられてしまったのだ)

■『危険学のすすめ─ドアプロジェクトに学ぶ』(畑山洋太郎 2006 講談社 ISBN: 9784062135290 \1,470)

2007/06/20(水)

 失敗学の提唱者による、失敗学の発展形としての「危険学」を提唱した本。失敗学は失敗を体系的に分類し、その失敗を次に生かそうとするものであった。それに対して「危険学」は、「何かの行動を起こした結果としての失敗ではなく、結果に至る前の「現に存在している危険」に焦点を当てている点は従来の「失敗学」の考えとはまったく異なる」(p.11-12)のだという。

 これだけではイメージがわきにくいが、本書では、実際に筆者らが1年かけて行った「ドア・プロジェクト」が紹介されており、それを通して危険学がどのようなものかが見えるようになっている。ドアプロジェクトとは、2004年3月に起きた、6歳児が大型回転ドアに挟まれて死亡した事故を受けて作られたプロジェクトである。

 そのプロジェクトで筆者は、事故を起こした大型回転ドアだけでなく、電車のドア、シャッター、自動車のドアなどのドアについても実験を行っている。失敗の起こった回転ドアにだけ焦点を当てるのではなく(これだけであれば失敗学であろう)、まだ大きな事故の起きていないドアも対象に実験を行い、ドアの安全全般を解明することで、今後の起こりうる失敗(事故)に備えようという発想のようである。

 なおこのプロジェクトは、「一人ひとりが状況に応じてポジションを変えるなど柔軟に動く」(p.221)自律分散型(サッカー型)のプロジェクトであったという。そういう記述は何箇所かに見られるものの、実際にはどのように自律的でどのように分散されていたのかは、本書では分かりにくかった。というのは本書では、筆者の関わった部分が中心に報告されていたせいであろうか、本書を読む限りでは、中央集権型のプロジェクトとどう違うのかがよく見えなかった。その点がちょっと残念であった。この点も含め、今後の危険学の発展を楽しみにしたい。

子どもなりの結論

2007/06/16(土)

 昨日、附属中学校の研究授業に行った。中1の英語だった。What is this? It's a 〜.(It's an 〜)というやり取りを練習する回だった。

 授業の前半、先生がaとanの違いは?と聞いたとき、ある男の子が「モノと食べ物」と答えていた。挙手ではなく座ったままの発言だったが、教室全体に聞こえるぐらいの声だったと思う。私の記憶では、先生はその発言を無視し、こういうことだったよね、と言って確認していた。私は、なんでその子はそういうふうに思ったんだろう(別の何かと勘違いしたのかな?)と思って、とりあえずノートにその発言を書きとめておいた。

 授業の中盤はGuessing Gameをしていた。1グループ前に出て目隠しをし、先生が手渡したものを当てる、というゲームで、もちろん上のやり取りをその中でするのである。その最中、たまねぎ(onion)が出されたときにひらめいた。

 あ、そうかもと思って、指導案の付録についていた、本時で使われる単語一覧を見てみた。たぶんそうだと思った。

 本時(おそらくこれまでも)に出てきた単語で、anをつけるべきものは、apple, onion, ice creamと、食べ物が多いのだ。唯一の例外としてeraserはあるのだが。

 おそらく先生は、appleあたりを使って、anの導入をしたのだろう。もちろん先生は、それをどういう時に使うか説明したのだろうが、apple, onion, ice creamと例が出されるうちに、その子はその子なりの結論(ルールの推測)を出したのではないか(「anって食べ物につくんだな」)。

 当たっているかどうかはわからないが、教えたこととと学んだことがずれることはよくあるわけで、悪くない考えではないかと思っている。モヤットがスッキリになったというか。


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